子どもの教会・中高科 英語クラス(第二日曜日)を始めました

子どもの教会の中高科分級(9時礼拝の後、9:30-10:10)で、第二日曜日は英語で聖句を学び讃美歌を歌うことになりました!
第一回は4月12日。宮島アトゥーさんを先生に迎えて、主われを愛す(Jesus Loves Me)を英語で歌い、詩編103編1節を英語で読みました。

 

 

 

 

それから、聖書によく出てくる英単語を16個、読み方と意味を教えてもらいました。・・・・とそこで油断していたらなんとチームに分かれて、穴埋めのスペリングテスト!キャー!中学生高校生入り混じって頭をひねりました。英語を勉強しはじめたばかりの中学1年生も先輩が一緒のチームにいるから大丈夫!

次回は5月10日です。その日が初めての方でも楽しく参加できます。お待ちしてますよ!

今月の聖句:詩編103編 1節
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。

思い出しなさい  2015年4月5日

ルカによる福音書 24章1節~12節
1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 それは、日曜日の朝早くのことでした。数人の女性たちが、イエス様の遺体が葬られている墓に行きました。彼女たちは、イエス様の遺体に香料を塗ろうと前日から準備していたのです。けれども、墓に着きますと、肝心の遺体がありません。何が起きたのか、途方に暮れている彼女たちに輝く衣を着た2人の人が現れこう言いました。「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」。

  空の墓で輝く衣を着た2人に「思い出しなさい」と言われたことで、彼女たちの中に残っていたイエス様の言葉が確かによみがえりました。なぜならば、彼女たちは墓から帰るなりすぐにそこにいた皆に、今日あったことを全て伝えたからです。24章9節「そして、墓から帰って、11人とほかの人皆に一部始終を知らせた」。

  わたしは、「思い出しなさい」と言われ、イエス様が話していたことを思い出したゆえに女性たちが復活を知らせたと語るこの箇所に注目します。イエス様が話されたことを思い出すところにイエス様はよみがえられる、とルカ福音書が伝えていると受け止めるからです。

  毎日、毎日、朝起きてご飯を食べ、働いて、夜、布団に入って寝る。その繰返し。平凡で単調な毎日。ふとした時に「いったい自分は何をしているのだろう」と思うことがあるかもしれません。あるいは、経済的に苦しい生活のゆえに、やりたいことが何もできないと感じること。重い病気のためにもうこれ以上生きていくのも辛いと思うこと。自分が何のために今、生きているのかわからない。何をやるにも力が入らない。そのように神様が自分を生かしていることを見失うことがあります。しかし、イエス様は話されるのです。「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です」。あなたは自分がつまらない人間、何の役にも立っていないと思っているかもしれないが、それは違う。あなたは、この世の中にとって塩のようになくてはならない存在です。あなたは自分には何の輝きもないと思っているかもしれないが、あなたは他でもないあなたとして光り輝いている。今、命あって生きていること、それだけで100点満点。「あなたたちは地の塩、世の光です」と話されたイエス様の言葉を思い出し、力を頂くところにイエス様は復活されています。

 わたしたちは、自分ではどうにもならないこと、いくら努力してもどうにもうまくいかないことで、思い悩むことがあります。自分の家族のことでずっと祈っているけれど、ちっとも良い方向に進まない。神様は祈りを聞いてくれていないのではないかとも思ってしまうことがあります。もし、このままの状態で自分が衰えていったとしても、あの人のことが心配で死ぬにも死にきれない。自分のことは何とか折り合いを付けられる。でも、あの人のことを思うと神様、何とかしてくださいと祈らずにはいられない。そのように悶々としている時、イエス様は話されます。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。いろいろ思い悩むことがあります。けれども、イエス様は今も生きておられ、「その悩みを夜寝る前に神様に委ねなさい」とわたしたちに話されます。「その日の苦労はその日だけで十分」とのイエス様の言葉を思い出し、励ましを頂くところにイエス様は復活されています。

  自分にとって大切な人、あるいは大切な命が死んでしまった。何の心の準備もない時に突然、あの人、あの命が死んだと聞くならば、わたしたちはまずそれを信じようとはしません。「それは嘘だ。死んだなんて嘘だ」とその事実を受け入れるのを拒みます。もし、受け入れてしまったら、自分の中のある大切な部分が引きちぎられる、そんな恐怖を感じるからです。そのことを受け入れないことで自分を守っているとも言えます。大切な人、大切な命の死は、それほどにわたしたちを傷つけます。しかし、イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。あの人、あの命は死んだことで何もかもが失われたのではない。今もイエス様のようにわたしたちの中で生き続けている。肉体はなくなった。触ることもできず、話すこと、一緒に歩くこともできない。けれど、死から復活されたイエス様が今も生きている。そのように信じる者にとって、死は終わりではなく、新しい命の始まりなのです。

 このように、わたしたちはいろいろな時にイエス様が話された言葉を思い出し、その言葉によって力づけられ、癒され、あるいは打ちのめされたりします。それは、目には見えないのですが、でも確かにそこにイエス様はよみがえられているのです。イエス様が話されたことを思い出すところにイエス様は生きておられる。そのことを経験するわたしたちは主の復活の証人として、そのことをまだ知らない人たちに知らせるのです。

 ただ、わたしたちが、その経験を知らせてもすぐに信じてくれる人はなかなかいないはずです。なぜならイエス様と一緒にいた弟子たちでさえ、それをたわ言だと思ってすぐには信じなかったからです。けれども、聞いた人がすぐに信じてくれなくても、心配しなくていいのです。すぐに信じられなくても、イエス様が話された言葉は、いつか必ずよみがえるからです。「思い出しなさい」と言われた彼女たちの中によみがえったように、イエス様の言葉はそれを聞いた人の中にしっかりと生きて、時や状況に応じて思い出されるのです。立ち上がって墓に向かったペトロさんの中にも、すでに復活のイエス様はよみがえられていたのだと想像します。

 イエス様は今も生きておられ、わたしたちをその語られた言葉によって生かしてくださいます。ですから、すぐに信じてくれなくても、イエス様が話された言葉を知らせていけばいいのです。「そんなたわ言、聞きたくありません」と言われるかもしれません。でも、わたしたちは、イエス様がお話しになったことを知らせていきます。それはそんなに難しいことではありません。勉強をたくさんする必要もありません。彼女たちのように聞いたことのあるイエス様の言葉によってある時、励まされました。ある時は、この言葉によって慰められました。また、ある時はこのイエス様の言葉が自分の傲慢さを打ち砕きました。そのように経験したことを自分の言葉で伝えれば良いのです。聞いた人がすぐに信じてくれたり、教会にすぐに来てくれることを期待するよりも、わたしたちはイエス様の言葉がその人の中に残ることを期待するのです。なぜなら、イエス様は復活され、今も生きておられるからです。わたしたちが人を教会に導くのではありません。時が来て、よみがえりのイエス様がその話された言葉によって、その人を支え、その人を慰め、その人を教会に導いてくださいます。イエス様が話されたことを人が思い出すところにイエス様はよみがえられるのです。

2015年4月5日 イースター

4月5日、今年度は最初の日曜日が、イエスさまの復活を祝うイースター。
子どもの教会ではイースター礼拝の後、卵探しをして、朝ごはんを食べて、みんなで楽しくゲームをしました。
主日礼拝の後は、持ち寄りでイースターの愛餐会。たくさんのご馳走やおやつが所せましと並びました。

保護中: [教会員用] 2015年4月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。