2013年6月30日 宮島牧人牧師就任式

6月30日午後3時から、宮島牧師の就任式を行いました。たくさんの方にご出席いただき、教会員一同感謝の思いでいっぱいです。皆様ありがとうございました。4時からの茶話会でも、ご祝辞、祝電、ゴスペルシンガーAlex Easleyさんによる讃美と、祝福をたくさんいただきました。

 

 

2013年6月23日 持ち込みプレバザーご案内ほか

6月23日の礼拝後は、「持ち込みプレバザー」を開催します。
お昼ごはんはインドカリー、一食400円。どうぞお立ち寄り下さい。

地の塩と世の光とにつながって  2013年6月9日 家族礼拝説教

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」  マタイによる福音書5章13〜16節

ハンバーグ、ラーメン、スパゲッティー、焼き肉、納豆、みそ汁、カレーライス。これらの料理を作るためには、なくてはならないものがあります。それは塩です。塩がなかったら、ぜんぜん美味しいものは作れません。塩はとても大切なもの、なくてはならないものなのです。ですから、イエス様が「あなたがたは地の塩ですよ」と言われるのは、このように言い換えることができます。「あなたたちは、この社会にとって、とても大切な人です」。「あなたがたはなくてはならない人、あなたがいないと困るのです」。

イエス様は塩のお話をした後に光も同じようにして言われました。光も塩と同じようにとても大切です。太陽の光がなければ、わたしたちは生きていけません。光があるから、暖かくなりますし、光があるから畑の野菜が育つのです。イエス様が「あなたがたは世の光ですよ」と言われるのは、塩と同じように言い換えることができます。「あなたたちは、この世にとって、光のように大切な人です。だから光のように輝いて生きてください」。

わたしたちは、このイエス様の言葉が自分に向かって言われていると受け止めることもできます。「あなたはわたしにとって、また周りにいる人たちにとって大切な人です。あなたがいると嬉しい」。このようにイエス様が自分に言ってくれていると思うと嬉しくなります。しかしながら、わたしたちは同時に、イエス様が2000年前、実際にこの言葉を言った時、どのような人に向かって「あなたたちは地の塩、世の光」と言ったのかを覚える必要があるのです。

イエス様は、2000年前のガリラヤでどのような人たちに向かって「あなたがたは地の塩、世の光」と言ったのでしょうか。今日の箇所の少し前を読むとわかりますが、イエス様は当時、とても貧しい人たちや病気やいろいろな苦しみに悩む人たちに向かってこの言葉を言われたのです。

先日、信徒の友という雑誌を見ていたら、こんなことが書いてありました。福岡県の大学生が15人でワークキャンプとしてフィリピンに行き、学校を建てる作業や家の修理等を11日間してきました。キャンプに参加する前、大学生の多くは、フィリピンは貧しくて助けがないとだめな国と思っていました。彼らの中には「テレビで貧しいフィリピンの国を見たので、実際に貧しさというものをこの目で見たい」という人もいました。けれども、彼らは11日間の滞在で、底抜けに明るく人なつっこい近所の子どもたちや言葉が通じなくても笑顔で親切にしてくれた人たちと出会い、自分たちの考え方が間違っていたと思うようになったのです。大学生の人たちはこんな感想を書いています。「豊かと言われている日本で、自分は悩みが多かった、笑顔が少なかった」。「ボランティアをしに行ったのに、逆にたくさん助けられ、たくさんのものを受け取った」。

イエス様は、ガリラヤの小さな丘の上に集まったいろいろな苦しみや悩みを持った人たちに言われました。「あなたがたは地の塩、世の光です」。普通に考えますと、お金があまりなくて貧しかったり、病気や「障害」などで、いろいろな悩みや苦しみをもっている人は、弱くて、あまり何もできない人たちだと思われてしまいます。けれども、イエス様はその全く反対のことを言われるのです。貧しい人、病気などで悩んだり苦しんでいる人こそ、この世の中を正しくしていく力を持っている。あなたたちこそ、お互いが助け合い、支え合う社会を造っていく力を持っていると言うのです。先ほどの大学生たちがフィリピンで経験したことは、そのことのように思うのです。貧しかったり、いろいろ苦労している人たちが地の塩であり、世の光だから、あの大学生たちは、その人たちから塩と光という元気を頂いたのだと思うのです。

それと同じようなことをまた他の人があの3.11の後に経験しています。東日本大震災の津波で被害にあった宮城県の仙台市の近くの避難所を、その10日後の3月21日に訪れた人の話です。その人がそこに避難してきている人に次のように聞きました。「今いちばん不自由なことやほしいものは何ですか?」。すると、一人が笑顔でこのように答えたのです。「この避難所には食べものもあるし、いまのところ着るものも毛布もあるし、津波で携帯電話も流されたけれど、昨日、新しいのをもらえたんです。ありがたいことに、カゼもひいてないし、打ち身になったところも痛みがおさまってきました。ほしいものは、よく考えてみると特にないですね」。その被災した人の言葉を聞いて、この人は、次のように自分を見つめなおして言うのです。「とりあえず今日を生きるために必要なモノや必要な健康というのは、実はとても限られているのかもしれない。だとしたら、わたしたちはいったい何のために、『あれもほしい、これもほしい』とモノを買い集めてきたのだろう。何のために、『あの人と比べてわたしは』と他人と自分とを比較して落ち込んだり嫉妬したりしてきたのだろう。何のために、『もっと健康に、もっとからだを鍛えて』と夢中になっていたのだろう。考えてみれば、これらはすべて「生活は安全、安心」という保証の上に成り立っていた“命のおまけ”的なもの、とりあえずはなくてもなんとか生きていけるものだったのだ」。

本当に大切なもの、生きていく上で必要なものは、実はそんなに多くないのかもしれない。生きていく上でとても大切なことをその人は、自分よりも明らかに大変な人から教えられたのです。わたしたちは、「本当に必要なものは、じつはそんなにない。だから、今あるものを感謝していこう」と受け止めることを自分よりも苦しい立場に置かれている人たちから教えて頂くのです。

イエス様は、今、貧しさの中にある人や、今、苦しんでいる人に向かって言われます。「あなたはわたしにとって、また周りにいる人たちにとって大切な人、地の塩、世の光です」。それは、貧しい人、苦しんでいる人こそ、この世の中を正しくしていく力を持っている。あなたたちは、お互いが助け合い、支え合う社会を造っていく力を持っている。イエス様はそのように言われます。

もし、自分が今その人たちと同じ立場ではないと思うならば、近くにいる「地の塩と世の光」の人たちとつながっていくのです。自分よりも弱くされ、苦しい立場に立たされている人たち、イエス様が言われる地の塩であり、世の光である人たちとつながって、わたしたちも地の塩、世の光とされていくのです。

2013年6月9日 家族礼拝

今日は、小さな子どもから、年齢を重ねた方まで、共に礼拝に集えました。感謝です!
「地域社会」の力が弱くなり、「無縁社会」と呼ばれる現代の日本で、わたしたち教会は、一人ひとりが必要とされる「神の家族」を形作っています。その「神の家族」にまだつながっていない家族のために、祈り続けてまいります。

2013年6月 第1週のランチ

新しい天と新しい地

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」イザヤ書65章17節

わたしたちは、このイザヤ書が語る御言葉を聞く時に、次のように問いかけられるのであります。ここに示された新しい地を教会によって指し示すことができているだろうかと今一度、立ち止まり、顧みるのです。わたしたちには、既にイエス様の生き様と十字架から復活に至る神様の業によって実現した新しい地が知らされています。しかし、神の国である新しい地は、未だ完全には実現していません。だからこそ、わたしたちは「既に」と「未だ」の間にあって新しい地を指し示し続ける使命が与えられているのです。

17節で主は、その新しいところでは「初めからのことを思い起こす者はない」と言われます。ここには、二つのことが語られています。一つは、神様ご自身が初めからこれまであった様々なわたしたち人間の過ちや罪を思い起こさないと言われることです。神様から命与えられ、神様の御用のために生かされているのですが、イスラエルの民と同じように何度も、神様を忘れ、主の教えよりも自分や周りの人たちの教えを大切にしてしまう罪あるわたしたちです。本当ならば、わたしたちがその罪のゆえに裁かれるべきなのですが、主は言われるのです。「初めからのことを思い起こさない」。この赦しの御言葉を聞く時、わたしたちは、はっきりと想起するのです。この想起することによってわたしたちが初めからのことを思い起こさない、それが二つ目のことです。わたしたちに代わって、わたしたちのために十字架につけられ死んでいったイエス様を思い出すことです。それゆえに、わたしたち自身が経験してきた苦しかったこと、悲しかったこと、辛かったことをもう思い起こすことはなくなるのです。神様が、わたしたちの過ちや罪をイエス・キリストによって思い起こすことを止められたことで、わたしたち自身が負ってきた苦しみや悲しみという名の記憶を神様に委ねる道が開かれたのです。

苦しかったこと、悲しかったことは、その時に流した涙だけでは終わらないことがよくあります。突然に大切な人を亡くした時のあの悲しみは、すぐに消えることはありません。病いや「障害」のために「どうしてこんなに苦しまなければならないのか、わからない。こんな体を与えられた神様なんて大嫌い」と思うほどの苦しみは、そう簡単にはなくなりません。そのような現実があって、その現実に飲み込まれそうになる、弱く小さいわたしたちに主なる神様は言われるのです。19節「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」。それでは、新しい地を指し示すわたしたちの教会では、誰も涙を流さず、誰も叫ばないということなのでしょうか。むしろ、教会は涙を流す者がいて、「神様どうしてなのですか」と叫ぶ者がいるところであって、にもかかわらず、その泣く声や叫ぶ声はずっと続くことはないと伝えるのが教会だと思うのです。教会は、涙を流す者とともに泣くところだからこそ、涙はぬぐいとられ、そして喜びへと変えられるのです。新しい地のひな形である教会の中での喜びは、単に自分たちの願いが叶ったことを感謝する喜びではありません。教会での喜びは、涙を経た後の喜びであり、「神様どうしてなのですか」との叫び声が聞かれた後の喜びなのです。

 

   

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。