2014年 待降節第一主日

待降節第一主日。イエス様のお誕生を待つアドベントが始まりました。
礼拝堂入り口ドアに、クリスマスリースが飾られました。

 

 

 

 

 

 

礼拝堂前方には、アドベントクランツ、クリスマス人形。

 

 

 

 

 

 

ソリストをお招きしての讃美礼拝。すばらしい讃美の歌声に、胸がいっぱいになりました。礼拝後の讃美歌練習もご指導いただきました。

2014クリスマスポスター

クリスマスのポスターができました。もう、町田のどこかで見かけたかたもおられるかもしれませんね!
どうぞ礼拝にいらして下さい、お待ちしています!

2014クリスマスのご案内

クリスマスの礼拝のご案内をおとどけします!
どうぞ、どなたでも、お待ちしています。

11月30日(日) 10:30  クリスマス賛美礼拝   ソプラノ独唱 三塚直美
12月21日(日) 10:30 クリスマス礼拝・祝会
12月23日(火) 午後2:00-4:00 子どもの教会クリスマス
12月24日(水) 午後7:30  クリスマス燭火礼拝

証し

洗礼を受けて四十五年、かたくなで不信仰の落第生を、神様は忍耐をもって見捨てず、御手の中で支え守って下さっている事を感謝を持って実感しています。

私は、数年前から股関節の病気で足が不自由になりました。昨年八月には、左手首を骨折し、検査していた胸のしこりが悪性と診断されました。「私にも順番が廻ってきた」と覚悟し、手のギブズが取れるのを待って、十月に入院手術を受け、その後の治療も無事終わり今やっと落ちついたところです。

ガンの宣告以来、比較的平安でいられたのは、神様がいつも共にいて下さるという安心と、病状が初期段階であった事、子育て等人生の務めは果したので思い残す事もなく神様にすべて委ねようと思ったからです。

入院前、後、私の前で、私の知らない所で、多勢の方が祈って下さいました。言葉の一つ一つに励まされました。

病院で会った方々との体験から、私の病気など甘いもので、再発、副作用と真摯に闘っておられる多勢の方を通して、病気の大変さ、本人、ご家族の苦しみ等、いろいろ考えさせられました。

足のリハビリの為、プールに行っています。水中ですと痛い足も前に出て跳ねる事もできます。以前プールで歩いている時、たくさんの感謝があふれて来て「神様ありがとう!あなたを賛美します!」と何度も心の中でとなえていました。

その時こんなに「あなたを賛美します」と心から祈ったことがあったろうか、それ迄この祈りは形だけの感がありました。感謝と共に思わず口について出た「あなたを賛美します」という祈りに、神様と私の距離がちょっと近くなった感じがしました。

これから先、どんな状況にあっても、心から「神様有難うございます。あなたを賛美します」と祈れるように、神様に結ばれていたいと強く願っています。

(60代・女性)

2014年11月の写真 ホカホカの五目うどん

11月9日は雨も降って肌寒い日となりました。ちょうどこんな日のメニューが、ホカホカの五目うどんでした!
「普段はこの半分くらいしかいただかないのよ。」という方も、たくさんお話しながら一緒に食べているうちに完食!心も身体も温まりました。ごちそうさまでした。

 

男性陣で、2杯食べた人もいましたよ。

桜美林高校3年生礼拝 「寄り道 回り道の中に」   2014年11月6日

詩編37章23-24節
「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」

聖書には、たくさんの興味深い人たちが登場していますが、その中で、気になる人たちがいます。それは、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で人生思い通りに進んだ人というよりも、失敗をして寄り道回り道をしながら苦労してきた人たちです。この分厚い聖書の最初の方に登場するモーセさんという人物もその1人です。この人は、エジプトで苦しんでいたイスラエルの人たちを脱出させた偉大な人、すごい人として知られています。でも、この人の歩みは、決して順風満帆ではなく、紆余曲折、寄り道あり、回り道ありの苦労の多いものでした。

このモーセという人は、生まれたばかりの時にイスラエル人の男の子は生まれたらすぐに殺せと言うエジプト王の命令から逃れるために、かごに入れられてナイル川に流されました。そして、運良く水浴びをしていたエジプトの王女に拾われて、王宮で育てられます。そして、元気にたくましく成長するのですが、20歳になった頃のことでした。モーセさんは、エジプトの町を歩いていたところ、イスラエル人が厳しい奴隷の仕事に就いているのを見ました。そして、そのイスラエル人にエジプト人が「ほら、働け」と言いながら鞭で打ちつけていたのです。モーセさんは、それを見て自分もイスラエル人であり、また、その鞭打たれているのが同じイスラエル人であることを知り、「これはひどすぎる」と思い、カッと頭に血が上ってしまったのでしょう。モーセさんは、辺りを見回して、誰も近くにいないのを確かめて、そのエジプト人を殺してしまい、その死体を砂の中に埋めたのです。モーセさんは、ばれない、誰にも見られていないと思っていましたが、その様子を同胞であったイスラエルの人たちに見られていたのです。そして、そのことが、エジプト王にも知られてしまい、モーセさんは一人、荒れ地を旅して誰も知らないところに逃げたのです。その後、モーセさんはひっそりと羊飼いをしていましたが、神様がモーセさんに「エジプトに行って、イスラエルの人たちをエジプトから連れ出しなさい」と言われるのです。モーセさんは何度も断りますが、ついには折れてエジプトに向かい、エジプト王と何度も交渉し、いろいろな災いをエジプトにもたらして、ようやくイスラエルの人たちを脱出させることに成功したのです。もちろん、それは苦労の連続でありました。

モーセという人は、ある面から見れば、偉大な人物であります。けれども、別な視点から見れば、大きな失敗をしてしまい、寄り道、回り道をしてきた人でもあります。このモーセさんにとっての救いは、自分の失敗や寄り道、回り道を自分の中にしまい込んで、自分の知恵と力でなんとかしようとしなかったことです。モーセさんは神様と出会い、文句を言いながらも示された道を進んで行きました。これまで寄り道、回り道の苦労ばっかりだと思っていたところも実は、神様が定めて下さった道だったんだ。振り返る時、意味のない、ただの苦労だと思っていたことに意味があると知らされたのです。意味のないと思っていたところに意味を見つけることを神様は助けてくれるのです。

詩編37編23-24節には、このようにあります。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」。
神様は、大きな失敗をしてしまったモーセさんを見捨てられることはありませんでした。モーセさんは気づいていなかったかもしれませんが、彼の一歩一歩の歩みを神様が定めて下さっていたのです。

わたしは今日、桜美林高校の3年生の皆さんにお話をすることを依頼された後ですが、自分が高校3年生だった時のことを思い出してみました。わたしは自分の進路のことをあまり深く考えずに、推薦で入れる大学で、学費が安く、農業の勉強ができればどこでもいいやと思って探していました。そうしましたら、北海道にそのような大学があり、推薦で受験できることもわかり、そこに行きたいと思いました。推薦での受験でしたので、あまり勉強をしていませんでしたが、何とか入ることができました。でも、実際に入学してみたところ、わたしが思い描いていた楽しい大学生活とは違っていました。一番ショックだったのは、学科生のほとんどが男ばかりで、女の子がほとんどいなかったのです。事前に調べておけば、そんなことすぐにわかったのでしょうが、調べもしないで入ってしまったのです。失敗したなと思ったのですが、「時すでに遅し」でした。同じ大学の中で学科を変えることも考えましたが、なんだかんだしているうちに、大学卒業後に自分の進みたい方向が見えてきて、結局、そのまま同じ学科を卒業しました。でも、今から考えてみますと、その時は失敗したなと思った歩みの中に、神様は今につながる良き出会いを与えてくださっていたのです。

桜美林高校の3年生の皆さんは、もう少ししたら、新しい道を歩み始めます。今、自分は何をやりたいのだろうか、自分には何が向いているのかと考える人もいるでしょうし、「ま、大学に入れれば何でもいいや」と思う人もいるかもしれません。何をしたいのか、わからないという人もいるでしょう。そうした中で、自分が目指している大学に入れる人もいれば、入りたかった進路先に入れない人もいるでしょう。「ま、大学に入れれば何でもいいや」と思い、入学した後に「え、なんだか思っていたのと違う」と思う人もいるかもしれません。思っていた通り、計画通りという人もいるかもしれません。また、モーセさんがそうだったように、思いもしないところで失敗をしてしまったりすることがあるでしょう。こんなことしても無駄だよと思うこともあるかもしれません。

けれども、皆さんにこれだけは覚えてほしいのです。それは、寄り道、回り道、これは遠回りだから意味がないと思うところにも、意味があるということです。その時の自分では、どうやっても意味を見つけられないと思っても、神様が何かをわたしに教えようとしてこの道を進ませたんだと思ってもらいたいのです。詩編37編にはこのようにありました。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」。主というのは神様のことですが、神様がこのわたしの歩みの一歩一歩を定めてくださっているのだから、自分の歩む道がどんな道であっても、きっと神様の何らかの計画があるのだろうと受け止めてもらいたいのです。

たとえ、周りの人から、「なんでお前はそんな道を選んだんだよ?お前に合ってないよ。」と言われたとしても、あるいは自分の中で「どうして、わたしはこの道を選んでしまったのだろうか。本当にバカだな。どうしようもないよ」と感じたとしても、神様はそうは言われません。神様は「その一歩一歩はわたしが定めたのですよ。だから、心配しないで進みなさい」と言ってくださるのです。これがいいのかな、いやこっちの方がいい、いやあっちかなとわたしたちは揺れ動きやすい者です。もちろん、中にはわたしはこの道を行くと一本道をひたすら脇目もふれずに進む人もたまにはいるかもしれません。けれども、その人であってもその道を進む道中で、「本当にこれでいいのだろうか」と一度は思うことでしょう。むしろ、そうであってほしいのです。揺れ動く中にありながらも、揺れ動かない方がいると皆さんは、この桜美林で知ることができました。決して揺れ動かない神様という存在です。その方が、皆さんの一人ひとりの一歩一歩を定めて下さっているのです。進む道について自分で決めた、あるいは友だちに勧められて決めた、親と相談して決めたと思っているかもしれませんが、その背後には神様がおられて、その道が今のあなたにいいのですよと定めて下さっているのです。ですから、なんだか寄り道のようでも、なんだか回り道の遠回りのようであっても、そこには神様の意図があるのです。そのように受け止めることは、わたしたちに元気をくれます。

もし、自分の思う通りにことが進んでいるなぁと思う人がいたら、わたしはその人に「時々は寄り道、回り道をしたらどうですか」とお勧めします。東京から大阪に行く時に、いつも新幹線で行くのではなく、時に鈍行で行く。若い時だからこそ、まっすぐではなく、寄り道をして行くのです。そうしますと、新幹線では見えなかった景色や出会いが皆さんを待っています。あるいは、家に帰る時、いつもと同じ道を帰るのでなく、時々、時間はかかるけれど違う道で回り道をしてみます。そうしますと、今まで見たことのなかったきれいな花や美味しい店に出会うかもしれないのです。どうぞ、時には寄り道回り道をしてみてください。本当にこの道でいいのだろうかと悩んでください。道に迷ったら友だちや先生、親に聞いてみてください。もし、桜美林で出会った神様に何かを聞きたくなったら、近くの教会に行ってみてください。寄り道回り道は時に苦しいことかもしれませんが、その歩み中にある思いがけない計画を聖書の神様が教えてくれるでしょう。神様は、皆さんの人生の歩みの一歩一歩を神様の計画の中で良き道へと定めて下さっているからです。

世の旅人 2014年11月2日

◆ヘブライ人への手紙11章13〜16節
13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

11章13節で「この人たち」とありますが、これは11章の4節から10節までに出てくる人たちのことで、主にアブラハムさんのことを指していると言えるでしょう。なぜならば、アブラハムさんは約束された「星の数ほどの子孫」を手に入れる前に死んでいったからです。アブラハムさんは約束されたものを自分の目で見ることはできませんでしたが、その見えない神様の約束を信じながら、死んでいきました。しかし、それを信じることで、それがこの地になることをはるか遠くから見ていたとも言えます。

約束されたものを手に入れられないというのは、辛いことで、忍耐することが求められます。いつ、その約束が果たされるのか。待ち続けなくてはなりません。信じるということは、待つことと密接につながっています。時間はかかるけれど、この約束はいつか果たされる。自分が生きている間ではないかもしれない。けれども、待ち続ける。それが信仰を抱いて生きることであり、もし果たされないならば、信仰を抱いて死ぬということになるのです。

死んでいったこの人たちは、約束されたものを手に入れませんでした。この世的に考えれば、そんないつ果たされるのかわからないものを信じるよりも、現実のことに思いと力を注ぐべきだと言われるかもしれません。あるいは、約束を信じて死んでいった人たちは、この世の人生に成功しなかった敗北者だと言われるかもしれません。この世のことを第一とする人はそう言うでしょう。けれども、聖書は違います。聖書はこう言うのです。「手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たのです。死んでいった人たちは、約束されたものを遥かに遠いのですが、しっかりと見ることができていたのです。だから嬉しくなって思わず「わーすごい。これが神の国なんだ」と喜びの声をあげていたのです。そして、この人たちは気づいたのです。「あ、自分たちの人生はこの地上だけのものだと思っていたけど、違ったんだ。地上での歩みが全てではなくて、通過点に過ぎなかったのか」。いつかこの地になると信じていた神の国を、はるか遠くに見つめて、自分は地上では「旅人」だったのだと気づいたのです。

今、命与えられて生かされているわたしたちは、目の前にはっきりとした神の国を見ているわけではありません。けれども、イエス様が示してくださった神の国の姿を、信じるが故に、はるか遠くに見ることができます。礼拝を通して、御言葉によって、オオカミが小羊と一緒のところに眠り、小さい牛の子どもが若いライオンと共に育つ神の国を見ることができているのです。お腹を空かしている人、家のない人、病気の人、牢屋に入れられている人など小さくされている人たちの中から始まる神の国を見ることができています。ですから、わたしたちも自分たちはこの地上では、旅人であると自覚し、また「わたしは旅人です」と言い表したいのです。

皆さんは「よそ者、仮住まい」と聞いて、何を思い浮かべますか?旅人と聞くとロマンチックな印象を持つかもしれませんが、聖書が伝える旅人は、よそ者であり、仮住まいの寄留者なのです。よそ者はいつ追い出されるかわからずにビクビクして、健康保険も年金もない、実に不安定な生活をせざるを得ないこともあります。東日本大震災の後、今でも約24万人の人たちが仮住まい生活を強いられています。「仮住まいは苦しい。早く自分のふるさとに戻りたい」との声が聞こえています。自分の国の中での仮住まいでも大変ですから、他の国での仮住まいとなれば、それ以上の苦労があるはずです。ましてや外国に住んでいれば、「よそ者」と嫌味な感じで呼ばれることもあります。ですから、この地上で自分は「よそ者」で仮住まいであると公に言い表すのは、相当の勇気がいることとなります。不利になることを自らが引きうけようとする、その覚悟が必要となるのです。キリスト者となるというのは、この地上で「あなたはよそ者ですね」と言われても「いや、違います」と言わない勇気が求められます。

信仰をもってこの地上で生きていく時、わたしたちは実にいろいろな困難や悲しみ、痛みを経験します。それは、この地上での歩みが本当の故郷ではないということを示しているのです。定住すれば弱められていく信仰を神様は、よそ者、旅人となることによって守るようにと勧められるのです。

よそ者、仮住まい、旅人にとって、この地上での歩みは、先ほど話したように、大変なことばかりなのでしょうか。辛いことばかりならば、よそ者を止めて、内の者、定住者になりたいと思うでしょう。アブラハムさんもそうしたに違いありません。でも、彼はよそ者であり続けました。それは神様が約束されたものを信じていましたし、地上にある故郷以上にすばらしい天の故郷、神の国に希望を持っていたからです。この地上が全てで、自分たちの手で理想郷を造れると信じて、定住しようとはしなかったのです。

この地上でよそ者であり、仮住まいの旅人であることは、この地上に強い愛着を持つことからわたしたちを引き離してくれます。目に見えるものが全てであるという間違った考えからわたしたちを守ってくれます。この地上に自分の都を築こうとあくせく働くことから自由にしてくれます。神様は、わたしたちがこの地上での歩みを終えた後のために、天に都を準備してくださっています。ですから、わたしたちは、自分が築き上げた富であったり、賞賛される事柄、財産を抱いて死んでいくのではなく、神様がこのわたしを温かくその御腕に受け止めてくださる。その「やすらぎ」という名前の故郷に帰れるのだという信仰を抱いて、死んでいきたいと思うのです。信仰の先達がそうであったように、信仰を抱いて喜びの声をあげてこの地上の歩みを終えたいのです。

わたしたちは旅人であり、よそ者ですから、この地上を通って、目的のところを目指して歩いて行くのです。やがて、ここに集うわたしたち誰もが、この地上での死を迎える時がやってきます。神の国がこの地に完全に実現していなくても、あるいは、思い残すこと、後悔する気持ちがこの地上にあっても心配することはないのです。なぜならば、わたしたちは、故郷を去っていくのではなく、本当の故郷に帰っていくからです。

保護中: [教会員用] 2014年11月 主日礼拝音声

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2014年11月2日 永眠者記念礼拝

11月の最初の日曜日、永眠者記念礼拝をささげました。教会員で天に召された方々、原町田教会で葬儀をされた方々、教会墓地に埋葬されている方々を憶えて守る礼拝です。神様からの恵みに誠実に応えて、歩んでこられた先達たちの信仰を憶え、感謝と献身の思いを新たにしました。

礼拝後のお茶の会。永眠者の方の思い出を数名の方にお話いただきました。

 

 

 

 

 

礼拝堂に入ってすぐのところに、原町田教会永眠者の方々のお写真を掲示しました。
自分のおじいちゃん・おばあちゃんの写真を見つめる教会員です。

 

 

 

 

 

礼拝後に、徒歩10分ほどのところにある教会墓地で、墓前祈祷会をもちました。

証し

息子を何処の幼稚園に入れるか迷っていた時に、主人の会社の仲間から原町田幼稚園は躾が確りと行きとどいているとの事、その方の息子さんも原町田幼稚園に決めたとの事、「実際御主人の奥様のお姉さんの子が卒業している」、何と確かな情報に我が家も即きめました。(胸に葡萄の刺繍がしてあるブレザ-の制服も魅力でした) 場所は後日見に来た次第です。当時は園バスもなく、自転車・電車・路線バス等々、車で来る方は数人でした。狭い入口の門で花岡牧師が一人一人の親子に笑顔で、お早うと迎えて下さり、さようならと送り出して下さる事が親子にとっても楽しい一時でした。

そんな過ぎし日々を思い起こさせるのも歳を重ねたのかも知れませんが、私にとっては幼稚園の存在が有ったが故に神様に導かれたのです。毎週水曜日に聖書の学びが有るとの事で、おそるおそる出席し初めて手にした聖書と讃美歌、あの驚きと感動は今も心の片隅に保存されています。聖書の中に何が書かれているのか、牧師の説きあかしに何故か目頭が熱くなり学びが終ると不思議にも肩の荷が軽く成り気持ちが落ち着きました。毎回母の会から10人程出席し毎回学びを重ねる度に神様は私達を愛して下さっているのだと・・・。母の会の聖書の学びの他にジーン・マクドナルド宣教師のバイブルクラスもありました。

合同のバザーでは手作りの物が好評で遅くまで準備に追われましたが、教会員の方々との交わりの中で身近な話を聞きながら作業をし得るものが沢山あり、礼拝にも出席して下さいね!と声を掛けて下さり礼拝に欠かさず出席し1974年12月22日花岡政吉牧師から洗礼を授けて頂きました。家族の反対もなく息子と主人が最後まで見届けてくれた記念する最良の日でした。受洗した後も主人の母が83歳の生涯の中で3回礼拝を共にし、クリスマスの礼拝が有るたびに礼拝には行けないが神様に献金を捧げてしてくださいと、明治生まれの頑固な一面の中にも3回の礼拝ではあるが何か心に残る宝物があったのかなと思います。私の古い聖書を何時も寝転がって読んでいましたので旅立ちの際に友として持たせました。

それからの生活はめまぐるしいテンポの中で仕事をしながら、主日礼拝を守るために365日休む事無く仕事に追いまくられて過ごしてきたのが若い時の至らない信仰生活でした。若い時の人生の其々の曲がり角では急なカ-ブも難なく曲がってこられたのだと思って過ごしてました。しかし歳を重ねて来ると、若い時の生活のテンポでは無理でして仕事の量を減らして、やりたい事も断念しなければならない部分が多々あります。これが老年期の免れない現実なのです。若い時の急カ-ブも老年期のスローなカ-ブも神様の憐れみなしでは曲がり切れないのです。

修養会の話合いの時に出た箇所がイザヤ書46:3~4節・神様に負われる人生、生れた時から、胎を出た時から、老いるまで、白髪となるまで、神様が人間をつくられたから必ず背負って下さる。神様に負われる生活は神様の愛を受けて神様によって生かされている者として隣人を愛し共に支え合って歩む事だと思います。

私共の生涯の順調な時も、逆境に立たねばならぬ時も常に背後に御手の働きを信じて今も私共のかたわらに立って御手を取って共に歩んで下さる神様、永遠に絶えることのない愛に感謝し、私共の罪の結果であるキリストの十字架を見上げて信仰生活が全うできるように御霊の導きを願う者です。

最後にヨハネよる福音書14章4節
  私は道であり、真理であり、命である
もう1箇所、箴言2章5~6節
  心をつくして主に信頼し、自分の分別に頼らず、
  常に主を覚えて貴方の道を歩け
  そうすれば主は貴方の道筋を真直ぐにして下さる。
!原点に戻されます!

(70代・女性)

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。