「あなたらしく生きる」 特別伝道講演会

7月24日(日)に、山内英子先生をお招きして特別伝道講演会を開催しました。クリックすると音声で聴くことができます。

 

 

 

 

クリックするとポスターをPDFで表示します

10:30-12:00 主日礼拝

12:00-13:00 休憩
13:00- 受付開始
13:30-15:30 講演会

山内英子(やまうちひでこ)先生プロフィール:
聖路加国際病院ブレストセンター長、乳腺外科部長。
1963年東京生まれ。1987年順天堂大学医学部卒業。聖路加国際病院外科研修医を経て、1994年渡米。ハーバード大学などで研究生活を送り、アメリカの医師資格取得後、ハワイ大学、南フロリダ大学で臨床経験を積む。2009年4月より聖路加国際病院に戻り、乳腺外科医長を経て、2010年6月より現職。
患者に寄り添う診療を目指している。
日本キリスト改革派新浦安教会会員。

2016年7月24日の写真

テサロニケの信徒への手紙1 5章16節-18節
『いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。』

午後からの特別伝道講演会で山内英子先生が繰り返し分かち合ってくださった聖書の言葉です。
素晴らしいお話と、先生を遣わしてくださった神様に感謝します。
私たちが主の恵みを数えて日々歩めますように!

子どもの教会では、旧約聖書「出エジプト記」からモーセのお話を学んでいます。
今日はモーセの歩みのマンガクイズ!
挑戦してみたい方のためのPDF←です。ぜひどうぞ!

聖歌隊の選曲係の人たちは、楽譜に埋もれそうになりながら、もうクリスマスにむけてたくさん讃美歌を選びはじめていますよ。

保護中: 新生会大会二日目写真

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


2016年7月10,17日の写真

7月10日は幼稚園との合同礼拝。子どもたちの元気な賛美の声、暗唱聖句、お母さんコーラスグループの歌声が礼拝堂に響きました。午後には、ずっと前に原町田幼稚園で先生をされていた方が立ち寄ってくださいました。一緒にアルバムを見て、懐かしい顔を探しました。
7月17日のカレーは、宮島牧師が育てたジャガイモがたっぷり、ホクホク!暑さも吹き飛びました。午後には、子どもの教会サマーキャンプの説明会に、保護者の方と子どもたちが集合。しおりや去年の写真を見ながら、スケジュールや持ち物を確認しました。

中高生が練習している、讃美歌21 555番「真っ青な空と海に」

Audio clip: Adobe Flash Player (version 9 or above) is required to play this audio clip. Download the latest version here. You also need to have JavaScript enabled in your browser.

1 真青な空と海に ポッカリ白い雲、夏の光の中で 主イェスに出会った。
(※くりかえし) 忘れない、いつまでも、主と共にあったこの時を。
忘れない、いつまでも、心熱く燃えたこの夏を。Burning heart
2 天をこがすキャンプファイアのこの炎のように、はげしくカ強く、主イェスは歩んだ。※
3 愛することのすばらしさ、信じるよろこびを求めて歩きだそう、主イェスに従い。※

保護中: [教会員用] 2016年7月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


2016年7月3日の写真

暑い日、雨の日、涼しい日、いったりきたりのお天気ですね。
教会のあおぎりの木と、くわの木が、力強く葉を茂らせて木陰をつくってくれています。
教会の正面のドアは、ペンキを塗りなおしてもらいました。
そして7月第一週のお昼はこの季節に欠かせない冷やし中華。

皆さまの体調、教会にいらっしゃる道の安全が守られて、また教会でお会いできますように!

2016年6月12日 ありのままを言ったあなたは・・・

◆ヨハネによる福音書4章1〜19節
01 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
02 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
03 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
04 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
05 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
06 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
07 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
08 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
09 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。

 イエス様はエルサレムに旅に出ましたが、旅を終えて地元のガリラヤに帰ることになりました。普通ですとヨルダン川に沿って北にさかのぼるのですが、その行く手にはイエス様のことをあまりよく思っていない洗礼者ヨハネの弟子たちが待ち構えていました。また、後ろからはエルサレム神殿で大暴れしたイエス様を捕まえようと大祭司やファリサイ派の人たちが追いかけてきます。このままその道を進みますと前と後ろから挟み撃ちにされてしまいます。そこでイエス様は、普段行く道をやめて、ユダヤ人が嫌うサマリア地方を通って行くことにしました。イエス様がサマリアのシカルという村を通りかかった時、イエス様は旅に疲れて井戸のほとりに腰を下ろして一休みしていました。この井戸には持ち主がありまして、井戸を使っていい人だけが、長い綱(つな)の先についた革袋を深い井戸に垂らして水を汲むことができました。汲んだ水は水瓶(がめ)に入れて、それを頭の上に乗せて家に運びます。
 
 イエス様は、喉が渇いていましたが、水汲みの袋を持っていませんでしたので、誰かが袋を持ってくるの待っていました。そこへ一人のサマリアの女が水瓶と水汲みの袋を持ってやってきました。イエス様はその人に「水を飲ませてください」と言いました。サマリアの女は目を一瞬つり上げ、びっくりしながら言いました。「あなたはユダヤ人じゃないですか、どうして、サマリア人で、しかも女の私に『水を飲ませてください』なんて頼んだりするんですか?」。ユダヤ人とサマリア人はとても仲が悪く、お互いに話をするのも嫌だと思うような関係でした。しかも、男が会ったこともない女の人に声をかけることなんて、絶対にありえないことでした。特にラビと呼ばれる先生は「俺は先生なんだから、女の人に人前で声をかけるなんてしてはならないことだ」と思ってましたから、家族の女の人でも、人前では絶対に話しかけることはありませんでした。でも、イエス様は彼女に「水を飲ませてください」と言い、びっくりしたこのサマリアの女に、「もし、あなたが『水をください』と言ったのが誰か知っていたら、あなたの方から「水を下さい」と頼んできたでしょう」とまで言いました。この女は、やや呆れたようにこう言いました。「旦那さんは、水を汲む袋も持っていないし、井戸は深いのにどうやって汲むんですか?旦那さんは、この井戸をくれた先祖のヤコブよりも立派なことをしたわけでもないでしょ」。

 イエス様は言います。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」。すると女は「何を言っているんだ、この人は」と心の中で思いつつ、からかい半分に「主よ、渇くことがないように、その水を下さい」と言いました。イエス様が彼女の目を覗き込んで「行って、あなたの夫を呼んできなさい」と言いますと、彼女は急にえっと真顔になり、小さい声で「私には夫はいません」と答えます。イエス様は優しく、でも真剣な顔で彼女に言いました。「あなたには5人の夫がいたが、今いるのは夫ではない。あなたは全く正直な人だ。あなたはありのままを言った」。

 自分のことをよーくわかってくれて、自分のことを受け止めてくれる方に出会えるのは、もうこれで大丈夫と思えるほど、嬉しいことです。でも、人ってすぐに「本当にそうかな」と疑ったり、「それだけでは無理でしょ」と否定したくもなります。このサマリアの女の人もそうでした。今日読んだ聖書箇所の続きになりますが、彼女はこんなことをイエス様に言います。「わたしたちサマリア人はあなたたちとは違うところで礼拝をしています。あなたたちは、礼拝する場所はエルサレムじゃなければダメだって言ってますよね」。素直にイエス様の愛を受け入れようとはしません。でも、イエス様は「この人は物分かりの悪いダメな人だ」なんて思わず、彼女にはっきりと言われました。「礼拝は場所ではなくて、霊と真をもって礼拝する時が本当の礼拝なんだよ」。すると彼女はようやく真顔になって「救い主が来られる時にわたしたちに本当のことを教えてくれると聞いてます」と言うのです。イエス様はにっこりと微笑んで「それがわたしですよ」と答えられた。その後、彼女は町に戻って「あの人は私がしたことを全部言い当てました」とたくさんの人に言い広め、町の人は彼女がそういうので、イエス様は本当に救い主だと信じたのです。

 イエス様は、「わたしには夫がいません」と言ったこの女性が経験してきた苦しみをしっかりと受け止めてくださいました。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。

 彼女はとても貧しくて初めの夫に早く死なれてしまったのかもしれません。あるいは、夫が戦争によって亡くなったのかもしれません。彼女には子どもがいたのかどうかはわかりませんが、とにかく生きていくためにすぐに再婚しなければなりませんでした。夫を亡くしたら、すぐ他の人と結婚しなくても、自分で働いていけばいいように思いますが、それは現代の私たちだからできることで、当時女性が働いて稼ぐなんてことはほぼできませんでしたから、すぐに自分よりもかなり年上のお金にゆとりのある人と結婚するしか生き残る術はありませんでした。そうやって、5人もの人と結婚を続け、今一緒に住む人も彼女が心から望んで一緒になった人ではなかったのです。「わたしはあの人と結婚したい」「あの人とは一緒になりたくない」。そう思う彼女の気持ち、彼女の意思とは全く関係なく、続けて結婚させられてきた彼女の痛みをイエス様は深く憐れまれて、まさにそのとおりだと言われたのです。イエス様が言われた「ありのままを言ったわけだ」という言葉に、このサマリアの女性はどれほど慰めを得たことでしょうか。短いこのイエス様の一言が、彼女の痛み、苦しみをしっかり受け止めたからこそ、彼女は「あなたは預言者です」と答えたのです。

 わたしたちの心には、誰かに自分の心の内をわかってもらいたいという気持ちがあります。特に苦しいことや辛い経験をするとそう思います。苦労したこと、つらかったことなど、心開いて話せばいつも親身になって聞いてくれる人が皆さんの近くにいたら安心です。でも、いつもそんなに時間をとってあなたの話を聞いてくれる人は、そういません。神様は、みなさんの苦労や痛みをぜーんぶわかってくれる方を送ってくださいました。それが十字架で苦しまれ、復活され今も生きておられるイエス様です。イエス様は、この礼拝に来られた皆さんがこれまで経験してきた苦しみや痛みをありのまま、わかってくださり、受け止めてくださいます。

 ですから、私たちは苦しい時、辛い時には、イエス様に向かって、何も飾らずにそのまま、「イエス様、苦しいです。辛いです」って言っていい。これは自分の心のうちにしまっておくべきかもしれないと思いつつも、でも誰かに聞いてもらいたい。そういうこと、ありませんか?イエス様を信じるわたしたちは、ありのままをイエス様にお話ししていいんです。こんなことなど話しても聞いてもらえない。恥ずかしくて言えないということまで、ありのまま話せば、イエス様は「『あなたは、ありのままを言ったわけ』ですね。本当に苦しかったんですね」と優しく受け止めてくださいます。本当は、自分の嫌なところや弱いところ、汚いところは受け入れたくない。隠しておきたいのですが、イエス様が受け入れてくださいます。ですから、わたしたちはこのように祈ることができます。「こんなわたしですけど、神様、あなたは今日もわたしを生かしてくださっています。あなたが良いところも、悪いところも全部ひっくるめて、こんなわたしをありのまま受け入れてくださっているから、今、わたしは生きていけます。ありがとうございます」。

 ある人がこんなことを言っています。「ありのままの自分を受け入れることができれば、どんな悪口もあなたを傷つけることができないし、どんな称賛もあなたを思い上がらせることができません」。 

 弱いところ、汚いところもある自分をそのまま受け入れることは難しいですし、そんな風にありのままの自分を受け入れたら、悪いところも良くならないし、自分に甘えることだから、ダメな自分がもっとダメになってしまうと思う人もいるかもしれません。もちろん、間違いをしたら反省をし、二度と間違いをしないようにしなければなりませんし、弱いところや悪いところはできるだけ直していくことも大切です。でも、自分の力ではどうしても変えられないことがあります。心の中にある傷や痛み、苦しかった経験、まさにサマリアの女性が担ってきたような過去は、変えられません。変えることのできない痛み、苦しみ、後悔する思いなど一切を神様が「あなたはそれでいい」と言われていると信じてありのままの自分を受け入れる。神様に受け入れられている自分だから、この自分を受け入れる。それが「ありのままの自分を受け入れることです」。

 イエス様を信じているみなさんは、どんな悪口を言われても神様に愛されていますから大丈夫ですし、反対にものすごく褒められても思い上がって羽目をはずすこともない自分となっていきます。

 イエス様が「あなたはありのままを言った」と言って、あなたを受け入れてくださっているという福音のメッセージは、あなた一人だけに言われたのではなくて、実は、すべての人に伝えられた言葉です。イエス様はこの自分も、そしてあの人の痛みや苦しみもありのまま受け入れてくださっていますから、皆さんが誰か他の人を見る時にも、「神様に受け入れられている人」として見ることができるのです。

 わたしたちは、心を開いて自分が経験してきた苦しかったこと、どうしてこんなことをしてしまったのかという悔いる気持ちを他の人に話すことはなかなか難しいです。話してもわかってもらえない、自分が期待しているように受け止めてもらえない。そんなことがありますから、余計にそのようなことは話さなくなっていきます。もちろん教会でも「なんだか、あの人と親しくなれないな」と思うことはあるでしょう。でも、教会に通い続けて素晴らしいなぁと思うのは、教会ではそこにいるみんなが、イエス様に苦しみも痛みも全部、ありのまま受け止められている大切な一人ひとりだと信じられるようになることです。ですから、たとえ言葉で通じあえなくても、礼拝を一緒に捧げながら、イエス様を信じることを通して、イエス様を通したつながりを作っていく。同じ神様を信じている。「こんなわたしだけど、一緒にイエス様の後にしたがって歩んでいきましょう」と励ましあうことができます。キリストの体なる教会って本当にいいところです。イエス・キリストが、ありのままの自分、痛みも恥も悔いる気持ちも全部受け止めてくださいますから。

2016年6月5日 終わりの時から生き始める

◆ヨハネの手紙一2章18〜27節
18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

 だいぶ暑くなってきて、原町田幼稚園の子どもたちは水遊びをしてキャーキャーと楽しんでいます。そんな子どもたちの様子を見ていますと、これから先もずーっとこのように平穏無事、平和であって欲しいなぁとしみじみ思います。そんな風に思うのは、いつもニュースなどで苦しく辛い現実がこの世にあることを知らされるからかもしれません。これからも平穏無事で続いてほしいと思うのですが、あまりにも辛い現実を知りますと、「マラナタ、主よ、今すぐに来てくださり、救いを完成してください」と祈りたくなるのも事実です。イエス様が来てくださるのは、終わりの時ですから、ちょっと複雑なんですが、わたしの中には、このまま続いて欲しいという気持ちと終わりが来て欲しいという二つの気持ちがあります。

 ヨハネの手紙は、反キリスト、父なる神様と御子イエスキリストを認めない者が多く現れると終わりの時が近くなっていると伝えます。この手紙が書かれた時代に終わりの時が近づいていると感じていたのは、このヨハネの手紙を書いた人以外にも多くいました。イエス様もその一人です。イエス様は「神の国は近づいた」と終わりの時をかなり近くに意識されていました。ただ、終わりの時は、泥棒が来るように突然で、あなたたちにはわからないし、終わりの時が来る前には、地震や戦争の騒ぎが起こるとも言っています。
 
 地震や戦争の騒ぎと聞きますと、なんだか、わたしたちのこの時代に終わりの時がやってくるようにも思えます。5年前の東日本大震災、1年前のネパール地震、今年の4月に起きたエクアドルや熊本の大地震を思い浮かべますし、戦争の騒ぎもだんだん近づいてきているように感じます。このような時、このような時代をわたしたちはどのように捉え、どのように生きていけばいいのでしょうか。
 
 ヨハネの手紙は、20節で「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」と伝え、27節の後半にあるとおり、「この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」と勧めています。油注がれるというのは、王様に任命されるという象徴です。御子イエス様が皆さんに油を注いで「王様」とされた。皆さんは王様ですから、何ものにも束縛されない自由を持っています。御子イエス様のように、大祭司のような偉い人たちにもはっきりと意見を言えますし、律法に縛られることなく自由に生きることができます。キリスト者にとっての最後のよりどころは、日本や韓国、中国といったこの世の国ではなく、イエス様のように最後のよりどころは、終わりの時にこの地に実現する神の国です。

 皆さんは、御子から油注がれた王様ですから、何ものにも束縛されないのですが、イエス様が油を皆さんに注がたのですから、イエス様には従わなければなりません。皆さんは王様ですから、この世の誰かの命令に必ず従わなければならないということはありませんが、皆さんを王様に任命したイエス様の教えには従います。ですから、与えられているその自由で皆さんは、御子イエス様のように今、苦しんでいる人に手を差し伸べる奉仕をします。皆さんは王様ですが、皆さんの唯一の親分は、イエス・キリストなのです。

 終わりの時がかならず来ると信じるのは、神様がこの世を造られたと信じることですし、神様がこの世を最後には完成してくださると信じることでもあります。また、この世の国に縛られない自由な生き方でもあります。終わりの時が来ると信じる終末信仰は恵みです。

 いつか必ず終わりの時が来る。この世の終わりですから、その時には日本という国はなくなり、愛と正義に満たされた神の国だけとなります。日本だけでなく他の国もその時にはなくなって、神様が内閣総理大臣ならぬ世界総理大臣となる神の国が完成します。神様が世界全体、宇宙全体の総理大臣ですから、もはやそこには争いも暴力も悲しみの涙もなくなり、新しい天と新しい地が完成します。このヨハネの手紙が書かれた紀元1世紀の頃、約1900年前からずーっと「いつか、終わりが来る」と言われ続けてきました。でも、いつまでたってもその時が来ません。そうするとわたしたちは、それを忘れてしまい、この世の国のことを優先してしまいがちになります。だんだんと気づかないうちに神の国でなく、この世の国に心も体も捕らわれてしまう恐れが出てきます。
 
 新約聖書の時代、紀元1世紀後半頃には教会の中で「終わりの時がまだ来ないのはなぜですか?」という問いかけがありました。ペトロの手紙ではその問いにこう答えています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペトロの手紙二3章8〜9節)。

 聖書には、終わりの日には神の裁きがあって、神様と御子キリストを認めない人を神様が滅ぼすというようなことが書いてあります。この世には終わりがあって、その終わりの時にはイエス様が来てくださり、最後の裁きをしてくれると信じていますから、使徒信条でも「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と信仰を告白しています。だから、「滅ぼされないためにできるだけ早くクリスチャンになりなさい」といって伝道する人たちがいます。それも全くの間違いとはいえませんが、でも神様は、ご自分を認めない人たちを滅ぼすなんて、そんなに心狭い方ではないとわたしは信じます。滅びというのは、神様が人間を滅ぼすのではなく、人間が神様から離れ、神様の声を聞かずに進んでいこうとするから自ら滅んでいく。
 
 今日の聖書に「反キリスト」と何度も書いてありますが、反キリストというのは「自分は神様に愛されている」という赦しをしっかりと聞いたのにそれを否定することです。父なる神様と御子キリストが「あなたは良いものとして造られ、自分自身と隣人を愛するために命与えられた大切な存在です。あなたはわたしの喜びそのものです」と言われるのに「わたしは赦されていませんし、愛されてもいません」と拒む人。そのように拒み続け、神以外のものを神として信じていくことで滅びに至るのではないでしょうか。神様自らが心を込めて命を与えた人間を御自分で滅ぼすなんてありえません。愛おしく思う一人ひとりに滅んでほしくないからこそ、神様はイエス様を送られ、イエス様の後には聖霊を送られ教会に救いの業を託されたのです。一人も滅びないで皆が悔い改める、神様の方を向いて生きていくようになるために、神様は宣教の働きを教会に与えられています。

 終わりの時は必ず来ます。わたしたちは人間の歴史以上に神様の救いの歴史の物語の中に生きています。歴史というのは、ヒストリーと英語で言いますが、あれは、His Story。Hisが神様を言い表す「彼の」という代名詞で、ヒストリー、His Storyですから、歴史は神様の物語なのです。物語には、初めがあり、必ず終わりがあります。その神様の物語は、今も着々とこの宇宙を舞台にして進んでいると聖書が伝えてますが、神様はその物語の最終章に神の国を完成させられます。神様の物語ですから、人間の力で物語を終わりにすることはできませんし、終わりの時に完成する神の国を築き上げることもできません。でも、だからと言ってわたしたちは、舞台下から指をくわえて見ているわけにもいかないんです。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」とあるように、聖書の初めから神様がずーっと言われている福音の言葉をわたしたちは忘れないように心にしっかりととどめておくのです。「神様はあなたたちに命を与え、言われました。『これらはとっても良い』」。「わたしに似せて人を造ろう。あなたは愛と憐れみに溢れた神様に似せて造られています」。「人を助ける者として造ろう。人は助け合うために造られたのだから、助け合ってこそ人が人となる」。創世記から神様が伝えている福音です。キリスト者はこの福音をまだ聞いていない人たちに終わりの時まで伝えます。

 キリスト者は、この世には終わりがあると信じながら、この世で生きています。終わりの時がかならず来ると信じるのは、神様がこの世を造られたと信じることですし、神様がこの世を最後には完成してくださると信じることですから、最後の最後は神様がなんとかしてくださるから大丈夫と確信できます。何か、心のどこかにゆとりができます。最後は神様がなんとかしてくれると心にゆとりを持ちながら、この世に神の国を示していく。それが「終わりの時から生きる」ということです。
 
 キリスト者は、「終わりから生きる者」ですから、イエス様が示された神の国から物事を見ますし、そこから出発します。神の国から出発するのですから、何よりも大切なのは、国でも力でもなく、経済的に栄えることでもなく、神を愛し、隣人を自分のように愛すること。わたしたちは主の祈りで「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈っています。日本という国も、わたしたちをまとめようとするあらゆる力も、最後の時にわたしたちを守ってくれることはありませんし、今の経済的な栄えもわたしたちの手のうちにはありません。いつかは必ずこの手からスルスルと抜け落ちていきます。銀行に貯金してたお金や土地や自分の家が手から抜け落ちていく、ということになっても、どうかそれらを掴み取ろうとしないでください。それらは人の手のうちに掴みとるべきものではなく、全て神様のものなのです。「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。それを心から「アーメン」と祈り、実際に「神様がいてくださるから大丈夫」と言える。それが、永遠の命ではないでしょうか。24節の後半から25節にあります。「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」。
 
 神様が終わりを定められますから、いつ、その時が来るかはわかりません。でも、「終わりの時から生きる」わたしたちは、必ず終わりの時が来ることを信じて、神の国を完成してくださる神様に希望をおいて生きることができます。それはキリスト者の特権ですし、恵みです。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。