2014年9月21日 全体修養会

今年の全体修養会は、主日礼拝が終わった後の午後、原町田教会で行いました。
参加者は60名以上!多くの方々ととても祝福された時をもつことができ、神様に感謝!
★お食事は「過越祭の疑似体験」
★語り合いのテーマは
「み言葉に立った『共に生きる教会』として、原町田教会がこうなって欲しい!を語ろう!」
★オーボエ、パイプオルガン、聖歌隊による合唱、詩の朗読・・・・でリラックスタイム

2014年9月の写真

9月の写真をお届けします。


イザヤ書43章4節 わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。

あなたがそこにいる。それがすばらしい 2014年8月10日

コリントの信徒への手紙一12章12-27節 
◆一つの体、多くの部分
12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

バプテスマを受けて、キリスト者となった人は、教会というキリストの体を形づくる大切な一部分になったと聖書は伝えています。12章27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です」。キリストの体の一部分になった一人ひとりが、違う考え方、違う感じ方、違う生き方であっても、「あなたは違うからこの教会に必要ない」などと言うことはできないのです。キリストの体の一部分であるあなたは、この教会にとって、なくてはならない存在ですと聖書は語ります。ただ、実際に教会の中で、何かある事柄を進めようとする時に、違う考えの人たちがいますと、話がなかなかまとまらず、困難にぶつかることがあります。そして、「あの人さえいなければ、もっとうまく事が運ぶのになぁ」と心の中で思ってしまうこともあるのです。そのような思いになりたくないために、次のような声が聞こえてきます。教会は、何も「もうけ」を追求する企業ではないから、明確なゴールがあってそれに向かってチャレンジする必要もないし、ただ、毎週礼拝を守っていればいいとの声です。もちろん、教会の中心は礼拝です。礼拝なくして教会はないとも言えます。けれども、礼拝だけを同じように守っているならば、その教会は元気をなくしていくのではないでしょうか。わたしたち自身も変わっていきますし、日々変化していく社会にあって、神様はわたしたち教会にいくつもの課題を与えています。その与えられている課題に応えていくことなしに教会は成長しないのではないでしょうか。

わたしたちが形づくるこの原町田教会にも、いくつかの課題が与えられています。夏休み中にそれらの課題を終わりにしたいと思うのですが、そうもいかないのが現実です。ですから、わたしたちは、それらの課題にキリストの体として誠実に取り組むのです。その時に気をつけなければならないことがあります。それが今日の聖書の言葉です。21節「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」。キリストの体なる教会には、必要ない部分はないのです。ある課題に取り組む際に、「あの人がいない方がうまくいくのに」「あの人はいてもいなくても同じ」と言うことはできないのです。

教会は、「あなたがそこにいること、それがすばらしい」。「あなたが今、ここにいる。それが嬉しいです」と神様に感謝する人間関係、それがキリストの体です。詩編133編1節にはこのようにあります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。

以前のことですが、わたしの父は病気で車椅子の生活となり、母と一緒に礼拝に出席していました。父は、痰がからみやすく、時々、大きく咳き込むことがありました。母は、咳き込むのが長い時には、携帯用の吸引機で痰の吸引をするのでした。父の介護をしていた母は、礼拝中に父がゴホゴホと咳き込むことで礼拝の邪魔になるのではないかと感じて、礼拝に出る事に気後れすることもありました。そこで、毎週でていた礼拝が、月に3回、2回と減らすようになりました。そんな、ある日の事でした。礼拝が終わった後、1人の教会員が礼拝堂の一番後ろにいた母のところにやってきて、次のように言ったのです。「宮島先生が車椅子で出席しているのを見ると、とっても励みになります」。その人は、賛美歌を歌うことができず、聖書を読むこともままならず、ただ車椅子に乗って礼拝に出ているその父の存在に励まされていると伝えたのです。コリントの信徒への手紙12章22節には、こうあります。「それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

皆さんは、キリストの体なる教会という言葉を聞いて、どんなキリストの体を想像するでしょうか?大工仕事をバリバリとこなす元気満々のイエス・キリストの体でしょうか。それも間違いではないでしょう。病気の人の体に触れて、癒しをおこなったり、ガリラヤ湖の湖畔で沢山の人たちにたとえ話を語り、パンと魚を分け合ったあの元気なイエス様を想像することもできます。けれども、聖書が伝えるキリストの体はそれだけではありません。むしろ、わたしたちにとって忘れてはいけないイエス・キリストの体は、鞭打たれ、傷つき、十字架につけられたあのキリストの体を思うことなのです。心や体、魂に痛みや傷をもった人をあるがまま、受け入れるところがキリストの体なる教会だからです。もし、イエス・キリストが、十字架につけられずに傷つくこともなく、元気な姿で天に昇っていかれたなら、12章22節の言葉は生まれてこなかったかもしれません。キリストの体なるこの原町田教会には、ほかよりも弱く見える部分が、必要なのです。どのような人であっても、どのような生き物であっても、命あるものは、神様が「極めて良かった」と言われた、なくてはならない存在なのです。

教会は、わたしたち一人ひとりに、次のように宣言しています。「あなたがそこにいること。それは、当たり前なようですが、実は神様のすばらしい業なのです」。

聖書が伝える人間の本質は、「あなたがそこにいること、そのこと自体がすばらしい」ということです。何かが「できる」こと以上に、あなたがそこに「いる」ということこそが人間の本質だと伝えています。出エジプト記で神様はモーセさんに「あなたの名前は一体なんですか?」と聞かれて、初めてその名前を伝えます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。神様は、「ある」、存在している方です。その神様に似て造られたわたしたち人間は、ですから、何かをすること以上に、そこに「ある」者として造られたのです。そして、聖書はイエス様のことを、ただ存在するのではなく、「共にいる」者(インマニュエル)だと言われます。神様に似せて造られたわたしたちは、誰かと共にいること、その当たり前のようなことに神様の御業を見出すのです。あなたがそこにいること、共にいる、それが恵みだと理解するのが人間のあるべき姿なのです。教会は、「自分は何もできない」「わたしはただ礼拝に出るだけで何の奉仕もできません」と思っている人に次のように宣言されます。「あなたがそこにいる。そのことを神様も教会の人も喜んでいます」。

「ある」を喜ぶ。あなたがそこにいること、それがすばらしい。一人ひとりは違って「ある」、存在していることを神様は良しとされています。その違った「ある」が、2,3人と集まって教会を形づくります。12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。ただ、「みんな違って、みんないい」というところで終わらないのが、わたしたちの教会です。唯一と言っていいのかわかりませんが、「みんな違って、みんないい」といかないことがあります。それはイエス・キリストであり、今日の聖書によれば、一つの霊であります。13節「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。イエス・キリストを信じるということは、みんな同じなのです。

教会には、「あなたがそこにいる。それがすばらしい」という不思議な恵みの風が、いつも吹いています。それは、イエス様がわたしたち一人ひとりのために苦しまれたからです。そのイエス・キリストが教会の体の真ん中にいてくださるからこそ、わたしたち一人ひとりは違っても分裂せず、ある人が苦しめば、その人のために自分も苦労しようという思いに変えられていくのです。小さな一人が苦しむことを全体の痛みとして受け止めるわたしたちがキリストの体なる教会として成長するのです。26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

 

保護中: [教会員用] 2014年9月 主日礼拝音声

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2014年8月の写真 その2

8月の写真、第二弾をお届けします!

8月9日(土)には、教会・幼稚園の廊下や階段の床磨きとワックスがけ、幼稚園トイレのペンキ塗りに、みんなで汗をかきました。
8月31日の伝道委員会では、9月21日に迫った全体修養会に向けて、当日のお食事メニューのリハーサル。
聖歌隊も、修養会での合唱と、10月4日の教区音楽祭に向けての特訓です。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。