2014年6月22日 子どもの教会

6月22日の幼小科分級では、茶道のお点前を教わりました。
最初に、「恕(じょ)」という漢字を書いた色紙を見せてもらって、人を思いやること、自分がしてほしくないことは人にもしないこと、という心遣いを学びました。そして、ちょっぴりほろ苦いお抹茶と、おいしいお茶菓子をいただきました。

2014年6月15日 特別伝道礼拝の日

6月15日は山口里子先生をお迎えして、特別伝道礼拝を捧げました。

礼拝後はお茶の会でいろいろな質問にお答えいただいたり、著書にサインしていただいたり、昼食には第三週恒例のカレーをご一緒したり、充実した楽しい一日でした。

2014年6月8日 「叫べ全地よ」

6月8日の礼拝で、聖歌隊とジュニア聖歌隊が歌った讃美歌「叫べ全地よ」をお届けします。

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わが主イエスよ 救いの君
主の愛たたえる いのちの限り
とりで 力 慰め主よ
わが霊 たましい あがめよ永遠に

叫べ全地よ 歌え
主の力と栄光
山も海も震える 
み名のとどろきに

喜べみ手のわざを 
とわに愛し仕える
すべてにまさる イエスの愛

栄光を現す  2014年6月1日

ヨハネによる福音書17章1-13節

ヨハネによる福音書17章は、イエス様がエルサレムで逮捕され、十字架につけられる直前に祈られた、イエス様の祈りの言葉です。マタイ、マルコ、ルカ福音書では、「父よ、御心ならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行って下さい」と苦しみながら祈るイエス様が記されています。しかしながら、このヨハネ福音書では、そのように苦しむ姿は見られません。ここでのイエス様は、落ち着いた様子で、繰返し「栄光を与えてください」と祈るのです。17章1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光をあらわすようになるために、子に栄光を与えてください」。この祈りは、他の福音書と比べますと、イエス様御自身が父のもとに帰ることを平然と受け止めているように聞こえてきます。けれども、読み進めていきますと、「本当にそうなのか」と気になってくるのです。イエス様は父なる神様を信頼しつつも、尚も揺れ動いているのではないかと受け止められるのです。イエス様は、1節と5節では「栄光を与えてください」と、栄光をこれから受けるものとしていますが、4節では「わたしは彼らによって栄光を受けました」とすでに受けたものとして語っているのです。イエス様は、ニつの栄光の狭間にあって、揺れ動いていたのではないでしょうか。神様が喜ばれる「神様の栄光」と自分がしたことが人の役に立ったという自分の喜び、「自分の栄光」との狭間で揺れ動いているのではないかと気に留めるのです。

イエス様も人として、人の役に立つことを喜びとしていました。そのことをイエス様は、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言っています。イエス様が、人々を癒し、力づけ、助けたことでその人たちはイエス様に向かって「イエス様、ありがとうございます」と感謝したことでしょう。それは、わたしたちと同じ真の人として生きられたイエス様にとっても嬉しいこと、喜びであったに違いありません。

わたしたちも自分が人の役に立っていると思う時、嬉しいと感じます。会社で働いているのも、もちろん、お金を稼ぐためでもありますが、それだけでなく、自分の働きが誰かの役に立っていると思うからこそ、意欲がわきますし、やりがいを感じます。会社だけではありません。家庭で食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をすることも家族のためだと実感できると嬉しいものです。家族の人、夫や妻、子どもが家事をしているその人に「これ、美味しいね」と言ったり、「いつも、ご飯を作ってくれてありがとう」と言ってくれるその一言が、喜びとなって、よし、明日もがんばろうという気持ちが与えられるのです。

それらは小さいことと言えるかもしれません。けれども、人の役に立ったということが喜びであれば、それは栄光となるのです。自分が輝くのです。何か、大きな困難を乗り越えて、一大事業を成し遂げることだけが栄光ではありません。大なり小なりの苦労をして、誰かの役に立ったことが喜びとなるならば、それは栄光となるのです。それは、お金では買うことのできない喜びであり、誇らしいことなのです。ただ、それは、「自分の栄光」であります。神様の栄光と全く同じではありません。

わたしたちは、自分が人の役に立っていることに喜びをもらいます。自分が輝いているとまでは言えなくても、それは嬉しいものです。でも、もし、わたしたちが人との関わりからでしか喜びをもらえなくなったとしたら、どうなるのでしょうか。自分は神様のものである。そのことを忘れていってしまうように思えてなりません。イエス様は、わたしたちは「みなあなた(神様)からのもの」であり、「すべてはあなた(神様)のもの」ですと言われています。わたしたちは、自分の時間や持っているものなどを自分のもののように考えてしまいがちですが、それらはすべて神様のものなのです。ですから、人の役に立っているという喜びだけでなく、神様の役に立っていることが喜びとなってこそ、わたしたちは自分自身から解放されていくのです。神様の役に立っていると喜ぶことが、神様の栄光をあらわすことですから、わたしたちは、人のために役立つだけでなく、神様のためにも役立つ自分を目指すのです。他の人に何かをして「本当にありがとう」と言われた時、それがあたかも自分がその全てを成し遂げたかのように受け止めるのではなく、神様が自分にそのようにさせてくださったと喜びたいのです。

わたしたちは、自分の栄光と神様の栄光の間に立って日々、祈りながら生活しています。自分は、人の役に立ちたいし、神様にも喜ばれたい。でも、どうしていいのかわからないとウロウロしながらも、祈るならば、わたしたちの祈りは、イエス様の祈りと響き合うのです。イエス様が「あなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈る、その祈りをわたしたちは、「どうぞ、人を喜ばせると共にあなたを喜ばせることができますように」と祈る。「どうぞわたしたちにあなたの栄光を与えて下さい。わたしはわたしのものではなく、あなたのものです。どうぞ、そのことを現すことができますように。生きるにしても死ぬにしても、わたしはあなたのものです。あなたの栄光を現してください」。そのように、わたしたちの祈りは、イエス様の祈りへと変えられていくのです。

祈りは、神様を信じる者にとって、それは呼吸のようなものだとある牧師は言っています。わたしたちは呼吸をしなければ生きていけません。神様を信じるわたしたちは、祈らずには生きていけないのです。なぜならば、わたしたちは自分の栄光と神様の栄光の間に生きているからです。何が神様の御心なのか、わからなくなる。これは自分の喜びのため、自分の栄光のためにしていたことなのか、わからなくなるのです。イエス様は、自分の栄光と神様の栄光の間を、まるで振り子の針のように行ったり来たりするわたしたちのために神様に祈って下さいます。11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」。イエス様は、どっちつかずのわたしたちのために、神様にとりなしてくださるのです。

イエス様は今も、わたしたちの祈りをとりなしてくださっています。天に昇られた後に約束された霊によってわたしたちの祈りを神様のもとに届けて下さっています。

保護中: [教会員用] 2014年6月 主日礼拝音声

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特別伝道礼拝のお知らせ 2014年6月15日10:30から

6月15日は特別伝道礼拝です。どなたでもどうぞおいで下さい、お待ちしています。

 

特別伝道礼拝 「小さな奇跡が始まる時」

説教者 山口里子先生

プロフィール:1945年生まれ。日本聖書神学校に学ぶ。1988年よりハーヴァード大学・エピスコパル神学校(EDS)で学び、1996年にEDSより博士号取得。ストーニーポイント・センター常駐神学教師、ニューヨーク神学校・ニューアーク神学校講師を経て帰国。2000年より日本フェミニスト神学・宣教センター共同ディレクター。恵泉女学園大学、聖心女子大学、日本聖書神学校、農村伝道神学校などで講師を務める。

著書:「新しい聖書の学び」「いのちの糧の分かち合い:いま、教会の原点から学ぶ」(新教出版社)他多数。

2014年6月の写真

   

当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988