子どもの教会 2月22日 「みことば伝えよう」

2月22日の子どもの教会では、幼稚園・小学生・中学生・高校生みんなで合同分級をしました。原町田教会会員のWallyさん(あだ名です)が作詞作曲した讃美歌「みことば伝えよう」に、もう一節、みんなで作詞しよう!ということで、思いつく言葉を出し合って、紙に書き出してペタペタ。「感謝」「かけはし」「信じる」「心の平和」「真実」「てんごく」「信仰」「のぞみ」「愛」「グレース」「歩み」「たましい」「希望」「ひかり」「フリー」など、たくさん!
しかし、ちゃんとした歌詞にするのはなかなか難しいものです。歌詞にするのはWallyさんの宿題ということになり、みんなで振りつきで讃美して、お祈りして、さようならしました。

子どもの教会だより第14号  2015年2月

子どもの教会だより第14号をお届けします。
神様に守られ支えられて、たくさんの仲間とともに、楽しいすばらしい時間をすごしています。
3月8日からは、いま幼稚園の年長の子どもたち(4月から小学1年生)をお迎えします。
一階のホールで、9時から礼拝、そのあと一緒にゲームをする日、おやつを作る日もあります。
ご家族の方もどうぞいらしてください。お待ちしていますよ。

2月8日 特別伝道礼拝「尽きることのない愛」

2015年2月8日の特別伝道礼拝を、音声でお届けします。
当日は100名以上の方とともに礼拝を捧げることができました。
宮島星子牧師のあたたかくそして力強い説教をとおして、神様からの恵みと元気をいただいた礼拝でした。
初めて来てくださった方、ありがとうございます。どうぞまたいらしてください、お待ちしています。
ご都合があって来られなかった方、どうぞ音声で当日の讃美、聖書、説教をお聴きください。
みなさまそれぞれの場所で主の祝福が豊かにありますように。

【前半】 

Audio clip: Adobe Flash Player (version 9 or above) is required to play this audio clip. Download the latest version here. You also need to have JavaScript enabled in your browser.

前奏
招詞 イザヤ書9章1節
讃美 495番「しずけき祈りの」
交読 詩編62編12~13節
讃美 46番「すべての人よ」
祈祷
讃美 「威光・尊厳・栄誉」   聖歌隊
聖書 旧約聖書 アモス書5章24節
    「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。」
讃美 476番「あめなるよろこび」

【説教~後半】

Audio clip: Adobe Flash Player (version 9 or above) is required to play this audio clip. Download the latest version here. You also need to have JavaScript enabled in your browser.

説教 「尽きることのない愛」  宮島星子牧師
祈祷
讃美 490番「かみさまに感謝」
信仰告白 使徒信条
献金
報告
主の祈り
派遣の讃美 92番「主よ、わたしたちの主よ」
祝祷
後奏

 説教者 宮島星子牧師(石巻栄光教会)

プロフィール:広島市生まれ。青山学院大学神学科入学。1988年東京教区西支区受按。米国ミズーリ州セントルイス、イーデン神学校修学。東北・常盤教会、奥羽木造教会、大阪・泉大津教会、2013年6月東北・石巻栄光教会。自由でシンプルな伝道をめざす。

 

種蒔く人 2015年2月1日

ルカによる福音書章8節4-8節
◆「種を蒔く人」のたとえ
4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

種蒔く人は、普通でしたら良い土地にだけ、種を蒔きます。わたしも土いじりが好きでして、以前に少しばかりの土地を借りて、数年間野菜を作ったことがありますが、どうやっても種を道端や石地に落とすことはありませんでした。ホームセンターで買った大事な種ですから、丁寧に蒔きます。けれども、聖書の種蒔く人はどうも、わたしがやったような蒔き方ではなく、ジャン・フランソワ・ミレーの「種蒔く人」のように袋に入っている種をわしづかみにして、ダイナミックに蒔いたのでしょう。そうでなければ、勢い良すぎて、あるいは風に吹かれるなりして、畑以外のところに種が落ちることはないからです。イエス様が語った種蒔く人は、実に広い心を持っています。ケチケチしていません。大胆に種をつかんで、それーと種を蒔くのです。まるで全てのところに届けとばかりに蒔いているので、種は風に乗って、いや風がなくても道端や石地にまで届いたのかもしれません。道端や石地に落ちてしまうかもしれない。茨の中に落ちて種が無駄になってしまうかもしれない。そんな風には考えず、実に大胆に広い心で種を蒔いている様子が浮かんできます。

わたしは、これまで種まきのたとえを読みますと、自分が御言葉という種をもっともっと蒔かなければいけないというように、反射的と言える程に種蒔きとは伝道することだと結びつけて理解していました。そのために、自分はあまり種まきができていないなぁなどと反省したり、御言葉を伝える働きをしっかりできている人や教会を見ては自分にはできないなぁと気を落としたりしていました。けれども、今回、ここを読んでいましたら、種を蒔くのは自分ではなくて、神様ではないかと受け止めることもできると思ったのです。

そのように理解した上で、もう一度、このたとえを読みますとイエス様は次のようなことを伝えようとしていたのではないかと理解します。神様は、わたしたちがどのような状態にあっても、御言葉という種を繰り返し与え続けてくださるということ。わたしたちが道端や石地という状態にあっても、茨の中や良い土地という状態でも、神様はその広い心で御言葉を蒔き続けてくださるということです。

道端は、人が歩く道です。そこに小さい種が落ちたら、往来が多い道でしたら、芽が出る前に人に踏みつけられてしまいます。それは、まるで日常的に接している近くの人から何度も否定的な言葉をかけられて、心がペチャンコにつぶれたようになってしまう状態にも似ています。「お前はダメだ」とか「こんなこともできないなら止めちまえ」と言われたり、しまいには「死ね」という言葉がメールで送られてきたりするのです。それは自分の心を人に踏みつけられたような状態です。道端で踏みつけられる種は、わたしたちのそのような現実を象徴しているとわたしは理解します。しかし、種蒔く神様は、踏みつけられてしまう道端にも種を落としてくださいます。この種蒔く人である神様は、道端で踏みつけられている人たちのことを忘れることはないのです。確かに覚えておられます。だから、ケチることなく、大胆に種を落としておられるのです。「お前なんかいてもいなくても同じ」と人を踏みつけるような言葉を受けている人のところに神様は御言葉の種を落とされます。その種は小さいかもしれません。けれども、はっきりと言われるのです。「あなたはわたしの目に値高い。わたしはあなたを愛している」。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを決して見捨てない」。

石地はどうでしょうか。石地には、水気がありません。種が落ちて雨が降れば、その水を種が吸って芽を出します。けれども、日が昇れば、石の上はカラカラに乾いてきますので、種から芽が出ても、それはすぐに枯れてしまいます。わたしたちの人生に置き換えてみれば、それは無味乾燥とした人間関係かもしれません。人と人とを結びつけるものは目に見えるもの、お金や利益でつながった関係がそれです。あるいは何か満たされず、魂に渇きを覚える状態に重ね合わせることもできます。一見充実した生活があるのですが、何かが足りない。決して揺らぐことがなく、決してなくなることのない何かが足りない。そのような渇きが石地にはあります。

種蒔く人である神様は、その石地にも種を落とされます。御言葉という種です。種はこのように言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

茨の中はどうでしょうか。それはまるで何かの原因で「もう、わたしはどうやってもうまくいかない。もう、八方塞がり。どうやればいいのか、全くわからない」と心を塞いでしまう状態に似ています。何かが起きて、自分の前にも後ろにも、右にも左にも茨がぎっしりと生え茂り、動けなくなってしまう、そのような状態です。けれども、イエス様は、確かに言われました。茨の中にも種は落ちたと。それは御言葉という種です。茨に覆われて苦しいところに立たざるを得ない人に神様が種として落とされたのです。種は茨の中で言われます。「わたしが道であり、真理であり、命である」。

このたとえは、語られたイエス様がそこまで考えていたかどうかはわかりませんが、イエス様がこの後に経験されたことから見ますと、この御言葉という種は、イエス様御自身だと受け止めることができます。人に踏みつけられるところや渇きを覚える乾燥したところ、八方塞がりで袋小路のただ中に、イエス様は落ちてきてくださるのです。そして、そこで苦労するわたしたちと一緒に踏みつけられ、一緒に渇きを覚え、一緒に袋小路の中にいてくださるのです。

それが、御言葉となられたイエス様なのです。神様は、イエス様という御言葉の種を今も大胆に、わしづかみにして蒔いてくださっています。

保護中: [教会員用] 2015年2月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。