2015年10月25日は教会・幼稚園のバザーです

恒例、バザーの日がいよいよ来週に迫りました。今年はバザー初のテーマ讃美歌「ここは僕らの祈りの家」を歌いながら、共に創り、共に楽しみ、共に支えあう、その喜びを神様に捧げたいと思います。お待ちしています!

バザーポスター
 バザー案内図

2015年10月4日  赦してやりなさい

◆ルカによる福音書 17章1~4節
1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

あなたには、この人は赦せないという人はいますか?赦すとか、赦さないという次元でなくて、とにかくその人のそばにいたくない。その人が近くにいるだけで嫌な気持ちになってくる。その人の近くにいるとその人から「あんたのことは嫌い」という風というか、オーラのようなものが漂ってくる。そのような経験をしたことはありますか。もし、わたしにはありませんというのでしたら、それは良かったですねと言いたい。でも、これからお話することは大切なことですから、聞いておいても損はしないとわたしが、いや聖書が保証します。

イエス様は、7回「ごめんなさい。もうやりません」と言ってきたら「赦してあげなさい」と言われました。7回も謝るのなら、赦すことはそんなに難しくないかもしれません。でも嫌な気持ちになる人って、だいたい、自分から謝ってくるような人ではありませんから、イエス様が言っていることはあてはまらない。「謝ってきたら赦しなさい」ですから、逆に謝ってこない人は赦さなくてもいいのですね、と言いたくなります。ここだけ読めばそうなりますが、イエス様は他の箇所で、「あなたが赦さないならば、あなたも赦されませんよ」と言われています。相手が謝ったから赦すとか、謝っていないから赦さないということではなく、とにかく赦しなさいと勧めているのです。

わたしの場合、これまでの人生の中で2人、そういう人がいました。今、その渦中にないので振り返って話せるのですが、その人とは牧師になる前の職場で一緒でした。わたしは何もそこまで悪いことはしていないのに、どうしてそんなに厳しいことをわたしに言うのだろう?その人と職場で会うのが嫌で一生懸命に祈りましたよ。「どうか、神様、この問題を解決して下さい」。働いて半年ぐらいたった時でしたが、ある朝起きると背中がずきずき痛み、それから毎朝、起きると必ず痛くなるのです。へんにひねったか何かかなと思ってシップをはったりしていたのですが、なかなか治らない。心配になって病院に行きましたが、レントゲンをとっても何もわからず、神経の問題でしょうと言われ、ハッと気づいたのです。体が職場に行きたくないと言っているんだ。その人と会いたくないと体が反応していたのです。わたしは祈り続け、職場の上の人に相談することにしました。その結果、上司とその人も含めて話し合うことになり、最終的には、年度が変わったところで働く場所を移動してもらって、その人とはほとんど顔を合わせなくて済むようになったのですが、それと同時に背中の痛みもすっかりおさまりました。今思えば、その時のわたしはその人のことにすっかり捕われていたのです。近くにいるときだけでなく、家に帰ってからも朝起きた時も心の中の大部分をその人に明け渡してしまっていたと言えます。物理的に離れることで解決したようですが、実際は、心の中からもその人に出て行ってもらう必要がありました。しかし、それから何年もかかってわたしは「神様はすべての人を愛している」、もちろんその人も含めて、と信じることができるようになったのです。

赦すこと、人を赦すって、そんな簡単に一言では言えません。言葉だけの問題でなく、体を物理的にその人から離すことや時間が経ってようやく解決することもあります。聖書が、イエス様がこうも繰返し「赦してやりなさい」とわたしたちに伝えるのは、それだけ、人間関係が難しいものだからです。聖書は繰り返し、わたしたちに伝えます。神様は絶対に赦せない人を与えられない、そのことは確かだと。今、あなたがその渦中にあるとしたら、いつか、必ず神様はその赦せないという苦しみの中からあなたを救って下さいます。そう信じて下さい。そう信じるだけで、実はもう半分くらいは救われています。神様はあなたが耐えられない苦しみを決して与えられません。そう信じることで、自分が抱えている重荷を神様に「どうぞ」と渡すことになります。神様は「どうぞ」と渡されたあなたの重荷を「いいよ、わたしが担ぐから安心しなさい」と言われます。

赦すとか赦さないとかいうことでなく、もう、あの人はこの世にいないから何もできないという人もいるかもしれません。でも、どうぞ、心の中で小さい声でいいですから、ささやくかつぶやいて下さい。「神様はすべての人を愛している」と。神様はあの人のことも愛していますから、それを信じて下さい。そう信じることであなたの気持ちはずいぶんと楽になります。わたしはそれをすでに実験して、証明済みです。赦す、赦さないということでなく、「神様はすべての人を愛している」とだけつぶやき続けて下さい。それは祈りの言葉です。

主の祈りというイエス様が教えてくれたお祈りがありますが、その中で「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」とあります。ここでも、先にあの人を赦すことが前提になっています。イエス様はあなたがまず人を赦してほしいと思っているのです。イエス様は、今日の箇所だけでなく、福音書の中で何回も「赦しなさい」「赦してあげなさい」と言われています。その理由はシンプルです。まず初めに神様があなたを赦しておられる。同じように神様はあなたが嫌だなと思っているあの人も赦している。だから、あなたも他の人を赦す。そうすれば、あなた自身が自由になりますよ。解放されて、良い働きのためにあなたが生かされていきますよと神様は教えてくださるのです。

先日、礼拝に出席している人からこんな質問を受けました。「裁きがあると聖書にありますけれど、裁きは警察に捕まって、事情聴取されて、訴えられて、裁判にかけられて、有罪と判決が下る。そういうものですか」。わたしはその人に言いました。「それはこの世の裁きで、裁きと聞いてイメージするのは、有罪判決の裁きですよね。でも、聖書が伝える裁きは、それとは違います。聖書が伝える裁きは、無罪判決の裁きです。神様はあなたに『あなたの罪は赦された』と判決をくだされた。それが裁きです。あなたは今、裁判所の席、被告席に座っています。いろいろと犯した罪の裁きが今、まさに下ろうとしています。この世の法律は守っているから裁かれないと思うかもしれませんが、人を傷つけたこと、うそをついたこと、神の御心に沿ってできなかったこと。気づく気づかないに関わらず、数多くの罪を犯してきました。しかし、裁判官はあなたに言います。『それでは判決を申し上げます。あなたはイエス・キリストの十字架と復活のゆえに、すべての罪は赦されています。だからあなたは無罪です』。裁判官とあなたの間には、ゴルゴダの丘と空の墓があります。あなたが負うべき償いをすべてイエス様が十字架で背負われました」。そのように伝えて、わたしはその人に聞きました。「あなたの罪をどう考えていますか」。その人は「神様の御心から離れてしまうことです」と答えましたので、わたしは「では、罪ある状態から自分の努力でもとに戻れると思いますか?」と聞きました。あなたはどう思いますか?自分の努力で神様の御心に適った状態に戻れると思いますか?その人は答えました。「神様が救ってくれないかぎり、できません」。本当にそうですね。

イエス様はわたしたちが下るはずだった陰府にまで下られました。神様はそのイエス様をそこから立ち上がらせて、天へと引き上げられました。イエス様が背負われたわたしたちの罪を神様は御自分のところにまで届けさせ、御自分でそれをすべて引き取られたのです。

罪というのは、赦されているのに、「わたしは赦されていない」と神の赦しを受け入れず、だから、自分のことも、また他の人のことも深いところで赦せない、その人のことがただ嫌い、そこで止まってしまうこととも言えますね。

イエス様は、「つまずきは避けられないけど、人をつまずかせる人は幸せではなくなりますよ」と言われています。相手を赦すこととのつながりで言えば、相手を赦さないことは、相手をつまずかせることとも言えます。

誰でも人に迷惑をかけてしまうことはあると思います。待ち合わせ時間に遅れること、約束を忘れてしまうこと。相手が期待していることに応えられないこと。イライラしていて、ついひどいことを言ってしまうこと。少し時間が経ってから、悪いことしちゃったなと思い、謝ろうと決めて、あなたは、「ひどいことをしてしまって、ごめんなさい」と言います。きっと、「いいよ、大丈夫」と言ってもらえると心に期待して謝りました。でも、もしその人が「絶対、赦さない」と言ったら、ショックですよね。謝って損したなんて思うかもしれません。何でも「いいよ」と赦していたら、赦された人を甘やかしてしまい、駄目人間になってしまうから、ただ、何でも赦すのは良くないと考えることもできます。でも、本当に申し訳ない、あなたとの関係を大切にしたいとの思いから赦しを乞うことに対しても、「赦さない」と言われたら、まさにつまずきとなるでしょう。関係を修復しようとすることを妨げること、それがつまずきです。わたしたち、自分の立場をまず第一に考えて、赦したり、赦さなかったりしていないでしょうか。

職場で考えればわかりやすいかもしれませんが、自分の上司が失敗をしてしまい、「申し訳ない」と部下のあなたに謝ったとします。あなたは立場上「赦しません」などとは言えず、「大丈夫です」と言いやすい。でも、部下が失敗した場合、「なにやってんだよ」と叱責するのはいとも簡単です。家庭内の力関係もそうかもしれません。自分よりも弱い立場にある人だと忍耐する力は弱くなり、すぐに怒ってしまう。イエス様は力関係を見て、赦したり、赦さなかったりする、ずる賢いわたしたちを見抜いて言われています。「小さい者の1人をつまずかせるよりも、首にひきうすをかけられて、海に投げ込まれる方がまし」。皆さんよりも立場の弱い人、社会的にも経済的にも立場の小さい人が、失敗して、あなたに迷惑をかけてしまい、あなたのところにやってきて「ごめんなさい。もう一度チャンスをください」と言う。失敗は初めてではない、何度言っても同じような失敗をしている。堪忍袋ももうパンパンにふくらんでいます。でも、イエス様は「赦しなさい」と言うのです。

自分ではすぐに赦せないかもしれませんが、神様はその人をすでに赦しています。神様はすべての人、どんな人も、「あんな人も」と思うような人も神様は愛していますから

2015年10月のお昼ごはん

10月4日と18日のお昼ごはんです!

保護中: [教会員用] 2015年10月 主日礼拝音声

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原町田教会オリジナル讃美歌 ここはぼくらの祈りの家

2015年のバザーのテーマ讃美歌です。  作詞・作曲 近野良哉  編曲 桑原良子

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2015年9月6日 自分の十字架を背負う先には

◆ルカによる福音書14章25〜33節
25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎まないなら、わたしの弟子ではない」とイエス様は言われます。イエス様は、隣人を自分のように愛しなさいと言われているのに、どうして「家族を憎まなければ、弟子じゃない」なんて言うのか、矛盾していますよと言いたくなります。イエス様がここで何を言いたいのかわからない、家族を憎むなんて救いじゃなくて破壊ですよと感じられる人もいるかもしれません。反対に、家族の中にすでに、憎い人がいる。そんな人にとっては「そうか、憎んでいいんだ」という受け止め方もできてしまうかもしれません。でも、今日ここでイエス様が言われていることは、矛盾でも破壊でも憎むのを肯定するのでもなく、わたしたちにとっての救いであり、解放なんです。イエス様は、わたしたちがどれほど家族のことに捕われてしまっているかをご存知です。父、母、夫、妻、子供、兄弟姉妹のことでどれほどわたしたちが重荷を負っているのかを、イエス様はよーく知ってくださっています。

ある人は、母親の介護のために毎日のように1時間以上かかる実家まで何年間も通い続けていましたが、ようやく、最近になって老人ホームに入ることになり、通う必要がなくなりました。けれども、今度は「本当は自分の家で生活したかったのに、わたしが無理にホームに入れてしまった。お母さんに申し訳ない」という気持ちが湧いてくるのも事実です。父親や母親の老後の世話をすることは子どもの責任ですが、その責任をとにかく自分で何とかしようと抱え込んでしまうような時、イエス様は言われるのです。「それは違いますよ。あなたの母親も父親も、最終的にはわたしがしっかりと責任を取るから、委ねて良いこともあるのですよ」。あるいは、親のこと、夫や妻のこと、兄弟のことが赦せないという気持ちをもっている人もいるかもしれません。「親があの時、わたしに言ったことで、わたしはとても傷ついた。今でも根にもっている」というような話を聞いたことがあります。家族であっても心から信頼して話ができない。それもあの事があったから。その人にとって赦せない親は、いつまでも残る心の古傷のようで、時間が経てば経つほど安心した関係に戻る機会を見つけるのが難しくなります。

子どものこともそうですね。子どものことは親の責任だから、親として子どもをしっかりと育てなければならないと思っている人に、是非聞いてもらいたい証があります。信徒の友の9月号に載っていた素敵な証です。「ある教会の礼拝にYさんという1人の女子高生が出席しました。素直な感じの人で、すぐに教会の牧師と親しくなりました。その子の母親はすでに亡くなっていて、大学教授の父親と2人で暮らしていました。しばらくしてわかったのですが、彼女は心の病を抱えていました。ある日のこと、彼女が真顔で『先生、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか』と聞いてきました。牧師が『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます』と答えたところ、彼女は驚いたように『主イエスを信じたら自分だけでなく、父も救われるのですか。それはすばらしい』と瞳を輝かせて言いました。そして、彼女はその教会でバプテスマを受け、父親も一緒に礼拝に集うようになり、父親も受洗へと導かれたのです。父親があるとき、牧師にこう言いました。『心の病をもっているこの子に自分が光を与えなければと思っていましたが、信仰に目覚めたこの子が自分にとって光となりました』」。そんな証です。

自分がこの子のことを何とかしなければならない、この子の暗い心にわたしが光を与えなければ。親としてのしっかりとした責任感をもっていたのでしょう。この父親は、なにかしなければならないとの思いと実際に親としてできることはそれほどないという現実の間で苦悶していたようです。神様は、狭間に挟まって抜けられないこの父親をそこから解放してくださいました。

親にとって、子どもは「自分の子ども」です。「自分の子ども」を育てるのを人任せにはできない、親自身もそう思いますし、周りもそのように見ています。特に、子どもが病をかかえていたり、障がいをもっていたりしますと、親の自分がこの子を幸せにしなければいけないとより強く感じてしまうようです。でも、そう感じる親は気づいていないのです。障がいがあろうと、病を抱えていようと、神様は、すべての人を愛している。もし、その愛に気づくなら、その子はすでに救われているのだし、その子は幸せなのです。神様から見れば、すべての人は「神の子ども」です。幸せになること、愛されること、それらは神様にお任せすることですから、委ねていいのです。

「子どもを憎まないとわたしの弟子になれない」。それほど強烈に言わないと気づかない。それほどに子どもを自分のものと思い込んでしまう。でもイエス様は、あなたの子どもは、あなたのものではなくて神様のもので、神様が何とかしてくださるから大丈夫ですよと言われるのです。

イエス様は、文字通り家族を憎みなさいと言っているのではないということは、福音書を読んでいてもわかります。イエス様の弟子の場合、イエス様に弟子としてついて行った後、彼らは家族との縁を切り捨てたのでしょうか。気をつけて読みますと、そうではないことがわかります。例えば、ペトロさんの場合、漁師だった彼は網をおいてイエス様に従いましたが、その後に、自分の家に帰ってしゅうとめが熱を出しているのをイエス様に癒していただいています(マタイ8章)。ペトロさんは、イエス様に従いましたが、家族との縁を切ったわけではありませんでした。

家族は大事です。聖書には、「父と母を敬いなさい」とありますし、新約聖書にも親たちに「子どもを愛しなさい」とあります。夫と妻のこともいろいろ書いてあります。それほどに、家族関係は神様にとって大きな関心事なのだとわかります。家族のことを良く思っていても、反対に「あんな人、大っ嫌い」と悪く思っていたとしても、わたしたちの多くは、家族のことに心を奪われやすいものです。一緒に住んでいればいろいろな苦労があります。親子、兄弟、姉妹など血のつながりがあるもの同士もそうですし、妻と夫の関係も複雑でわかりづらい。ただ、確実なのは、家族がわたしたちの心に何らかの影響を与えていることです。腰をすえて考えてみれば、家族との関わりでわたしたちは喜んだり、笑ったり、心配したり、怒ったり、悲しんだりします。イエス様が、家族を憎まなければわたしの弟子ではないと言われたのは、家族の輪とか家族の絆、家族の束縛からわたしたちを解放するためです。イエス様は、あなたがあなたの家族を選んだのではなくて神様が選んだのですよと伝えるために、何よりも家族の中にあって神様を思い出させるために、あえて厳しい言葉を使われたのだとわたしは思います。

神様は、すべての人の本当の親ですから、家族のことで苦労するすべての人に言われます。「わたしは、変わることなくあなたを大切にする」。いろいろ家族のことで、悲しいこともあれば、思い悩むこともあったでしょうし、これからもあるでしょう。でも、大丈夫です。たとえ、みなさんの家族が教会に来ていなくても、神様が神の子どもとして一人ひとりを愛しているからです。原町田教会に集う皆さんは、家族一人ひとりの向こう側に神様の存在を見ることができますし、神様がこの人を家族として与えてくださったと受け止めることができます。それが、わたしたちの救いです。なぜなら、最終的には神様があなたの家族を引き受けてくださるからです。

イエス様は、今日の箇所で2回繰り返して、「腰をすえて」と言われています。腰をすえて、じっくり考えれば、あなたがたが今、置かれている状況、これからするべきことがわかるだろうというのです。同じように、わたしたちも腰をすえて自分の家族のことを振り返れば、見えてくるはずです。あなたの父親も母親もあなたが自分の努力や功績で勝ち取ったものじゃない。わたしはこんなお父さんとお母さんがほしいと生まれる前に計画して、その計画どおりに事が進んで、「おぎゃ」と生まれた時には、思った通りの父と母だった。そんなことはまずありません。どんな人でも、自分で親を選んだのではなく、与えられるのです。子どもも兄弟、姉妹、夫も妻もそうです。家族を思う時、楽しいこともあれば、思い出したくもない嫌なこともあるでしょう。でも、家族の向こう側にはその家族をあなたに与えられた神様がいます。イエス様、伝えたかったんじゃないですか。腰をすえて考えてみれば、あなたのことを心のから愛している本当の親である方が、血のつながった家族の向こう側に確かにいる。家族がどんな家族でも、あなたの夫、あなたの妻がどんな人であっても、腰をすえて考えれば、その人を与えたのは、神様だということ。ですから、イエス様は最後に言われるのです。33節「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。わたし風に言い換えれば、こうなります。「だから、同じようにあなたたちが持っているものはすべて神様のもの。あなたの子どもも父も母も、家族全部、更にあなたの命も神様のもの。そのように信じなさい。それがわたしの弟子」。

これは、救いの言葉です。解放の言葉です。皆さんは、誰からも支配されない自由を神様から頂いています。肉親である父や母には、また、子どもにも兄弟姉妹にも、また自分という人間にも皆さんは支配されることはありません。わたしたちを支配されるのは、神様だけです。それも力による支配でなく、愛と献身による支配です。

さて、もう1つ、イエス様の言葉を。「自分の十字架を背負ってついてきなさい」という言葉です。わたしは、こんな細い体をしているのですが、高校生の時にラグビー部に入って、体に無理をしたため、腰を悪くしました。腰痛さんとのお付き合いはそれ以来ずっと続いています。また、何年か前から、耳鳴りが始まりまして、かなり高い音がずーっと聞こえる耳鳴りさんとのお付き合いも続いています。わたしにとっての小さな十字架です。一時期は、治したいと思って病院に通いましたが、腰痛さんも耳鳴りさんもわたしのことをずいぶんと気に入ってくれたようで、なかなか別れてくれません。でもしばらくするうちに、一緒にやっていこう、「自分の十字架」として受け止めていこう、と思うようになりました。そう思うと気持ちがずいぶんと楽になりました。そう思うようになったのは、礼拝に続けて出ているからだと考えます。礼拝に出ますと、前にも後ろにも、横にも目には見えませんが、自分の十字架を背負った人たちがいます。礼拝に出ているだけではよくわかりませんが、話をしますと、自分の十字架の話をしてくれる人もいますでも、皆さん、体のこっちが痛かったり、家族のことが心配で心の中に痛みを抱えていたりします。礼拝に出ると自分の十字架を背負いながらも、顔を上げ、神様の方を向く仲間(家族)がいる。自分独りで十字架を背負って歩いているのではない。背負う十字架は同じじゃないけれど、同じように十字架を背負って歩いている人が確かにいる。皆さんは決して独りではありません。自分の十字架を背負って、皆さんの先をイエス様が進んで行かれ、それについて行く神の家族がいるのです。もし、自分独りで誰もいない道を十字架を背負って行きなさいと言われたら、それは苦しいです。独りで歩くこと、進むべき道を先導してくれる方がいないのは、とっても心配です。でも、イエス様は、たくさんの人に向かって言われました。「自分の十字架を背負ってついてきなさい」。

礼拝に出ますと、その礼拝に一緒に出ている人たちが何か、同じ方向に向かって進んでいるような気持ちになることがあります。特に自分の好きな讃美歌が歌われる時、ぐっとくることがあります。礼拝は、皆が自分の十字架を背負いながら、イエス様が進む方に向きなおすとき。礼拝に出て、自分が背負う十字架のことで「イエス様、助けてください」と祈るならば、イエス様は振り向いて駆け寄ってくださり、言うでしょう。「大丈夫です。わたしの十字架を見なさい。わたしも自分の十字架を負ってゆっくりだが歩いている。この十字架は苦しみでは終わらない。だから、あなたも十字架を背負いながら、わたしについてきなさい。そうすれば、神があなたを立ち上がらせてくださる。さあ、一緒に行こう!」十字架を背負ったイエス様は、ゴルゴタの丘で立ち止まりませんでした。その先には、確かにあれがあるのです。十字架の先です。何かわかりますか?十字架の先にあるもの、そう、復活があるのです。

イエス様について行くならば、わたしたちが背負っている重荷は、必ず恵みに変えられます。老いていくことも、病気であることも、家族のことも、すべては神様が与えられたものですから、その渦中にある時には恵みと受け止めるのは難しいかもしれませんが、イエス様について行くならば、重荷は主にあって確かな恵みとなります。イエス様が背負われた十字架が苦しみに終わらずに復活となったように、わたしたちが背負う十字架もじつは、すでに復活の栄光へと変えられているのです。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。