《入門講座ってなに?》

入門講座は日曜の礼拝後に行ないます。「入門講座」と聞いて、皆さんはどのようなことを想像しますか?

「入門」と言いますとこれからがんばって練習して上達しようという響きですし、「講座」というと先生の講義を聴いて学ぶという感じです。そういう部分がないとは言えませんが、この集いで第一に目指しているのは、まずは直接福音を聞いて嬉しくなり、実際に神様の愛を体験して喜んでもらいたいということです。デパ地下に行きますといいにおいがしますね。美味しい焼き肉やジュースなど無料で食べたり飲んだりできる「試食・試飲コーナー」です。入門講座はこれに似ています。焼き肉の作り方を学ぶのでもなければ、どこの産地かを知るのでもなく、ともかく食べてもらえば、その良さを分かってくれるはず、というものです。教会も同じです。ともかく福音を聞いてほしい、一度でも味わってもらいたい、イエス様に出会ってくれればきっと分かってくれるはず、という思いです。言うなれば「福音体験会」なのですが、それではうまく通じないので、仕方なく入門講座と呼びます。

ですから、ぜひ、そのような集いであると、そのような集いを求めている人に知らせてほしいのです。一度だけでも構わないし、都合に合わせて来るのでもいい。途中からの参加も大丈夫です。気軽に参加してください。講座の内容は、参加する一人ひとりが求めているものを察しながら接しますので、どんな事情の人にでも誠実に対応します。苦しみの中で救いを求めている人、ただキリスト教に興味がある人、孤独の中で居場所を探している人などなど、理由はともかくだれでも参加出来ることに意味があります。それこそ神様が集めてくれた集いですから、必ずだれもが本物の福音に触れることができると、信じています。

その意味でも、入門講座を、洗礼の勉強会としてだけ捉えてほしくありません。もちろん、洗礼がどれほど素晴らしい恵みであるかを知っているものとして、洗礼について話し、洗礼の恵みにお招きしますけれども、まずはあくまでも神様の愛を知るという福音体験です。洗礼は、そのように福音をしっかりと受け止めた者が、やがて神様に導かれて自然と受けるものなのであって、始めに洗礼ありきでは、かえって講座に来にくくなる事もあるからです。

求道者のみならず、最近受洗したけれど引き続き福音を学んで行きたい、という人もどうぞ。きっと改めて、良い気づきや発見があるでしょう。さらには、信者暦は長いけれどここらでもう一度という人も参加できます。ただし、その場合はぜひ一緒に誰か求道者を連れてくるようにお願いします。福音は、それをもう一人の誰かに伝えるお手伝いをしたときこそ、真に受け止められるものだからです。

入門講座は恵みの場です。そこには新たな出会いの喜びがあり、信頼関係が育っていく楽しみがあり、福音に救われる感動があり、やがて洗礼へと実る聖霊の働きが溢れているからです。ですから、講座のお手伝いをする入門係は、そこにいるだけで神様の働きを実感できる、まことに恵み多い体験だと言えます。

6月21日特別伝道礼拝「見つけ出すまで探す神」

関田寛雄牧師の説教 「見つけ出すまで探す神」 の音声を掲載しています。
当日いらっしゃれなかった方も、ぜひお聴きください。

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関田寛雄牧師(左)、宮島牧師(右)

母と子のための英語教室をはじめました!

2015年4月19日から、母と子のための英語教室を始めました。 Let’s enjoy English!!

 

 

 

We have many fun times like Christmas party etc…….
クリスマスパーティーなど楽しい時もあります。

1. Place : Haramachida Kindergarten  (原町田幼稚園 園舎)
2. Time : Every 1st & 3rd Sunday (毎月第1、第3日曜日)
 (1) For Mothers  9:00〜10:00
 (2) For Kids  10:00〜10:20
3. Teacher : Atouii Miyajima  (宮島アトゥー)
4. Fee : Free  (無料)

お問い合わせ:宮島アトゥーまで (080-1239-8909)

2015年6月の写真

6月7日のお昼ご飯「三色丼」。
ネパールからのアジア学院研修生 Sabitra Chaudhari (サビトラ チョウダニ)さんを迎えて一緒にいただきました。
アジア学院での学びが、実り多く、祝福されたものとなりますようにと、皆で祈りました。

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ嬉しいニュース。
二階の祈祷室で長~~~い間眠っていた、いったいどれくらい眠っていたのか誰も覚えていないくらいの、リードオルガン。
先般ドイツから帰国したオルガン職人さんに修理をお願いしました。
たくさん埃がたまっていた内側や、壊れていたところをきれいに修繕してもらって、復活しました!
これから祈祷会やいろいろな集まりで、また私たちの讃美を支えてくれます。
長い時間を経て、再び出会えたことに感謝です♪♪♪

神の国宴会へ どうぞ  2015年6月7日

◆ルカによる福音書14章15〜24節
15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

この間、わたしは入院していた人を訪ねて、病室で聖餐をしました。どこでも聖餐にあずかれるって本当に幸せだなと思います。聖餐っていうのは、復活のイエス様の身体を頂くのですから、病気であっても、寝たきりでも、何もできなくても、その人の体に復活のイエス様の体と血が入る。その人の体は復活の体になって、復活のイエス様が共にいる。そのことを信じて聖餐にあずかれる。まさに聖餐って、わたしたちとイエス様が一つになるしるしですね。

その人は、寝たきりで自分ではパンも杯も手に取れないし、誤えんする危険もあったので、ブドウジュースを浸したパンを唇にあてた形での聖餐でした。パンも杯もその人の口に入りませんでしたが、わたしはそれでも大丈夫と言いました。もうその人は、これまでに何度も復活の主の体と血を頂いているから、すでに復活の主がその人の中に生きている。新しい命が始まっている。もはや、生きているのはその人ではなく、キリストが生きている。そう信じるからです。

みなさんも同じですよ。目に見える御言葉のしるしとしての聖餐、目に見えないけれど確かにわたしたちの中に生きている聖書の御言葉が、わたしたちの中にキリストとして生きています。もはやわたしたちが生きているのではなく、キリストがわたしたちの中に生きている。それが永遠の命です。だから、教会の礼拝にどうしても来られないときは、来なくても大丈夫です。すでに、皆さんの中にキリストがいますから、具合が悪い人は安心して家で、病院で休んでください。(そんなこと牧師が言うから、お墨付きもらってみなさん来週休まないでくださいね。)

わたしが病院に行ったのは、その人が入院してから2日目でした。讃美歌を2曲歌い、聖書の御言葉を聞き、短く説教をして、パンと杯にあずかりました。その方の娘さんが言うには、これまでいろいろな人に誘われても、礼拝に行くのを断っていたのに、ついこの間の日曜日に本人が「礼拝に行きたい」と言ったそうなんです。嬉しかったですね。礼拝に行きたいと言ったすぐ後に、場所はどこであれ、パンと杯をいただく礼拝ができたのです。病室の中で隣にもう一人、患者さんがいたので、いつものように大きな声で讃美歌をうたえず、小さい声で歌ったのが大変でしたが、みなさん小さい声で讃美歌を歌ってみてください。高い音が出ないので、苦しいんですよ。でも、こどもさんびかに「歌の声はちいさくても、よろこびなさる かみさま」ってありますから。

イエス様は、神の国は盛大な宴会だって言われていますが、宴会が好きだったんですね。イエス様、実際に神の国の宴を開いていました。宴と言ってもわたしたちがイメージする豪勢なパーティーではなく、でも、ご馳走を食べる以上の喜びがあった。それは、どんな人でも、男も女も、外国人でも日本人でも、どんな仕事をしている人、あるいは仕事をしていない人、病気の人もそうでない人も誰でもいい。一緒に食べましょうという食事だった。これまでは、「あんたは女だから、あんたは病気だからここでは食事はとれません」、「お前は外国人だからだめ」などと言われて皆が食べた後にその人たち、別のところで淋しく食べていました。けれども、イエス様は「さあ、みんなで一緒に食べよう」と招いて下さったから、嬉しいのです。どこに座ってもいい。イエス様と一緒の食事は、まさに喜びの宴です。食べる物が高級か高級でないかなど関係ありません。「あなたは神様に愛された大切な人」と言われる主と一緒だというのが何よりのご馳走、喜びなのです。

イエス様は、何度も徴税人、漁師、女弟子たち、それに加えて病気で苦しむ人たちと一緒に食事をしました。真面目に律法を守る人たちにとってはとんでもないこと。神様の掟を破ること、社会のルールを破ることでした。「食事の席はそんな人と食べてはいけない」というルールをイエス様は「そんなのいらない」って破りました。驚きです。ラビと呼ばれる先生が、徴税人のマタイさんやザアカイさんと一緒に食事をとるなんて、あり得ないことでした。だからこそ、そこに救いが訪れます。

礼拝は、宴会です。イエス様と一緒にご飯を頂く救いの宴会です。世界最高の宴会ですよ。その宴席で、わたしたちは御言葉というイエス様を頂きます。イエス様がわたしたちの中に入ってきてくださる。あなたの体は、イエス様と一緒になった。あなたは決して独りではない。イエス様があなたの体の中に入ってきて共にいてくださる。わたしたち、この体で実感できます。感じていますか。頭でなくて体で感じ取ってください。信じることは頭や魂の中だけでなく、体ぜんぶのことです。イエス様がわたしたちのこの体の中に生きていてくださるのですから、体ぜんぶで喜ぶのです。この宴会に招かれていることはとっても名誉なこと。食べて飲んで歌って、ネクタイを頭に巻いて踊り出す人はいませんが、ホテルや居酒屋で開く宴会なんか、足下にも及ばない喜びがこの礼拝なんです。復活されたイエス様の、その復活の体とその復活の血がわたしたちの中に入って血となり肉となっている。身体のよみがえりを信じるって、そのことなんです

でも、残念ですね。このすばらしい宴に大勢の人が招かれているのに、人々は次々に「失礼させてください」って断ってばかりです。最初の人は、「畑を買ったので、見に行く」から。次の人も「牛を10頭買った」から行けない。生活をしていくため、食べていくための仕事も大切ですよ。でも、お金を追いかけてばかりいると、お金で本当の自分を見失ってしまうことにこの人たちは気づいていません。儲けている時は「もっと儲けなければいけない」「もっと儲ければ人生うまくいく」と追い込まれますし、儲けていない時は「商売に失敗したから、人生終わりだ」「わたしはだめなやつだ」となる。この人たちは、儲けることが何よりも大切と信じているから、一番大切な神様の招きを断ってしまう。忙しくしていることが充実していると思っている人が多いですね。何かしていないと自分が何の役にも立っていないと不安になってくる。わたしも時々そうなのですが、スケジュール表がスカスカよりも予定がある程度詰まっている方が、しっかり仕事をしていると思ってしまいます。ですから、イエス様から遣わされた僕が「礼拝の時間になりました。用意ができましたので、おいでください」と言われても、手帳を見て「予定が入っています」と言いかねない。でも、これって忙しくして自分をごまかしているような気がします。わたしたちを本当に幸せにするのは、何の条件なしに、あなたのこと大好きって言われる神様との出会いです。だから、「神様はこんなわたしだけど愛している」という魂のご馳走を一緒にいただきましょう。この宴会にはぜひ自分だけでなく、誰かと一緒に出たいですね。

わたしは、もう一人の断り方も気になります。「妻を迎えたばかりなので行けません」。できれば、夫婦仲良くしていたいと思います。できれば、子どもたちや孫たちとも良い関係でいたいと思います。でも、なかなかそうもいかないことがあります。「わたしと教会とどっちが大切なの?」というようなことを言われたことがある人もいるでしょう。心の中では「どっちも大切」なんて思っていても、教会ばっかりに行っていると思われること、あります。家族との関係って、難しいこともあります。それぞれ家族はいろいろな問題を抱えていますし、いつもうまくいくことなんてありません。傷ついていることもあれば、ぎくしゃくしていることもあります。だからこそ、神様は「わたしの家に来なさい」と招きます。わたしたちの本当の親である神様はしつこく、無理でも「帰っておいで」と言います。その神様の家では、「こうでなければいけない」というような決まり事がまったくないので、痛む傷はいやされ、この世の家族と仲直りする力も頂きます。時にはこの世の家族と仲直りできないまま、お別れすることもあるでしょう。でも、大丈夫です。神様を「わたしの本当の親」と信じれば、その人と天の国で再会したとき、神様が直接、仲介役となって仲直りさせてくださいます。教会は、すべての人に開かれた神の家ですし、その先には天の国の扉が開かれています。神様はどんな人であっても受け入れます。

原町田教会の礼拝もイエス様とご一緒できる神の家宴会になっていますね。経済的に厳しい人もいます。この間、お話しした人はアルバイトをしながらの生活ですが、収入が少なくて、食事を削りながら何とか生活をしていると言っていました。年金だけで生活している人も自分で貧しいとは言わないかもしれませんが、いろいろと大変なことがあるでしょう。身体が不自由で、車椅子に乗ってこの礼拝に出てくれる人もいますし、高齢のために自由がきかなくなってきて、自分でここに来るのが難しくなったという人もいますが、家族や仲間に助けられて来てくださる。足の不自由な人は、杖をつきながら来てくれています。毎週、教会の玄関前に立っていますが、みなさんがそれぞれに難しいことを抱えながらも、ぞくぞくとこの宴会にやって来るのを見ていると、とっても嬉しくなります。「ようこそ、神の国宴会へ」って。この礼拝は、完全な神の国ではありませんが、この地上にすでに現れた神の国のしるしです。

毎週木曜日の祈祷会では、5月の中頃まで7回シリーズで福音書の復活の個所を学んできました。学んで気づいたのですが、復活前のイエス様も食事が好きでしたが、復活した後もよく弟子たちと一緒に食べています。ルカ、ヨハネ福音書に書かれています。その祈祷会でわたしはこのような質問をしました。質問「イエス様はどうして『何か食べ物があるか』と言われたのでしょうか」。ある人は、イエス様が幽霊のような者でなくて、身体をもって復活されたということを示すためと言いました。他にもいろいろな答えがありました。いいですよ、祈祷会。聖書ってこんなに豊かなんだと改めて思わされます。こんな風にも受け止めることができるんだと感動しますし、ハッとさせられることもあります。聖書の御言葉って、「スルメイカ」みたいですね。咬めば咬むほど味が出て来るってやつです。(聖餐式でスルメイカを配るわけにはいきませんが。)イエス様は、一人ではなく、たくさんの人と一緒に食事をしなさい、この家をいっぱいにしなさいって、言っています。御言葉を、パンを、杯をたくさんの人と一緒に食べなさいって。一人で食べるって淋しいですけど、礼拝は一緒に御言葉というパンと杯をいただく盛大な宴会ですから、嬉しくなります。

すでに神様の救いは届いています。この礼拝でわたしたちは神の家族と一緒に楽しい食事をしています。聖餐は神の国でもたれる宴会のリハーサル。でも、そのことに気づいていない人、招かれているけれども「やることがあります」と言ってこの宴会に来ない人がまだたくさんいます。だから、神様はわたしたちに、無理にでも連れてきてこの原町田教会の宴会をいっぱいにしてくれと言っています。わたしも宴会部長として招きますので、みなさんも是非、招いてほしい。みなさん、この宴会のメインデッシュ、なんだと思いますか?永遠の命じゃないですか。

保護中: [教会員用] 2015年6月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。