2017年4月23日 「一緒にいるから大丈夫」

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◆聖書◆
◆イザヤ書65章17~25節
65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。
65:19 わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
65:20 そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ百歳に達しない者は呪われた者とされる。
65:21 彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。
65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。
65:23 彼らは無駄に労することなく生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる。
65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答えまだ語りかけている間に、聞き届ける。
65:25 狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

◆使徒言行録13章26~31節
13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
13:28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
13:29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。

2017年3月12日 「喜びと楽しみがあなたを迎える」

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◆聖書
イザヤ書35章1-10節
01 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。
02 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
03 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。
04 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
05 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
06 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。
07 熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは 葦やパピルスの茂るところとなる。
08 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。
09 そこに、獅子はおらず 獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。

マタイによる福音書12章22-32節
22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

2017年2月26日 「あなたを決して手放さない」

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◆聖書
マタイによる福音書14章22-33節
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

2017年2月5日 「見て、聞いているから幸いだ」

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◆聖書
マタイによる福音書13章10~17節
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

2017年1月15日 「御言葉食堂へようこそ」

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◆聖書
エゼキエル書 2章 1節-10節
02:01 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
02:02 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
02:03 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
02:04 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
02:05 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
02:06 人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。
02:07 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。
02:08 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」
02:09 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。
02:10 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。

エゼキエル書 3章 1節-4節
03:01 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
03:02 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、
03:03 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
03:04 主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。

ヨハネの黙示録 10章 8節-11節
10:08すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」
10:09そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10:10わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
10:11すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」

2016年12月18日 わたしたちは一人ではありません

◆イザヤ書 第7章10〜14節
07:10 主は更にアハズに向かって言われた。
07:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
07:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
07:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
07:14 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

◆マタイによる福音書 第1章18〜23節
01:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
01:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
01:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
01:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
01:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
01:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

カナダ合同教会の信仰告白がとても素敵です。最初はこう始まります。「We are not alone, we live in God’s world.」「わたしたちは一人ではありません。わたしたちは神の世界に生きています」。I am not alone、わたしは一人ではありませんとは言わずにWe are not alone、わたしたちは一人ではありませんというところが、教会の信仰告白だなぁと思います。

先日、病院に入院していた90過ぎの方が回復して、老人ホームに移られたと聞きましたので、早速その方をホームまで訪ねました。明るい感じの開放的なつくりのホームの広間で3人の方達がテーブルに座ってお茶を飲んでいる中にそれらしい後ろ姿が見えましたので、「Kさん、原町田教会の宮島です」と声をかけますと、ゆっくり振り向いて「あ、」とわかってくれました。席を変えて少しお話をしました。Kさんがそこに移られてまだ1週間ちょっとでしたので、多分わたしが一番に来たんだろうと思っていましたら、「先日、教会の方が来て下さいました」とKさんが言うのです。むむ、原町田教会やるなと思いました。やはり「We are not alone.わたしたちは一人ではありません」なんですね。神様がわたしたちと共にいてくださるとの信仰告白が原町田教会のみなさんの中に生きています。神様がわたしたちと共におられる。だからホームに入った人を尋ねます。逆に「わたしは一人ではありません」という個人的な信仰告白であれば、皆さんそれぞれが個人的に神様と繋がっていることになりますから、極端に言えば、教会に集まって一緒に礼拝をささげる必要も無くなります。でも、神様とわたしたちの関係はそうではありません。毎週日曜日にこの礼拝堂に集って、神様からの御言葉を神の家族と一緒に聴き続けます。教団の信仰告白にこうあります。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」。

神様がわたしたちと共におられるとの信仰に支えられて、わたしたち原町田教会は、お互いに祈り合い、電話をしたり、ハガキを書いたり、訪問したりして、互いにつながっています。それは、ごく当たり前のように思われるかもしれませんが、聖書を読みますとそうでもないことがわかります。旧約聖書の時代では、神様がわたしたちととても近くにいてくださると信じることは難しかったからです。旧約の時代から、人々は苦しい時や困難に直面した時など、「神様、どうかわたしたちと共にいて、助けてください」と祈ってきました。それは、神様が高いところ、遠いところにおられて自分たちの手の届く方ではないと信じていたからです。モーセさんの場合などが典型的です。シナイ山に一人で登るよう神様に言われたモーセさんが山に登りますと、山全体を煙に包まれ、山を激しく震えさせました。それを見ていた人たちはみんな、恐ろしくなってブルブルと震えました。神様はわたしたちと一緒にいてくださるような方ではなく、近寄りがたい恐ろしい存在として捉えられていました。でも、神様がイエス様という人となってくださり、わたしたちのところに来てくださり、神様はわたしたちと共にいてくださる方なんだと信じることができるようになりました。

今日の聖書箇所のイザヤ書にも「共にいてくださる神様」が示されています。7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この言葉は、南ユダ国が近隣から攻撃を仕掛けられるかもしれない、しかも、一つの国だけでなくアラムとか、同じ民族である北イスラエルも一緒になって攻め上ってくるかもしれない、神様、どうかわたしたちを守ってくださいという切なる祈りへの応えとして主なる神様が語られたものです。インマヌエル。神様はわたしたちと共におられる。

それから長い年月を経て、片田舎のガリラヤに暮らすマリアさんを通して、神様はインマヌエルを実現してくださいました。「神様、わたしたちと共にいて支えてください。守ってください」との祈りに、神様がしるしとして応えてくださったのが、イエス様の降誕の出来事です。

あるカトリックの司祭がこう言っています。「神は人となった。彼は、わたしたちと共に苦しんでくださる。痛みの理由について、彼は語られることなく、自ら痛みの人となった。わたしたちは孤独の中にあっても、もはや独りではない。神はわたしたちのそばにいてくださる。わたしたちは、もはや孤独ではなく、連帯性の中に結ばれている」。教会はキリストの体です。みなさんの「わたしたちは一人ではありません。神様が共にいてくださるから」と信じる信仰の心によって教会は教会として立っています。神様がわたしたちと共にいてくださるとの御言葉が与えられていて、それを心から信じられるのは恵みであり、神様の業です。

オリーブ会や若穂会、壮年会やからしだねなどの例会では、教会に来ていない人がいると、「あの人、どうしてるんだろうね」という話によくなります。ある会に出た時に「○○さんに電話をしてもらえると嬉しいです」と言われたことがあります。わたしはその声にあと押しされて、ながらく礼拝に集っていない人にハガキを送り、またちょっとしてから電話をかけてみました。電話では「だいぶ元気になってきましたが、小さなことが気になってなかなか行けないんです」とその人が話していましたので、わたしはこう言いました。「神様がわたしに○○さんに電話をしなさいって言われたように感じて、今電話しました。ですから、神様が宮島を通して話しかけていると思っていただけると嬉しいです」。その人は「12月中には行けると思います」と言ってくださいました。

以前、聞いた話ですが、イギリスで実際にあった出来事を紹介します。ある時、交通事故が発生しました。車の下に男の人が挟まってしまい、人間の力ではどうしようもない状態になりました。事故の現場にはたくさんの人が集まり、成り行きを見守っています。その人は車の下敷きになったまま、ウンウン唸っていましたが、救急車やレッカー車はなかなか到着しません。その時です。一人の男性がさっと車の下に入り込んだというのです。何かが起こるのかと、また何か新しい事態になるのかと、人々は期待しました。しかし、何も起こりませんでした。長い時間が経過して、やっと救急車とレッカー車が現場に到着しました。そして、挟まっていた人は助け出されて、病院に運ばれ、見物人たちは、あとから車の下にもぐりこんだ人のことなどすっかり忘れて、去って行きました。しかし病院で手当てを受けた被害者の男性は、やがて人々にこんなことを語ったのです。「自分は車の下でとても不安でした。怪我をしているし、これから自分はどうなるのか。見物人がいっぱいいることがかえって苦痛でもありました。その時、一人の男性が自分の側に入り込んできました。その人はわたしにこう言ったのです。自分は何もできないが、でも、あなたの側に一緒にいることだけはできます。だからそうします。その人はわたしのそばでずっと一緒に寝ているだけでした。でも、それはとても心強く、たいへん慰められました。今こうして助け出され、元の体になってみると、あの不安の中であの人がそばにいてくれたことがどんなに重要であったかがわかります。あの人は何も語らず、ただわたしのそばで一緒にいてくれただけです。でも、自分のことを思ってくれる人が今ここにいる。それがわかるだけでとても慰められ、力づけられました」。

神様はわたしたちを共に生きる者としてお造りになりました。創世記でアダムさんを造られた後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて肋骨を取られて、もう一人の人を造られました。新約聖書に記されている教会のために書かれた手紙には、互いにという言葉が繰り返しでてきます。「互いに励まし合いなさい」「互いに愛し、互いに相手を優れたものと思いなさい」「互いに相手を受け入れなさい」「愛によって互いに仕えなさい」「互いに重荷を担いなさい」。神様がわたしたちと共にいてくださるから、皆さんは互いに助けあうことができますし、それこそ「わたしたちは一人ではない」との信仰告白に生かされている証しではないでしょうか。

今、原町田教会では、会堂建築の話をしています。今の礼拝堂は皆さんと牧師が向き合う形ですが、教会によっては、聖餐卓を丸く囲んで、礼拝に出席している皆さん同士が互いに顔を見ることができる形の礼拝堂があります。その形はその教会は繋がっている人たち同士の交わりを大切にしていることを示しています。もちろん、原町田教会も週報の裏面の「原町田教会 3つの目標」にあるとおり、交わりを大切にしていますと文章で示していますが、それを形で表すことも会堂建築が具体化したら考えられます。会堂の形で私たちの信仰のあり方を表すこともできるのです。

神様はわたしたちと共にいてくださる。神様がわたしたちのところに来てくださって、わたしたちと同じように病気になって苦しみ、わたしたちと同じように孤独を感じて「死ぬばかりに悲しい」と言われ、わたしたちと同じように空腹を感じられ、そんな課題、問題を抱えるわたしたちと全く同じ人となって来てくださいました。神様が来てくださり、一緒にいてくださるのだから、問題はスッキリなくなるというのではありません。むしろ、問題があるところに神様が来てくださり、一緒に悩み、苦しんでくださいます。インマヌエルなるイエス様はそのようなお方です。イエス様の父になる前のヨセフさんもまさに問題の真っ只中にいました。ヨセフさんはマリアさんと婚約していましたが、マリアさんと一緒になる前にマリアさんが妊娠していることがわかったからです。イスラエルの律法に従えば、彼女はその相手とともに石打ちの刑で死ななければなりませんでした。けれども、ヨセフさんはマリアさんを守るために結婚をやめて、縁を切ろうと考えました。そのような苦しみの只中、問題の只中にあったヨセフさんのところに神様が来てくださり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。原町田教会にも問題は色々あります。問題を抱えたわたしたちの只中に主イエスは来てくださり、わたしたちと共に悩み苦しんでくださいます。

カナダ合同教会の信仰告白の最後はこのように終わります。「In life, in death, in life beyond death, God is with us. We are not alone. Thanks be to God.私たちの生と、死と、死を超えた生において、神は私たちと共におられます。私たちは一人ではありません。神に感謝します」。

2016年11月10日 最も小さい者の一人に

◆マタイによる福音書25章31〜46節
25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、山羊を左に置く。
25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

神学生時代、わたしは横浜市中区にある「なか伝道所」の礼拝に1年間、研修のために通っていました。妻と上の娘は当時、牧師館をお借りしていた横浜本牧教会の礼拝に出席し、わたしは下の娘がまだ1歳になる前でしたが、彼女をおんぶして自転車に乗って2人でなか伝道所の礼拝に出席していました。わたしの赴任先が茨城県の牛久教会に決まり、そのことをなか伝道所の牧師に報告した時のことでした。その牧師がわたしに「牛久には入管の収容所があるから、そこに行くといい。マタイ福音書25章で『牢にいたときに訪ねてくれた』とイエス様が言われてますよ」と言ったのです。そのことがきっかけとなって、わたしは茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに収容されている人たちを訪問するようになりました。

それまで、わたしはそこがどんなところなのか、まったく知らなかったのですが、入管の収容所に行ってみて初めて、そこは刑務所と同じような厳しいところだということがわかりました。窓のない畳10畳ぐらいの部屋に多い時には7~8人が生活していて、施設の外に出るどころか、その部屋から出ることも午前3時間、午後も4時間ぐらいしか認められていないので、1日の大半をその部屋で過ごさなければなりません。部屋から出られる時間に室内で卓球やサッカーなどのスポーツはできても、刑務所のような労働時間はありませんので、あとは何もやることがない状態になります。食事は毎日、ほとんど同じメニューで朝は二切れのパン、ゆで卵、200mlのミルクまたはジュースです。昼食や夕食もご飯とスープとおかずというように同じようなものが続きます。そこからいつ出られるのか、刑期のようなものはありませんし、強制退去命令が出されている人は、いつ強制的に国に送還されるのかわからない恐れに不安の日々を過ごしています。国に帰っても、家族がいて仕事があるならばそうしますが、そこに留まる多くの人は国に帰ることが難しい人たちです。中には難民として命の危険から逃れるために来ている人もいますし、移民として仕事を求めて、働きたくて来ている人もいます。

わたしが入管収容所の中にいる人たちを訪ねるのは、助けを必要としている人がいるからで、そのきっかけを作ってくれたのが、マタイによる福音書の25章の御言葉です。原町田教会の礼拝にも時々、外国籍の方が来られます。そのほとんどが以前、入管に収容されていた人たちですから、どうぞ、皆さん、教会に来た彼らをこれからもあたたかく迎えてあげてください。入管収容所から出られた彼らですが、出た後の生活もなかなか大変ですから、彼らのためにもお祈りください。

このマタイ福音書25章の御言葉に導かれて、わたしはとっても素敵な人たちと出会ってきました。先日のゴスペルコンサートに出演してくれたAlexさんと出会ったのも牛久の入管でした。背が高くて、会う人たちと楽しそうに大きな声で「ガハハ」と笑っているAlexさんがゴスペルシンガーだったとは、出会ってからしばらく知りませんでした。馬鹿でかい声で笑う楽しいアフリカ系の人を、まさか原町田教会のコンサートに招くことになるとは夢にも思っていませんでした。御言葉を信じて、小さな一歩でも前に踏み出せば、神様が道を開いてくださるんだなぁと実感しています。ですから、「お腹が空いています」という人に出会えば、すぐに何かを差し上げ、病気の人がいて、入院したと聞けば、できるだけ早めにその人に会いに行くようにし、入管収容所にも定期的に行くように心がけてます。御言葉がわたしたちの道を切り開いてくださいます。

新共同訳聖書には、小見出しがありまして、今日の箇所には「すべての民族を裁く」とあります。なんだか、この見出しだけを見ると厳しい感じがしますが、実際にここを読みますとそうではなくて、イエス様がわたしたちにどのように生きて欲しいのか、その生き方を伝えていると受け止めることができます。今もイエス様がわたしたちの生きるこの社会で最も小さい者として生きておられて、あなたが「この一人にしたのは、わたしにしてくれた」のですよと言われています。イエス様は、世の終わりの時に小さな一人にしてくれなかった人を永遠に罰したいからこう言われたのでなく、皆さんは神様によって「助ける者」として造られていますから、そのように生きるのが、あなたの喜びなんだよと言われているのです。
 
ここで王として登場しているイエス様は、終わりの時にすべての人たちを右と左により分けて、まずはじめに右にいる人たちに「お前たちはいろいろと世話をしてくれた」と言われます。しかし、彼らは自分の業績をほとんど気にしていない人たちのようです。自分が積み重ねてきた過去の業績や成果をいちいちしっかりと覚えていて、それを誇りに思う人でもないようです。だから、王様から「あの時あなたはわたしにこれこれをしてくれましたね」と言われても「いつそんなことをしましたっけ」と覚えていない。肩肘はらず、自然体で小さな者を助けるこの人たちが素敵です。

次に左側の人たちに王は言われます。それもいきなり「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の前に用意してある永遠の火に入れ」と言い、「いつ、わたしたちはお世話しなかったですか」という人たちに対して、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった」。だから、お前たちは永遠の罰を受けると言われます。

ここを読みますと、いかにも自分の業績が評価されることなど望んでもいない、「そんなこと、しましたか?」という右側の人たちのようになりなさいよと勧められている感じます。ただ、わたしはつい先ほど、この御言葉がきっかけとなって入管収容所という牢屋のようなところにいる人を訪ねるようになったと皆さんにお話ししました。この御言葉があってそうするようになったのですから、当然自分のしていることをどうしても意識してしまいます。ですから、終わりの時、主の前に立ったわたしに、「あなたは病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれましたか?」と聞かれたら、すぐに「はい、しましたよ。マタイによる福音書25章に書いてあることをできるだけ守ろうとしました」と言うと思います。

そんなわたしがどうして今も入管に訪ねて行くのか、その理由はこの聖書の御言葉がきっかけになったことは確かですが、それよりも前にわたしが経験したことと関係があります。それは大学の時に行ったフィリピンやインドで、経済的にとても貧しい人たちに出会ったことです。その時に「どうしてこんなに貧しい人がいるのだろう」という心の痛みや、「この人たちにわたしは何かできることがあるのか」とわたしなりに苦しんだ経験があって、それが今の自分につながっていると思うのです。ですから、日本という国に来て苦労している人にできることがあればしたいと思うようになりました。

今年の2月に天に召されました佐藤初女さんも同じようなことを言っています。彼女は17歳の時から35歳くらいまで17年間、ずっと闘病生活をしていました。長い長い闘病生活が終って、ようやく苦しみから解放されたとき、彼女は「これ以上の幸せはない。これからはもう何をすることも厭わない」と思ったのです。彼女は70歳を過ぎてからですが、青森県の岩木山麓で「森のイスキア」という居場所を作り、悩みや問題を抱えた人たちを受け入れてきました。佐藤初女さんは、ある本の中でこんなことを言っています。「わたしは心や体を病む人と接する機会が多いのですが、自分の体験から、その人たちのために親身になって考えてあげることができます。お見舞いや看病の仕方、どうすれば病人が癒されるかということが、単なる言葉や知識としてでなく、体でわかっているからです。17年余りの闘病生活は、人生にとってマイナスの時間と人には思われるかもしれません。ですが、わたしは闘病の体験から、病で苦しんだこと以上に大きく大切なものを与えられていると思うのです」。

みなさんもそれぞれに痛みを感じたり、苦しい経験をされていると思いますが、神様はその痛みや苦しみをそのままにされないで、ご用のために用いてくださいます。その一つの道がマタイ25章です。皆さんが経験する痛みや苦しみは、それを経験しているその時には、ただただ、早く過ぎ去ってくれと祈り、自分からそれがなくなることを願います。しかし、痛みや苦しみはそう簡単に自分の中からなくなるものではありません。治療や時間によって治り、それが過ぎ去ったように思っても、傷として心や魂に跡を残すことがあります。その傷跡を見るとあの経験が自分の人生にマイナスだけを残したように感じるかもしれません。しかし、神様はその経験を用いて、他者を助ける糸口としてくださるのです。旧約聖書にこのような言葉があります。「あなたたちの中にいる外国人、寄留者を助けなさい。何故ならばあなたたちもエジプトにいた時、外国人、寄留者だったから」。マイナスだと思っていたあの経験が人を助け、実はそれが自分にとってもプラスとなる。

みなさんが経験した痛みや苦しみは、必ず他者を助けるために用いられます。イエス様は今も、小さい者として、わたしたちの中におられ、こう言われます。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

2016年10月2日 石を取りのけて出て来なさい

◆ ヨハネによる福音書11章28〜44節 
11:28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35イエスは涙を流された。
11:36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

イエス様はベタニアに着きました。そのベタニアでは、イエス様の到着を待っている人たちがいました。ラザロさんの姉妹マルタさんとマリアさんです。彼女たちは、イエス様が到着するのを今か今かと待っていたのですが、ようやく会えた時には、「今頃来たけど、もう遅い」、そう心の中で思っていたようです。病気であったラザロさんはすでに墓に葬られて4日もたっていました。マリアさんはイエス様にこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。この言葉の中には彼女のいろいろな思いが詰まっています。大切な兄弟が病気のために死んでしまった。主であるあなたが彼の死ぬ前にここに来て、彼を癒してくださっていれば、こんなことにはならなかった。使いの者をやったのに、あなたはすぐに来てくださらなかった。どうしてなんですか?彼女はすんなりと兄弟の死を受け入れることができません。あなたはなぜ助けてくれなかったんですか?イエス様に対する怒りにも似た気持ちが伝わってきます。イエス様はラザロさんが弱り死んでいく時、そこにはいませんでした。マリアさんは、イエス様がそこにいなかった。だから兄弟ラザロは死んだ、と言うのです。

みなさんの中にも受け入れがたい現実にぶつかった時に彼女と同じような思いを持った人がいらっしゃると思います。神様に向かって「どうしてなんですか?」と怒りに近いものを感じたり、こんなひどいことが起こっても神様は何もしてくださらない。あるいは神様なんかいないからこんなことが起きた、神様がいたらこんなことは起きなかったはずと涙を流しながら訴えかけたかもしれません。神様、なぜこんなに苦しい病気をお与えになったのですか?なぜ、あの人が死ななければならないのですか?そのように問いかけた時、みなさんは神様から答えをいただいたでしょうか?何も答えてもらっていないと思う方もいるかもしれません。イエス様が本当に今も生きておられるなら、その時に答えてくださってもいいのに、何も聞こえてこない、そう思うのです。

イエス様は彼女の訴えをお聞きになり、彼女が泣いているのを見て心に憤りを覚え、興奮されました。ある聖書ではそのイエス様の様子をこのように訳しています。「マリアの泣くのを見、マリアとともに来たユダヤ人たちの泣くのを見て、ギリギリと歯を食いしばり、目を真っ赤にし」た。
 
イエス様もマリアさんと一緒に「なぜなんですか?」と叫ぶような気持ちになられたのです。イエス様は言われました。「どこに葬ったのか」。このイエス様の声には、怒りに近い響きを感じます。

みなさんがマリアさんのように「どうしてなんですか?」と神様に訴えかけ、神様は何も答えてくれないと思っても、イエス様はあなたと一緒に嘆き、目を真っ赤にして「なぜなんですか」と叫んでくださいます。その声が聞こえないと思うのは、その声に気づいていないだけなのかもしれません。確かにイエス様はあなたと一緒に怒りの思いを込めて「なぜですか?」と目を真っ赤にして言われています。

この世にあるいくつもの不条理に向かってイエス様は「神様、神様、なぜ、この人をお見捨てになるのですか?」と今も世界のあちこちで叫ばれています。地震や水害などの自然災害で突然に大切な人を亡くした人が「神様、なぜなんですか?」と呻く言葉を主イエス様は確かに聞かれています。テロによって突然に命を奪われた人の家族、病気で思いもしなかった時に死んでいった人の家族の叫びをイエス様は聞いてくださり憤りを覚えて「なぜ」とその人たちと一緒に叫ばれています。

イエス様のその憤りに気づく人もいたようですが、そうでない人もいました。イエス様の憤りをわからない彼らは言いました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。今、まさに進行中の神様のご計画が見えないのです。神様の御業を見えなくする力が彼らの心を覆っています。同じように皆さんの目を塞いで神様の御業を見えなくする大きな石があります。それは皆さんの心にささやく声です。「自分は救われないんじゃないか」「わたしは天国に行けないのではないか?」「こんなダメ信徒、ダメキリスト者が証などしていいのだろうか」。あなたはイエス・キリストによって救われたと神様の御業が示しているのに、心の目が神様の方ではなく自分の方に向いてしまい、「救われないんじゃないか」と思ってしまうのです。「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」「わたしたちの本国は天にあります」「天への道はイエス・キリストによって開かれた」と主は救いを宣言されているのですが、心の目が自分の方に向いていると、「こんなわたしは天国に行けないのではないか?」と思ってしまうのです。そのように大きな石によって塞がれた人の心の目を開くためにイエス様は叫ばれます。「その石を取りのけなさい」。みなさんが救われたのは、みなさんが良いことをしたからではありません。神様がみなさんを愛しているからです。みなさんが天国に行くことができるのは、皆さんの努力の結果ではありません。イエス様の十字架と復活があったからです。自分のことでなく、神様があなたにしてくださったことに目を向けるためにもあなたの心の中にある「石を取りのけなさい」とイエス様は言われるのです。

そう言われて皆さんは「はい、イエス様。そうします」と応えられるでしょうか?石を取りのけるのはイエス様でなく、皆さん自身です。「でも、イエス様。石をどかしても何も変わりませんよ」とどこか心の中で思っていませんか?もう、こんなに歳をとりましたから、石をどかす力もありません。わたしは病気ですから、石をどかすことはできません。そう言い訳して石を動かすことに消極的になっていませんか?マリアさんも「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と人間の現実に目を向けて文句を言っています。

あまりにも人間の現実がひどくて、神様が見えなくなることがあります。祈っても祈っても一向に憎み、争い、殺し合いはなくなりません。祈っても何も変わらない。むしろこの世は前よりも悪くなっているんじゃないだろうかと思ってしまいます。神様は平和をもたらすことができないのか。わたしたちの現実の中の不条理が大きな石となって神の栄光を隠し、見えなくしています。「主よ、苦しみや悲しみは一向になくなりません。もう何もできません」。マリアさんはわたしたちの現実を主イエス様に伝えました。イエス様は言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」。

イエス様の声に促されて、人々は石を取りのけました。どんな気持ちだったのでしょう。どうせ無理だよと思っていた人もいたでしょう。こんなことしても意味がないと思う人もいたでしょう。でも、人々はイエス様の言葉に押し出されて石を取りたのです。もし、人々が石を取り除けなかったら神の栄光は見られなかったはずです。イエス様が一人で洞穴をふさぐ石を動かすことはできたかもしません。しかし、イエス様は自分一人で石を取りのけず、人々にそれを任せました。石を動かすのは、みなさん一人一人なのです。
 
最近の祈祷会では、イエス様のたとえ話のシリーズをやっていますが、先日、タラントンのたとえを学びました。マタイによる福音書25章14〜30節の御言葉です。祈祷会では、まず聖書を読んで、10分間ほど黙想をし、それぞれが御言葉から与えられたことを分かち合っていきます。その中である人が面白いことを言いました。「このたとえでは5タラントンもらった人も、2タラントンもらった人も商売に成功しているけど、たとえ5タラントンもらった人が商売に失敗し、負債を抱えてしまっても、神様である主人は同じように『忠実な良い僕だ。よくやった。』とほめたはず。二人とも成功しているので、儲けることがいいことのように読めてしまうけど、神様の思いに忠実であることが大切だから、このたとえ話に失敗した人もいれたらよかったのに」。

わたしはとっても励まされました。福音伝道のためにこれまでも色々と挑戦しては失敗を繰り返してきたわたしですが、たとえ失敗したとしても神様が望んでいることはこれだろうと信じて、これからも挑戦し続けていこうと思うことができました。福音を伝えてもなかなか教会につながってくれる人は増えていきません。他の教会でこのクリスマスには6人がバプテスマを受けましたなんて聞きますと、いいなぁと思って自分はダメだなと思ってしまいます。人と自分を比べてしまって、神様がわたしにくださったものが見えなくなってくるのです。だから、イエス様は「石を取りのけなさい」「神様があなたを心から愛していると信じることができるように神様の方を見なさい」と言われます。

石が取りのけられますとイエス様は続けて言われます。「ラザロ、出て来なさい」。洞穴の中に閉じこもっていないで、人間の現実ばかりに目を向けていないで、そこから出て来なさいと言われます。勇気を持って心の中にある石を取り除いて、一歩外に出てみますとそこには明るい陽の光があります。信仰生活は「出て来なさい」とのイエス様の呼びかけに応えるところことから始まります。「こんな私が何の役に立つのか。自分なんかに何ができるのか」と心をふさごうとする石を取り除いて、主イエス様にできないことは何もないと信じてまず一歩でも半歩でもいいのです。信じて外に出るのです。イエス様は今も、これからもあなたのために祈ってくださいます。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。

神様にできないことは何もないと信じることができるように、イエス様はわたしたちのために今も祈ってくださっています。失敗を恐れずに心の中にある石を取り除きましょう。主イエス・キリストが必ず助けてくれると信じて、与えられた福音を伝えるために外に出てまいりましょう。

2016年9月25日 神の栄光のために 

◆ヨハネによる福音書11章1〜16節
11:01ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:02このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:03姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:04イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:05イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:06ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:07それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:08弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:09イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

原町田教会には、エルサレムに旅行に行った人が何人かいらっしゃると聞いていますが、ベタニアという名前の村には誰も行かれたことはないと思います。行きたくても行けないというのが現実で、そのような名前の村は現在、存在していません。ただ、ある本によれば「エル・アザーリエ」、日本語にしますと「ラザロのところ」という村は今もエルサレムの近くにあるそうです。
イエス様の時代、ベタニアという村はエルサレムから3キロほど離れたところにあって、イエス様はガリラヤからエルサレムに行くときには度々ベタニアを訪れていたようです。どうして、イエス様はこの村に何度も足を運んでいたのでしょうか。それは、5節にあるとおり、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」からだと思います。

今日の聖書箇所に登場するラザロさんは、実はマルコによる福音書に登場するベタニアに住むシモンさんと同じ人ではないかと思うことがあります。先ほど、読んでいただいた11章2節には「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」とありますが、マルコによる福音書でも重い皮膚病のシモンさんの家で一人の女が高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたと記されているからです。今日の箇所では、ラザロさんが重い皮膚病であったとは書かれていないのでヨハネ福音書のラザロさんとマルコ福音書のシモンさんが「同一人物であった」とはっきり言うことはできません。しかし、重い皮膚病のゆえに周りから怖がられていたならば、シモンさんと言う名が本当でラザロという偽名を使っていたか、あるいはその反対だった可能性があります。実際、日本でもハンセン病の疑いをもたれると、施設に収容される際にその人の名前は家族の戸籍から抜かれ、家族とのつながりを分からないようにするために名前を変えさせられたという歴史があります。

イスラエルの地でも、重い皮膚病にかかると、自分の家から出て行かなければなりませんでした。イスラエルには同じ病気の人を隔離する村があったと考えられます。レビ記にこのように記されています。13章45節「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状のあるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。ベタニアの村が重い皮膚病にかかった人たちを隔離する村だったのかもしれません。イエス様は病気のためにベタニアで暮らさざるをえないラザロさんやそこに暮らす人たちを心にかけていたので、その小さな村を何度も訪れていたのだと想像します。

重い病気にかかると体の痛みだけでなく、人とのつながりまで断ち切られてしまうことがあります。ラザロさんも隔離されるためにベタニアという村に暮らさなければならなかったのかもしれませんが、ただ、ラザロさんの場合は、彼を愛する姉妹、マリアさんとマルタさんが共に暮らしていたようです。姉妹たちがどれほどラザロさんのことを大切に思っていたのかが伺えます。そのラザロさんが病気になったと姉妹たちが使いの者をイエス様に送って伝えました。皮膚病の影響なのかもしれません。とにかくすぐにでもイエス様に来てもらいたいと思った姉妹がイエス様の居場所を聞き出して、なんとか使いを送ったのです。イエス様はそれを聞かれてこのように言われました。4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。

病気になると、とにかく1日も早く治りたいとわたしたちは願います。病院に行き、病気の原因がわかり、「ま、薬を飲んで休めば治りますよ」と言われるとホッとして「神様ありがとうございます」と祈ります。でも、医学が発達した現代でも、なかなか原因がわからず、すぐに治らない病気になることもあります。いわゆる難病といって、現代医学でも治療できない病気があります。わたしたちの教会にも、そのような病気を抱えながら日々を歩んでいる仲間がいます。すると今度は、どうして神様はこんな病気を与えられたのか。神様、どうしてなんですかと神様に不満、怒りをぶつけます。神様は良いお方なのにどうしてこんなひどいことを見過ごされるのか。どうして助けてくれないのか。家族の病気、病気と苦しい闘病生活。そして病気によって天に召されていくかもしれないのに。

神様のなさることがわからなくなることがあります。「どうして」と問わずにはいられないことがあります。イエス様が言われたこともイエス様がされた行動も、どうしてなのかと疑問に思います。足のなえた人を立ち上がらせ、目の見えない人の目を開くイエス様であれば、姉妹のことづてを聞いたら、すぐに出かけて行ってラザロさんの病気を癒すことができたはずです。でも、イエス様はすぐにその場をたってベタニアに向かおうとされませんでした。2日間も同じところに滞在したのです。「あなたの愛している大切な人が病気です」と言われれば、すぐに行動してもいいはずですが、イエス様の動きは遅すぎます。2日たった後にようやく「もう一度、ユダヤに行こう」、「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。まるでラザロさんが死ぬのを待つためにイエス様は2日間そこに滞在したかのようです。弟子たちもイエス様の言われたことがわからずに「また、そこに行かれるのですか?」と聞いたり、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言っています。

よくよく考えてみますと、神様のなさることでわからないことがあって当然です。もし、自分に理解できること、納得できるところだけを取り上げて感謝するのであれば、それはその人がつくりあげた神様となります。宇宙を創造された神様のご計画をわたしたちがぜんぶ理解することなど到底できることではありません。神様を信じていても納得できない現実があります。神様は、御子イエス様をこの世にお与えになったほどに世を愛された方なのに、どうして未だに苦しみがあるのか。自分が、あるいは親しい人が治る見込みのない病気になってしまったが、それにも神様のご計画があるのか。理解できない、納得できない現実に信仰が揺らぐこともあります。イエス様の周りにいた弟子たちも、その渦中にいた時は主の思いを全くわかっていませんでした。弟子たちが言っていることは、トンチンカンなことばかりです。トマスさんなど、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と的外れなことを言っています。ラザロさんの姉妹たちもイエス様の思いをわかっていなかったと思います。しかし、頭で理解できなくても納得できなくても、神様との関係を持ち続けるならば、そこに光が差し込んできます。病気になり、とても不条理なことが起きて、神様に「ひどすぎる」「どうして神様は何もしないのか」「神様なんて信じない」と言いたい放題神様に文句を言ったとしても、そこには神様との関係がまだ保たれています。あるいは、「もう神様を信じない」と言ったとしても関係はすぐになくなることはありません。なぜなら、わたしたち人間の側からの「神様を信じる」とか、「神様を信じない」とかいうレベルを超えて、病気で苦しむ者、その家族のところに神様の方から来てくださるからです。イエス様は主の思いを理解できない弟子たちに言われました。「ユダヤに行こう」「わたしは彼を起こしに行く」「さあ、彼のところに行こう」。イエス様の方から来てくださいます。わたしたちの側からいくら離れようとしても、イエス様の方から関わりを持ってくださるのです。わたしたちが、もう信じないと思ったとしても、時にはしばらく教会から離れたとしても、イエス様は皆さんとの関わりを終わりにすることはありません。

少し想像していただきたいのですが、皆さんが一人の子どもの親であったとします。あなたはその子が生まれてきた時から、今に至るまで心からその子を愛しています。その子が少し大きくなってきたある時、自分の思うように物事が運ばず「ヤダヤダ」と怒り出しました。そして「大丈夫!
あとでもう一回やればできるよ」と励ますあなたに向かって言いました。「大っ嫌い。あっち行け!」。皆さんはそのように子どもから言われても、「あ、また言ってる。しばらくすれば落ち着くだろう」とか「お腹が空いて気分が悪いんだろう」とその子のことを知っていますから、本気でその言葉を受け取ったりしないはずです。子どもが親である皆さんに対してそっぽ向いていたとしても、皆さんは親としてその子との関係をそう簡単に切ったりはしません。むしろ、いろいろなことがあって成長していくんだと見守るんじゃないでしょうか。神様とわたしたちの関係もそれと似ています。皆さんがいくら文句を言っても、神様は皆さんとの関係を切り離したりはしません。じっと聞いてくださり、あなたと一緒に耐えておられます。

神様のご計画はわかりません。病気がすぐに治ることもあれば、治らないで死んでいくこともあります。しかし、イエス様が言われたことははっきりしています。重い病気であっても「死で終わるものではなく、神の栄光のため」だということです。大切な人が病気で苦しんでいる。自分も病気で苦しい。そのことがどうやったら神の栄光となるのか。すぐにはわかりません。しかし、これは十字架の上で苦しみ抜かれ、死んで陰府にまで降られ、その死から復活されたイエス様が言われた御言葉です。だから、わたしたちはこの御言葉を信じ、この病気は死で終わらないと希望を持ちます。イエス様がここで言われる「死」というのは、神様とのつながりがなくなることではないでしょうか。

わたしたちが、どのような病気になったとしても、神様はわたしたちとの関係を持ち続けてくださいます。主イエス様の十字架と復活には、神様の並々ならぬその決断が現れています。病気も死ぬことでさえも神様とのつながりを断ち切ることはできません。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。ですから、この御言葉はここに集う全ての皆さんに、また、病気で苦しむ人たち、その家族全ての人にイエス様が今、ここで言われた御言葉です。「この病気は死で終わるものでなく、神の栄光のためである」。

わたしたちの思いを超えた神の栄光のためにこの病気がある。それだけで十分なのかもしれません。重い病気になったとしても、あるいは病気のゆえに亡くなったとしても、神様とのつながりはなくなりません。主イエス様は、病気で死んでいったラザロさんとその家族との関係を大切にされ、そこに行こうと言われます。同じように主イエス様は、あなたのところに来てくださり、「あなたの病気、あなたの家族の病気は、神様とのつながりを断ち切るものでない」と言ってくださいます。それは消えることのない神の栄光の御言葉です。

 

2016年8月28日 わたしたちは神の家族

◆ローマの信徒への手紙8章14〜17節
08:14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
08:15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
08:16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
08:17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

原町田教会の礼拝がいいですね。夏休みをいただき、先週と先々週はそれぞれ違う教会の礼拝に出席しました。違う教会での礼拝も新鮮で、同じところや違うところがあって学ぶこともあります。でも、やはり原町田教会に来ますと自分の家に帰ってきたという感じがして、ホッとします。原町田教会は、わたしにとって魂のホーム、魂のふるさとになったと改めて思います。ここにはまずわたしを受け入れてくれる神様がいます。「よく帰ってきたね」と走り寄り、抱きしめて、帰りを喜んでくれるわたしたちの親である神様がいます。神様は他の教会にもいるのですが、原町田教会にだけ、このわたしを「お帰り」と迎えてくれる家族である皆さんがいます。「お帰りなさい」と迎えてくれるところがあるっていいですね。詩編23編に「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」とありますが、主の家は天に召された後だけでなく、生きている今も教会が主の家になっている。そんな気がいたします。教会に帰ってきてホッとするのは、自分が家族として当たり前のように受け入れられているからなのだと思います。

今日の聖書にはそのことが書いてありました。ローマの信徒への手紙8章14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。今、この礼拝に集っている皆さんは、それぞれ違った事情でこの原町田教会に集うようになったのですが、ひとつだけ共通していることがあります。それは、皆さん全員が神の霊によって導かれたということです。神様がこのわたしに今日も命を与えてくださり、こんなわたしだけど「帰っておいで」と呼びかけ、そして「よく帰ってきたね」と受け入れてくれた。そう信じる人はみんな、霊によって導かれています。

今、「みなさんは、神様の子どもです」と言いました。わたしは何の危険も感じずに「みなさんは神様から愛された神様の子です」と言えます。でも、この手紙が書かれた時代はそうではありませんでした。この手紙をパウロさんが書いたのは紀元55年頃のことです。当時のローマ帝国の頂点に立っていたローマ皇帝は何代にも渡って「神の子」「神の息子」として崇(あが)められ、死んだ後には神として祀(まつ)られ礼拝されていました。たいていの皇帝は、自分が生きている時に自分を神とすることを辞退していましたが、それでも生きている時から「神の子」と呼ばれていました。聖書にはディナリオン銀貨が何度も出てきますが、当時使われていたその銀貨の裏には皇帝の顔が刻まれ、このように書かれていました。「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」。皇帝は神から生まれた神の子と呼ばれ、崇拝すべき方だと毎日のように目にする銀貨に記されていましたので、当時の人たちはそれが当たり前と思っていたでしょう。でも、パウロさんはローマ帝国の中心のローマに暮らす信徒たちに伝えました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。皇帝こそが崇拝すべき神の子だと言われていた中で、パウロさんは勇気を持って次のように言い切っています。「神の霊によって導かれる人はみんな、全員、神の子です」。この言葉をローマの地で聞いた人たちは驚いたに違いありませんし、驚きと共に喜びを感じたはずです。15節で「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるのですから、ローマの教会の中には奴隷の身分の人もいたと想像します。「お前は生まれた時から奴隷だから、死ぬまで奴隷として生きていくんだ」と言われ続けてきた人が、教会に行くとパウロ先生からの手紙を読み聞かされます。「あなたは神から愛される神の子どもです。神の子とする霊を受けたのです」。奴隷の身分の人だけでなく、高い身分のゆえに苦しんでいる人もこの言葉によって解放されたに違いありません。身分が高ければ、低い身分の人と対等に話したくてもできなかったでしょうから。霊によって導かれる人はみんな神の子どもと言われて、教会に集う人は、あの人もこの人もみんな自分と同じ神様の子どもなんだと目が開かれたはずです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。これは福音の言葉です。神様はご自分が命を与えたすべての人たちに、「自分は神様に愛された存在なんだ」と知ってもらいたい、信じてもらいたいと願っています。そのために親である神様は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、今もキリストの霊によって人々を教会に導いています。教会に導かれている皆さんは、神の霊によって導かれた神の子なのです。

イエス様が人となってみなさんのところに来てくださり、みなさんのお兄さんとなってくださいました。その兄貴が神様に向かってとっても親しく「アッバ、父よ」と呼びかけていますから、みなさんも「兄貴がそうしているから、わたしも」と思って「アッバ、父よ」と呼びかけることができます。イエス様は弟子たちに「祈る時はこう祈りなさい」と言って、「天におられるわたしたちの父よ」と教えました。実際、イエス様はゲッセマネでこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。当時のユダヤの人たちは多くの場合、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼びかけて祈りを始めます。わたしはこれまで教会の中で、そのように神様を呼びかける祈りを聞いたことはありませんが、もし、聞いたとしたら少し違和感を感じるかもしれません。なぜなら、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と聞くとユダヤの民族の神と聞こえるからです。でも、イエス様は自分が話していたアラム語で父親を意味する「アッバ」と祈り始めました。イエス様は当時、ユダヤの人たちが神様に話しかける時にあったたくさんの呼び名の中から「アッバ」を選ばれました。イエス様が「アッバ」と呼びかけたからこそ、民族の枠を超えて、すべての人に開かれた教会、「お帰りなさい」と誰でもどんな人でも迎え入れる神様をまことの親とする神の家族が生まれました。神様を信じる人であれば、誰でも「アッバ、父よ」と呼びかけることができるようになりました。そこには人種とか歴史の中で築きあげられる「内」とか「外」という区別もありません。アッバと呼びかける2〜3人の集いが神の家族、教会です。あなたたちと神様との関係は、愛し愛される親子の関係なんですよと言われるのです。

さて皆さんは、アッバの子どもですから、アッバから素晴らしいもの、財産をいただく相続人でもあります。しかも、兄貴であるイエス・キリストと共同の相続人です。相続すると聞きますと、財産を持ったアッバが亡くなった後にもらえるものと思ってしまうのですが、天のアッバは亡くなることはありません。生前相続というのでしょうか。アッバは寛大ですから生きている内に財産を相続してくださいます。

先日、西東京教区のある信徒の方と食事をしながら、いろいろと話をしました。その人には中学生の娘さんと高校生の息子さんがいるのですが、息子さんは別の教会に通っていて、彼はその教会の牧師を慕っている。でも、その牧師が少ししたらそこを辞めてしまうことになったと言うのです。「辞める前にその牧師からバプテスマを受けられたらいいのに。でも、うちの妻(お連れ合いさんもキリスト者ですが)はあまり息子の洗礼にこだわっていないので悩んでいる」とのこと。わたしは、その人に「息子さんと時間をつくって、バプテスマを受けるように勧めたらいい」と励ましました。その人は「息子も娘も神様と繋がって生きていってもらいたい。それだけが願っていること」と言いました。

神様が与えてくださる財産ってなんだろうと思っていた時、わたしはその人が言っていた「神様と繋がって生きていくこと」という一言を思いました。永遠なる神様、愛そのものである神様、揺らぐことのない岩なる神様と繋がること、それが相続して得られる素晴らしい宝物ではないか。わたしは神様の子どもです。わたしの親はこの宇宙を創造された全能の神様であり、いつも近くにいて支えてくれる。そのような素晴らしい経験をしますと、それ以外のものはそんなに大切だとは思われなくなってきます。「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、「わたしは神様の子どもです。神様がわたしの親ですから」と答えられることがすでに相続させて頂いた宝物なのではないでしょうか。

みなさんは神様の子どもです。何歳になっても、70歳、80歳、90歳になっても神様から見れば子どもです。子どもは、いろいろなことに挑戦します。そんなの無理と思うよりも先に「やってみよう」と挑戦します。親が見守ってくれているという安心感から、小さい子どもはハイハイしていたところから立ち上がって歩き出そうとします。何度も転びますが、転んでもすぐに駆けつけてくれる親がいるという信頼があるからこそ、次の一歩を踏み出します。子どもですから、たとえ失敗したとしても最後は親が責任をとってくれるという安心があります。親である神様が見守ってくださるから「大丈夫。やってみよう」と何にでも挑戦できます。ですから、まずキリストと共に相続した宝物を、まだ神の家族の輪につながっていない人たちにそれぞれのやり方で伝えることに挑戦していただきたい。「そんなこと言っても伝わらない」と思わずにチャレンジしてみてください。福音という宝を伝えるのは苦労するものです。でも、イエス様がみなさんの苦労をよくわかってくださいまし、苦しむからこそキリストと共に栄光を受けることになる。パウロさんが言っています。「キリストと共に苦しむなら、共に栄光をもうけるからです」。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。これが福音の言葉です。みなさんの真の親である神様は、「あなたに生まれてきてほしい」と心から思って命を与えてくださいました。そしてし、あなたが生まれ、今こうして生きていることを何よりも喜んでおられます。

 

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。