バザーまで一ヶ月!

10月27日のバザーまで、約一ヶ月となりました。ポスターもできましたよ!

2013年9月の写真

9月の写真をお届けします。

原町田幼稚園2014年園児募集ポスターです♪

2013年9月1日 「感謝します」

9月1日の礼拝で、聖歌隊が歌った讃美歌「感謝します」(リビングプレイズ131)をお届けします。

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感謝します 試みにあわせ きたえたもう 主の導きを
感謝します 苦しみの中に そだてたもう 主の御心を
しかし願う道が 閉ざされた時は
目の前が 暗くなりました
どんな時でも あなたの約束を
忘れないものとしてください

感謝します 悲しみの時に 共に泣きたもう 主の愛を
どんな時でも あなたの約束を
忘れないものとしてください

感謝します 試みに耐える 力をくださる み恵みを
感謝します 全ての事を 最善となしたもう 御心を

保護中: [教会員用] 2013年4月~9月 主日礼拝音声

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もしもわたしが 苦しまなかったら 2013年9月1日

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節
10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

コリントの信徒への手紙一 2章1~5節
1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

詩編147編1~7節
1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。
2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。
5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。
6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

 パウロさんは、十字架のイエス様と出会い、回心し、キリスト者の迫害を止めるのですが、その後でもインテリ指向、権威主義的なところは残っていたようであります。しかしながら、ある出来事を通して、彼のその姿勢が打ち砕かれることになるのです。それは、パウロさんはエルサレム会議の後の2回目の宣教旅行で、ギリシャのアテネに来たときでありました。使徒言行録17章にあります通り、彼は、アテネで議論好きのインテリたちを相手に、自分の知識と教養を駆使した見事な説教をしたつもりでありました。けれども、その結果は惨憺(さんたん)たるものだったようで、彼は失意のうちにその場を離れて行きました。そして、彼は、その後すぐにコリントへ向かったのでした。今日の箇所である2章3節は、その時の彼の心境をしっかりと記しています。2章3節「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。彼は失意の中にあった自分の気持ちを素直に伝えています。この時からなのでしょう。パウロさんの宣教の姿勢、物事を見る視点が変わっていくのです。パウロさんはこのように言っています。2章1節「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を述べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」。アテネで自分の優れたと思っていた言葉や知恵が打ち砕かれたパウロさんは、それまで弱いとしか思えなかった「十字架につけられたキリスト」にこそ、神様の力が現れているのだと気づかされたのです。

 パウロさんは、自分が頼りにしてきた自分の知恵、知識、それらを権威づけてくれる有名な人の名前などは、何の助けにもならないということを思い知らされたのです。ある意味では、そのように自分が頼ってきたそれらを打ちのめされ、ようやく、本当に心から信じ、頼れるのは、神様のみ、しかも弱さの極みである「十字架につけられたキリスト」にこそ、神の力が現れているとの思いに至ったのかもしれません。しかし、それは決して簡単なことではなかったと想像します。それまで良いと信じてきたこと、正しいと思ってきたことが打ち砕かれたのですから、パウロさんにとっては、苦しい経験だったに違いありません。それまで、積み上げてきた知識や自信のあったことが通用しなくなったからです。パウロさんは、自分が頼りにしてきたどこどこの名門という名の服、〇〇先生という権威ある名前の上着、あるいは知識という強く、光り輝く服などを着込んで自分を防備してきたのですが、コリントに来る直前のアテネで、丸裸のようにされてしまったのです。価値あると思っていたものがはぎ取られ、踏みつけられ、裸にされたのですから、恥ずかしいだけでなく、これからどうしたらいいのかという不安や恐れに押しつぶされそうになっていたのです。けれども、その苦しみがあったからこそ、パウロさんは神様の大いなる愛を実感することができたと言うこともできます。

 水野源三さんの詩に「苦しまなかったら」という題の詩があります。「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった」。
 もしも、パウロさんがこのように打ち砕かれ、苦しまなかったら、今日の御言葉はなかったことでしょう。
 
 わたしたちは一生懸命にこの世の知恵や有名な名前を重ね着して、もっと強くなろうとしているのですが、十字架につけられたキリストは、それら朽ちていく服をわたしたちから取り去ってくださいます。時にはびりびりと破くように、時には一枚ずつ脱がせてくださるのです。わたしたちは何も着ていない無防備な状態にされます。何も自分を守るものがない、裸の状態にされますと、わたしたちは恐れ、不安になります。けれども、そうなって初めて、自分を救うのはこの世の知恵でも、偉い先生の名前でもなければ、権威ある学歴や職業、業績でもないと心の底から信じられるのではないでしょうか。わたしたちを救うのは、神様です。しかも、それは十字架につけられたキリストです。十字架というどん底にまで降りてきてくださったイエス・キリストによってしめされた神様だけなんだと信じる者にしてくださるのです。
 
 イザヤ書ではパウロさんが経験したことを次のように伝えています。57章15節。神様は「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれたこの人に命を得させる」。神様は、人間が造り出したものに頼ろうとするわたしたちを打ち砕いてくださり、イエス様を通してしか得られない救いに気づかせてくださいます。自分が信じていたもの、価値あると思っていたものが打ち砕かれることは、辛いものです。できれば、避けたいと思います。けれども、打ち砕かれない限り、わたしたちは、いつまでも自分で自分を救おうと泥沼の中でもがき続けることになるかもしれないのです。パウロさんが、それまでは価値がある、権威があると思っていたものはすべて打ち砕かれました。それは彼のもう一つの回心、十字架につけられたキリストとの出会いであったと言えます。最もみすぼらしく、呪いであり、弱さでもある、何の価値もないような十字架につけられたキリストのあの死が、神様からの計り知れない贈り物であったのだとガツンと頭を打ち砕かれる経験をしたのです。
 
 わたしたちも自分が大切にしてきた価値が打ち砕かれることがあり、苦しむこともあるでしょう。その時はパウロさんのように辛く、不安になり、恐れを感じるかもしれませんが、わたしたちは、その苦しみを通して、十字架のキリストをより深く、近く、強く心に刻むことができるのです。打ち砕かれることを通して、わたしたち教会は主にあって心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合うことができるのです。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。