お帰りなさい 2015年7月26日

◆列王記上19章1〜21節
1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
3 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
6 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
7 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
19 エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。
20 エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
21 エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。

神様が「こうしなさい」と聖書で言われていることを実際に行なっていこうとしますと、難しいと感じたり、行き詰まってしまうような気持ちにもなります。神様を愛し、隣人を自分のように愛そうと思いながらも、それができない自分ってだめだなと感じてしまうのです。今日の聖書に出て来るエリヤさんもそうでした。神様に言われたことに一生懸命従ったために、イゼベルさんから命を狙われることになります。エリヤさんのようにではないですが、わたしたちも命、結構、狙われます。本当に生きるべき命が与えられているのに、「そんな生き方しても儲からないよ」「神様よりもいいものがあるよ」という声が聞こえてきます。神様を愛して、隣人を愛する本当の生き方を邪魔するものが、わたしたちの命を狙うイゼベルさん的なものだといえます。わたしたちの周りにも、わたしたちの中にも、小さなイゼベルさんのようなものは結構あって、天地をつくられ、命を与えられる神様からわたしたちを引き離そうとします。

そのイゼベル的なものは、わたしたちが聞くべき福音の言葉を聞こえないようにします。「神様はあなたもすべての人を赦している。だから、エリヤさんも赦しましょう」という神様の言葉を邪魔して、「自分のことばかり考えているそんなあなたは赦されないはず」と言ってきます。でも、神様ははっきりと言われます。「自分のことを考えるのはあなたが自分を大切にしているから。自分を大切にしないで隣人を愛することはできない。だから、自己中心的な自分は駄目だと自分を責めないで、わたしがあなたをどれほど愛しているのかをまず、感じてほしい。あなたが何かをしたから、わたしがあなたを愛したのではなく、わたしがあなたに命を与えたから、わたしはあなたを愛している」。わたしたちが聞くべきは、イゼベル的な裁きの言葉でなくて神様の言葉、福音です。

エリヤさんはこの世で、イゼベル的な言葉をきいてきたために疲れ果ててしまいました。彼は木の下にへたり込んで「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。もう疲れました」。わたしたちも疲れることがありますね。神様の言葉を大切にして、何とか隣人を愛そうとしていると疲れます。でも、大丈夫、疲れたらエリヤさんのように休めばいいのです。「もう、へとへとです。疲れました」と言って横になる。木の下のように日陰があるところで眠ればいい。わたしは毎週、日曜日にこうやって説教をしていますが、説教中に気持ち良さそうに首をこっくりこっくりして寝ている人をときどき見かけます。話している中身が面白くないと眠くなりますし、その人が疲れていれば説教が子守唄のように聞こえてきます。わたしも今年の春、吉祥寺教会で行なわれた教区総会で、ある牧師が説教しているときにこっくりとしてしまいました。隣には一緒に行ったこの教会の信徒さんがいましたから、こくっとしてその人にぶつかって、「やばい」と一瞬思ったのですが、きっと気づいていたでしょう。でもその人は、「起きなさいよ」とわたしを肘でつつくことなく、こっくりするわたしをあたたかく見守ってくれました。自分も寝ることがあるので、原町田教会で説教中に寝ている人を見ても、神様がエリヤさんを休ませたように、疲れた人を休ませてくださっている。そう思いましょうね。みなさん。もちろん、わたしは、できるだけ皆さんが眠くならないように精一杯、福音を語りますからね。「起きて、御言葉を食べよ」って言い続けますよ。

神様は本当に優しい方です。もう、死にたいと思う程に疲れきったエリヤさんを休ませて、少し休んだと思ったら、「起きて食べよ」って言って、美味しそうな焼きパン菓子と水をくださいました。そして、エリヤさん、食べた後また寝ます。食事を食べた後って眠くなりますよね。無理に起こそうとせず、神様はエリヤさんをもう一度眠らせる。そしてまた「起きて食べよ」ですよ。これはもう教会そのものだと言えます。わたしたちは、教会に来て、御言葉を魂のご飯としてぱくぱくと頂き、魂と心が満たされて安心してよく眠れるようになります。安心しているから眠れるんですよ。緊張していたら眠れません。ですから、説教中に寝ている人がいたら起こさなくてもいいですよ。その点、わたしの叔母はすごいなって思いました。宮島星子牧師ですが、この間の特別伝道礼拝のとき、礼拝が始まる直前にすぐ近くにいた信徒さんに「説教中寝てても良いですからね」なんてニコニコしながら言ったんですよ。ま、そんなこと言われると寝たくても寝られませんけど。でも、実際に礼拝に出て、福音を聞きますと魂に平安を得て、心配事が減り、良く眠れるようになります。

エリヤさんは教会のように神様が近くにいるところで安心して休めましたから、とっても元気になりました。食べ物に力づけられたってあります通り、わたしたちにとって大切なのは、口から頂くお腹を満たす食べ物と、魂を満たす福音という食べ物です。エリヤさんは元気になって、なんと四十日四十夜歩き続けて神の山ホレブに着きました。いいですね。この世の中でいろいろあって、疲れてしまって、教会の礼拝にやってくる。そこで御言葉を魂の糧として、パクパクといただき、安心してゆっくり眠ることができ、元気になる。そうすると神の山にたどり着ける。教会は神の山につながっています。山登りが好きなわたしですから、神の山ホレブなんて聞きますとなんだかワクワクしてきます。標高は何メートルかな、とかどういうルートで登ったのかななんて考えてしまいますが、神の山というのは、神様と出会う場所ってことですね。山ですから、そこにはあまり人がいませんし、木がうっそうと茂り、鳥たちが素敵な声で鳴き交わし、時には熊なんかも出て来る、そういうところです。岩がゴツゴツしているかもしれません。もちろん、山ですから、携帯電話もインターネットもつながりませんし、車も入れません。人間に与えられている手と足と目、鼻、口、耳などをフル回転して次に何をするのかを考えなければなりません。山に行きますと、この世での肩書き等もいっさい無効になります。牧師だろうが、会社の社長だろうが、医者であろうが、「すごいですね」と言われるような名刺も一切役に立ちませんから、まさに体一つでそこに立つわけです。その人が、神様のことを深く感じることができるところが山。神様はそのことをご存知でエリヤさんやわたしたちを神の山に導くのでしょう。教会は神の山に通じるところですから、肩書きや立場などの人間関係にからみつかれているこの世から離れて、神様の前に体一つで立つところ。神様の前に立つと聞くと、皆さんの中には、裁判所の中で裁きの座に立たされるというイメージを持つ方がいるかもしれませんが、そうではありません。神様がこの世で疲れたあなたに言われます。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。教会は神の山に登るため、心も体を休ませてくださるオアシスです。人間社会という砂漠の中の泉、それが教会。そこでわたしたちは神様が植えてくださった木の下でゆっくり休み、「起きて食べなさい」という温かい言葉に目を覚まして、美味しい御言葉をいただく。

教会って、神様から「お帰り、休んでいっていいよ」と言われてホッとするところです。この間も、この原町田教会で洗礼を受けた人で、しばらく別の教会に行っていた人が「また、こちらでお世話になることにします」と言って帰ってきました。その人を知っている人たちは「お帰りなさい」と言って、その人を迎えていました。その人は、「母教会に帰ってきて、知っている人も多いし、これまで行っていた教会は若い人が多いから、少し落ち着かなくて」と話し「これからは新しい気持ちで原町田教会に来ます」と言ってました。嬉しいですね。わたしは、教会の本質はそこにあると思います。もちろん、福音伝道のためにいろいろ働きますが、まず、なによりも御言葉をいただいて、ゆっくり休むところであるべきです。それなしに、執事の働きとか委員会活動とかが先立ってしまったとしたら、本末転倒ですね。教会の受付のあいさつも、「おはようございます」だけでなくて、時には「お帰りなさい」もいいかもしれません。

教会で福音をいただき、魂を休ませ、力を充電して神様に会うために神の山に登る。そうしますと神様はわたしたちに言われます。「主の前に立ちなさい」。この立ちなさいというのをわたしはこう言っていると受け止めます。「礼拝に来て、山の中にいるようにこの世で顔にかぶせていた仮面を全部取り去って、ただのあなたになって神の前に立ちなさい。そうしてようやくあなたは心を開いて辛かった経験、言いたくないこと、恥ずかしいこともぜんぶ、神様にさらけ出せる。ため込まなくてもいい、抱え込まなくてもいい。あなたのことを本当に愛している主がそれを全部背負うから。わたしの前に立ちなさい」。
休みましたし、力も頂きましたし、神様の優しい言葉も聞きましたから、両足ですっくと立ってもっと神様の声を聴こうとします。神様は山の中で語りかけてくださいます。その声は、静かでささやく声でした。神様の声と聞きますと、わたしたち、すごい威厳があって、何か力強いものなんだろうって思ってしまいます。わたしも、幼稚園で子どもたちに神様の声のつもりで「主の前に立ちなさい」なんて大きな声で、威厳をもって語ります。でも、エリヤさんが聞いた神様の声はささやくほどのもので、激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にも神様はいませんでした。静かでささやく声なのですから、話されることも優しいことに違いありません。もし、厳しいことだったら、声が大きくなりますから。ささやく声で「それはだめだ。お前がしたことはゆるされない」と言っても、聞こえません。ここで神様が言われたこと、それはきっと、「エリヤさん。そんなにがんばらなくてもいいんだよ。わたしがあなたを助けるから」というようなことでしょう。でも、エリヤさん、その声があまりにも小さかったので聞こえなかったようです。神様は、「エリヤよ、どうしたんだ。あなたがここにいるのには、訳があるのでしょう。わたしにはわかっているけど、話してごらん」とささやいたので、エリヤさんは、「命が狙われています」と同じことを神様に言います。わたしたちもエリヤさんのように疲れた時には言っていいのです。「神様、わたし心も体も疲れて、礼拝に来ています。助けてください」。「わたし、道に迷っています。どうすればいいのか、わかりません。示してください」。「病気で苦しいのです。いやしてください」。「何もできないわたしです。教えてください」。神様はそのように声にならないような訴えであっても、必ず答えてくださいます。「行きなさい」と。「来た道を引き返しなさい」と。

教会って、神様がわたしたちと出会ってくださり、魂に休息をくださり、新しい力もくださるところです。だから、「よし、もう一度来た道を戻ってやっていこう」と元気づけます。教会に来たときの自分では、もう同じところには戻れないと思っていても、礼拝に出て、この世の肩書きや人間関係から一時離れて、神様と出会い、フタをしてため込んできたありとあらゆる感情を神様にお渡しする。そうすれば、神様が空いたフタの中に福音のメッセージを注ぎ込んでくださいます。「お帰りなさい。よく生きてきたね。あなたが良く生きていこうと思ってやってきたことをわたしはずっと見てきましたよ。お疲れ様。うまくいったこと、うまくいかなかったこと。あなたの歩みはぜんぶ、良いも悪いも含めたわたしの御手の中にあるから大丈夫。心配しないで、また一歩、前に進みなさい」。

わたし、実感しているのですが、教会っていつ帰ってきてもいい本当の家なんだと思います。神様という、お母さんでもあり、お父さんでもある真の親がいる本当の家。それが教会。だから、ここに来ればなにもできなくてもホッとしますし、疲れたときには休息が、道に迷った時は進むべき方向が与えられる。何年も旅に出ていて、何の連絡もせず突然、帰ってきたらなんか言われるかなと思いながらきても、「お帰りなさい」とあたたかく迎えられる。そういう本当の家、それが教会。わたしはこれまで何度も原町田教会は、船だってたとえてきましたけど、原町田教会は、誰でもいつでも帰ってこられる、そしてあたたかかく迎えられる神の家にもなりましょうね。今日、皆さん、ここから出て行く時には「さようなら」でなくて「いってらっしゃい」と言ってもいいですね。教会はわたしたちの我が家ですから。

2015年7月19日 みぎわホーム訪問

ジュニア聖歌隊の子どもたちがみぎわホームを訪問し、コーラス、ピアノ演奏、バイオリン演奏をお届けしました。
コーラスは、毎週短時間ですが集まって練習をつづけています、これからも子どもたちの讃美が、聴いてくださる方とかみさまの架け橋になりますように。

また会いましょう 2015年7月5日

◆ルカによる福音書7章11〜17節
11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

我が家では、この世の中から少し遅れてNHKの連続ドラマを家族で観ています。オンデマンドという便利なもので、いつでも都合のいい時に観られますので、この間までマッサンを観ました。皆さんも観ましたか?日本で初めてウィスキーを造ったマッサンとその妻エリーの物語です。エリーとマッサンは、最初は子どもを持ったらいじめられるということを心配していましたが、エリーが大阪にいた時に妊娠します。2人は大変喜んで、ゆりかごをつくったりして、生まれてくるのを心待ちにしていました。けれども、エリーが階段から転げ落ちてしまい、流産をしてしまいます。その時にわかったのですが、エリーは体が弱かったために子どもを生むことができない。もし、この子を生むことになったら、エリーの命が危険になっていたのです。2人はこの生れてこなかった赤ちゃんがエリーの命を助けたんだとそこに2人の思いを超えた大きな導きを感じたのです。

聖書にふれる会という集まりが幼稚園で月1回ほどあります。5月に今年度の初のふれる会を持ちまして、7人のお母さんたちが出てくれました。出席したお母さんの一人が、何年か前に小さい息子さんを病気で亡くされたと話してくれました。「今でも泣いてしまいます」とポロポロ涙を流しながら、その母親は辛かった経験を話しました。わたしはその話を聞きながら、とっても悲しかったに違いないと思いつつも、なかなか何を言っていいのか言葉が思い浮かびませんでした。「わかります」なんても言えないし。そんなことを思いながら、黙っていると、その人自身が今年、年少クラスに入園した娘さんの名前を挙げながら、「○○がその子の写真をみて、『天国にいるんだね』と言うので、そうだねって心から言えるようになりました」と話してくれました。天に帰っていった小さいお子さんの写真が家の居間かどこかに置いてあって、その子のことを娘と時々話すことがあるんだなぁと思い浮かべました。

その会が終わった後ですが、わたしはどうして「大丈夫です。お子さんは神様のところに確実に行っています。だから、安心してください。いつか、また天国で会えますよ」と言えなかったのだろう。わたしの中に、こんなこと言っても信じてもらえないんじゃないかというような迷いがある。まだまだだなぁと反省し、もっとしっかり伝えなければと思いました。

みなさんはどうですか?教会に来たことのない人に「神様が守ってくれますから、大丈夫です」と言うのは、なかなか勇気が要りますよね。「神様なんて言われても、わたし無宗教ですから」なんて言われてしまうのではと恐れること、ありますよね。でも、イエス様はまったく恐れずに語ります。だから、わたしもイエス様が言われていることを伝えれば良い。それこそ、牧師の喜びであり、わたしたちキリスト者の喜びだとわりきって、6月の聖書にふれる会に臨みました。その方には、是非伝えたいと思いましたので、何日か前に「○○さん。ぜひ、聖書にふれる会に出てくださいね。伝えたいことがあります」と話しました。

6月の聖書にふれる会でわたしはその人に話しました。「すべてのものは神様から出て、神様によって保たれ、最後はまた神様のところに帰っていきます。わたしたちもそうですが、わたしたちよりも先に天国に行った人たちも新しい命となって神様と生きています。実は、天国がわたしたちにとって本当の居場所なんですよ。わたしたちの本籍は天にありと聖書にあります。だから、○○さん。安心してください。大丈夫です。神様が先に行った子をしっかりと受け止めてくださっていますから」。そう伝えると、彼女は息子さんのことを話してくれました。

息子さんは生まれて7ヶ月ぐらいの時に白血病になって2年も闘病したのですが、苦しむ息子さんをみて「神なんていない」と思ったそうです。神様がいるなら、どうしてこんなひどいことをするのか、どうしてこんな苦しみを与えられるのか。彼女は息子さんをみて思ったのです。彼女の心の叫びは、「息子を見捨てないでください」だったはずです。わたしはその人にいいました。「神なんていないと思うその神様はあなたの思う神様で、本当の神様はお子さんとあなたの苦しみをしっかりと受け止めてくださっています。息子さんも天国に召してくださり、今、天国で生きています。イエス様は病気で苦しむ息子さんをもつ母親のように神様から見捨てられたという痛みと苦しみを十字架で経験されました。しかし、神様はそのイエス様を見捨てられずに、新しい命へと復活させました。それと同じです。息子さんも天の国で新しい命を生きています」。

自分の子どもを失うことは、とても辛いこと。もう、すべてを失ったような真っ暗闇に突き落とされたような気持ちになるでしょう。そして、悲しみの後にはどうしてこの子が死ななければいけないのという怒りのような気持ちも湧いてくるかもしれません。ナインという町の一人息子を失った母親も、もう心の中が真っ暗だったはずです。彼女も「神なんていない」と絶望の中にあって、ただ涙を流すだけ。「どうしてわたしを置いて先に行ってしまったの。あなたがこうなるのだと知っていたら、わたしがあなたの代わりになったのに。息子がいない人生なんて考えられない。神様どうしてですか」。イエス様は、涙を流す彼女を見て、近寄ってきて言いました。「もう、泣かなくてもいい」。優しいお言葉です。「あなたの気持ちはよーくわかった。だから、もう泣かなくても大丈夫。彼は死んだのではなく、新しく天に生まれた。息子さんは、神様のところに行って新しい命を生きている。だから、それを信じなさい」。神なんていないと神様を感じられずにいるその母親に、イエス様の方から近づき、棺に触れてくださる。
わたしたちは、大切な人を失うと光を見失います。暗いところに自分が突き落とされたように感じます。イエス様はその暗いところ、何も見えないような暗闇にいるわたしたちに光として近づいてきてくださり、言われます。「起きなさい」。

家族と死別することだけでなく、何か大切な人、大切なペット、大切なものを失うことがわたしたちにどれほどの打撃をあたえるのか、それは経験してみないとわからないと思います。自分の体の一部が引きちぎられるような思いになるという人もいます。それは否定できないこと。ただ、わたしたちが忘れてはならないことは、この世界はわたしたちのものではなく、神様のものだということです。神様が「光あれ」といって造られたこの世界は、涙もなく、死も悲しみも嘆きも労苦もない神の国の完成へと向かって着々と進んでいる。神の救いは始まっている。聖書にふれる会に出てくださり、涙を流しながら自分のお子さんのことを話されたお母さんに、イエス様がわたしを通して「息子さんは神様のところで生きていますよ」と話されたと信じます。

今年の春に入園したその人の娘さんは、亡くなられたお兄ちゃんとあったことはないのですが、幼稚園に入ってから時々お兄ちゃんのことを話すそうです。幼稚園で神様のことを素直に信じる娘さんの中に、あったことはないけど、お兄さんがいる。イエス様が母親に「泣かなくてもいい。大丈夫。天国であなたの息子は確かに生きている」って言われたのですから、死んで暗いところで苦しんでいるのでなく、あたたかい神様の腕の中、神様のふところの中に生きている。この地上でどんなに苦しいときを過ごしたとしても、それは一時のこと。永遠の命を神様と過ごしている。それこそ、死から起き上がることじゃないですか。イエス様は涙を流して悲しむ一人ひとりに近づいてこられます。

この母親も息子さんも、そこにいた人たちもイエス様と出会って気づいたはずです。わたしたちの命は、神様のものなんだって。神様はわたしを愛している。神様がわたしを招いて、わたしに「大好きだよ」って語りかけ、わたしを日々生かしている。そのことに気づくことが、わたしは神様のものということです。それがイエス様の救いの業。是非、みなさん、毎日1回でいいですから、声に出して言ってくださいね。「わたしの命は神様のもの。神様はこんなわたしを愛している」。これが、神様を信じて生きる人の生き方です。この世の中は全部神様のものなんだという心の目で神様が造られたこの世界を見ていただきたい。

どうして、わたしたちの世の中には、奪い争いがあったり、自分を傷つけたり、他の人を傷つけることが起きるのか。どうして、心満たされず、どこかに不安を感じたり、人々が心から愛し合えず、助け合うことが難しいのか。その大元の原因は、「自分は自分のもの」だと思い込んでいるからです。持っているものが多くなればなるほどに、持っているものを守らなければなりません。それらは全部自分のものと思い込んでいるから。土地やお金だけでなく、自分の命も自分のもの。それが聖書のいう罪です。
でも、安心してください。神様がイエス・キリストの十字架によってその罪をぜんぶ赦してくださいました。わたしたちは時々、離れがたいもの、離れがたい何かにしがみつきたくなるのですが、そんなわたしたちであっても「いいよ」と赦してくださる方を知っています。わたしたちが知る前にその方から近づいてくださり、「大丈夫ですよ。もう失うことを恐れなくてもいい」と言われます。神様を信じるわたしたちは、神様のものですから、神様が何とかしてくださいます。もちろん、失うことは正直、辛く悲しいことです。でも、そのような時にこそイエス様が近づいてきてくれます。

わたしの命は神様のもの、あの人の命も神様のものと信じられることが救いです。いろんな思い煩い、心配、恐れにあった自分が神様のものになる。このナインの息子のお母さんも、それを経験しました。同じように、思い煩い、恐れるわたしたちにイエス様が近づいてきて「もう大丈夫。泣かなくても苦しまなくてもいい。起きなさい」と死から命へと立ち上がらせてくださいます。わたしの命もあの人の命も神のもの。その救いのしるしがバプテスマ(洗礼)ですから、このナインの息子は洗礼を受けたとも言えますね。洗礼って、死んだ者が生きかえることですからね。

この息子の母親は、イエス様と出会って確信したでしょう。息子の命もわたしの命も神様のものだって。死んでいた人に命を与えられるのは、神様だけですから。だから、この母親は、きっとこの後、息子よりも先に天に行くでしょうから、(この話の続きがあるとしたらですが)、この母は、自分が年老いて、あるいは病気かなにかで死んで行くとき、涙を流す息子に向かって言ったことでしょう。「もう泣かなくてもいいよ。わたしは神様のところに行くのだから。安心して。あなたの命も神様のもの。いつか、必ず天の国で会えるから。これはお別れでなく、出発なのよ」。そう言って、心晴れやかに死んでいったとしか考えられません。息子も母親に言ったのでしょうね。「お母さん、またね。天国で会おうね」。この2人とわたしたちも同じ。神様のもの。

保護中: [教会員用] 2015年7月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。