2016年5月 教会の誕生日

イースター(復活祭)から50日目の日曜日がペンテコステ、日本語では聖霊降臨日といいます。今年2016年は、5月15日でした。もともとは、過越祭から50日目(五旬節)にあたるユダヤの収穫祭で、初穂を神さまにお捧げする日でした。

新約聖書使徒言行録第2章にこうあります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ペンテコステは、ひとびとが神様のことばのもとにひとつに集まる、教会の誕生日なのです。

この日は聖霊の炎をあらわす色として、「」い色のものを身に着けるならわしがあります。今年原町田教会でも、赤を使ったワッペンを子どもたちと作りました。それから、聖霊をあらわすシンボルである「鳩」をかたどった手作りのクッキーもいただきました。

翌週5月22日は、原町田教会創立106歳のお誕生日!子どもの教会幼小科は、大きな食パンを教会にみたてて飾りつけ。中学生高校生はちょっと難易度があがって、ウエハースを組み立てて教会堂を作り、屋根や壁は生クリームで固めました。出来上がって記念撮影した後は……みんなでおいしくいただきました。

神様、原町田教会をありがとうございます!
あなたもこの交わりにくわわりませんか?

保護中: [教会員用] 2016年5月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


5月1日の写真

5月1日のお昼ご飯は、茄子とひき肉のそぼろ、ポテトサラダ、納豆の油揚げ詰め、お味噌汁、ご飯、甘味。そぼろをたっぷりかけてご飯を頬張りました。
5月14日(土曜日)朝6時からの、ペンテコステの早天祈祷会&朝食のポスターも貼り出されています、ふるってご参加ください!

2016年4月10日 さあ、来て、食事をしなさい

◆ヨハネによる福音書21章1〜14節 
21:01 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:02 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21:03 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:04 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21:05 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21:06 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:07 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21:08 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21:09 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

◆詩編 145編1〜9節
145:01 【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ 世々限りなく御名をたたえます。
145:02 絶えることなくあなたをたたえ 世々限りなく御名を賛美します。
145:03 大いなる主、限りなく賛美される主 大きな御業は究めることもできません。
145:04 人々が、代々に御業をほめたたえ 力強い御業を告げ知らせますように。
145:05 あなたの輝き、栄光と威光 驚くべき御業の数々をわたしは歌います。
145:06 人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。
145:07 人々が深い御恵みを語り継いで記念とし 救いの御業を喜び歌いますように。
145:08 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
145:09 主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。

今日の聖書の出来事は、イエス様が復活された後、故郷のガリラヤで弟子たちと再会した場面です。イエス様が故郷ガリラヤに帰った後、初めて言った言葉が書いてありました。それは、「何か食べ物はあるか」でした。皆さんが、しばらく故郷を離れて、久しぶりに故郷に帰ってきたとします。帰ってきて、久しぶりに会った友だちが「あなたにまた会えて嬉しい」と言う代わりに「何か食べ物はありますか」と言ったとしたらびっくりですよね。「そんなにお腹空いているの?」と心配になってしまいます。イエス様、この時相当お腹が空いていたのかと思ってしまいますが、よくよく聖書を読むとそうでないとわかります。イエス様は一晩中漁をしてぜんぜんとれなかった彼らのことを思ってこの一言を言われました。「きっとお腹ペコペコで力も出ないし、何も獲れなくて自信をなくしているだろう。まず、とれたての美味しい魚を食べさせてやろう。そしたら元気も出るだろう」。そう思って、「何か食べ物はあるか」と聞かれたのです。

イエス様が十字架で処刑された後、エルサレムからガリラヤに帰ってきた弟子たちは、ぼーとしていたんでしょう。「イエス様がいなくなってしまった。自分たちは何をしていけばいいのかわからない」。でも、なにもしないでブラブラしているだけじゃだめだとペトロさんが思い、「わたしは漁に行く」と言うと他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って漁に出ます。でも一晩中網を打っても何もとれない。するとそこにイエス様が現れて「舟の右に網を打ちなさい」と言われる。聖書では右側は神様の側と言われているので、イエス様は弟子たちに魚の取り方を教えたのでなく、「神様の方を向いて進んでいきなさい」と言われたのでしょう。「神様を信じていけば大丈夫。わたしがいろんな人と一緒に食べてきたあの食卓を思い出しなさい」。

イエス様はガリラヤでもベタニアでもエルサレムでも、分け隔てなくいろいろな人とテーブルを囲んで食事をしてきました。誰とでも一緒に食べる。分け隔てなく食卓を囲む、そこに神の国が現れている。それを伝えたかったのだと思います。イエス様は実によくいろいろな人たちと食卓を囲んでいます。ユダヤの人たちに嫌われていた徴税人、男と一緒にテーブルにつけないはずの女性たち、病気の人たち、またそのような人たちとは絶対に同席しない律法学者やファリサイ派の人たちとも食事をしました。律法学者やファリサイ派の人たちから見れば、汚れた人たち、罪人と言われて一緒に食卓を囲むなど考えられない人たちとイエス様はテーブルを囲み、パンを分かち合いました。イエス様は言いたかったのでしょう。神の国がそこに現れている。弟子たちにその食卓を思い出させようと「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言って、自らパンと魚を手にとって彼らに与えたのです。

先日のイースター礼拝の後の愛餐会。良かったですね。新しく原町田教会の家族に加わったお二人を迎え入れて、一緒にワイワイと神様から頂いた物を食べる。皆さんは、教会のどこが好きですか?と聞かれて何と答えますか。わたしはまず、一緒に美味しい物を食べるところが好きと答えます。これまでいくつかの教会に通ってきましたが、どこの教会でもお祝いの時には必ず愛餐会で食べ物を一緒に食べるんです。「神の家族」というのは、頭の中でこういうもんなんだと理解する以上に、一緒に食べ物を食べてこそ、礼拝に集う他人同士が家族になっていくような気がします。

教会は食べることを大事にしてきました。今でこそ、聖餐式と愛餐会は別々になっていますが、長い間、教会ではそれぞれが持ち寄った食べ物を神様にささげて、その食べ物を皆で分け合って聖餐と愛餐会を一緒に守ってきました。だから、原町田教会でも礼拝でパンを食べ、杯を飲み、その後、愛餐会で一緒に食卓を囲みます。

昨年からですか。原町田教会ではワンコイン献金というのを始めました。愛餐会は持ち寄りで食卓を囲んでいますが、持ち寄りが難しい人でも気兼ねなく一緒に食べましょうとワンコイン献金を始めました。いいですね。わたしたちは、神様が親で、イエス様をお兄さんとした家族ですから、一緒に食卓を囲みます。「参加したいけど、こんなわたしがそこにいてもいいのかしら」と感じる、そのような心の壁をできるだけなくす努力をします。なぜならイエス様が全ての人を聖餐と愛餐会に「さあ、来て、食事をしなさい」と招いておられるからです。

聖餐式の時、パンと杯を頂きますが、あれは神様からの救いへの招きです。わたしが高校生の時でしたが、両親に連れられて、川崎の戸手伝道所の礼拝に出席したことがあります。昨年の特別伝道礼拝にここに来ていただいた関田寛雄牧師が牧会されていた伝道所です。礼拝の説教に続いて聖餐式がありました。牧師が聖書を読み、祈り、パンが配られました。わたしは深く考えることなく、自然にパンを取ってパクリと食べました。続く杯もゴクリと飲みました。礼拝が終わった後、父から「お前、パン食べただろう?」と言われ「え!」と答えました。「まだ洗礼を受けていないのにパンを取ってるから、びっくりしたけど、止められなかったな」と父と母は笑っていました。もし、あの時「だめじゃないか。謝ってきなさい」と言われていたら、わたしは教会嫌いになっていたかもしれません。神様の招きって不思議です。その後、洗礼を受けるまでパンと杯を頂くことはありませんでしたが、今思えば、神様はあの時「来て、食事をしなさい」とわたしを招いて下さっていたように感じます。

聖餐の食卓は、救いの食卓です。聖餐の時、「これは、わたしたちのために割かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられた」と牧師が皆さんに言います。その「あなたのために主が命を捨てられた」と言った時の「あなた」の中には、自分だけでなく主が招かれているすべての人が入っています。あなたの好きな人も、嫌いな人も「あなたのために」の中に入っています。「あなたのこと嫌いだから一緒に食べない」なんてその食卓では言えない。神様がこの食卓にその人も招いているからです。あなたの好きな人も、嫌いな人も何度も繰り返し一緒にパンを食べ、杯を飲むんです。イエス様が「さあ、来て、食事をしなさい。意見があわなかったり、議論しても解決できないこともある。イライラして『あんなやつと顔も合わせたくない』と思うこともある。でも、まずはここに来て、一緒に食事をしなさい。わたしが準備したから、いらっしゃい」と招かれます。

わたしが大学生の時、通っていた教会では毎週、礼拝後にうどんの食事があって、一人暮らしをしていたわたしにとって格安のうどんを何よりも楽しみにして礼拝に通っていました。日曜日の朝はゆっくり起きて、何も食べずに教会に行っていましたので、11時ぐらいになるとお腹がすいてきます。お腹がすいてきますと鼻がよくなりますから、厨房の方からうどんのスープのダシの効いた良いにおいがすると礼拝説教以上にそっちの方が楽しみになります。礼拝が終わってさすがに走って行くのは恥ずかしいので、少し早歩きで厨房横のホールに行きまして、うどんを頂きます。いつもわたしはおかわりをしていました。その教会の60周年記念の礼拝で説教をしてほしいと呼ばれた時にも、このうどんの話をしました。その時にはさすがに説教以上に、とは言いませんでしたが、それでも教会には礼拝と同じぐらいにうどんを楽しみにきていましたと話しましたら、礼拝が終わった後、1人のご婦人がぱっとわたしのところに来て「うどんのことを話してくれて本当に嬉しかった。長い間、うどんを作ってきて、人手が足りなかったりして、続けるのが難しくて、大変なときがあったけど、うどんを楽しみにしていたと聞いて、嬉しかった」と話してくれました。

わたしは大学4年生のときでしたが、その教会でバプテスマを受けました。通っていた時には気づいていませんでしたが、教会に受け入れられていたなぁと思います。家族のように「あなたがいつ帰ってきても食事は準備するよ。来て食べなさい」というような雰囲気で受け入れてもらっていました。すごく居心地が良かったので、60周年記念の礼拝説教で「うどんがおいしかった」なんて言えてしまう。教会は家族、どんな人であっても「お帰りなさい」と受け入れて、「来てください。食事をしましょう」と言って一緒に食べる家族なんです。

皆さんの家族の中でも「あんた、ただ食べに帰って来るだけじゃない」と思うような人、いませんか?わたし自身もそういう時がありました。親とも姉とも話しはしたくないけど、腹は確実に減りますから、食べるために家族と一緒に食事の席につきますし、食べるために家に必ず帰ります。一緒に食べることは、その人を受け入れることです。聖書の時代、敵対していた者同士がこれからは仲良くやっていこうと仲直りするとき、まず何をするかというと、一緒に食卓を囲むんです。旧約聖書を読むとそういう場面が出てきます。同じものを一緒に食べる。相手を信頼してなかったら、目の前に出された食べ物を口にすることはできません。毒がもられていないかと疑って口に入れられません。だから、一緒に食べることで「わたしはあなたを仲間として受け入れます」となる。

聖餐式でパンを食べ、杯を傾け、愛餐会や家庭集会、何かの機会に集って、「神様、ありがとうございます」と祈って一緒に食べる。そうするとそこに集った人たちが家族となっていくんです。神の家族になるために神様は聖餐と愛餐、「食べる時」を与えてくださったのです。イエス様が一晩中、漁をしてへとへとになった弟子たちに「魚を何匹かもってきなさい。さあ、朝の食事をしなさい」と言われ、イエス様ご自身がパンと魚を手に取って弟子たちに与えられたのも、みんな、神の家族だから。

2016年4月3日 平和があるように

◆ヨハネによる福音書20章19〜23節
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

◆エレミヤ書29章4〜7節
29:04 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。
29:05 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。
29:06 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。
29:07 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

◆詩編 118編13〜25節
118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを主は助けてくださった。
118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門 主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげる あなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。
118:23 これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

復活されたイエス様が、怖がっている弟子たちのところに来て言ったのが、「あなたがたに平和があるように」でした。弟子たちは自分たちもイエス様のように殺されるかもしれないとユダヤ人を恐れていました。彼らが怖がっていたのはユダヤ人だけでなく、イエス様のことも怖がっていたんじゃないでしょうか。ゲッセマネでイエス様が捕まった時、イエス様を置き去りにして一目散に自分たちだけで逃げたからです。イエス様にあわせる顔がない。イエス様に謝る時間もなかった。イエス様はきっとわたしたちのことを怒っていたはずだ。どうして逃げ出したんだろうと悔いる気持ちもあり、もう一方では「いや、逃げて正解だった。もし逃げなかったら一緒に殺されていたかもしれない。生きてなんぼのもんだ」。そうやって今生きている自分のことを正当化しようとする気持ちもあり、気持ちがゆらゆらして、どうも落ち着かず不安と恐れに押しつぶされそうな彼らを想像します。イエス様を見たってマグダラのマリアさんは言っていたけど、「ここにイエス様がやって来たらどうしよう」と不安だったはず。万が一イエス様にあったら、イエス様きっと怒って「なぜ、わたしを置き去りにして逃げたのか?」「一緒に死なねばならなくなってもあなたを知らないなんて決して言いませんと言ったのは誰だ?」なんて言うかもしれない。でも、イエス様がこの部屋にやって来て開口一番言ったのは「あなたがたに平和があるように」でした。

イエス様は本当に優しい方です。不安と恐れだらけの弟子たちに、「平和があるように」と言われた。これは赦しの言葉です。「あなたたちはわたしを置き去りにして逃げて行ったし、あなたたちは自分で言ったこととしていることがぜんぜん違うけれど、わたしはあなたたちを一切責めることはしない。ただ、わたしはあなたたちの平和を願う」。イエス様の赦しの言葉を聞いて、不安と恐れで死んでいた魂に命の息吹が吹き込まれます。冷たくなっていた心があたたかくなったんでしょう。弟子たちは元気になってようやくよみがえられたイエス様を見て喜びました。「弟子たちは主を見て喜んだ」と聖書にありますが、彼らの喜びはイエス様に会えたこと以上に自分たちのことをイエス様が赦してくれたことだったのかもしれません。

今日は2016年度の初めの礼拝です。イエス様はこの礼拝に集う皆さんにも言われました。「あなたがたに平和があるように」。このイエス様の言葉を聴けてわたしたちも嬉しいです。イエス様は、わたしたちがしてしまっている間違いを責めることなく「平和があるように」と繰返し、赦してくださっている。このイエス様の赦しがあるから今のわたしがいる。この赦しがあるからこそ今年度もやっていこうという気持ちをもつことができる。
2016年度、はじまる時は良い新しい年度にしたい、良い年度になってほしいと思います。「今年度を良くするためにはどうしたらいいか」と考えますとどうしても前の年を振り返ります。前のことを振り返るとだいたいは反省することが多いですね。もっとこうすれば良かったと思うことがいろいろ出てきます。原町田教会の牧師としては、もう少し信徒の方たちのところに訪問できたら良かった、信徒の方たちが思っていることに耳を傾ける時間が少なかったと感じています。ご高齢の方から順番に訪問しようと思って、年齢順の表に従って一番上から何人かは訪問できましたが、ここ最近はできていません。他にも失敗してしまったことが思い浮かびます。どうしてあんなことをしてしまったのか。もう少しゆっくり考えてやるべきだった。

教会の集会で「先生、『ホサナ』って言葉がありますが、どういう意味ですか?」と聞かれ、わたしは「それは『主を讃美します』という意味ですよ」と答えました。イエス様がエルサレムに入っていく時に民衆が「ホサナ」と言っていたのでそう答えたのですが、その後ちょっと不安になって辞書で調べたら違っていました。「主よ、救って下さい」という意味だとありました。どうして「わかりません」と素直に言えなかったのか。わからないときはわかりませんと言える牧師になりたいです。でも、ある時わたしが「わかりません」と言ったら、「先生、もっと勉強してください」と言われたこともあります。
こんな感じに自分のことを考えていますと、反省することがドンドン出てきます。

皆さんはどうですか?いろいろ、過去を振り返ってみますと自分の失敗や後悔したことなど思い出しませんか。先日の祈祷会の時でしたが、受難節でしたのでイエス様が十字架につけられる聖書個所を読んでそこに登場する人たちのことを話していました。ある人が「自分の命をかけて正しいことのために生きる人はいないですね」と言いました。イエス様に有罪の判決が下って後悔するユダさん、妻や民衆の間に挟まれてウロウロする総督ピラトさん、「十字架につけろ」と叫ぶ民衆、イエス様につばを吐きかけ殴る兵士、自分も十字架につけられていながら「他人は救ったのに、自分は救えない」と侮辱する強盗たち。十字架への道を歩むイエス様の周りには、正しいことをする人は見当たりません。皆さんの中で「わたしは正しく生きています」と言いきれる人はなかなかいないと思います。「正しいとは言い切れないけど、間違って生きているわけでもない」と思っている人がほとんどではないでしょうか。より良く生きていきたいと思う反面、あまり良いことはできていない自分もいる。自分のことを考えていますと正しく生きられない自分にどうしてもぶつかってしまいます。

自分のことばかり見ていると気持ちが落ち込んできます。まさにユダヤ人を恐れて、また、自分たちの失敗にとらわれて部屋に閉じこもる弟子たちのようです。イエス様はそんな弟子たちのところに来てくださり「平和があるように」と言いました。「自分のこと、自分たちのことばかりを考えてないで、神様のことを思いなさい。神様があなたたちにしてくださったことを伝える為にわたしはあなたたちをこの世に遣わします」。そう言って、イエス様は彼らに息を吹きかけられました。これは創世記で土の塊に息を吹きかけられた神様の業そのものです。塵から作られた人は最初はただの土の塊でしたが、神様が息を吹きかけられて初めて生きる者となる。創世記の2章にこうあります。7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹入れられた。こうして人は生きる者となった」。イエス様は、「平和があるように」との赦しの言葉を携えて弟子たちが出て行くようにと彼らに息を吹きかけて新しく作りかえてくださったのです。

「平和があるように」。このイエス様の言葉は、人を生きる者にします。「平和(へいわ)があるように」。たったの9文字で、幼稚園の子どもでも覚えられる素敵な言葉、難しい言葉ではありません。でも、この言葉を好きな人に言うよりも皆さんのことをイライラさせたりする人、皆さんにうそをついたりする人、皆さんが好きではない人、むかっとくる人に向かって心の中でいうのです。そのような人に向かって直接、「平和があるように」なんて言うのは難しいですから、一人になって少し心落ち着いた時でいいです。心の中でその人の名前を呼び上げて言うんです。「平和があるように」。一度だけでなく、イエス様のように何度も言ってください。一度に何回も言わず何日かに分けて何度も言うことをお勧めします。「〇〇さんに平和があるように」「〇〇さんに平安がありますように」と祈っているうちにその人のことを赦す自分になっていきます。イエス様が弟子たちにされたことですから、間違いありません。

これはイエス様よりもずっと前に神様がエレミヤさんを通してイスラエルの人たちに教えたことでもありました。バビロンに捕囚された人たちに神様は言われました。エレミヤ書29章7節「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」。バビロンの町は、イスラエルから見れば敵の町です。自分たちの国をぼろぼろにしたそのバビロンの国のために平安を祈りなさいと神様は言われます。イエス様が自分を裏切った弟子たちに「あなたたちに平和があるように」と祈ったことと同じです。

教会の牧師をしていますと日曜日は特にニコニコして、心の中は平和そのものという顔に見えますが、牧師でも人間ですからいつも心の中が平和であることはありません。3月のことでしたが、幼稚園の母親たちに聖書のお話をする時間がありまして、何を話そうかなといろいろ考えて準備して臨みました。ところが、その時、母親と一緒にいた1人の子どもが急に「やだ、やだ」と大きな声で叫び出しました。しばらく「やだ、やだ」と大きな声で叫んでいましたので、わたしもその声に負けないように大きな声で話しました。でも気持ちが話すことに集中できませんでした。その子は途中、幼稚園の先生に連れられてその部屋を出て行きましたが、結局、その声が気になって最後まで落ち着いて話すことができませんでした。せっかく準備してきたのにそれをしっかり伝えられなかった。しばらく、心の中がイライラしていました。牧師もイライラすることはあります。でも、そんな時が勝負所です。イエス様に教えてもらった素敵な言葉をそんな時にこそ使えば良いのです。人のことでイライラしているわたしにイエス様は「あなたに平和があるように」と言ってくださいます。ですから、わたしも人が話している時に「やだ、やだ」と大声を出したその子とその母親に「あなたがたに平和があるように」と言えるのです。わたしは2、3回。心の中で「〇〇さんに平和があるように」と言ってみました。すると気持ちがずいぶん楽になりました。これ、ものすごい効果があります。皆さんも是非やってみてください。牧師が保証します。というより、イエス様が保証します。嫌な人だな、どうしてあんなことするんだろうと思う人に向かって「〇〇さんに平和があるように」と祈りの中で声をかける。皆さんも人間ですから、時には他の人のことでイライラすることがあるでしょう。その直後は難しいかもしれませんが、しばらくたってから是非、その人に向かって心の中で、祈りの中でもいい。「〇〇さんに平和があるように」と言ってみてください。皆さん自身にへいわが与えられます。神様は皆さんを平和の使者、赦しの使者としてこの世に遣わされます。2016年度はこのイエス様の赦しの言葉を忘れないでいきたいですね。「あなたがたに平和があるように」。

 

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。