成長祝福式

3月29日の主日礼拝の中で、来年度中学生になる子どもたちの成長をお祝いし、神様がこれからも人生の導き手となってくださることを祈る「成長祝福式」を行いました。子どもたち18名(うち17名が原町田幼稚園卒業園児)、保護者、幼稚園元職員が出席。子どもたちは礼拝後に一人ずつ前に立って名前と将来の夢をしっかり話してくれました。

続いて、なつかしい園舎でお茶の会。子どもたちの同窓会のような雰囲気に。楽しい時間をすごしていってくれたかな。来週のイースターも待っていますよ。

震災復興支援ミニバザー(第四弾)

3月29日、震災復興支援ミニバザーを開催しました。お料理、ケーキ、クッキー、スープ、手芸品、衣類、家庭雑貨品などを持ち寄りました。分かち合い、捧げ合うことで、少しでもお役に立てたらと願います。

にじのいえ信愛荘 ミニコンサート♪

3月27日、青梅の「にじのいえ信愛荘」でジュニア聖歌隊が初めてミニコンサート。歌だけでなく、バイオリン二重奏やピアノソロも披露して聴いていただきました。施設の職員の方の演奏や、最後は全員での賛美もあり、信愛荘にお住いの隠退された牧師先生方やご家族の方にとても喜んでいただいて、恵まれたひと時を過ごすことができました。

 

 

 

 

当日のプログラム♪

震災復興支援ミニバザー(第四弾)を準備中!3月29日に行います。

3月29日に、震災復興支援ミニバザーを予定しています。
献品を集め始めました。
日用品・贈答品・保存食品など、自宅では不要でもどなたか他のかたに喜んで使っていただけそうなものを持ち寄って、みんなが売り手・買い手になって、売上を復興支援のために送ります。

~あの日を忘れない~

3月21日 教会ワーク

3月21日、曇り空でちょっぴり寒い日でしたが、
・教会幼稚園園庭の門の汚れ落とし
・外階段の踊り場に残っていたパイプの撤去
・一階外廊下にちょこんと飛び出ていた水道の蛇口はずし
を行いました。外側と内側から、丁寧に汚れを落としました。

4月の新入園児たちをピカピカでお出迎えできて、うれしいな!
パイプは焼き切って、開いた穴はパテでふさいでもらいました。

 

 

 

 

祈祷室の入口が広くなりました

先日、祈祷室に履物のまま入れるようになったことをお知らせしましたが、今日は新しいお知らせです!

あら不思議!入口の引き戸は、扉一枚分だけ開けられるようになっていましたが、扉二枚分がまるまる開いて広く出はいりできるように、建築管理委員の皆さんが工事をしてくれました。礼拝以外の時間にも、よい交わりのために用いられますように。

さて、祈祷室の内側はどうなっているのか?!興味津々ですね。どうぞ見にいらしてください!

2015年3月1日の写真です。

【写真 左】3月1日、子どもの教会では、イースターに向けてかわいいヒヨコを作りました。同じ材料を使ってもみんな個性のある顔になるのが不思議ですね!

【写真 右】主日礼拝の後には、来週の礼拝で歌う讃美歌の練習をします。3月1日には、教会員Wallyさん作詞作曲の「みことば伝えよう」を練習しました。3月8日の礼拝で歌います。とても歌いやすいメロディー、心にしみる歌詞です。ご一緒に歌いませんか?

3月1日のランチは!

嬉しいランチタイム、今日のメニューは、ドイツ風肉団子スープ、ポテトサラダ、パン、デザート。
今日は雨も降って寒かったので、温かいスープがほんとうにありがたく、力が出ました。ごちそうさまでした。

追いかけてくる恵み  2015年3月1日

ルカによる福音書15章1〜7節
1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

教会には、どちらかと言えば、真面目な人が多いと思います。わたしも教会の真面目人間の一人なのですが、わたしたちは真面目になりますと、自分にも、また他の人にも厳しくなるようです。そして、「キリスト者は、こうでなければいけない」と思ったり、「キリスト者だから、何か良いことをしなくちゃ」と感じるのです。月定献金を毎月忘れずに献げよう。礼拝には欠かさず出席しよう。聖書を読むように務めよう。困っている人を憶えて祈ろう。キリスト者として、また教会員として正しく生きていこうと自分を励まし、自分を律します。大切なことです。けれども、もしもそこに恵みがなかったとしたら、あの方からの恵みなしにキリスト者として、教会員としての義務を果たそうとしていたら、どうなるでしょうか。それは、まるで初めて登る山に地図もガイドもなく、もちろんGPSもなく、たった一人で、しかも、他の登山者が全くいない、そんな状況に似ています。登りは道に沿って上へ上へ行けば良いのですが、下り道で一本、道を間違えてしまい、山の中で道に迷ってしまうのです。道に迷うだけではありません。体力や気力が十分にあって、キリスト者の掟なることを何とか守れていればいいのですが、何かのきっかけで、体力や気力が落ちてしまい、掟を守ることが難しくなることもあります。「毎週礼拝に出なければいけないと分かっているけど、体力的に毎週は難しくなった自分」。「聖書を日々読まなければと思っているけど読めずに何年も経ってしまい、だめだなと思うわたし」。「困っている人のために祈り、助けなければと頭ではわかっているけど自分のことで精一杯のわたし」。キリスト者として、教会員として、しなければならないことを思えば思う程に、こんなわたしはだめだなと自分の非力さと無力さに覆われて、つぶされそうになるのです。キリスト者の掟や教会員の掟が、恵みのない状態で自分自身に向かってきますと、それによって押しつぶされるか、つぶされる前に教会から逃げるかのどちらかになるでしょう。しかし、そこに恵みがあるならば、つぶされることはありません。こんなわたしですけれども祈ることはできる。恵みがあれば、どのような自分であっても神様が受け入れてくださっている。自分を責めるのでなく、痛みや弱さをもった等身大の自分を神様の愛が包み込んでくださっている。その恵みがあれば、自分がどのような状態であっても、生かされている自分を受け入れられるのです。

それでは、恵みのない状態にいる他の教会員に対してキリスト者の掟、教会員の掟を守るように言ったとしたらどうなるでしょうか。「月定献金を献げましょう。教会員の務めです」と言われても、その人に恵みが届いていなければ、その言葉は「月定献金を献げなければ、あなたは教会にいる資格はない」と聞こえてくるのです。「困っている隣人を助けましょう」と言われても、その人の中に恵みがなければ、「何もできていないあなたはだめなキリスト者です」と聞こえてしまいます。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」との御言葉も、恵みなしでは、その人にとっては単なる重荷となるのです。教会を良くしよう。教会のために何とかしようと思って、教会員の務めを他の教会員に一生懸命、訴えたとしても、恵みがなければ、それは絵に描いた餅となるのです。

ファリサイ派や律法学者たちもそうだったようです。彼らは真面目に一生懸命に神様から与えられた律法、掟をまもろうとしていましたし、周りの人にも守るように伝えていました。けれども、そこには恵みがなかったのです。ルカによる福音書15章が伝える神様の恵みとは、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回る羊飼いです。羊飼いなる方は、教会員としての掟を守れなくて、こんなわたしが自分で「キリスト者です」なんて言えない。だから教会に行くのを止めようと思う1匹の羊を見つけ出すまで捜し回ります。月定献金の額が少なくて申し訳ないと思ったり、礼拝に月に1度か、それよりも少ししか出られないわたしはキリスト者としてだめだと思う1匹の羊のところに、その方は99匹を残して捜しに来られます。そして、見失った羊を見いだして下さいます。見つけられた羊が何かを言う前に羊飼いは言うのです。「良かった。こんなところにいたのか。とにかく見つかって良かった」。

羊は心の中で思うのです。「わたしはキリスト者としての掟、教会員としての掟をほとんど守ることはできていません。ですから、できない自分をダメなやつ、ダメなやつだから、こんな辛い目にあっているんだと思っていました」。羊飼いはそう思う羊に話します。「何を言っているんだ。キリスト者だからこうでなければならないという掟を守るとか、守れないというよりもずっと前に、あなたはすでに赦されている。あなたが教会員の義務を十分に果たしたとか、果たせなかったとかで悩むよりもずっと前に、あなたはわたしによって見つけ出されていた」。

羊飼いは見失った1匹の羊を見つけたら、羊が何をどう思っているのかなど問題にしませんでした。「わたしが自分で間違えてこんなことになってしまいました。全部わたしが悪いんです。罰を与えてください」と羊は反省していたかもしれません。申し訳ないという気持ちでいっぱいだったかもしれません。そんな羊の気持ちを問いただすことはありません。羊飼いは、ただ、羊を担いで歩き始めます。担がれた1匹の羊は、羊飼いの肩や背中から伝わる息づかいや捜し回ったがゆえに熱くなっている羊飼いの体の熱を通して、額から流れる汗を見て、言葉以上の恵みを感じたことでしょう。「見つかって本当に良かった。わたしはお前を見つけて本当に嬉しい」という言葉以上のものを羊は羊飼いの体から感じたに違いありません。

神様を見いだせない。神様の声が聞こえない。祈ることもできない。わたしたちは、迷うことがあります。教会の中である人に言われたことがきっかけで「もう教会には来たくない」と思い、教会から逃げ出そう、教会に行くのを止めようと思ったこともあるかもしれません。けれども、羊が迷っても、羊が逃げだしたとしても、神様はその羊を見つけるまで追い求め、探し求められます。

どっちにいけば良いのかわからなくなったり、人生の道に迷ったとき、わたしたちは、自分が聖書を通し、また教会を通して進むべき道を見つけたと思ってしまいます。「ここに救いがあったんだ」と自分がそれを発見したと思うのです。けれども、聖書は言うのです。あなたが神様を見つけたのではなく、神様が迷っている羊を捜し求め、神様が疲れてうずくまるあなたを見いだした。

わたしたちが教会員としての務めを果たしているのか、いないのか。神様の掟を守っているのか、いないのか。そのようにわたしたちが神様を一生懸命に探し求める以前に、神様が見失った1匹の羊であるわたしたちを捜し回っておられる。イエス様はそう伝えるのです。教会に集っていますと、いつの間にかわたしたちが神様を見つけたような気になりますし、その反対に自分が神様から離れてしまうと感じるようになります。また、神様の掟を十分に守っていない自分を恥じたりするようになります。けれども、実は、どれだけわたしたちが神様から離れたと感じたとしても、日常生活をしている中で、わたしたちが神様を見失ったと思っていても、神様はわたしたちを見失うことはないのです。見つかるまで探し求めます。それが恵みです。恵みと慈しみはいつもわたしたちを追う。

その恵みはわたしたちが発見して「やった、わたしは神様の恵みを発見した」とわたしたちが喜ぶ以上に羊飼いなる神様がわたしたちを発見して喜ぶのです。羊飼いなる神様が見失った羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人たちを集めて「一緒に喜んでください」と神様が喜ばれるのです。

聖書に書いてある掟を守れない自分を反省して、もっと良くなりますと心を入れ替えるのが、悔い改めではありません。追い求め、探し求めてくる恵みに気づくこと、その恵みに捕らえられている自分を神様が「一緒に喜んでください」と言ってくださっていること。それをただ、わたしたちは受け入れるのです。それが悔い改めです。神様は迷うわたしたち一人ひとりを肩に担いで、こう言われます。「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」。礼拝は喜びの時です。見失っていたわたしを神様が発見してくれた喜び。反省し、心を入れ替えるのではなく、神様が私を見つけて下さったことを一緒に喜ぶのです。

保護中: [教会員用] 2015年3月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。