2013年8月25日 子どもの教会 かき氷!

久しぶりに気温30度を下回った日でしたが、子どもの教会はまだまだ熱気がいっぱい!みんなでかき氷を作って食べました。

新しい看板と掲示板

教会の看板と、教会前の掲示板を、新しく作り直しました。看板は町田市内の三箇所においていただく予定です。教会へのよき道案内の一つとして用いられますように。

2013年8月18日 子どもの教会パフェ・パーティー

夏休みも中盤です!
子どもの教会では、9時からの礼拝の後、幼・小・中・高みんなで一緒にパフェ・パーティー。
それぞれが好きなものをトッピングして、自分だけのパフェを作りました。

平和でなく剣を? 2013年8月4日

マタイによる福音書10章34-39
34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

詩編85編9-14
9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。

 イエス様は34節で「私が来たのは、地上に平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われています。え、どうして?と思う御言葉であります。イエス様は平和の君として、来てくださったのではないのか。「剣を持つ者は剣で滅びる」とイエス様は言われているのにどうして、「剣をもたらすために来た」などと言うのでしょうか。イエス様が、この御言葉を通して、わたしたちに何を伝えようとしているのかをご一緒に聞いて参りましょう。

 35節「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに」。
 家族の関係といっても実に様々な形があると思います。親と子が互いに愛しあう関係、嫁としゅうとめであっても互いに尊重しあう関係もあるでしょうし、その反対のものもあるでしょう。
 イエス様は、「家族愛」に象徴されるこの世への愛着、「家族愛」に潜んでいるこの世への執着からわたしたちを切り離し、敵対させてくださいます。敵対することによって、鈍いわたしたちは、ようやく、イエス様がわたしたちのところに来てくださったという福音をより深く知ることができるのだと思うのです。

 36節「こうして自分の家族の者が敵となる」。
 イエス様は家族がいがみ合い、憎しみ合うようになりなさいとは言われていません。わたしたちが勘違いをしていることにメスを入れられるのです。家族愛という名の下で、偏った愛着や間違った従属を持ち込んで、自分の満足を求めてしまうことのあるわたしたちに剣を投げ入れるのです。父は息子に、母は娘に自分の願いを叶えてもらいたいと期待し、息子や娘の前に道を示して、その道を進んでもらいたいと願います。それが愛であると勘違いしているのです。このように家族という世界は、外からは見ることができないところで愛という名の下に力の強い側が弱い立場にある方を支配する関係が、いとも簡単にできてしまうのです。イエス様はそのような偽りの関係があることを知っておられるからこそ、剣で離れさせてくださり、家族に執着し、家族に依り頼むのではなく、主を信頼して主につながるようにと招かれるのです。

 37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。
 イエス様が生きられた当時も、またわたしたちが生きるこの現代も親子同士、互いに愛し合うのが当然であり、家族同士は助け合わなければならないという規範のようなものがあります。けれども、イエス様はあえて、愛し合って当然という親子関係を切り離されるのです。親が子を愛し、子が親を愛すこともすばらしいのですが、イエス様は言われます。「もし、その愛に執着するならば、私と共に歩むことはできないでしょう」。親はいつか子を離れ、子もいつか親を離れるときが必ず来ます。いつまでも一緒にいることはありません。イエス様は、家族の関係が良くても、悪くても、いずれにしてもそれを離れさせ、対立させることによって、わたしたちが依って立つべき場所を教えられるのです。わたしたちの本当の場所は、この地上ではなく、神様のところにあるのです。いつか、必ず、わたしたちは死んで家族と離れることになる。その時は、淋しいと感じるかもしれませんが、それはこの地上での別れでしかないのです。神様がおられる本当の場所で、再会することができる。わたしたちキリストを信じる者にとって、死は終わりではないのです。

 38節「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」。
 わたしたちは、親として、また子として、連れ合いとして、子育てや介護に忙しいときがあります。子育てに一段落したら、しばらくして今度は親や連れ合いの介護をしなければならないこともあります。そのような家族関係の重荷、それを背負いながらでもいいから、わたしに従いなさいとイエス様は言われるのです。家族の中にあるいろいろな重荷、十字架を全部、清算してからわたしに従いなさいとは言われないのです。わたしはこの御言葉にホッとします。子どものこと、親のこと、兄弟のこと、連れ合いのことなど、いろいろな重荷を背負い、苦しいことがあります。イエス様はその苦しみをないかのようにつくろってついて来なさいとは言われないのです。ぼやきや呻きも出てきます。それらをきれいにしてからでなくていいのです。あなたが今、担っているいろいろな重荷をもってきていいのですよ。わたしが一緒に担うから大丈夫と言ってくださるのです。

 39節「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。
 イエス様が進む先には、ゴルゴダの十字架と空の墓があります。苦しい歩みであっても、イエス様がすでに歩まれたその道の先には、復活という希望があるのです。わたしたちにとっての平安、重荷を担いながらよたよたと歩くわたしたちにとっての平和は、家族に象徴されるようなこの世との愛ではなく、自分の十字架を担いながらイエス様と歩む道にあるのです。

 わたしたちは、洗礼によって主イエス・キリストの体である教会につなぎとめられ、神の子とされ、神の家族の一員にされています。わたしたちキリスト者は、ただ、洗礼という恵みによって神様の子どもとされ、集められているのです。教会につながったある青年が行っています。「自分の家族は両親の離婚によって辛いものだったけど、教会に来て嬉しかったのは、教会には自分のお父さんやお母さんみたいな人がいて、ぼくを支えてくれたことです」。また、教会につながった、ある若い女の人はこのようにも言っています。「わたしは自分の父親から虐待を受けて、家を逃げ出して来た時、教会がわたしをあたたかく迎えてくれた。だから、今の私がある」。

 この世への執着と、この世への愛着を捨てることは、実は大変なことです。なぜなら、人とのつながりの中に嬉しいと感じることがあり、この世で嬉しいと思うことの中に生き甲斐があるからです。ただ、それはほんの短い間の喜びです。けれども、イエス様がくださる喜びは違います。この世への愛着と執着からわたしたちを切り離すイエス様がくださる慰めと喜びは、永遠に続きます。だから、わたしたちは自分の命をイエス様のために献げるのです。この世への執着と愛着から切り離されたところ、神様のところに真の平和と平安があるからです。

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。