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I shall Wear A Crown
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子どもの教会だより第15号  2016年3月

子どもの教会だより第15号をお届けします。
写真を見ながら2015年度を振り返ってみると、いつも、いつでも、神様が私たちの中心にいてくださったなあと、あらためて嬉しい思いに満たされます。
この交わりに一人でも多くの子どもたちが招かれますように。

ご家族の方もご一緒にどうぞ!2016年度は、子どもたちの分級の時間に、お子さんを待っておられるご家族むけに宮島牧師が聖書のお話をする時間をもつ予定(月に2回)です。ぜひいらしてください。

2016年3月6日 御心は然りとなった

◆コリントの信徒への手紙二 第1章 15-22節
◆詩編2編 1-12節

先日のことですが、我が家のトイレで用を足していてびっくり!尿の色が赤いのです。いわゆる血尿でした。これまで一度も経験したことのない事態にわたしはショックで茫然となり、何をしたらいいのか、すぐには何も思い浮かびませんでした。でも、すぐにインターネットで調べることを思いつき「血尿」で検索したところ、「とにかく精密検査をするように」とありました。また、血尿の原因にはいろいろあるようですが、その時のわたしのようにどこも痛くない場合は、ガンの疑いもあるということも書かれていました。その日は寝る前にもドキドキしながらトイレに行きましたが赤い色は変わらず次の朝も赤いまま。午後になって元の色には戻ったのですが、それでもやはり何かあるかもしれないと心配でしたので病院に行きました。

医師の診察を待つ間、わたしは必死で「神様、どうか御心ならば病気でありませんように」と祈り、あわせて「もし、病気であったらどうか癒して下さい」と祈りました。医者にみてもらい「CTをとりましょう」と言われ、CTスキャンでお腹の写真を撮り、その結果を待つ間にもひたすら祈りました。「神様、御心ならば重い病気でありませんように。もし、病気でしたら癒して下さい」。ちょうどその時、病院の待合室で読んでいたのが、今日の聖書個所を聖書だったのです。「この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」。自分は思い病気かもしれない。自分には何か重大な欠陥があるかもしれない。「お前はだめかもしれない」と自分に「否」を突きつけられたような絶望的な気持ちになっていたわたしに神様がこの御言葉をくださいました。「あなたがたとえ病気で『否』『だめだ』と思ったとしても、イエス・キリストにおいては『然り』だけが実現した。神様が旧約聖書で言われた約束はすべてイエス・キリストにおいて『その通り』『然り』となった」。旧約聖書には神様の言われた約束がいっぱいありますが、その時わたしはイザヤ書の41章の神の約束を思い出しました。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける」。

イエス様の十字架と復活によって、神様は恐れおびえるわたしの手をギュッと固く握って助けてくださっている。だから、恐れなくてもいい。神様がそう言ってくださった。病気になるといろいろな痛みがあります。この時、わたしは体のどこにも痛みはありませんでしたが、重い病気かもしれないという恐れを前にして心は震えていました。でも、この聖書個所を読んだときに神様から「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。痛みや重荷を負われた御子イエスがあなたと共にいる」と言われたように思い、不安や恐れが和らぎました。聖書の御言葉に支えられて、わたしはCTの結果を聞きに診察室に入っていったのです。医師はわたしのお腹の断面図を見せながら、「どこにも特に問題は見られないですね。」と言いました。

わたしは、今回生まれて初めて自分は重い病気かもしれないと思って、真剣に祈りました。「病気でありませんように。もし、病気でしたら癒して下さい」。でも、しばらくして思いました。キリスト者の祈りって、自分の願いだけでいいのだろうか。わたしの体や心の状態が良くても悪くても、神様が約束されたことはすでにイエス様において「然り」となった。「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。あなたの痛みも苦しみもわたしが背負ってあなたを助ける」。そう約束されたことがすでにその通りになっている。ですから、わたしたちは、「病気でないときも、また病気であってもあなたが成し遂げて下さった救いの業をほめたたえられますように」。そう祈るべきなのではないか。イエス様が教えてくださった主の祈りは、「自分の願いがこの地になりますように」ではなく、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」でした。ゲッセマネでイエス様は苦しみの中にあっても自分の願いだけを祈られませんでした。「この苦しみを取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、あなたの御心のままに」。この病気を取り去って下さいと祈るのは当然ですが、「神の御心がなりますように」と祈る。それがイエス様を信じるキリスト者の祈りです。

祈りについて考えていましたら、ある短いお話を思い出しました。「白い十字架と黒い十字架」というお話です。ある村にヨハネ聖者という村のリーダーがいました。ある時、ヨハネ聖者はどうしてもその村を留守にして長い旅に出掛けねばなりませんでした。そこでヨハネ聖者は村人を集めてこういう話をしました。「わたしはお前たちを残して旅に出るのは忍びない。そこで、二つの十字架をこの村の丘に立てておくから、わたしの留守中はそれに頼りなさい。一つは白い十字架と言って、みこころの十字架じゃ。つまりその前で「どうか神様のみこころがなされますように」と祈るための十字架じゃ。もう一つは、黒い十字架じゃ。これは自分の思いがなされますように、というもので、この十字架の前で祈ると、その願いはすぐにかなえられるのじゃ。」こう言ってヨハネ聖者は村を後にしました。さて残された村人にとって第一の関心は白い十字架よりも、黒の方です。さっそく村人は黒い十字架のそばに集まりました。みんなおっかなびっくりでした。本当にこの十字架の前で祈ると、その願いはかなえられるのか。一人の村人がまず祈ってみました。どうか、おらのおっかあの病気が治りますように。するとその祈りは聞かれ、この村人の奥さんの病気はたちどころに癒されたので。お金を下さい、と祈る人もいました。その通りになりました。みんなはびっくりしました。やはりヨハネ聖者さんの言ったことは本当だったのだ。そこで、村人たちはこの黒い十字架のまえに列を作って祈りにやってきました。そしてみんな働かずにお祈りばかりしていました。白い十字架の丘には、雑草が生えて、誰一人訪れる者がありません。村人たちの限りない欲望はつぎつぎに実現していきました。ところが村に悪いことが起こりました。人の不幸を祈る人が出てきたのです。不幸にされた人はさらに相手の愚行を祈るようになり、こうして人々は互いに憎しみの祈りをするようになりました。平和だった村はどんどん荒れはてていきました。旅人も遠ざかりました。しかしいつの頃か、村人たちはこれではいけないと気がついたのです。そして黒い十字架に近づく人はいなくなり、やがて、白い十字架の前でお祈りをする人の姿が見られるようになりました。村人たちは神様の良いようになさってください、と祈っていたのです。やがて、ヨハネ聖者が村に帰ってきました。ヨハネ聖者はこの様子を見て、「これで良いのじゃ、これで良いのじゃ」と満足しました。

わたしたちの願いが全部叶えば、幸せになるのかというとそうじゃない。神様の御心を祈ることにわたしたちの幸せと喜びがあると、このお話は伝えています。

コリントの信徒に手紙を書いたパウロさんにも自分の願い、自分の計画がありました。コリントへ行ってそこからエルサレムに献金を持っていくという願いでした。でも、彼の願い、計画はすべてその通りになったわけではなかったようです。同じこのコリントの手紙でパウロさんは、自分の病気のことで神様に真剣に祈っています。持病を持っていたので、心から「病気を治して下さい」と祈っています。同じコリントの手紙二の12章で「わたしの身に一つのとげが与えられました」と病気のことを言った後、「このサタンから送られた使いについて、離れ去らせて下さるように、わたしは3度主に願いました」。でも、イエス様は彼に言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。

病気にならないこと、病気が治ることを願うのはパウロさんもわたしたちも同じです。でも、病気になってそれが治らなければそれで人生は「否」になるのでしょうか。聖書は「そうではない」と言います。イエス様においてはすべてが「然り」、「それでいい」となったのだから、病気になり、たとえそれが自分の願いどおりに治らなくても、神様の「然り」の中に自分はいるのです。もちろん、病気が治ることを願いますが、それが治らなかったとしても、その弱さの中にあって神様は「然り」と言われる。イエス様は十字架によって苦しまれ殺されましたが、神様はイエス様を十字架で「否」、「だめ」とは言わず死からよみがえらせました。苦しみを通った後、イエス様を復活によって「然り」「それでいい」とされました。

病気が治らない場合でもその弱さの中に神様が働かれています。病気が治って元気になることも心からの願いですが、病気になって弱さを感じることで、むしろ神様の恵みを敏感に強く感じるんじゃないでしょうか。パウロさんがまさにそうですが、彼は治らない病を抱えながら、神様のすばらしい恵みを証しして、病にある人たちを励まし慰めます。パウロさんは、今日の箇所の少し前のところでこう伝えます。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」。治らない病の中にあったパウロさんだけでなく、イエス様を信じている人にはみんな、弱さの中でこそ強く感じる恵みがあります。口で絵筆をもつ星野富弘さんもそうですし、まばたきの詩人、水野源三さんもそうですし、わたしたちもそうです。何の病気もなく、若くて元気な人だから神様の恵みをたくさん証しして、人を励まし慰めるのかというと意外とそうでもない。むしろ、病を抱えているからこそ、弱さを持っているからこそ、神様の愛と恵みに心から信頼する。病気や怪我をして自分が弱くなって初めて病人やケガをした人の気持ちを少し感じられるようになる。年老いて「あ、またできないことが増えてきた」と肉体的な弱さを感じるからこそ、そこに神様の「然り」「それでいい」との御言葉をより強く、より敏感に受け止める。「病気が治りますように」と祈るだけでなく、「たとえ病気が治らなくても、この病気を通して神様の愛と恵みを証しできますように」と祈る。「わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように」と心から祈る者へと変えられるのです。

水野源三さんの詩を一つ紹介します。「苦しまなかったら」という詩です。「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった」。

イエス様の十字架の苦しみは、そのままでは何の意味もない、無力で「だめ」としか言えないものでした。しかし神様は、イエス様の苦しみを「然り」に変えられました。その然りが今も皆さんを支えています。あの苦しみは必ず栄光に変えられる。暗闇の中にいても神様が必ず光をもたらしてくださる。十字架の死は栄光の復活となりました。ですから、皆さんが病気で苦しみ、痛みで苦しんだとしても、それは栄光に変えられる途中にあるんです。それが神様の約束です。今の苦しみは神の「然り」が現れる産みの苦しみ。いや、すでにわたしの痛みも苦しみもイエス様の苦しみとよみがえりにおいて「然り」となっている。神様は、そのキリストとわたしたちを堅く結びつけてくださっています。あなたの手の力が弱くなっても神様があなたの手を固く握ってくださっています。わたしたちはそう信じて、神様をほめたたえて「アーメン」と唱えます。

今回、わたしは病気ではありませんでしたが、わたしたち誰しもが年を重ねていく中で何かの病気にかかります。体の病気だけでなく、社会の病気もありますし、心の病気もあります。わたしたちキリスト者は、病気になったとしてもそれで「人生だめ」「人生、否」とはならない。病気でも、病気で弱った自分でもその中にイエス様が生きておられ、神の約束が「然り」となって皆さんの中に実現しているのですから。

「この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、神の御心はことごとくこの方において『然り』となったからです」。神様の然りにわたしたちは、「アーメン」その通りですと応えます。

保護中: [教会員用] 2016年3月 主日礼拝音声

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2016年2月14日 今は苦しくても悪魔は必ず去っていく

◆マタイによる福音書4章1〜11節

2月10日から受難節に入りました。イエス様がすべての人のため、すべての人を救うために苦しみを受けられた。そのことを心に刻む期間です。皆さん、是非この受難節を通して、イエス様のあの苦しみはこのわたしのためでもあったのだと受け止めていただきたい。イエス様の苦しみがわたしのため、そしてすべての人のためだったと受け止めるならば、皆さんが経験している困難や苦しみの受け止め方が変わってきます。先日読んだ本に、作家の三浦綾子さんが若い頃、結婚される前ですが、肺結核を患って長い入院生活をしていた時のエピソードが載っていました。Nさんというクリスチャンのおばあさんが彼女の見舞いに来てくれて、「これ、うちで作ったシュークリームですよ。おあがりなさい」と言いました。堀田(三浦)綾子さんは、菓子折りを突き返して言いました。「いりません。もう長年の入院生活でお返しもできませんし、わたしは物乞いになりたくありませんから」。Nさんはにっこり笑って言いました。「堀田さん、素直になりなさい。神様があなたにタダで陽の光をくださるとき、お返しができないからって突き返しますか?」。この一言で、彼女の凝り固まっていた心は、陽の光が氷を溶かすように変えられていきました。

皆さんが、「イエス様のあの苦しみはこのわたしのためでもあった」と素直に受け止めるならば、辛いことや苦しいことにあっても、「こんなのやってられない」「どうしてこんな目にあわなければいけないのか」と、怒ったり嘆いたりして凝り固まるのでなく、「苦しいけれど、イエス様がわたしよりも先にもっと苦しまれ、この苦しみは苦しみのまま終わらないって教えてくれたんだ」と受け止められるようになっていきます。どうぞ、イエス様の苦しみはわたしのためだったと受け止めて頂きたい。

皆さんは、イエス様が苦しみを受けられたと聞いて、どんな苦しみを思い浮かべますか?たいていの人は、まず十字架の苦しみと思うのでしょう。わたしもそう思います。でも聖書を読みますと、イエス様の苦しみは十字架だけではなかったと気づかされます。今日の箇所でも、イエス様、苦しんでおられたと思います。ここにゴシックで「誘惑を受ける」なんて見出しが書いてありますから、イエス様は誘惑にあわれたとすぐに思ってしまいますが、ここではイエス様は「誘惑」にあったというよりも苦しみとか試練にあわれたという方がしっくりきます。実際、以前の聖書にはイエス様は「悪魔の試みにあわれた」と書いていました。誘惑というと、これをしたら良くない、悪いことと知りつつも、「それをしなさいよ」と誘いを受けるような気がしますが、イエス様は荒れ野に連れて行かれたのですから、試練にあったのだと思います。荒れ野ですから、そこは殺伐としていて、いろいろな試練が待ち受けているところ。荒れ野はそういうところです。

もし、皆さんが何も持たないで、いきなり荒れ野の真ん中に放り出されたらどうでしょうか。水もない、食べ物もない。朝、日が上がると熱くなり、日差しが地面も皆さんの体もカラカラに乾燥させていきます。日が暮れて夜になれば凍えるような寒さが襲ってきます。荒れ野は、野菜も果物も何もできない荒れ果てたところ。そこにいれば命を落とすかもしれない危険な場所です。でも聖書では、荒れ野は神様との出会いの場所でもあります。皆さんも「今、自分は荒れ野にいるなぁ」と思うほど苦しい時がこれまでもあったでしょうし、これからもあるかもしれない。確信を持って言えることは、イエス様は荒れ野にいる皆さんと一緒に苦しんでくださる、ということ。

先日の入門講座の時にある人がこう言いました。「バプテスマを受けても、その後、試練がなくなるなんてことありませんよ」。わたしが「バプテスマはいいですよ」と求道している人に言った直後の絶妙なタイミングで言ってくれましたので、ありがた迷惑というか、ありがたいことでしたが、その人の言うとおり。バプテスマを受けた直後にイエス様は試練にあわれたのですから、バプテスマを受けても試練はやって来るんです。でもわたし、その席で言えなかったので、今、言わせて頂きますが、バプテスマを受けた後と前とでは試練の色合いが変わってくるんじゃないでしょうか。イエス・キリストと出会う前に試練にあったら、ただ辛く感じるだけで、その試練がイエス様とつながっていることなど全く思いもしないはずです。でも、イエス様と出会い、イエス様が試練にあわれたことを知っているならば、「これぐらいイエス様の試練と比べたら大したことない」、あるいは、「イエス様もバプテスマの直後に苦しまれたんだ」などと励まされるので「試練」の受け止め方がはっきりと違ってくるのです。

わたしもこれまでいくつかの試練を経験してきましたが、その中でもとっても辛かったのは、人から受け入れてもらえないという経験でした。身近で一緒に働く人から「それじゃだめ」「同じことを何回言ってもぜんぜんわからない」などと言われ続け、自分はこの人に受け入れてもらえない。いろいろ努力してもわかってもらえない。そんな経験をしたことがあります。いろいろと言われて苦しかったのですね。わたしにとって、まさに荒れ野での試練。その時は、早くこんなこと終わってほしいと思っていました。でも、今思えばですけど、自分は今、荒れ野のど真ん中にいると思っている時でも、教会のほとんどの人はわたしのことを受け入れてくれている、そう信じていましたし、何よりも神様がわたしの全てを、頭から足の先まで丸ごと受け入れて下さっている。そこにより頼んでいましたから、荒れ野の試練を乗り越えられたのだと思います。人を受け入れるって、その人のことを赦すことです。苦しい時があっても、身近に自分を受け入れてくれる人、赦してくれる人がいる。赦してくれる神様がいる。それは、苦難の時の逃れの道です。

わたしも、ついこの間ですけど、受け入れられているなぁと思ったことがあります。我が家では、食事の時は携帯やスマホ。パソコンはやらないと決めています。決めているといいますか、わたしがそうしようと言っています。わたしの連れ合いが、食事が早く終わり、スマホを手に取っていじりだしても、「食事の時は止めよう」とわたしが言うと「はいはい」と言って止めるのです。ところが先日、どうしても見たいパソコンのライブ放送がありまして、テニスの全豪オープンで錦織選手と世界一位のジャコビッチ選手の試合だったのですが、ちょうど夕食の時間と重なり、わたしがパソコンをテーブルの斜め下において、音を出さずに、でも時々チラチラと見ていましたら、娘が「いつも食事のとき、パパがダメって言うのにパパは見てる」と言ったのです。しまったと思いまして、「ごめん、止める」と言って見るのを止めました。人に「これをしたらダメ」と言いながら、それを自分がやっているのですから、かっこわるいですね。でも、そんなわたしも牧師館では、受け入れられていますから、今日も、この後、安心してわたしは牧師館に帰ることができます。

皆さんの本当の家、皆さんの我が家であるこの原町田教会もそれと同じじゃないでしょうか。皆さんは、それぞれの荒れ野でいろいろ試練を経験し、苦労をしていて、でもそう簡単にそれを乗り越えられず、行ったり来たりすることもある。聖書の御言葉一つですんなり解決というわけにはいかず、同じような失敗をして振り出しに戻ってしまうようなこと、ありませんか。そして試練にあっている時はいつも「どうして、わたしだけがこんなに苦しむのか」って思ってしまう。本当は神様が一緒にいてくださるし、帰っていくところがあるのに、自分は孤独だと思ってしまう。荒れ野はそれだけ魂や心をカラカラに乾燥させてしまうようです。なかなか荒れ野から抜け出せない、特に試練の渦のど真ん中にいる時には、聖書を開いて読むゆとりもない。それでも、原町田教会はそういう皆さんを受け入れています。教会はイエス様そのものですから、皆さんを神様に愛されている大切な人として受け入れています。礼拝にこうやって一緒に座っていること自体が、受け入れ合っているということなんです。詩編にありますね。「見よ、兄弟(姉妹)が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。

イエス様を主と信じる人は、どんな人でも排除しないで、受け入れます。それがキリスト教の教会です。

わたしたちはそれぞれ違った試練にあいます。「わたし苦しいです」という人がいたら、「そんなの乗り越えなければ、だめですよ」と言いたくなることもあるかもしれませんが、それをごくっと飲み込んで、「そうですか、苦しいですね」とその人を受け入れましょう。聖書が伝えるのは、イエス様も実は試練にあった時、御言葉1回でそれを乗り越えたわけではないということです。失敗をよくするわたしから見ると、イエス様も1回で試練を乗り越えられなくて、3回もかかってしまったと言ってもいい。イエス様はいろいろな種類の試練にあわれた、人間が受けるありとあらゆる試練にあわれた。そういう風にも読めますが、試練や苦しみ、困難を前にして、ウロウロしてしまうわたしにとっては試練にあった時、1回で乗り越えられなくても大丈夫。イエス様ですら3回もかかっている。そう思いますと、安心します。わたしたちに試練をもたらす悪魔って、結構しつこいのでしょう。イエス様ですら、簡単に試練を乗り越えられなかったのですから、ましてやわたしたちは3回どころか、もっと時間がかかっても大丈夫です。

ここはキリストの教会、イエス様の体である教会ですから、試練の前で長い間うろうろしている人がいたら、「こうしなきゃだめ」とか言わずに「神様があなたを受け入れていますから、わたしたちもあなたを受け入れます」と伝えましょう。皆さんが神様から受けいれられているのですから、皆さん自身もすでに教会に来ている人、また、これから教会にやって来る人たちを「原町田教会に

よくいらっしゃいました。あなたに会えてわたしは嬉しいです」という気持ちで受け入れましょう。

わたしたちが生きるこの世には確かに苦しみがあります。イエス様も言いました。今日の招詞で司式者がイエス様のすばらしい御言葉を宣言してくれました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。イエス様の苦しみは、苦しみのまま終わりませんでした。試練をもたらす悪魔は、最後にはイエス様を離れ去ったのです。聖書は皆さんにはっきりと言います。「今は苦しいかもしれない。でも、それがずっと続くことはありません」。

   

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988