2017年12月3日 悲しみは消え去る

◆詩編 82編1〜8節
82:01 【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。
82:02 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。82:03 弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
82:04 弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」
82:05 彼らは知ろうとせず、理解せず 闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
82:06 わたしは言った「あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか」と。
82:07 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
82:08 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

◆イザヤ書51章4〜11節
51:04 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
51:05 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む。
51:06 天に向かって目を上げ 下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。
51:07 わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。
51:08 彼らはしみに食われる衣 虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き わたしの救いは代々に永らえる。
51:09 奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに 遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。
51:10 海を、大いなる淵の水を、干上がらせ 深い海の底に道を開いて 贖われた人々を通らせたのは あなたではなかったか。
51:11 主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る。

◆マルコによる福音書13章24〜37節
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

アドベントに入りました。イエス様がこの世に来てくださるのを待つ時です。イエス様を待つことができるというのは、希望です。漠然と何がやって来るのか、どのような方を待つのかわからないというのではなく、すべての人を救う方をわたしたちは待っているのです。ですから、今、自分がどんなに大変でも「必ず、夜明けはやって来る。暗い夜の後には暖かい太陽の日差しのようなイエス様が来て、『わたしがあなたと一緒にいるからもう大丈夫』と言ってくださる」と信じることができるのです。アドベントはそのようにわたしたち一人ひとりの「信じて待つ気持ち」を強くしてくれます。

キリスト教にはキリスト教の暦(カレンダー)があって、わたしが肩にかけています「ストール」の色もその暦によって変わってきます。お気付きの方もいると思いますが、先週までは緑色でしたが、今日からはアドベントの色の紫です。クランツのローソクも紫ですね。礼拝で使われる色にはそれぞれシンボリックな意味が込められていて、紫には「待望」待ち望む、そんな意味があります。皆さんもよろしければ、来週から紫色の服や紫色のスカーフでもネクタイでもワンポイント、つけて来られるのもいいですね。教会につながって教会の暦の中で生活をしていますと毎年、わたしたちは待降節を経験します。ですから、毎年いきなりクリスマスの日がやって来るのでもなく、町のお店がクリスマスの飾り付けをしたからクリスマスになるのでもなく、アドベントという4週間ほどの待ち望む期間を通して、礼拝を守りつつこの期間を過ごします。そしてイエス様が来られた日を迎えて、その喜びを信じて待ってきた仲間と共にお祝いする。一緒に信じて待つ仲間を与えられているからこそ、わたしたちは辛い時があっても忍耐することができます。その経験を重ねることによって、わたしたち一人一人の「信じて待つ」力が強くされていくんだなぁと実感しています。毎年、当たり前のようにアドベントが来て、クリスマスがやってくるというのではないんですね。神様が信じて待つ時間を与えてくださっているからこそ、わたしたちは一緒にこのように原町田教会に集うことができています。

聖書に登場するイスラエルの人たちは、まさにずっと長い間、忍耐しながら信じて待ってきた人たちです。ただ、いつも信じて待ってきたかと言いますと、そうでもなくて、いろいろと揺れ動きながら、時には神様に背を向けることもありました。しかし、神様は彼らを決して見捨てることなく、預言者などを遣わして信じて待つようにと伝え続けられます。イザヤ書の時代、イスラエルの人たちの国は侵略され、破壊されて、異郷の地であるバビロンに捕囚として連れてこられました。「もう、自分たちの故郷に帰ることなんてできない」。「神様はわたしたちの祈りを聞いてくれない」「神様はわたしたちを救ってくれない」。そのように言いながら、彼らの多くはバビロンの地に住み着いていました。彼らの目は、地上のことに注がれていて、神様が進めておられる救いには目覚めていなかったようです。だから、イザヤを通して神様はイスラエルの民、そして現代のわたしたちに言われます。51章6節「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ」。心を神様に向けるのです。そうすればこれまでとは違った世界が見えてくるのです。あなたたちの目が地上のことだけを見ていたら、この世の中はどんどん悪くなっていて、自分の心も暗くなるし、平和も遠くなっているように思えてしまう。しかし、天に向かって目をあげる、つまり神様がこの地を造られ、今もその創造の業を進めておられると目覚めるならば、6節〜8節のように信じて救いを待つことができるのです。6節「地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」どれだけ大変なことがあっても、神様の救いはまだ終わっていません。続いているのです。人に嘲(あざけ)られても、人にののしられても、しばらくは辛くて苦しいかもしれない。でも、それが永遠に続くわけではない。神様の恵みと救いだけが永遠に続いているのだから、あなたたちは必ず救われる。いや、「『わたしの救いは代々に永らえる』と言われる神様が今も生きておられ、一緒にいて信じて待つ仲間をくださったから大丈夫」と目覚めるなら、わたしたちはすでに恵みの業の中にいると気づきます。教会のわたしたち一人ひとりが「わたしは神に赦され、愛されているんだ」と自分自身を受け入れて、そして弱さや欠けのある自分を受け入れたように、この世で辛く、苦しむ人を「どうぞ、お待ちしていました」と心から受け入れることによってその人も救いの中に招かれるのです。わたしも教会の人にありのままの宮島牧人として受け入れられ「救われたなぁ」と実感する経験を何度もしています。牧師として、幼稚園の園長としていろいろと責任がありますが、でも同時にわたしは弱さを持った一人の人間です。そんなわたしのためにこれまで何度も祈ってもらいました。「宮島牧師のために祈ります。どうぞ、支えてください」と祈ってくれる教会の仲間によって、間違ったり失敗するわたしだけれども、神の子として受け入れられているなぁと思い、救われています。

天に向かって目を上げて、心を神様に向けましょう。わたしたちが生きるこの世は一見、大変なように見えますが、実はすでにわたしたちは救いの中にある。それが見えてくるということ。それが天に目覚めるということだと信じます。

預言者イザヤは、気づいていない、目覚めていないイスラエルの人たちを目覚めさせるためにエジプトから自分たちの先祖を救い出した神様は今も生きておられる方だと力強く伝えます。10節「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」。「あなたではなかったか」と繰り返し、あの恵みの業を成し遂げられた神様に「あなた」とまるですぐそこにいるかのように呼びかけることで、とこしえに続く救いは今も継続中だと伝えるのです。地上のことに心奪われている彼らを目覚めさせようとするのです。神様は永遠ですから、神様は今も生きて、苦しむ時のわたしたちを救おうとしています。目を覚まして神様の働きを見るならば、11節のような素晴らしい世界は、もうすでに始まっていることとして見えてきます。51章11節「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。天である神様に目を向けるならば、その目にはすでに囚われのイスラエルの人たちが解き放たれ故郷に仲間と一緒に肩を組んで、ニコニコしながら帰ってきているのが見えるはずだと伝えるのです。実は、すでにわたしたちは「喜びと楽しみを得」ていて、「嘆きと悲しみ」は消え去っていたんだと気づく。

わたしはキリスト者になってから毎日のように祈り続けていることがあります。それは、この地上に神様の御心である平和が実現することです。武器のない、基地のない、暴力のない平和が実現しますようにと祈り続けています。でも時々、わたし一人がこんなことを祈っていても何も変わらない。だから祈らなくてもいいんじゃないかという悪の囁きを聞きます。これこそ、悪との戦いなのですが、皆さんもそのような声を聞いたことがあるんじゃないでしょうか。今日この後、聖餐式を行いますが、そこでわたしたちは「生活綱領」を読みます。その中に「世界平和の達成を期すること」とあります。「期すること」という言葉の意味を皆さん、ご存知ですか?実はわたしあまり深く考えずに読んでいましたが、この度、調べましたら、「期すること」それは「あることを実現しようと心に誓うことや決意すること」とありました。世界平和が実現しますようにと祈り、働きますとの決意なんです。恵みをいただき、恵みの業によって救われたわたしたちは、永遠であり今も生きて平和を実現するためにわたしたちを用いてくださる主なる神様に目を向けます。

先日、長崎に行き、カトリック浦上教会で行われた宗教改革500年を記念した合同礼拝に出席してきました。その礼拝の中でとっても励まされ、また目覚めさせられる言葉をいただきました。それは、「ローマ教皇とルーテル世界連盟議長による共同声明」の中の一文です。「わたしたちは特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。暴力や過激主義を終わらせるために声を挙げ、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます」。

「あらゆる暴力がなくなりますように、あなたの平和がこの地になりますように」との祈りは、わたし一人の祈りではなく、世界にいるカトリック信者とルター派、それに加えて多くのプロテスタント教会のキリスト者が祈っていることなんだと気づいたのです。ちなみにカトリック信者は世界に12億人とルター派は7000万人、その他のプロテスタント教会信者は5億人ぐらい。20億人を超えるキリスト者が神様の御心である平和を祈っているのです。一人で祈っていても何も変わらないと思ってしまうわたしにとっての目覚めでした。ただ、それよりも大切な目覚めがあります。それはわたしたちキリスト者が祈っている以上に主なるキリストご自身が今も「嘆きと悲しみは消え去る」ようにと平和を祈り、願っておられることです。
わたしたちの平和への思いや言葉は強くなったり、弱くなったりして、時になくなってしまうこともあります。でも、救い主であるイエス・キリストが話された言葉は決して無くなりません。マルコ13章31節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

今がどれだけ苦しくても、必ず救いの時が来ます。イエス様は救い主としてすべての人のところに来られたのですから、必ず救いがやってくるとわたしたちは信じて待つことができます。キリスト教のメッセージは、「十字架と復活」。主イエス・キリストは十字架の死で終わらず復活されました。十字架の後には必ず復活が来る。主イエス・キリストは十字架で死んで、しかし、3日後に復活されて今も生きておられます。今は苦しくても、その後には必ず喜びがやって来る。それがキリスト教のメッセージです。イエス様が今日伝えることも同じです。大変なことがあるけれど、その後には人の子である主があなたたちを救うためにやって来る。その救いの時はすぐ近く、戸口に立っているくらいに近いから、目を覚ましていなさいと言われるのです。
「目を覚ましていなさい」とイエス様は言われます。わたしたちは永遠の神様によって建てられたこの教会を通して無条件に受け入れられて、救われています。わたしたちはこの世にいる特に貧しい人、苦しんでいる人、知らない人を受け入れてまいりましょう。一人でいるとすぐに自分一人では何にもならないという眠りに誘われますから、できるだけ信じて待つ仲間と一緒に集い、わたしたちは神様の御手の中にあって赦され、愛されているんだと信じ、お互いに目を覚ましていられるように励ましあってまいりましょう。

2017年11月26日 こんなわたしでも

◆サムエル記上16章1〜13節
16:01 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:02 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:03 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:04 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:05 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:06 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:07 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:08 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:09 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

◆テモテへの手紙一1章12〜17節
01:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
01:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 01:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
01:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
01:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
01:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

パウロほど劇的な変化を経験した人はいないかもしれません。キリスト者を迫害していた者から、キリストを信じる者に変えられるという経験です。パウロほど劇的ではありませんが、わたし宮島もイエス様と出会って少しずつですが自分の考え方が変えられ、それにともなって生き方も変えられていると感じています。皆さんはどうでしょうか。テモテへの手紙の1章13節でパウロが「以前、わたしは〇〇する者でした」と言うのと同じようにわたしたちも「以前、わたしは〇〇する者でしたが、今は」と言えることがあると思います。例えば「以前、教会の日曜日の礼拝に出席していませんでしたが、今は礼拝に出ています」というのは多くの方が言えることですし、「以前、わたしは聖書の言葉を知らない者でしたが、今は折々に聖書の言葉を思い出します」とも言えます。以前と比べて変わったのは、日曜日の午前中の1〜2時間を教会で過ごすようになったことだけのように思えますが、この礼拝で語られる福音の言葉は、東に向かって進んでいる人を「いや、わたしは東ではなく西に行くんだ」と思わせるほど力あるものだとパウロを筆頭に2000年の教会の歴史に生きた多くの人が伝えています。今日、わたしたちの進む方向を変える御言葉は15節です。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。

ここでいう罪人とはどういう人のことを言うのでしょうか?聖書にはっきりと「正しいものはいない。一人もいない」とありますから、全ての人が正しく、間違いなしに生きることなどできない罪人と言えます。聖書によれば、罪というのは「的外れ」という意味の言葉ですから、神様の願いから外れてしまっている、神様がこうしなさいと言われていることを守れないこと、それが罪となります。「神様を愛して、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたことを守りたいと思っていても完璧にはできませんから、人が神様の前に立つならば誰でも自分の罪を感じずにはいられません。だからこそ、今日の御言葉が心にしみます。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。キリスト・イエスはわたしたち全員をその罪から救うために来てくださったのです。

わたしが「自分の罪」を感じるのは、いつの間にか自分のことを優先して物事を考え、実際にそのように行動して、そのことに後になって気づいた時です。何かをしたい、何かをしようと心に思った時、ふと立ち止まってそれは何のためにしたいのか、誰のためになのかと考えますとなんだかんだ言って結局自分のためなのかなぁと思うのです。ある機会があって外国人問題に取り組んでいる弁護士たちにわたしが行なっている外国人支援のことを話すことになり、ちょっと立ち止まって自分が何のために外国人の人たちの支援をしているのかを考えてみました。わたしが入管収容所に行くようになったきっかけはお世話になったある牧師の一言でした。神学校を卒業する時に、茨城の牛久教会に赴任先が決まったことをその牧師に報告しましたら、「牛久には入管収容所があるから、そこを訪ねたらいいよ。外国人を助けるのはわたしにしてくれたことだとイエス様が言っているからね」と言ったのです。それから9年間、地道に入管収容所にいる人を訪ねてきましたが、どうしてこのように続けていられているのかと考えますとやっぱり自分のためなのかなぁと思います。入管収容所の中で何ヶ月も、長い人は1年、2年と収容されている外国人が「宮島さん、助けてください」と言ってくる。わたしのできる範囲で手を差し伸べ、その人が収容所から出ることができ、「宮島さん、助けてくれてありがとう」と言われた時は嬉しい。そのように心から喜んでくれるのが嬉しくて続けているのかもしれません。でも、この活動を続けていられるのはその牧師を通してきっかけを与えてくれた神様の力があるからだと信じています。ですから、「宮島さん、ありがとう」と言ってくる外国の人にわたしは「神様に感謝してね。神様があなたを助ける天使として宮島を遣わしたから」と言っています。

人のために良かれと思ってやったつもりが他の人の努力の邪魔をしてしまうこともあります。目の病気をしているナイジェリア人のJさんが入管収容所から出るために保証人を必要としているとナイジェリア人のEさんから聞きました。入管もJさんの病気を気にしているので早く申請すればすぐにでも入管から出られるとのこと。Jさんと面会しましたら、彼も早く出たいと言うので、仮放免を申請しました。わたしは1日でも早く出られるといいなと単純に思っていたのですが、何日かして医療支援をしている団体の方から電話があり、Jさんは外にいると目の治療にすごくお金がかかるからあえて入管に収容されてその中で適切な治療を受けて直してもらった方が良いとのこと。弁護士ともそのように相談して決めたことだから、勝手に仮放免を申請しないでくださいと言うのです。1週間ほどして入管からJさんの申請は許可されたという連絡がありました。わたしはJさんに医療支援をしている方の話を伝えましたが、Jさんはとにかく出たいというのです。「出た後の治療の支援はあの団体から受けられなくなるし、わたしも経済的な支援はできないけど大丈夫?」と聞くと「大丈夫だ」というのです。そこで彼の気持ちを尊重し、彼は仮放免されました。しかしその直後ですが、医療支援をしていた方から「宮島さんが責任をとって彼の目の治療をしてくれるのですか。それが無理ならどうして仮放免したのですか」とお叱りを受けました。自分が良かれと思ってしたことであってもそれが人の気持ちを傷つけてしまうことがあります。自分の都合を優先せずにJさんを支援する人たちとの話し合いをしていけばよかったと思っています。

他の人を傷つけず、迷惑をかけずに生きていくことはなかなかできないわたしですから、「配慮が足りなかった」「どうしてあのようなことを言ってしまったのか。やってしまったのか」と後になってから反省して、落ち込むことがあります。最近もあることで落ち込んでいたのですが、神様は今日の御言葉でわたしを励ましてくださいました。16節「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。主イエス様の忍耐には限りがありません。「限りない忍耐をお示しになった」とパウロが言うのは、こんなわたしは許されないだろうと思うほどのことをしたパウロが十字架につけられたイエス様と出会い、こんなわたしでも神様は憐れんでくださると信じることができたからです。パウロは、イエス様を信じる人たちに暴力をふるい、ステファノが石で打たれて殺された時には彼もそこにいてそれに賛成していました。改心した後のパウロには自分が何か償いをしなければならない、自分の命に匹敵するものによって償いをしなければならない、心の深いところでウズウズと癒されない傷のような罪悪感があったはずです。しかし、イエス様がこんな自分のため、自分の罪のために十字架にかかってくださったこと、イエス様の十字架には償うことのできない罪はないと気づき、彼の心の傷は癒されました。だからこう言うのです。14節「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」

こんなわたしをも神様は憐れんでくださいます。聖書が伝える憐れみとは「人が苦しんでいるのを見て、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べる」と言う意味で、英語で言えば「コンパッション」です。苦しみを意味するパッションを「コン」共にしようとする。人が苦しんでいたらその痛みを感じてその人のかたわらに立とうとする。それが憐れみです。パウロは十字架につけられたイエス様と出会い、あの苦しみはわたしの苦しみのためなんだと受け止めたのです。どうしてあんなことをしてしまったのだと後悔と罪悪感に苦しむ中で「あなたの苦しみと痛みをわたしの十字架に委ねなさい」と聞いて、彼はそうしたのでしょう。

「こんなわたしでも神様は憐れんでくださる」。わたしたちの理屈や思いをはるかに超えた神様のご計画がここにあります。それは神様がダビデを王として選ばれる時と同じです。主なる神様はサムエルに言いました。「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は眼に映ることを見るが、主は心によって見る」。神様はわたしたちが見るようには見ません。サムエル記では神様の選びがテーマとなっていますが、テモテへの手紙と共通しているのは、「こんなわたしもですか?」というわたしたち人間の驚きです。サムエルから見れば、王にふさわしいのは長男のエリアブだろう、見た目も良いし長男だからと思うのですが、神様が選ばれたのは末っ子でまだ小さい少年のダビデでした。ダビデにしてみれば「こんなわたしでいいのですか?お兄さんたちでなくてどうしてわたしなんですか?」と思ったことでしょう。

今日は、収穫感謝の日として、横浜市の寿町で路上生活をしている人、いわゆる「ホームレス」の人たちのために毎週500〜600食の炊き出しをしている寿地区センターで炊き出しの食材として使ってもらうために日々、神様からいただいている食料品などの恵みやその他の献金をここに捧げました。年に1回するだけでは自己満足かもしれません。でも、これも神様がわたしたちを用いてくださる神の業です。イエス様が言われています。「与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる」。お望みでしたら、わたしたちを用いてくださいと捧げましょう。神様が今、皆さんの中に生きて働いてくださっているのですから、こんなわたしですが用いてくださいと祈りましょう。

2017年10月15日 信仰によって

◆ヘブライ人への手紙11章17〜22、29〜31節
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

◆マタイによる福音書21章18〜32節
21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

◆詩編31:22〜25節
31:22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を
都が包囲されたとき、示してくださいました。
31:23 恐怖に襲われて、わたしは言いました
「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを
嘆き祈るわたしの声を
あなたは聞いてくださいました。
31:24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
31:25 雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。

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ヘブライ人への手紙の11章の御言葉は、わたしたちを励ましてくれる言葉が繰り返し出てきます。11章の1節から31節まで「信仰によって」「信仰によって」「信仰によって」と繰り返し、信仰によって神様を信じて生きてきた人たちの証が示され、神様を信じる信仰がどれほどにその人に勇気を与え、一歩また二歩とその人を前進させるのか、この11章を繰り返し読みますと、その神様の力、神様を信じることによって与えられる力がずんずんと伝わってきます。何よりも信仰はその人の生き方と直結している、信仰はわたしたちの行動とつながっているということを強く感じます。

11章17節にはアブラハムの名前があります。17節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです」。アブラハムと妻サラは若い頃からずっと「神様、どうか子どもを与えてください」と祈り願い続けてきたのに与えられず、もうこんな年寄りに子どもは無理だととっくにあきらめていた頃に神様はイサクという息子を2人に与えました。でも、イサクが少年に育ったとき神様はアブラハムに言いました。「イサクを焼き尽くす捧げものとして捧げなさい」。焼き尽くす捧げものですから、イサクさんの命を奪わなければなりません。「神様、どうしてですか?」。アブラハムはどれほど悩み、苦しい思いをしたのでしょうか。ただ聖書はアブラハムが淡々と神様に従ってイサクを献げたと伝えます。アブラハムがイサクを献げようと刃物で彼の胸を刺そうとしたその時、神様が「アブラハム、アブラハム」と言って彼を止めたのです。(幼稚園の子どもにこの物語を話しますとこの場面で子どもたちはグーっと引き寄せられていきます。)ヘブライ人への手紙では「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じていた」と伝えます。創世記では神様が繰り返しアブラハムに伝えていた約束があります。「あなたの子孫にこの土地を与える」「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムは神様が「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた約束を心から信じていましたし、たとえイサクが死んだとしても生き返らせることもできると信じていたからこそイサクを捧げようとしたのです。

信仰によってアブラハムはイサクを献げた。信仰によってイサクは祝福を祈った。信仰によって、ヤコブは祝福を祈り、神を礼拝した。信仰によってヨセフは自分の遺骨について指示を与えた。信仰によって人々は紅海を渡った。信仰によって、エリコの城壁は崩れ落ちた。信仰によってラハブは探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ、殺されなくても済んだ。この「信仰によって」という約束はこの後もずーっと続いて、今もわたしたちの中に生きています。信仰によって原町田教会のわたしたちは祝福を祈り、「信仰によって」わたしたちは今礼拝を捧げています。信仰によって「わたしの命は神様のものです」と信じますから心が平安になります。信仰によってわたしたちは一人ではない、イエス様がこの教会としてわたしと共にいてくださると信じルことができます。だから安心します。

この聖書箇所を読んでいて気づくのは、信仰とは神様の約束を信じて一歩前に進むことだということです。モーセに率いられてエジプトを出た人たちは、信仰によって海を渡りました。今日もわたしたちは信仰によって一歩二歩と教会に向かって進みましたし、ここから出て行くときも信仰によって神様から示された挑戦を持って一歩前に進むのです。

誰かが言ったことを信じて挑戦するって、実はみなさんは小さい頃からすでに経験済みです。たとえば、自転車に乗ることもそうです。わたしの場合は小学校の3年生ぐらいだったと思いますが、友だちが自転車に乗っているのをみて、自分も乗りたいと思い、父に話しました。そして「大丈夫、乗れるようになる」と父の励ましの言葉に支えられて、何度も挑戦し、ついに乗れるようになりました。友だちが乗っているのを見て自分も乗ってみたいと思ったこと、父親の「大丈夫」という言葉を信じて挑戦したこと。自分が大人になって自分の子どもにも同じように「大丈夫、できるよ」と励まして子どもが乗る自転車を何度も押してあげたこと。みなさんも似たような経験をしているはずです。信頼できる人が言った言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦したこと。必ずあるはずです。そして、今度は自分が他の誰かを励ます。聖書が伝える「信仰によって」も全く同じです。神様の言葉を信じて生きている身近な人の姿に感動し、わたしも神様を信じて生きていきたいと思うようになる。そして神様が言われた約束を信じて励まされ、勇気をいただき自分なりに挑戦してみる。一度でうまくいかず、失敗することもありますが、でも信じて挑戦し続ける。それが真の親なる神様が言った約束を信じるわたしたちの姿です。

先日、原町田幼稚園で「みんなで運動をする日」がありました。その日に向けて子どもたちはいろいろなことに挑戦していました。年長クラスたんぽぽさんたちは鉄棒に挑戦していました。ある子は前まわりに挑戦、別な子は逆上がりに挑戦です。子どもたちは友達が逆上がりをできるようになるとそれに刺激されて「わたしもやりたい」と思う。信頼する先生が「○○ちゃん、できるよ」「そうそう、もう少し」と手伝ってもらいながら、何度も何度も挑戦して突然ある日できるようになるのです。一人で逆上がりができるようになった時の喜びは「ね、見て見て」と自分ができるところを見てもらって「すごいね」と言われることで何倍にも大きくなります。

わたしたちはみんなキリストによって神様の子どもとなりましたから、何歳になっても幼稚園の子どものように神様からの「大丈夫。恐れることはない。わたしがあなたと共にいるからチャレンジして」という言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦します。何に挑戦するのか。それは一人一人違っていることもありますし、同じこともあります。

教会は神様から色々な課題を受けて、それに挑戦しようとする者の集まりです。わたしたち原町田教会は今、神様から一つの課題を受けています。それは会堂建築のことです。わたしたちがこうしてこの礼拝堂で安心して礼拝を捧げ、伝道の柱として幼稚園を運営できているのは、この礼拝堂と幼稚園を建てようと50年ほど前に挑戦してくれた先達たちがいたからです。この礼拝堂と幼稚園を建てた先達たちは神様の約束を信じて勇気を出して一歩前に踏み出したから、これを残すことができました。イエス様は言います。今わたしたちが挑戦しているそれが神様の御心であると「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られ」る。

何のために神様がわたしたちに信仰を与えたのでしょうか。皆さんは何のためだと思いますか。皆さん自身を支え、一人でも多くの人に神の愛を伝えるために皆さん一人ひとりを用いるために神様が信仰を与えてくださいました。わたしたちが神様の御言葉に支えられて励まされて「わたしは本当に神様を信じて生きていることが嬉しい」と証しながら生きているならば、それを見た人がわたしも信じたいと思うでしょう。自転車や鉄棒に挑戦したくなる子どもたちと同じです。神様の約束の御言葉を信じて生きることの素晴らしさを証するためにわたしたちを生かしてくださっています。

イエス様も言っています。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。信じて祈って「立ち上がって海に飛び込め」と挑戦するのです。はじめからそんなの無理です、難しいと言いたくなるところですが、それは人間の力では無理なことでも、神様が言われたことですから、信じて祈って挑戦していいのです。山を動かすのはわたしたち人間を通して働かれる神様の力です。

御言葉を信じ、一歩前に踏み出しなさいとわたしたちを励ます言葉が聖書には満ち満ちています。例えば「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。「明日のことまでも思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない」。神様が聖書を通して、その時のその人に必要な御言葉を語られます。ヘブライ人への手紙に出てくる一人一人が信仰によって神様からいただいた御言葉と同じです。

信じることってものすごい力です。神様がわたしたちにくださったものの中でも最高に良いものです。「これ、とってもいいから買ってみて」って、初めて会う人に言われるのと、何年も付き合いのある信頼できる人に言われるのとではその信頼度は違いますし、この人が言うなら本当だと信じて実際に買ってみることもありますよね。ましてや、天地を創造された神様が約束されていることならそれを信じて「よし、やってみよう」と安心してさらに一歩踏み出せるはずです。神様が今もわたしたちの間に生きて働かれ、御言葉によって力づけ導いてくださるのですから、「信仰によって生きる」ということ、こんなに素晴らしいことはありません。

頭がいいとか、聖書のことをよく知っているとか、そういうことは信じることとはあまり関係ありません。イエス様が言っているじゃありませんか。「徴税人や娼婦たちは信じたからあなたたち祭司長や民の長老よりも先に神の国に入る」。聖書も神様もよく知っている祭司長や民の長老は、ヨハネが示した道を信じませんでしたが、聖書のこともほとんど分からない徴税人や娼婦たちは、その道を信じました。信じるってことは知識うんぬんではないのです。「あなたが何をしたわけでもなく、ただ神様があなたを大切だと思うからイエス様によってあなたを赦し、あなたを神の子としてくださいました」。この神様の御言葉を信じて、そして一歩前に出て「わたしは神様を信じます」と発表する。そこに救いがあるのです。教会の仲間と一緒に「アーメン、その通りです」と言う。教会には神様を信じて一歩前に進む仲間がいます。信じて生きるというのは一人の出来事ではなくて教会の出来事なんですね。

2017年9月3日 希望によって救われている

◆ローマの信徒への手紙8:18〜25
08:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
08:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
08:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
08:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
08:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
08:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
08:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
08:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

◆マタイによる福音書13章24〜33節
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

◆詩編90:1〜12
90:01 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:02 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。
90:03 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:04 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:05 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:06 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:07 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り あなたの憤りに恐れます。
90:08 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:09 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

8月の日曜日のことですが、初めて原町田教会の礼拝に来られた人が礼拝後の入門講座に出てくれました。その人はご自身が10代の時にしばらく教会に通っていたそうですが、ある時から行かなくなってずーと教会から離れていました。でも、ついこの間、ふとした時に「慈しみ深き、友なるイエスは」と賛美歌を口ずさんで、急に教会に行きたくなって、そしてその日曜日、礼拝に出席したと話してくれました。その人は次のように言いました。「わたしの中に種がまかれていたんですね」。

神様が蒔いてくださった種は、蒔かれたその時にはそれがとても小さくてその素晴らしい価値にはほとんど気づきません。でも、命がその種に宿っていて、その人の中に根を張り、芽を出して成長し、いつの間にかその人を導くほどにもなる。自分の中に蒔かれた種に導かれて久しぶりに礼拝に集ったその人だけでなく、皆さんの多くもそのような経験をされていると思います。教会以外のところで、日常生活の中で、突然に聖書の御言葉が浮かんでくる。突然に賛美歌の言葉が自分の中から出てくる。教会で会ったあの人のことが思い出される。教会で語られた説教の短い言葉が自分の中に立ち上がってくる。そして、その言葉が自分を神様に導いていく、そんな経験です。

イエス様は言われました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。

わたしは牧師になる前、信徒として教会生活を11年ほど過ごしましたが、礼拝に出席していて毎週のようにこの御言葉はすごい、今日の説教も素晴らしかったと感動していたかと言いますとそうではありませんでした。時に仕事で疲れて説教中に寝てしまったこともありましたし、説教を聞いていてもピンとこない、わからないこともありました。皆さんもそうだと思います。聞いたその時にはわからない、心に響かない。けれども、確かに命の種はその時、皆さんの中に蒔かれているのです。神様が皆さんの中に蒔かれたその種には命が宿っていますから、やがて根を張り、芽を出し成長して大きくなります。ただ、種が根を張り出し、芽ぶくにはその種に適した条件が整わなければなりません。わたしも以前、マリーゴールドやペチュニア、ベゴニヤなど花壇の花を種から発芽させて作っていましたが、それぞれの花によって発芽する温度が違うので、その花に合わせて温度を調整したりしました。芽が出る条件が整うまで種はじっとその時を待たなければなりません。種の中には長い期間生きるものもあれば、数ヶ月で芽が出なくなるものもあります。種がどれくらい生きるのか調べましたら、数十年前のことですが千葉県で弥生時代の遺跡の発掘をしていた時に約2000年前のハスの種が3粒発見されて、そのうちの1つの種は発芽に成功したとありました。2000年間も芽が出る時をその種は待っていたのです。種は発芽の条件が整うまで長い間、命をしっかりと保ちながらじっとその時を待つことができます。皆さんの中にも神様によって蒔かれた命の種があって、その中にはすでに芽吹いたものもあれば、芽吹かずにそのままじっとその時を待っているものもあるでしょう。確かなことは、蒔かれた時のその種はとても小さいけれど、いったん芽を出して成長すれば、木のように大きく成長するということです。その命の種が皆さんの中に確かに蒔かれているのです。

イエス様は、わたしたちの中に蒔かれた命の種は蒔かれた時は小さくても、成長して大きくなると言われます。いったい、どうやったら芽を出し、鳥が巣を作るほどに大きく成長していくのでしょうか?水をあげ、肥料をあげなければならない、自分がまず何かしなければならないのでしょうか?しかし、イエス様は何も言われません。別のたとえでイエス様は種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのかは人にはわからないと言い、パウロさんも「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と伝えます。わたしたちにできることは、何よりも蒔かれた種を成長させてくださる神様を信じることです。「神様が必ず、成長させてくださる。だから、焦らずじっと待とう」と信じ続けるのです。

教会生活をしていて、時々聞くことですが、例えば伝道委員の人がある人に「今度、礼拝の後の証をお願いしたいのですができますでしょうか?よろしくお願いします」と頼みました。するとその人は「わたしはまだ信仰が浅いですから難しいです」と言って断りました。皆さんも「信仰が浅い」という言葉、聞いたことがあるかもしれません。でも皆さんはどう思いますか?信仰にはレベルがあって、浅いとか深い、低いとか高いなどと測ることができると思いますか?信じることの中身をどうやって浅いとか深いと判断することができるのでしょうか?知識の量ですか?それとも教会に通っている年月でしょうか?信仰の浅い深いは決して測ることができません。何故ならば、信仰は神様がくださった命の種の一つだからです。

信仰も神様から与えられたもので、わたしたち人間が努力して勝ち得たものではない。神様が命の種である信仰を与えてくださったからこそ、わたしたちは「神様を信じます」「神様がこのわたしをイエス様によって赦し、神の子としてくださったと信じます」ということができるのです。

先日に参加した研修会でルーテル学院の江藤先生からマルティン・ルターのことを学んできましたが、とってもいいことを聞きました。信仰義認という言葉がありますが、信じることによって神様があなたを良しとする、救われるという意味の言葉ですが、江藤先生は、信仰義認は誤解を招くから「恵み義認」とした方がいいと言ったのです。信仰というとわたしたち人間の側の努力が求められる、信じるというわたしたちの行為が何よりも必要と勘違いしてしまいがちですが、わたしたちが信じるのは、まず第一に神様がわたしたちを招いてくださり、神様が「わたしはお前の創造主としてお前を愛し、わたしの子どもとする」と語りかけてくださっていることです。わたしたちが先ではなく、神様が最初にわたしたちを愛し、祝福し、数え切れないほどの恵みを与えてくださり、御子イエス様の命によって赦してくださっている。その恵みによって、わたしたちは神様を信じることができるのです。その講演会で初めて知ったのですが、ドイツ語で礼拝のことを、神(Gottesゴッテス)と奉仕(dienstディンストゥ)をくっつけて「Gottesdienst」というのです。ルターさんは、礼拝とは人が神へ奉仕するのではなく、神が人間に奉仕することとして理解していたというのです。実際にわたしたちが捧げている礼拝も、まず初めに神様が皆さんを招詞によって招き、聖書を通して神様が語りかけ、説教によって神様が福音を伝え、聖餐によって神様が罪の赦しと新しい命を与え、祝福と派遣によって神様が皆さんを世に遣わされる。その神様からの恵みに応える形で、わたしたちは賛美歌を歌い、祈り、信仰を告白し、献金を捧げるのです。わたしたちが何か、神様に奉仕したから救われたのでもなく、わたしたちが神様に献金をたくさん捧げたから罪赦されたのでもなく、ただ神様が全ての人を救うためにイエス様を送ってくださり、ただ神様が全ての命を大切に思っているからイエス様によって神の子としてくださったのです。

神様がわたしたちの中に蒔いてくださった種は皆、良い種です。信仰もそうですし、希望もそう、愛もすべて神様が蒔いてくださったものですから、良い実を実らせます。でも、残念ながらわたしたちの中には毒の種もまじっていて、芽を出して毒の実を実らせてしまうこともあります。自分の口から出る言葉によって他の人に毒づいてしまったり、自分の中にある毒で人に迷惑をかけてしまうこともあります。その場の雰囲気で何気なく言ってしまったことを後になって「あの時はまずいことを言ってしまったなぁ」と思うこと。ありませんか?自分で気づけばまだいいんですが、自分の言った言葉で他の人が傷ついてもまったく気付かないこともあります。

わたしの中にも毒があります。わたしはその毒に気づいているつもりなのですが、なかなか変えられないでいます。その毒は見方によったら良いところもあるのかもしれませんが、でもやっぱり毒ですね。仕事は早いけど雑という毒。教会の皆さんもそろそろお気づきだと思いますが、原稿依頼されたものとかは、結構早くに終わります。でも、その中身はどうかと言いますと、早いですからちょっと雑です。この「早いけど雑」によってわたしは以前の教会でも、またこちらでも何度かご迷惑をかけています。思いつきで計画を立てるところまではいいのですが、あまり深く考えていませんので、役員会や執事会で提案しても計画倒れすることがこれまでに何度もありました。計画段階ではこれはいいと思うのですが、なにぶん時間をかけるのが苦手ですから準備不足、説明不足なのです。

こんな毒を持ち、またこの口から出る言葉で人に傷つけて迷惑をかけてきたわたしなのですが、神様は「その毒麦をすぐに抜きなさい」とは言わずに「そのままにしておきなさい」と言ってくださるのです。ありがたいなぁと思います。今、わたしがここにこうして生きていられるのも神様が忍耐してくださっているからなんだとイエス様のたとえを読んでわかります。「毒麦なんか生やしておいたら良い麦まで悪くなるからすぐに抜いてしまいなさい」とは神様は言われません。「毒麦を抜き集めておきましょうか?」と聞く人に主人である神様は「いや、麦も毒麦も両方とも育つままにしておきなさい」と言われます。本当ならば、すぐにでも抜かれて束にされて燃やされてしまう毒を持ったわたしを刈り入れの時まで待ってくださる。この神様の忍耐があるから、わたしたちは今も赦されて生きています。

ローマの信徒への手紙でパウロさんが「わたしたちはこのような希望によって救われているのです」と言っているのは、まさに神様の忍耐のことです。もちろん、厳しく悲しく、恐ろしいことがわたしたちの現実にはあります。神様の恵みや神様の愛が見えなくなってしまい、自分の中の毒が元気になってしまうこともあります。そしてなぜか、わたしたちは現実に起きている悲しいことや苦しいことの方に心が傾いてしまう。でも、わたしたちは必ず完全な形で「神の子とされる」「この体が犯してきた罪は全て赦される」と信じて、その時を待ち望むことが赦されています。必ず神様がそうしてくださると信じるわたしたちはすでに救われています。ローマ8:24「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。このような希望。目に見えないけど確かに希望の種が与えられていることがわかります。「あなたは必ず神の子とされる」「あなたが犯してきた罪は全て赦される」。

毒麦も良い麦も育つままにしておきなさいと忍耐を持って待ってくださる神様がいます。その神様が今日も良い種をわたしたちの中に蒔いてくださいました。その種が神様の愛によって芽吹き、神様の忍耐の中で育ちわたしたちを支え、導いてくれるとの希望によってわたしたちは皆、救われているのです。

2017年8月27日 ここにわたしの家族がいる

◆マタイによる福音書12章46〜50節
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

今日、イエス様はわたしたちに「天の父の御心を行う人は、わたしの家族だ」と言われました。これはとても嬉しい言葉です。誰でもどんな人でもイエス様の家族になることができるからです。
どこで生まれたとか、どのように育ったとか、どこの学校を出たとか、なんの仕事をしたのかとか、できるできない、能力のある、なしに関係なく、ただ神様に愛されているあなたとして迎え入れてくれるイエス様の家族となる。心も体も安心して憩えるところ、イエス様に「おかえり」と受け入れられる神の家族ですから、「ここにわたしの家族がいる」とイエス様に言ってもらえるわたしたちは幸せです。

でも、皆さんの多くは「天の父の御心を行う人」という言葉にひっかると思います。「あなたは天の父なる神様の御心を行なっていますか?」と聞かれたら、「わたしは神様の御心を行うことなんてできていません」と言うんじゃないでしょうか。自信ありげに胸を張って「わたしは御心を行っています」なんていう人がいたら、心の中で指に唾をつけて眉毛に塗る人がいるんじゃないでしょうか。

もし、皆さんの近くにいる小さな子どもさんが、お孫さん、甥っ子さん、幼稚園、小学校の子どもかもしれませんが、ある時、こんな質問を皆さんにしたらなんと答えますか?「神様の御心って何?」。幼稚園でも時々、「神様ってどこにいるの?」などズバリの質問を受けることがあります。同じように「神様の御心って何?」と聞かれて、皆さんはなんと答えますか?神様の御心、神様が思っていること。小さい子どもですから簡潔にわかりやすく答えなければなりません。「聖書を読めばわかるよ」なんて答えるのもいいかもしれませんが、わたしでしたら、牧師としての意地がありますから、このように答えたいですね。「神様が『大好きだよ』っていつもわたしに言ってくれているから、同じように神様と近くの人にも『大好きだよ』って言えるようにすることかな」。神様と隣人を愛すること。これはとっても難しいことですから、結局、御心を行うことなんてできやしないと皆さん思われるんじゃないでしょうか。神様の御心を行うなんてできない。でも、本当にそうなんでしょうか。

神様の御心、神様が思っておられることをイエス様が何度か、はっきりとお話しくださったことがあります。その一つに次のようなたとえ話があります。イエス様が「100匹の羊のうち、1匹が迷い出てしまい、その1匹を探しに行って、それを見つけたら、その1匹のことを喜ぶだろう」と言って、このように続けました。「そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。小さな者の一人でも滅びることは天の父の御心ではない。「わたしは聖書をあまり読んでもいないし、いい加減な信仰生活を送っているから御心なんて行うことはできないダメなキリスト者だ」と思っている小さなあなたに神様は「わたしから離れていって滅びてほしくない」と思っておられる。そうイエス様は言われます。

福音書を読んでいますとイエス様がしきりに「福音を信じなさい」「恐れることはない。神を信じなさい」と言われていることがわかります。神様はわたしたちのためにイエス様を送ってくださり、その赦しによってわたしたちを神様の子どもとしてくださったと信じる。ただ、神様の憐れみによってのみ、私たちは神様を賛美することができ、イエス様の十字架の赦しによってのみ「わたしは神様を信じます」と言うことができる。わたしたちが何か良いことをしたからでもなく、ただ神様の憐れみと赦しがあったからだと聖書は伝えています。

詩編では繰り返し「神様を賛美せよ」とありますから、神様がイエス様によってしてくださったことを繰り返し覚えて、「神様は素晴らしい方です」と賛美する。それも神様の御心です。こんな小さなわたしを神様は憐れんでくださり、滅んでいきそうになるわたしをイエス様によって救ってくださった。「神様、ありがとうございます。あなたの御名を賛美します」とこれまでも、そして今日もこれからも礼拝する皆さんは、神様の御心を行なっていると言えます。

もちろん、日々の生活のほとんどの時間は、神様の思いではなく自分の思いを優先して考え、行動しているのがわたしたちです。御心を行なっていますなんて自分では言えないと思うのは当然です。だからこそ、神様は教会を与えてくださり、教会でささげる礼拝だからこそ自分の思いを横に置いて心を神様に向けて、神様を賛美し、神様を信じますと告白するのです。

今年の夏も子どもの教会のキャンプで奥多摩に行ってきました。あいにくの雨で川遊びはできませんでしたが、その代わりにアイデアを出しあって、楽しい室内運動会をしてきました。今年のテーマは「聖書」でした。いっぱい遊び、紙すきをしたり、何も書いていない無地の扇子に絵や文字を書いたり、黒い皮に文字を書いた聖書カバーも作りましたし、礼拝も何回もして、子どもたちと一緒に神様を賛美して、聖書が伝えるメッセージを一緒に聴いてきました。小学校1年生から5年生までの子どもたち27人のほとんどは原町田幼稚園出身ですが、まだ神様からの素晴らしい福音が十分に伝わっているとは言えません。ですから、すでに福音を受け入れ、福音を信じている奉仕者たちは一生懸命に子どもたちに喜びの知らせを伝え、また一緒に楽しい時を過ごしました。イエス様はこのように言われています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。このイエス様の言葉は神様の御心そのものですから、子どもたちに神様のこと、神様はイエス様の命をくださったほどにみんなのことが大好きだよと福音を伝えている原町田教会は、御心を行なっていると言えます。直接、子どもの教会の働きに繋がっている人はもちろんですが、繋がっていない人であっても、皆さんが献げている献金が子どもの教会を支えていますし、子どもの教会の働きを覚えて祈っているその祈りも大きな支えとなっていますから、それは教会として御心を行なうことになるのです。子どもの教会は教会全体の働きなのですから、直接働いている奉仕者とまた直接繋がっているない皆さんも福音を伝える御心を行う働き人なのです。

イエス様は、「あなたの母上とご兄弟たちが外で立っています」と言った人に「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と弟子たちの方を指して言いました。その弟子たちとはどんな人たちだったのでしょうか?私たちとは違って御心を行う力がある立派な人たちでしたか?聖書が伝える彼ら、弟子たちのほとんどは東北ガリラヤの無学な漁師や徴税人でありました。福音書を読めばわかりますが、原町田教会に集うわたしたちと変わらない、良いところもあれば、ダメなところもある人たちです。ペトロさんもいれば、ユダさんもいますし、イエス様をゲッセマネに置き去りにして逃げ去るそんな弟子たちを指差してイエス様は「ここにわたしの家族がいる」と言われ、続けて「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族だ」と言ったのです。ということは、たとえばこの原町田教会の特別伝道礼拝の講師にイエス様が来られお話をしていたとします。その時にイエス様のお母さんと兄弟たちがやってきて、「ちょっとどうしても会いたいので呼んできてもらえますか」と受付をしていた人に言いました。受付の人はイエス様のところに行って「ご家族がいらしています」と伝えます。するとイエス様は原町田教会に集うみなさんを指差してこう言うはずです。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。みなさんを指差してイエス様は言うのです。「ここにわたしの家族がいる」。嬉しいですね。神様が真の親であり、イエス様をお兄さんとした神の家族です。イエス様があなたはわたしの家族だよ、ここにわたしの家族がいると言ってくださるのですから、これは本物です。

イエス様は大きな心でわたしたちを家族として迎え入れてくれています。ですから、わたしたちもそれにならって、教会にやってきた人をあまりその人のことを詮索せずに、神の家族として受け入れたいですね。「どこで生まれたのか。何歳なのか。何ができるのか。どんな仕事をしているのか。などなど」。いろいろと聞きたくなりますが、まず、神様があなたを家族として迎え入れていますよと受け入れたいですね。

御心を行うってどういうことなんだろうと思っていましたら、イエス様がゲッセネマで苦しみながら祈った、あの祈りの言葉が浮かんできました。これから自分は十字架につけられて殺されるかもしれない。いやきっとそうなる。わたしたちと同じ体の痛みを感じられたイエス様は苦しみ悶えながらこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。痛い思いをしたくない、苦しみたくないと願うイエス様でしたが、でもその自分の願いでなく、神の思いである御心が行われますようにと祈りました。わたしたちも苦しいことにぶつかったり、痛い思いをすることもあります。そんな時、「神様、どうか助けてください。この苦しみをわたしから取りのけてください」と祈ります。イエス様がそう祈ったのですから、そう祈っていい。でも、いつも自分の願った通りになるとは限りません。そんな時であっても、わたしたちは「御心が行われますように」と祈ることができるのです。神様の御心はわたしたちを滅ぼすことではありませんから、必ずその苦しみに耐えられる逃れの道を示してくださる。滅びではなく、救ってくださる。いやすでに「御心が行われますように」と神様に祈っている時点で救われている。神様と繋がっていることが救いですし、こんな状態で苦しんでいるわたしですら神様は愛し、「わたしはお前を決して見捨てない」と言われていると信じられるからです。「御心が行われますように」と祈ることができるのは、まさに神様の御心なのです。

パウロさんがカイサリアにいた時のことですが、パウロさんのところにユダヤから来た人が訪ねて来て、パウロさんの帯をとって、それで自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に渡す」と言いました。それを聞いた教会の人たちにパウロさんは「主イエスの名のためならばエルサレムで縛られるばかりか死ぬこともさえも覚悟している」と言ったのです。パウロさんのその覚悟は確かで人の思いでは変わらないだろうと思った教会の人たちは、彼に向かってこのように言いました。「御心が行われますように」。

わたしたちも自分のこと、あるいは他の人のことで自分の思うようにことが進まない、そんな経験をします。そんな時、心配したり、落ち込むこともあれば、どうしてこんなことになるんだと怒りを感じることもあるでしょう。でも、わたしたちは「御心が行われますように」という祈りを知っています。神様の御心は自分の思いとは違う。でも、御心は必ず滅びではなく良い実を結びますから、神様を信じて「御心が行われますように」と委ねるのです。「御心が行われますように」。この言葉を口に出して祈ってみてください。イエス様が祈った言葉です。「御心が行われますように」とみなさん、神様を信じて祈ってください。そのように祈るのはすでに御心を信じて委ねる皆さんなのです。イエス様は原町田教会に集うわたしたちに向かって今日、言ってくださいました。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。

 

2017年7月16日 「良いものをくださる」

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◆聖書 テモテへの手紙一2章1〜8節
02:01 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
02:02 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
02:03 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
02:04 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
02:05 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
02:06 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
02:07 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
02:08 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

◆聖書 マタイによる福音書7章1〜12節
07:01 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
07:02 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
07:03 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
07:04 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
07:05 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
07:06 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
07:07 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
07:08 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
07:09 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
07:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
07:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
07:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

2017年6月18日「立ち帰って生きよ」

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◆聖書
エゼキエル書18章25〜32節
25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。
27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。
28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。
31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

使徒言行録17章22〜34節
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
28 皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。
29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
33 それで、パウロはその場を立ち去った。
34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

2017年5月14日 「イエス様を通って」

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◆聖書◆
◆ヨハネの手紙一2章1~11節
02:01 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
02:02 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
02:03 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
02:04 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
02:05 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
02:06 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
02:07 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
02:08 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
02:09 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
02:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
02:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

◆ヨハネによる福音書14章1~11節
14:01 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:02 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:03 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:04 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:05 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:06 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:07 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:08 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:09 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

2017年4月23日 「一緒にいるから大丈夫」

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◆聖書◆
◆イザヤ書65章17~25節
65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。
65:19 わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
65:20 そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ百歳に達しない者は呪われた者とされる。
65:21 彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。
65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。
65:23 彼らは無駄に労することなく生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる。
65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答えまだ語りかけている間に、聞き届ける。
65:25 狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

◆使徒言行録13章26~31節
13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
13:28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
13:29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。

2017年3月12日 「喜びと楽しみがあなたを迎える」

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◆聖書
イザヤ書35章1-10節
01 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。
02 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
03 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。
04 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
05 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
06 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。
07 熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは 葦やパピルスの茂るところとなる。
08 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。
09 そこに、獅子はおらず 獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。

マタイによる福音書12章22-32節
22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。