ペンテコステ・家族礼拝のお知らせ 2014年6月8日10:30から

 

ペンテコステはイースターから50日目にイエス・キリストの弟子たちの上に聖霊が降った日、キリスト教では大切な日の一つです。
6月8日は、子どもの教会の礼拝と9時礼拝は、10時30分からの礼拝に合流し、子どもも大人も一緒に一つになって教会全体で礼拝をいたします。

ご家族でどうぞおいでください。お待ちしています。

信仰告白

 私が洗礼を受ける事を決心した理由は、一つは母の薦めです。中学3年生の終わり頃から言われていました。最初は「まだ無理」と、はっきりとした理由もないまま逃げていました。しかし、高校にあがり、もうすぐ2年生という頃から言われる度に「このままでいいのか」、「いつまでも習慣でいいのか」と考え始めました。でも受洗する決心はできず、ずるずると高校3年生になりました。そんなとき、宮島先生に「洗礼を受ける気はありませんか」と声をかけられ、心にケリがつき、「習慣」という今までの行動・思考に終止符を打とうと思いました。

 また、高校2年生の世界史の授業中に自分の気持ちを知ったからです。キリスト教についての単元をやっていた際に、先生に「まぁ、復活なんてあり得ないんですけどね」と言われたことがありました。そのとき、私はとても傷つきました。「今まで習慣だったのに・・・」と思い、自分が思っている以上に聖書の言葉をしっかり聞き、信じているんだ、と実感しました。
 洗礼を受けた後は、高校を卒業したら奉仕者としてやる事もあると思うので、幼い子どもたちにも、中高生にも少しでも興味をもってもらえるように教えてあげたいと思っています。
 私は父なる神様、イエス・キリスト、聖霊を信じます。

(10代・女性)

自分らしく

 私がこの原町田教会に通うようになってから、早いもので4年あまりたちました。私の両親はクリスチャンで、以前私がまだ幼い頃、両親はこの教会の会員でした。父の転勤などで現在、両親は私の家の近くの教会に通っております。

 私がまだこの原町田教会に導かれるようになる前は、私は自分の性格が嫌いでした。もちろん、年齢と共にそれなりに自分は色々な面で成長してきているとは思うのですが、私の性格のどこかにとても幼い部分があるのが自分でもよくわかっていて、そんな自分が本当に嫌でした。少しでも成長しようといつも無理をしている人間でした。そして、難しい本などを色々読んだりしていましたが、それは読みたくて読んでいるのではなく「読まなくては!」と、どこか無理をしていました。ですからそのような難しい本を読んでみたりしても(もちろんその中で素晴らしい本にも出会いましたが)自分の心はなかなか満たされませんでした。

 転会させて頂いてまもなく、この教会で私は素晴らしい友達を沢山神様から与えられ、その中の一人Sさんに、自分にいまいち自信がもてないという様なことを話しましたら、Sさんは私に「難しい本ばかりでなくて、たまにはもっと夢のある楽しい本を読んでみたら?」と言ってくださいました。そして早速、Sさんともう一人の友人Hさんのお二人が、表参道にあります『くれよんはうす』という素敵な絵本屋さんに私を連れていってくださいました。そこには私が大好きな、可愛い夢のあるイラストの載った素晴らしい絵本が沢山置かれていて、ストーリーも心温まる本ばかりでした。そして、SさんとHさんは子供向けのいわゆる絵本というものが、人間にとってどんなに素晴らしいものであるかを私に教えてくださいました。それまで私は、絵本というものは子供の読むものだと勝手に決めつけていたので、本当に驚くばかりでした。私はその日、心からSさん、Hさんに感謝致しました。

 現在、私はカルチャーセンターで主に子供さん達にピアノを教えておりまして15年ほどたちます。いつも子供さん達からは夢や希望、そんな子供さん達に似た所がある自分を、信仰的に少しづつ受け入れられる様になって参りました。原町田教会に導かれ、素敵な方々に出会わせてくださった神様に心から感謝しております。マタイ18章3節「はっきり言っておく。心を入れかえて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」この聖句に励まされながら、これからも自分らしく、この原町田教会で皆様と主にある交わりを深めさせて頂きたいと思っております。

(40代・女性)

私の心を自由にして下さったキリスト

 父は昭和13年、高校教師として軍事教練のために引率した白馬山で遭難死をし、23日後に私は誕生し、10才の時、母も病死、祖母と叔母に戦後の苦しい時代を養育してもらいました。その叔母が長野教会員だったので、強制的に教会に行かせられました。高校の頃は将来への希望はなく絶望的な思いで暮らしていた事を今でもはっきり思い出します。唯、長野教会の小原福始牧師が講壇をたたいて「キリストは我々に本当の自由を下さった。だから決して再び不自由なくびきにつながるな」との説教だけ印象深く頭に残っていました。しかしそれがどんな意味をもつ自由なのか理解出来ずに過ぎました。若い頃は、仕事、家庭、育児に追われていました。長年の礼拝出席、若穂会、祈祷会、聖書研究会に出席して、聖書を初めて主体的に学ぶ意欲を持って読んでみて知りました。

 「キリストは自由を得させんために我らをとき放ちたまえり、然れば堅く立ちて再び奴隷のくびきにつながるな」ガラテヤ5章1節の言葉だったのです。16節に「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とあるのです。私の様に富もなく学もなく社会的地位も美しさもない人間が生きる道はこれしかないと思ったものです。「あなたの子供は優秀です」と言われたことも一度もなかったけれど、決して駄目だと思わず、人と比較せず、自分の心をすべて開け渡して「私は本当に駄目な人間です。神さま助けて下さい」と祈り、精々私の出来る限りのことは精一杯して生活していこうと思った時、本当に心が軽くなりました。腹の立つことも沢山ありますが、その人と対面して「私は違う思いです」と言葉に出して言う努力をして心に蓄積しない様にしています。全く私の考えとは正反対の人も世間にはいますが、その人も神が私と同様創り出して私の近くに置いて下さったこと。相手も私を見て何と嫌な人間が世の中には居るのだろうと思っているかもしれないと思うと楽しくなって来ます。

 私達は一人一人違う人間として神様が創造して下さったのです。聖書には多くのタラントを神から預かった者はそれなりの働きと責任を持たなければならないことも書いてあります。私達は人を恨み、妬み、批判したりする時間があったら自分自身がどんな時にも心を静かにみつめて神と対話し自立した心を持てる様になりたいものだと思います。
 人間を本当に罪から自由にして下さった神の愛、慈しみ、哀れみを思う時、感謝の気持ちが一杯に心にあふれて来ます。
 「本当にありがとうございます。」と喜びを言葉にしながら生活していきたいものだと思っています。

(70代・女性)

主に招かれて

 「それでは最後に先生。求道者の方に一言お願い致します」
 私が原町田教会に通うようになって2、3ヶ月たったぐらいの時だったと記憶しているが特別伝道礼拝後、お招きした先生を囲んでのお茶の会の締めくくりに司会の方がそう先生にふった。
 来た・・・私は眉間にしわをよせた。
 その時の私はとても頑なだった。牧師の娘として生まれ、ずっと牧師館で育った私は当たり前のように礼拝には出席していたものの、いざ洗礼を!というお誘いになるとまったく受け入れられずにいた。みんなは勘違いをしている。牧師の娘だからって信仰心が厚いとでも思っているんだ。そんなことないのに・・・だから親元を離れて通うようになった原町田ではそんな牧師の娘だということなど関係なく洗礼という文字からしばらく遠ざかっていられると悠長に思っていたのだ。なのにこの質問・・・とても素直な気持ちでは聞くことが出来なかった。

 その牧師先生はこんなふうに話をはじめられた。
 「もしも大雨が降って洪水になり、家の屋根の上にやっとこさのぼって待っていたら助けの船が来る。そこで屋根に上っているあなたにさあ船に乗りなさいと言ったとする。そうしたらあなたはどうしますか?船に乗るのも乗らないのも自分の自由だ!と言って船に乗るのを拒みますか?そんなことしないでしょう。神様はここにいらっしゃい。ここがあなたの来るべき場所だと招いて下さっているのですよ。」
 今までの自分の頑な思いがガラガラと崩れたように思えた。
 ゲームのように、いろんなことをクリアしていかないとクリスチャンになれないと思っていた自分から、こんな意地をはって小さな私でも招かれている、赦されているという思いに変えられた。
 洗礼が滴礼ではなく、侵礼だと聞いて少々後ずさりしたが、体全体で洗礼を受けることが出来てよかったと思う。ある姉妹は侵礼を受けた翌日に高熱を出し「毒がでたのね」と言われたとか・・・。

 原町田に連なってからもう20年ほどになる。
 その間、幼稚園の教諭をさせていただいたり、3人のこどもが幼稚園でお世話になり、そのままこどもの教会に今もつながっていることに本当に感謝している。今は、この大きな受け継がれためぐみを次の世代に伝えていきたい。

(40代・女性)

保護中: [教会員用] 2014年5月 主日礼拝音声

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


2014年5月11日 子どもの教会

幼稚園・小学科は、母の日のフラワーアレンジメント。
中高科は、3月にいのちのことば社から発売された
聖書トレーディングカードゲーム「バイブルプレイヤーズ」で遊びました!
 

わたしたちは 孤独ではない 2014年5月4日

ヨハネによる福音書10章7-18節
◆イエスは良い羊飼い
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 イエス様は、いつもわたしたちと一緒にいてくださる。それは、イエス様が良い羊飼いだからです、と聖書は伝えています。平坦な道を進むときも、毎日、毎日同じようなことをしている、平凡だと思うときも、イエス様は一緒にいてくださいます。あまりにも平凡な日々でつまらないと思っていても、イエス様は、あなたの命を豊かにしてくださっています。だからこそ、わたしたちは繰返し、礼拝に集い、良き羊飼いを与えてくださった神様に感謝を捧げるのです。わたしたちの歩みは、平坦な道だけでなく、時に急に暗い谷間に突き落とされるような出来事にあうかもしれません。当たり前と思っていたものが、急に目の前からなくなること。オオカミが羊の群れの中に入って、羊を奪い追い散らすように、それは突然やってくることがあります。そうなると、羊は自分で自分を守る術を知りませんので、ただ慌てふためくだけです。そこでの明暗を分けるのが、良い羊飼いを知っているかどうかです。「わたしはこの人について行く」と言って、雇い人に頼ったら大変です。あなたを助けるどころか、あなたを置き去りにして、自分が先に逃げていくでしょう。けれども、良い羊飼いは、襲いかかるオオカミとあなたとの間に入って、あなたを助けてくださるのです。時には、自らの命を落とすまでして、羊たちを守るのです。その方が良い羊飼いです。

 現在、94歳の教会員の方が、小学生の頃のことです。今から85年くらい前のことになります。小学校の帰り道、彼女は表通りではなく、裏通りを通って、道草を食いながら家に帰るが楽しみでした。どうしてかと言いますと、彼女は、原町田教会の会員だったあるおじいさんに会うのを楽しみにしていたからです。彼女が、竹籠を編んでいるその方に「おじいさん」と声をかけますと、おじいさんが「あ、今お戻りかい」とニコニコしながら話しかけてくれます。彼女とお友達は、おじいさんの仕事場に腰掛けると、その人は竹籠をあみながら、聖書のお話をしてくれるのです。奇跡をあらわしたイエス様、ザアカイさんのお話など、たくさんのお話をしてくれるのです。彼女は、ある時、朝早くから教会の庭を一人で掃除しているおじいさんに聞きました。「一人で淋しくないの」。するとおじいさんはこう答えたのです。「わたしはね、いつでもイエス様と一緒にいるんですよ」。

 イエス様が一緒にいてくださる。だから、淋しくないよと言うことは、真実です。ただ、そう言いましても、わたしたちは時々、淋しさを感じます。日々の生活の中でフトした時に「本当に自分のことをわかってくれる人はいるのだろうか」と思う時、何とも言えない空虚な気持ちになり、孤独を感じるのです。忙しい時や何かをしている時には、そのように思うことは少ないでしょう。でも、一人になってフト間が差した時、わたしたちは、自分のことをまるごとわかってくれる人の不在に気づくのです。そのような状態になったわたしたちのことを聖書は、群れから迷い出てしまった一匹の羊としてたとえています。群れから迷い出て、羊は自分が一人ぼっちだと気づき、不安になってメーメーと鳴きます。誰も自分のことを見つけてくれないかもしれない。羊は、自分はやっぱり一人ぼっちだと落ち込むのです。けれども、良き羊飼いは違います。良き羊飼いであるイエス様は、迷い出た一匹の羊を見つけるまで探し出してくださいます。わたしたちが、イエス様を探して助かるというのではなく、羊飼いがわたしたちを探し、追い求めてくださっているのです。

 羊飼いが、迷っている1匹の羊を探し、追い求めて、ついに発見し、「こっちおいで」と言われます。それでも、心の中にある深い孤独はそう簡単にはなくならないかもしれません。「わたしの痛みや苦しみなどわかるはずがない」と探し出しされた羊飼いの手をはねのけようとするかもしれません。けれども、良い羊飼いは何度もその手を差し出されます。わたしたちは、その差し出された手を見て初めて気づくのです。なぜなら、その手には、十字架の傷跡があるからです。あ、この方は「わたしのために命を捨てられた方なんだ」と気づくのです。わたしたちは、その羊飼いがわたしのために命を捨てられたイエス様であるから、あのおじいさんのように言うことができるのです。「一人で淋しくないの」と言われても、わたしたちは答えるのです。「わたしはね、いつでもイエス様と一緒にいるんですよ」。
わたしたちは生きている時も死んでいく時も、一人ではありません。羊飼いなるイエス様が共にいてくださいます。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。