2014年1月の写真

2014年が始まりました!
子どもの教会では、恒例(?)のお汁粉・お餅をいただいて、かるたとりをして、新年も元気いっぱい!

新しく作った教会案内を、初めて原町田教会に来られた方や学校紹介で来られた学生さんに差し上げています。遠くに住む教会員の方へも週報と一緒に発送されましたよ!ご家族・お友達に原町田教会を紹介する時に用いられますように、見て下さった方とご一緒に礼拝と交わりを持てますように祈ります。

錨を天に上げる父の家こそ 2014年1月5日

ルカによる福音書2章41~52節
◆神殿での少年イエス
 2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
 2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
 2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
 2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
 2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
 2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
 2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

  ルカによる福音書では、イエス様が12歳になった時、過越祭のためにエルサレムに上ったと聖書は伝えています。
 母マリアさんと父ヨセフさんは、エルサレムでの滞在を終えて、ガリラヤの自宅に帰ることにしました。1日の道のりを歩いた後、2人はふと、少年イエス様がいないことに気づくのです。マリアさんとヨセフさんは、てっきりイエス様が一緒だと思っていました。けれども、何かのきっかけで、それは思い込みで、息子が一緒に来ているというのは間違いだと気づいたのです。母マリアさんは、イエス様を捜しましたが、すぐには見つかりませんでした。そして、探し始めて3日後にようやく、神殿の境内にいるイエス様を見つけたのです。

 わたしたちは、あまり気づいていないかもしれませんが、わたしたちは、いろいろな思い込みをしながら生活をしています。そして、その思い込みのゆえに、しばしばイエス様を見失ってしまうことがあるのです。わたし自身、今思えば恥ずかしいことなのですが、ある思い込みをしていました。大学1年生の時でした。わたしは北海道の野幌というところでアパート暮らしをしていました。季節はクリスマスの時期。日本のどこもかしこもそうなのですが、この季節になりますと、テレビやラジオでは繰り返し、男女の恋愛の話題になります。「クリスマスは、大切なあの人にプレゼントを」などという言葉を繰り返し聞いておりますと、わたしもクリスマスイブの日には、ガールフレンドと一緒に過ごすものだと思い込むようになりました。当時、わたしは教会にも行かず、家族からも離れていましたので、教会が伝える真実のクリスマスではなく、この世が伝えるクリスマスがわたしの中に刷り込まれていたのです。ガールフレンドのいないクリスマスイブなんて淋しい、などと真剣に思い込んでいました。そして、なんとかしてその時までにガールフレンドを作ろうなどと真面目に考えていたのです。結局、自分の思い通りにはいかず、クリスマスを一人「淋しいな」と勘違いしながら過ごしたのであります。

 このように真実ではないことを刷り込まれる結果、あることを堅く信じてしまうという思い込みをわたしたちは、たびたびしてしまいます。けれども、その間違いに気づいたならば、別な道に行くか、あるいは、もと来た道を引き返せば良いのです。そうすれば、マリアさんが見つけたように、必ず真実であるイエス様を見つけることができると聖書はわたしたちに伝えます。自分がこれまで歩んで来た道は、この世や周りの社会が、わたしに刷り込んだ間違ったものだと気づき、元来た道を引き返すのは、苦しいことかもしれません。「どうして、また同じ道を引き返さなければならないの」と思い、自分を責めることもあるでしょう。あるいは、これまで積み重ねて来たことが、実は自分の思い込みの上にしてきたことで、そのほとんどは間違っていたということもあるかもしれません。けれども、わたしたちに本当のことを教えてくださるイエス様は、マリアさんが見つけたように必ず見つかると御言葉は伝えるのです。
 
 いや、わたしたちが見つけるというのは、聖書的には正しくないと思います。もし、わたしたちが真実であるイエス様を見つけたと思っているとしたら、母マリアさんのような言葉がわたしたちの口からも出てしまうでしょう。「もう、ずっと探していたのですよ。どれだけわたしが苦労したのか、あなたはご存知ですか?」。イエス様は、マリアさん、そしてそのような言葉を口にするわたしたちに次のように言われるのです。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。

 イエス様は、父の家である神殿でマリアさんたちを待っていました。同じように、イエス様は父の家であるこの教会でわたしたちを待っていてくださるのです。わたしたちが苦労して、イエス様を捜し当てたと思っていたのだとしたら、それは反対です。イエス様が道に迷っていたのではなく、わたしたちが、マリアさんも、ヨセフさんもそうであったように、道に迷っていたのです。
 
 わたしたちが社会の中で、当たり前のように受け止め、「これは真実だ」として疑わずに思っていることの多くは、どっしりとした岩のようにわたしたちの足下を支えてくれるものではないのかもしれません。この世の中、わたしたちが生きる社会は、わたしたち自身がそうであるように、揺れ動きやすく、移り変わりやすいものだからです。その中にいますと、何が真実で、何が真実でないのかがわからなくなることがあります。けれども、わたしたちは、真実であるイエス様を知っています。わたしたちにとっての父の家であるこの教会で、イエス様はわたしたちを待っていてくださるのです。

 宗教改革者の一人であるカルヴァンさんは、父の家であるこの教会のことを次のように言い表しています。わたしたちの教会は、荒れ狂う海の真ん中で揺れ動く舟であり、悪魔が起こす無数の雷雨や嵐によってわたしたちの舟は、錨(いかり)をしっかりとおろさないと沈没してしまいます。けれども嵐の中の教会は、けっして沈没することはない。なぜならば、教会という舟は、「天に錨(いかり)を投げ上げて」いるからだと言うのです。教会という舟は、この世に錨を投げ下ろすのではなく、天に錨を投げ上げ、天としっかりとつなぎとめられていると言うのです。

 教会の中にもこの世が刷り込む真実ではない事柄が、思い込みとして入って来ています。なぜならば、思い込みをもつわたしたち一人ひとりが教会を形づくっているからです。わたしたちは、そのことを認めつつ、教会の幹であり、中心であるイエス様によって、何が真実で、何が真実ではないのかを判断し続けるのです。ただ、この世が伝えることが間違いで、わたしたちが全て正しいということではない、ということもわたしたちは認めなければなりません。時に、教会で当たり前と思っていたことが、実は、イエス様を見失うことになることもあるのです。しかし、それでもなお、わたしたちは、イエス様が父の家と呼ばれるこの教会に帰って来るのです。なぜならば、教会こそ、天を目指して荒海を進む船であり、教会こそこの世において、天に錨を投げ上げる唯一の場所だからです。イエス様は「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました。イエス様こそ、天の父をわたしたちに示される方であり、イエス様こそ天の父とわたしたちをつなげてくださる教会だからです。わたしたちの希望は、天に錨を投げ上げているこの教会にあるのです。

保護中: [教会員用] 2014年1月~3月 主日礼拝音声

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。