2015年11月15日 命のパンである

◆ヨハネによる福音書6章26〜35節
26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 

 食べることは好きですか?「わたしはあんまりね」という人や、「健康のためにいいものを食べるようにしています」という人もいるでしょう。「若いときは食べることが楽しかったけど、歳をとってからは食が細くなってね」、そういう人もいると思います。今日の聖書は、小さい子どもたちにも、わたしのような中年にも、高齢の人にも、食べ物に興味がある人もない人にも、すべての人に与えられるすばらしい食べ物があると言われたイエス様の言葉です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

 わたしは、見た目が細いので、あんまり食べないんだろうと思われることがありますが、こう見えても食べ物に関しては結構がめついです。小学生の頃ですが、晩ご飯で盛りつけられたお皿が5個テーブルに並びます。父と母の分、姉2人とわたしの分。わたしはまず、自分のお皿を見て、次に姉2人の量を見ます。それで自分のお皿の量が少ないと、パッと多いと思ったお皿と替えたり、母に向かって「もっと入れて」と言ったりしました。自分の分が多ければ、安心して、「お代わりある?」と聞くような痩せの大食いでした。最近は前のようにがつがつと食べなくなりましたが、今度は妻に向かって「これ、どこで取れたもの?」とか「これ、化学調味料入ってるね」などと聞くようになりました。やっぱり、大人になっても目の前のことに心奪われてしまうようです。

 イエス様は、「朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われます。なかなか難しいことのように思ってしまいます。永遠の命に至る食べ物のために働くなんて、見当もつきません。でも、イエス様はすでにわたしたちすべての人にその食べ物をくださっています。自分の力では手に入れることができなくても、イエス様の命のおかげで頂くことができるようになったのです。

 創世記ではアダムとエバが「善悪の知識の木」の実を食べたことで、エデンの園から追い出されるのですが、神様はその時、追い出す訳をこう言いました。「人は我々の1人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。

 神様は人を「極めて良いもの」として造られましたが、人は「わたしは神様を頼りにしなくても良いこと悪いことぐらい分かる」という気持ちで善悪を知る木の実を食べてしまいました。わたしたちもアダムとエバと同じように神様なしに善悪を知りたいと思ってしまいます。それがわたしたち人の罪ではないでしょうか。自分で良いことと悪いことぐらいはわかっているつもりで、神様から離れていくわたしたち。その先には滅びしかないのにそっちに向かってしまうわたしたちを滅びから救い出すために、神様は御子イエスを送ってくださいました。そして、神様の大切な自分の子、愛する自分の御子イエス様をまるでパンが割かれるように十字架の上にささげた。神様も、イエス様もどれだけ苦しかったのか。想像もできないほどの痛みによって、すべての人を救う命が差し出されたのです。

 これが、イエス様が言われる命のパンです。神様はあなたのために、あなたを救うために自分の愛するたった一人の子を与えられた。救いは、すでに現されています。「神様はイエス様によってわたしを救ってくださった」というその実感、頭の中だけでなく、むしろゾゾゾッと寒気がするような感動、ドキッとする喜び、魂が震えるような感覚を忘れないために、イエス様は「わたしが命のパンです。この命のパンを食べなさい」と言ってくださる。そのことを忘れないために聖餐式があります。牧師は聖餐式の時、パンを手にとって言います。「これはわたしたちのために割かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう」。

 聖餐のパンもそうですし、礼拝で語られる聖書の言葉も、ぜんぶイエス様の体、命のパンです。ということは、礼拝に出ている人はみんなイエス様を頂いていることになります。イエス様の体を何度も頂いていますと、自分でも気づかぬうちにイエス様がわたしたちの中に生きるようになり、神様の業を行なうようになるんです。

 先日、ある女性の方から電話がありました。「今、歩いて茨城県の水戸から町田に来ていて、昨日の朝から何も食べていないので、何か食べる物をいただけないでしょうか?」というので、事情を聞いたところ、このような話をされました。その方はパニック障害をもっていて、北九州で生活保護を受けていたのですが、夫が仕事を得て水戸の社宅に移りました。でも、それがうまくいかず、合わせてその障害の発作になった時に社宅のものを壊してしまい、一文無しになってしまいました。そして、唯一頼れる女性の姉が滋賀県にいるので水戸から歩いて行くことにし、ようやく町田についたというのです。「どれくらい歩いたのですか?」と聞くと、「2週間くらいかな。もう、曜日も覚えていないですね」「この靴もぼろぼろですよ」と男の人が穴のあいた靴底を見せてくれました。2人は公園で野宿をしながら、スマホの地図を頼りに歩いて来たのです。ある時はパン屋に行って、パンの耳をもらったとのこと。わたしはお弁当をコンビニで買って、祈祷室で食べてもらいました。ちょうどその時、教会の人が何人かいたので、「知恵を拝借」と相談し、結論として電車代を差しあげることになりました。実はその日の朝のわたしのお財布には500円玉1つしか入っていなかったのですが、ちょうどその日、桜美林中学の収穫感謝礼拝に説教に行ったので、そのお礼のお金があったのです。きっとそのお金は神様がその人のために用意されたのだとピピッと感じたわたしは、電車代は自分が出すと言いました。すると何人かの人が「これ少ないけど」とさっとお金を足してくださいました。目的の駅までの運賃を調べたところ、実際わたしが出したお金だけでは足りなかったのです。持つべきものは教会の仲間。とっても嬉しかったです。2人にお金を渡した時にわたしははっきり言いました。「これはわたしからでなく、神様からですから、どうぞ、神様に感謝してくださいね。滋賀に行ったら、是非、教会に行くといいですよ」。次の日の夕方、その女性から無事に着いたという電話がありました。「助けて頂いて、ありがとうございました」というその方にわたしは「お祈りしていますね」と声をかけました。

 神様の業を行なうことは神がお遣わしになった者を信じることです。イエス様はマタイ福音書で「お腹を空かした人を見て食べ物を差し上げたのは、わたしにしてくれたことです」と言われました。教会はイエス様の体ですから、お腹を空かした人がくれば、イエス様がしたようにする。コンビニに行ってお弁当を買う。それを1人でするのではなく、イエス様の体につながる仲間と一緒にする。神様は神の業を行なうためにイエス様の体であるわたしたち教会をたててくださったのですね。

 桜美林中学の収穫感謝礼拝もすてきでした。中学生約460人が荊冠堂チャペルに集って、たくさんのお米が献げられました。チャプレンの人が教えてくれましたが、子どもたちの中から選ばれた奉仕委員が各クラスを回って「お米を献げてください。寿地区の路上生活をしている人たちの炊き出しに使います」と2週間ほど言い続けてきたそうで、その成果がたくさんのお米となったのです。わたしも聞いていたので持っていきましたが、1人で献げる量は少なくても、おおぜいで献げれば1人では抱えきれないほどの量となります。チャプレンの人に「子どもたちがお米を寿まで持っていくのですか?」と聞きましたら、「そこまでできたら良いのですが、今は送っています」とのこと。できれば子どもたちには自分たちで届けてもらいたいなぁと思います。寿地区センターに行って、そこに積まれた食料とそれが実際にどれだけ役立てられているのかを見て、感じてほしいからです。

 寿地区センターは、イエス様を信じることで成り立っています。イエス様は言われていますね。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。日本風に訳せば、「わたしは命の米である」。イエス様がいますから、一日に1食しか食べていないような人たちのために桜美林の中学生たちがお米を集める。イエス様を信じてますから、飢えている人がなくなるようにとわたしたちは祈ります。

 祈りは力です。皆さんは、時々心の中で「そんな祈りをしても現実は何も変わらない」なんて思ったことはありませんか?わたしもありますよ。「世界で飢えている人がいます。どうか、食べ物が分かち合われますように」と祈りますが、祈っても祈っても変わらないと感じることがある。でも、祈っているからこそ、目の前にお腹を空かした人が現れたら、何とかしてあげることができるのです。昨年だったでしょうか、日曜日の礼拝前に1人の男の人がやって来て、「ここ数日、ほとんど食べていないので、何か食べ物をください」というのですが、礼拝前でわたしは対応することができず、教会の人にお願いしました。後から聞くと、その人は台所に行ってパッとおにぎりを作って、その男の人にあげたそうです。嬉しかったですね。これこそ日頃の祈りがあったから。祈っているからこそ、とっさの時に行動できる。祈っていなかったら、パッとおにぎりを作るのは難しいように思います。

 ただ、そうは言っても、わたしたちは今日の聖書でイエス様に向かってトンチンカンな質問をしている人たちにも似ています。すでにイエス様という命のパン、つまり朽ちることのない永遠の命に至る食べ物を知らされているのに「信じることができるようにしるしを行なってください」と言ってしまう。イエス様の十字架による赦しというすばらしい福音が与えられているのに未だに「神の業を行なうために何をしたらいいですか」と的外れなことを思ってしまう。それでもいいんです。すでに神様は皆さんの体を通して、神の業を行なっていますから。皆さんはすでにイエス様の言葉を頂き、「わたしの命のパン」を頂いているのですから、お腹を空かした人がいたら何とかしてあげようとする。おにぎりも作る。中学生はお米を集める。それはすべて神様の業です。皆さんが生きているというよりも、すでにイエス様が皆さんの中に生きて、働いている。そう言うしかありませんね。

11月28日はゴスペルコンサート♪

11月28日(土)午後2時〜4時、原町田教会でゴスペルコンサート(入場無料)を行いました!

素晴らしい青空の午後、約90名のお客さまが参加してくださって、全15曲、じっと耳をかたむけたり、からだでリズムをとったり、手拍子したり、立ち上がってAlexさんのお手本をおいかけて踊ったり。あっというまに楽しい2時間が過ぎてしまいました。

曲目:情熱大陸, Carol of the bell, Swing low sweet chariot, You are my King, You’ve got a friend, What a wonderful world, All around, リパブリック賛歌, Winter wonderland, Jesus loves me, Blessed assurance, O Holy night, キリストにはかえられません, Oh Happy Day, Silent night

9,10,11月の土曜日のワークショップに参加したメンバも、クワイヤとして歌声を披露してくれました。土曜日のワークショップは1月〜3月も月に一回のペースで行う予定です。こんどは自分も歌ってみたいな…という方、ぜひご参加ください。

 

 

 

 

 

 

 

11月22日 アドベントの準備

いよいよ来週11月29日から、クリスマスを待ち望むアドベント(待降節)に入ります。
アドベントのための準備が進められています。
今日は、ロウソクを灯す台となるリース作り。
クリスマスは教会へ!お待ちしています。

2015年クリスマスのご案内

教会の入口に、クリスマスのポスターが掲示されています。写真をクリックすると、同じ内容のチラシをご覧いただけます。

2015年11月15日の写真

11月15日の前日、14日(土曜日)に原町田教会礼拝堂で結婚式がありました。式の時に飾られた綺麗なお花が、日曜日にも講壇でいい香りをはなっていました。神様の前で結婚の誓いをされたお二人のこれからが恵みと祝福に満ちたものになりますように。
15日のお昼ごはんはおいしいカレー。そのあと聖歌隊はクリスマスの讃美の練習にとりかかっていました。

2015年11月7-8日 中高生お泊まり会

ものすご〜く久しぶりの、中高生お泊まり会をしました!
土曜日の夕方、自分の都合がつく時間にそれぞれ寝袋、シーツ、まくら、ふとん、パジャマ・・・などを持って教会に集合。7人の中高生と、青年会、宮島牧師が参加。子どもの教会奉仕者も夕食準備に参加しました。夕食はお好み焼き、焼きそば、たこ焼き作り。夜は元気いっぱいにゲームやトークで盛り上がり、朝5時ごろまで起きていたとか。さすがの青年会も中高生の元気についていけなかったとのこと。
日曜日の朝に会った時の、ちょっと眠そうだけどニコニコの笑顔が素敵でした。神様、子どもたちをありがとうございます。
送り出してくださった、それぞれのお家の方々、ありがとうございました。

2015年11月1日 あなたは決して引き離されない

◆ローマの信徒への手紙8章31〜39節
31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

今日は、永眠者記念礼拝です。お久しぶりの方たちが今日は多く来てくださっています。嬉しいですね。わたしが嬉しいのもそうですが、わたしの他にも天国に先に行かれた皆さんの家族が、「お、久しぶりに教会に来たね。1年に1回かもしれないけど、嬉しい」と思っているんじゃないでしょうか。今は亡きあの人がこの教会のお墓にいるから、この日ぐらいは…と思って出席くださった方もいるかもしれませんが、皆さんが今、ここにいるのは「今日ぐらいは」と考えるよりもずっと前に皆さんをここに連れてきた誰かとすでにつながっていたからではありませんか?このつながっていると感じる、つながりを再確認するのが、神様の働きのように感じます。

皆さんも太いか細いかわかりませんし、まだ気づかないところもあるかもしれませんが、何かのつながりがあって今ここにいる。今日の場合は特に、先に神様のところへ帰っていかれた人たちとのつながりというか、天国にいるわたしたちの家族がいて、こうして礼拝を持つことができるのでしょう。

今年、2015年はわたしたちのこの教会家族の中から3人を天に送りました。Hさんを6月27日、Fさんを8月24日、Tさんを9月14日です。先日、Tさんの納骨式の時、家族の方が「お母さんは葬儀の時も納骨式にもたくさんの教会の人が来てくれて幸せだ」とお話しくださいました。本当にそうですね。葬儀に何人、納骨式に何人、人が来るかを競うわけではありませんが、一緒に礼拝に出席し、祈りに覚えてもらったり、その人のことを祈ったりした、まさにその人が神の家族だから葬儀に出席する。原町田教会号という船に一緒に乗っている仲間ですから、強い風が吹き荒れて船が大きく揺れている時も、船から逃げずに「必ず神様が守ってくださるから一緒に乗り越えよう」と声をかけ合った仲間でもある。苦しい時に涙を流しながら「お祈りしてください」と頼んだこともある仲間。声高らかに喜びの讃美を歌った仲間。一緒に神様が定めてくださった時を教会で過ごしてきたのですから、葬儀や納骨式に出席する。それが教会の葬儀なんですよね。

今日は、Fさんの妹さんは残念ながら欠席ですね。是非、今日は来てくださいねとお伝えしましたが、御用事があるとのこと。Fさんの葬儀のことで、わたし、申し訳なかったなぁと思うことがありました。それは、Fさん自身の希望で「葬儀は親族だけで」とあったので、わたしはその希望に沿って「では、親族だけで行ないましょう」と答えてしまったことです。葬儀は、Fさんの妹さんのKさんとそのお連れ合いさん、それと後見人の方の3人でした。わたしは正直、ちょっと淋しかったです。Fさんの好きだった讃美歌「主われを愛す」を教会の人たちと一緒に歌いたかったなぁと後になって思いました。葬儀を決めてしまってからでしたが、「どうして親族だけと言っても、教会員はみんな神の家族ですから、教会員にも出席してもらいましょう」と言えなかったのか、そう思いました。もちろん、葬儀にたくさん人が来たから天国に行った、人が少ないと難しいということはなく、Fさんは確かに天国に行かれて、天使のようになっていると信じます。でも、牧師として「教会で葬儀をする時は、教会につながる人たちにも呼びかける」と言うべきだったと反省しています。皆さんもできましたら、「親族だけでひっそりと」なんて言わないでくださいね。原町田教会では、式典委員会が「葬儀の備え」というものをつくって、教会員の皆さんに、葬儀の希望を書いて提出してくださいとお願いしていますが、150人くらいの教会員がいる中で、たぶん出してくれたのは3〜4人くらいですね。これから確実に皆さんは亡くなりますから、できれば葬儀の希望のところに「家族だけ」と書かないでください。わたしは「親族のみ」とか「家族だけ」と書いてあっても、血のつながった家族だけの葬儀にはしないで、教会家族、神の家族も一緒の葬儀にしますから。その心づもりでいてください。

わたしたち神の家族は、どんなことがあっても引き離されないつながりの中にすでに入れられていますから、こうして一緒に礼拝をしていますし、葬儀の礼拝でも決して引き離されることのないキリストの愛にこの人は捕われていたんだと思い起こします。身近な人を天に送ることは、自分の体の一部が引き裂かれるような気持ちになると言われます。わたしはそこまでの経験をしたことがありませんが、実際に家族を亡くした人から「胸がずきずき痛い」と言う人に会ったことがあります。それは、自分からその人が引き離されていくような感覚なのかもしれません。もっと、あんなことができたかもしれない。わたしのしたことがあの人の死を早めてしまった。どうしてわたしは、と自分を責めることもあります。

でも神様はあの人が死んでいったことで悲しみ苦しむ人に語りかけてくださいます。「死ぬことも、命も、どんなものもキリストによって示された神様の愛から、あなたを引き離すことはありません」。今、生きているわたしたちも、またすでに死んでいった人たちも同じように、キリストによって示された神様の愛から、引き離されることはないのです。ですから、神様を通して、すでに死んでいったあの人とここにいるわたしたちはつながっています。聖書にあります。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

Wさんの家族の方はいらしていますか?教会員ではありませんが、8月31日に天に召され、葬儀をここで行なった方です。たまたまここの幼稚園の卒業生の母親が葬儀社で働いていて、Wさんの息子さんが「父はクリスチャンだったが、長い間教会に行っていなかったけど、葬儀はキリスト教でしたい」と話されたので、じゃあ、原町田教会に聞いてみようということになったのです。これもつながりですね。初めは「火葬場近くの斎場で葬儀を」と言われたのですが、わたしは「どうぞ、教会で」とお伝えし、葬儀はこの礼拝堂で行うことになりました。教会で葬儀をしてわたしはそれなりに良かったなぁと思っていましたが、11月の「信徒の友」にこんな言葉が載っていました。加藤常昭牧師は教会とはまったく関係ない人の葬儀も引き受けてきたと言い、ただ一つ条件をつけていました。「あなたがたが望んだ通りの葬りにはならなかったとしても、望んだ以上の深い慰めを知ることができるだろうから、教会と牧師を信頼して、すべて任せてほしい」。そうして、教会員は、教会員でない人の葬儀にも出席してください、誰の葬儀であっても礼拝堂で行なう葬儀は教会の葬儀だから、家族だけの葬儀にはしないと言うのです。

ハッとしましたね。これまでわたしは教会員以外の人の葬儀には、「教会の人も出席してください。手伝ってください」とは言ってきませんでしたが、そうじゃないというのです。亡くなったその本人と直接関係はなくても、その人の葬儀はその人を愛された神様を礼拝することですから、教会員が出席する。わたし、思い立ったら実行するタイプの人ですので、これからそのようにお願いしよう、そう思いました。ぜんぜん知らない人であっても、神様はその死んでいった人を愛していましたし、その愛を通して、わたしたちはつながっている。葬儀で初めて会う人であれば、その時に新しく神様を通してつながるのです。

わたしの父の葬儀の時のことを思い出します。父は治らない病気にかかりながらも、わたしが仕えていた牛久教会の礼拝に母と一緒に出席していました。亡くなる前はしばらく入院していましたので、礼拝にはほとんど出ていませんでしたが、4年前のペンテコステの日、礼拝が終わった後に亡くなりました。父の葬儀を牛久教会で前任牧師と一緒にわたしも司式をしました。途中、何度か涙を流しながら、父のことを思い浮かべながら説教をしました。でも、わたしが葬儀で嬉しく感じたのは、長い間会っていなかったいとこが来てくれたり、何十年ぶりの人に会った人もいたのもそうですが、父とは面識がない人たちもその葬儀礼拝に出席してくれたことでした。茨城県内の牧師たち数人や幼稚園の父母も礼拝の初めから終わりまで出てくれたので、父は「あの人誰?」と天国で思っていたかもしれませんが、わたしは嬉しかった。

聖書はこう言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」どんなものも、神様の愛からわたしたちを引き離すことはできません。むしろ、神様は人の死あるいは苦しみや危険を通して、わたしたちをキリストの愛と結びつけようとしているんじゃないでしょうか。人の死を通して、わたしたちは神様によって、つなぎ止められている。生きている者同士のつながりや生きているわたしたちが神様とつながっていると思うだけでなく、死んでいったあの人と生きているわたしもキリストの愛によってつなぎ止められている。

事実、わたしたちが今日、永眠者として覚えている人たちの死が、こうやってわたしたちと神様とを結びつけています。イエス様の死はこの原町田教会の人だけでなく、世界のすべての人と神様をつなげてくれるものでした。イエス様が死なれたのはすべての人を救うためであり、イエス様の復活によって神様とわたしたちの間に決して切れることのない太い絆が結ばれたのです。

わたしたちは、何かとつながっていることで安心します。想像してみてください。もし、皆さんがたった1人、無人島に置き去りにされて、そこで最後の時まで過ごしなさいと言われたとしたら。食料や住むところは十分にあるのですが、誰1人話をする人がいない。死ぬまでその状態。耐えられないでしょうね。もし、「手紙を毎月1通だけなら書いていい」と言われたら、生きる希望をその手紙にたくし、空き瓶に入った手紙の返事が来るのを心から待ち望むに違いありません。ただ、人とのつながりには必ず限界があります。たとえば、スマートフォンなどでいつもどこでもつながり続けることは、反対にそれがないと不安になってしまう「つながり依存症」になりかねません。また、人とのつながりは太くなったり、細くなったり、時にはなくなったりします。

けれども、決してなくならないつながりがあります。神様の愛からは、どんなものであってもわたしたちを引き離すことはできません。死や苦しみだけでなく、天使も命も、現在も未来もどんなものも引き離せない。神様の愛は、イエス様の死と復活によってすべての人に与えられました。ですから、わたしたちが忘れている時であっても、教会に来ていない時でも、神様の愛とわたしたちはつなぎとめられています。決して切れることのない、このつながりによって、わたしたちは安心します。生きている時も死んでからもわたしたちは神様の愛の中にいて、つながっているのです。

ゴスペルワークショップのお知らせ 9月~11月

思いっきりゴスペルを歌いませんか!

プロのシンガーによるゴスペルワークショップのお知らせです。

9, 10, 11月に毎月一回、土曜日午後5時から6時半まで、プロのゴスペルシンガーの方に教えていただき、11月28日のコンサートに参加します。

ワークショップ参加費は一回につき500円。

第1回は、9月19日(土) 17:00-18:30
第2回 10月10日(土) 17:00-18:30
第3回 11月21日(土) 17:00-18:30
コンサート本番 11月28日(土)14:00-16:00

 

 

2015年11月8日のお昼

だんだん寒くなってきました。お昼は温かいおうどんをいただきました。おいしい!元気になります!

2015年10月25日 バザー

秋晴れのもと、今年もバザーは大盛況。幼稚園の子どもたちとご家族のみなさま、お客様、教会員、みんなが神様を中心にして集まって、力をあわせてこの日のために準備し、一緒に楽しみました。

たくさんのコーナー、イベントがありました。一部だけですがご紹介します。全部を収めきれずごめんなさい。

他を読む   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。