2018年11月4日 虹の契約

◆創世記9章8〜17節
09:08 神はノアと彼の息子たちに言われた。
09:09 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
09:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
09:11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
09:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
09:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
09:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
09:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
09:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
09:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

◆詩編1:1〜6
01:01 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
01:02 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
01:04 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ノアの物語は、創世記6章から始まっていまして、神様は人間が悪いことばかりしているのに心を痛め、後悔された場面から始まります。そしてノアとその家族にこのように言われました。「わたしはすべて肉なるものを滅ぼす。しかし、あなたたち家族は箱舟を造り、その中に入りなさい。また、全て命あるもののオスとメスも箱舟に連れて入り生き延びるようにしなさい」。実際に箱舟ができた後、雨が40日間も続いて、ものすごい洪水が起き地上からすべて命ある生き物はぬぐい去られました。しかし箱舟にいたノアとその家族、また動物のつがいたちは生き延びて、約1年後にようやく箱舟から地上に降り立つことができたのです。待ちに待った地上に彼らが降り立った時、ノアがまずしたことは、神様に礼拝を献げることでした。そのノアに神様が言われます。創世記8章21節「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

聖書は旧約聖書と新約聖書と二つに分かれていますが、いずれも神様とわたしたちとの契約の書物です。神様と人間との契約。契約と聞いてわたしたちがイメージしますのは、双方に守るべき事があって、お互いにそれを守ることが契約の条件となるということです。例えば、身近なことですと、働くときに交わす雇用契約もそうですし、アパートやマンションなどに住むときに交わす賃貸契約などが有ります。雇う側が働く時間や場所、仕事の内容をきちんと記して、その条件に対してこれだけの賃金を払いますと書いてその契約書に双方がサインをして契約が成立します。賃貸契約も同じ要領で借りる人と貸す人との双方が契約を交わします。旧約聖書でもシナイ山で神様がモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約は神様と人間との双方が交わすものでした。十戒を守るならば神様は必ずあなたたちを守り祝福するが、もしそれを破ったならば契約は破棄されるのです。

しかしながら、神様がノアと交わした契約は、双方が守るべき約束というよりも神様からの一方的な恵みを約束する契約でありました。9章9節で神様はノアと彼の息子たちにこう言われます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる」。10節後半「箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」と言われて、神様自身が守るべきことを続けて言われます。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。この契約の最大の特徴は、神様だけが「何があっても決して滅ぼさない」という無条件に義務を負っているところです。

神様はもう決して滅ぼさないという契約のしるしとして虹を示されました。今でも虹が出るときに神様は、雲の中に現れた虹を見て、「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と永遠の契約に心を留めてくださっています。創世記9章14節にあるとおりです。「わたしが地の上に雲を涌き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものすべて滅ぼすことは決してない」。

最近、虹を見た方はいらっしゃいますか?虹を見て、わたしたちは何を思うのでしょうか?綺麗だな、久しぶりに見たなと思うのでしょうか。わたしたちは、神様が「決して滅ぼさない」と言われた恵みの契約、虹の契約を思い出したいですね。神様はどうして虹を契約のしるしとして選ばれたのか?虹を選ばれたのには、理由があって、虹には神様からのメッセージが込められていると思うのです。虹は日本では7つ色の赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫があって、それぞれの色はどこからどこまでが赤で、ここからはっきりオレンジになるということが難しく、それぞれの色の境をはっきりさせるのが難しい。虹をよく見ますとそうなっています。わたしはその虹を契約のしるしとされた神様の思いは御子であるイエス様にしっかりと引き継がれていると思うのです。そのことをわかりやすく述べている御言葉があります。それが今日の礼拝の招詞で読まれましたガラテヤの信徒への手紙3章の御言葉です。契約のしるしである虹の意味を聖書はこう伝えています。3章26〜28節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。色と色との間にある境がはっきりしないグラデーションである虹を神様が契約のしるしとされたのは、いまだにわたしたちの中にある間違った考え方を正すためだと思うのです。色をはっきりと分けてその違いによってある人たちが他の人たちを否定しようとする間違った考え方を正すためです。例えば黒人と白人というように区別して考えることがありますが、想像して見てください。白と黒の色をグラデーションとして少しずつ白が黒くなり、黒の方からは少しずつ白くなっていったとしたら、どこからが黒人で、どこからが白人なんて線を引くことはできません。同じように身分の違いによって人の価値を高くしたり低くしたりすることも神様の前ではできません。男と女の違いも虹のようにグラデーションがあって、男と女の間には様々な色合いがあるだけで、はっきりと分けられません。でも、なぜかわたしたちは人と人との間にはっきりとした境界線を引こうとして、あなたたちはこの色だからとラベルを貼って、あなたたちはあっちに行きなさいと無理に分けようとしてしまうのです。その隔たりが大きくなればなるほど「あなたたちは滅びに近づくのだ」と警告するのが虹のしるしなのだと受け止めます。

わたしたち人間が心に思うことは幼い時から悪いものですが、神様は雨の後に虹を見せてくださって、あなたたちは虹の色のように少しずつ違っていて一人として同じではない。その違いの間にむりやり線を引いて境を作らないで、その境を虹のようにつなぎ合わせて一緒に生きていくのですよと教えてくださっています。キリストの体であるこの教会に集っていますと、教会の人たちって、みんな違っていて、一つの色にまとまるのが大変だけど、いろんな色だからこそ、それが虹のようなグラデーションでつながっていてまさにキリストにあって一つの虹なんだと思わされます。

今日は聖徒の日、永眠者記念礼拝です。この日に神様は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との一方的な恵みの御言葉をくださいました。色と色との境目がぼやけて途切れることなくつながっている虹の契約です。虹の契約には命と死という境目をもつなげてしまう約束が含まれています。それがイエス様の死と復活によって明らかになったことです。

3ヶ月ほど前の7月下旬のことですが、わたしは共助会というキリスト者の集まりで今年89歳の加藤常昭先生の講演を聞きました。そのお話が「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との虹の契約と深く関係しているように思いましたので、少しその話を紹介させてください。わたしはその時初めて、加藤先生が妻の介護や、彼女が地上の生涯を終えられた時の先生の気持ちをお聞きしました。加藤先生は、妻であるさゆり先生の10年を超える舌癌、最後にはリンパ癌を併発し、厳しい認知症を伴う苦しい病床生活を共にして、在宅介護を引き受けてきました。さゆり先生とはご一緒に伝道をした仲間であり、妻であり、母でした。加藤先生は、妻の死が近づいているのを覚えて、息もできないほど苦しみを味わったと話されました。そして妻の死去の日の夜、加藤先生は親友のメラー教授にメールをしました。するとその1時間後に次の返答をもらい、加藤先生はそれを読み1時間も涙を流し続け、深い慰めを得て、その後、涙にくれることはなくなったと話しました。これがそのメールです。「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再び手を取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、蘇りの朝だよ!』と。だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍にいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺していってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいてしあわせでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、心に食い込みます。あなたに神の慰めがくだってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの、仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますよね。キリストの蘇りのメッセージがあなたを捉え、この厳しいときに、励ましてくださいますように。あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころからの挨拶を送ります。クリスティアン・メラー」。

神様が今日、ここに集うわたしたちに言われました。「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。この一方的な恵みの契約は、イエス様の復活によって神様とイエス様を救い主と信じるすべての人との間の永遠の約束となりました。イエス・キリストは「生きる」と「死ぬ」という境界線を乗り越えられました。イエス様の復活以前の世界では死は命の敗北、死はすべての終わり、死は悪の勝利と思われていました。しかし、イエス様が復活されて死はもはや命の終わりではなく、復活の命の始まりとなりました。「肉なるものすべてを滅ぼすことは決してない」と言われた神様は、イエス・キリストの死と復活によって、ノアと交わした永遠の契約を確かに更新されたのです。わたしたちの多くが滅びとして恐れる死は、もはや滅びではなくなりました。イエス様の前に死そのものが滅んだのです。死んで、土に帰って、存在しなくなるわたしたちのからだを神様がその御手にとって、「起きなさい。蘇りの朝だよ」と必ず引き取ってくださいます。虹の契約は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と言われます。

2018年10月7日 一緒に福音宣教

◆使徒言行録5章27〜42節
05:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
05:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
05:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
05:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
05:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
05:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
05:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
05:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
05:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
05:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
05:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
05:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
05:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
05:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
05:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
05:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

◆詩編37編30〜40節
37:30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語る。
37:31 神の教えを心に抱き よろめくことなく歩む。
37:32 主に逆らう者は待ち構えて 主に従う人を殺そうとする。
37:33 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 罪に定められることをお許しにならない。
37:34 主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
37:35 主に逆らう者が横暴を極め 野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。
37:36 しかし、時がたてば彼は消えうせ 探しても、見いだすことはできないであろう。
37:37 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。
37:38 背く者はことごとく滅ぼされ 主に逆らう者の未来は断たれる。
37:39 主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。
37:40 主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

使徒言行録5章に出ていますペトロは、イエス様のことを3度も「知らない」と言って自分の身に危険が降りかかることを恐れた人でした。またペトロと一緒にいる使徒たちは皆、つい2ヶ月ほど前にイエス様を置き去りにして逃げていった人たちです。でも彼らは、イエス様を捕まえてピラトに引き渡したあの大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われても堂々と次のように答えました。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。それに続けて「こんなこと大祭司たちに言ったらイエス様と同じように殺されるかもしれない」と思うようなことをペトロや使徒たちは堂々と言うのです。30〜32節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。この言葉を聞いた人たちは、激しく怒ったとあります。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。しかし、そこに民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って落ち着いた感じで言いました。38節「そこで、今申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」。

ペトロなど使徒たちは、イエス様によって始められた救いの御業は神様が始められたことなのだと確信していました。だから、堂々と大祭司を前にして「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言えたのです。彼ら使徒たちはみんな以前から強い信仰を持っていたわけではなく、皆、自分の力ではイエス様に従いきれなかった弱さや欠けをもった人たちです。でも「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く言えたのは、彼らが聖書をいっぱい勉強したからでもなく、たくさん修行したからでもなく、ただ、神様の力がそこに働いていたからですし、神様が主となってわたしたちと一緒に働いていてくださると信じていたからです。それともう一つ。彼らはイエス様を裏切ったという辛い経験をしていましたが、イエス様はそれをなんの償いもなく赦してくださった。そんなわたしたちだけれども福音宣教のために遣わしてくださった。その神様の愛を経験していたのです。イエス様に従うことができなかった弱さを持った使徒たちが、教会をスタートしていることにわたしは正直ホッと安心しますし、それと同時に神様はそんな彼らを福音宣教という御業のために用いてくださることにわたしは勇気をもらいます。福音宣教というのは、人間主導で行うことではなく、神様がわたしたち人間を用いて行う神様の御業なのだと聖書は伝えているのです。

使徒言行録は駅伝に例えるならば、聖霊の「ヨーイ、ドン」との掛け声によって、福音宣教の使命を受けた教会が走り始めたスタート地点です。山あり谷ありのコースで福音という名前のタスキを手渡して走り続ける教会を神様が先導し、神様がこのレースの総監督ですから、必ずゴールすることができます。スタート地点から走り始めたわたしたち教会は、2000年経った今も走り続けていますから、これは律法の教師ガマリエルが言っている通りです。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。原町田教会もその福音という名前のタスキを手渡されて、他の教会と一緒に走り続けています。普通、駅伝は他のチームよりもより早く走ろうとしますが、神様主導の駅伝はより早く走るのではなく、一人でも多くの人に福音という名のタスキを渡すことを目的としていますから、一緒に走る他の教会とも協力して走るのが特徴です。

今日は世界聖餐日であると同時に「世界宣教の日」でもあります。宣教と聞いて、誰がそれをするのか。福音を宣べ伝えるのはもちろんわたしたち教会であり、福音を手渡されているわたしたちだからこそ、福音を伝えることができる、そのように考えます。でも今日の御言葉にも関係していますが覚えておきたいことがあります。それは「神の宣教」、ラテン語で「ミッシオ・デイ」という考えです。キリスト教会の歴史の中で長くヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考えていました。その考え方から教会は、まだキリスト教が伝わっていない国々にどんどん宣教師を派遣しました。でも、そのような教会の宣教の業が当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教を伝えていくことと同時に植民地支配に加担してしまったという負の歴史があります。そのことを反省し戦後になってからですが、WCC(世界教会協議会)は、「救いは教会から」だけでなく、「神様は教会に先立って、この世界で働いており、教会はその神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考え方を改めたのです。神様は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっています。だから教会は神様と一緒に福音宣教をしていく。これが「神の宣教」という考えです。

神様がわたしたちよりも先立って世界宣教を進めていると聞いて、ではどうして未だに世界では暴力がなくならず、また貧富の差があって、一部の人がものすごいお金持ちになり、反対にその日の食べるものにも苦労する貧しい人がまだいるのかと疑問も感じます。また、悪いことをする人が栄えていくようにも思えてしまいます。先ほど読みました詩編にもありました。37編35節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」。神様の言うことを聞かないで自分さえ良ければいいと思う人たちが勢いを増しているように見えるのです。ただ詩編では36節「しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見いだすことはできないであろう」とありますから、悪いことをした人はみんな滅びて、良いことをした人が最終的には幸せになると思いたいわたしたちでもあります。しかし、この詩編はわたしたち人間の側からの思いを神様に祈り願う言葉ですから、そこにはおのずと限界があります。悪は滅び、主を信じる者だけが生き残るというのは神様の本当の御心ではありません。なぜなら、神様の前に立って見れば誰でもどんな人でも大なり小なり悪に心を動かされる罪人だからです。だからこそ、神様はわたしたち人間があの人は悪い人だとか、あの人は良い人だと勝手に判断するのを超えて、命与えられたすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。31節で神様はイエス様をご自分の右に上げられたというのはそのことを言っているのです。

使徒信条でも、イエス様は復活した後「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言っています。イエス様は神様の右側にある椅子に今もどしりと座っている、そうイメージする人もいるかもしれません。でもこれはイエス様のいる場所を伝えているのではありません。イエス様が神様の右に上げられたというのは、イエス様が神様と同じようにわたしたちのいるところ、どこにでも共にいる神様の力を得て、今もわたしたちに「あなたは神様に愛された神の子ですから、あなたは独りではありません。だからわたしを信じて生きなさい」と福音を伝えている。「神の右に座したまえり」というのは、イエス様が神様と同じ普遍の存在だと伝えているのです。イエス様はまさに神様と同じ力を持つ救い主キリストであり、すべての人の救い主になられて今も生きて、わたしたちに先立って働いておられるのです。

教会につながる一人一人はこの事実の証人、あかしびと、イエス・キリストについての福音のタスキを手渡す素晴らしい使命を持っています。わたしたちに何か人にうまく伝える能力があるからでもなければ、長く教会に集っていれば福音を理解して伝えるのがうまくなるとか、聖書を勉強しなければできないとか、わたしたちの側の課題は二の次三の次で、まず何よりもこの計画やこの行動は神様から出たものであり、そのために神様が教会をたてられ、毎週日曜日の礼拝で福音が告げ知らされ、それが2000年も続けられている。これが人間から出たものではなく、神様から出たものであることは確かな事実です。

神様はわたしたちに福音を宣べ伝えるという喜びの働きを託されていますが、神様はわたしたちの働きを遠い天で椅子にどしんと座って眺めているわけではないのです。わたしたちに先立って神様ご自身が宣教されているのですから、福音のタスキをなんとか手渡そうと苦労しているわたしたちの走りをすぐ近くで見ていてくださり、時に「こっちの方に行けばいいよ」とわたしたちのところまで戻ってきて導いてくれる。そう思いますとホッとすると同時に力が湧いてきます。

わたしたちにできることは小さく、多くはありませんが、「神の宣教」の考え方からすれば、神様がわたしたちに先立ってわたしたちの小さな業をも福音宣教のために用いてくださっていると信じることができます。そこで特に大切にしたいのは、ただイエス様のことを知識や情報として伝えるのではなく、コリントの信徒への手紙に「愛がなければわたしに何の益もない。愛は決して滅びない」とありますから、愛をもって伝えることです。どれほどの知識があっても、どれほどの大事業を成し遂げたとしても、そこに愛がなければそれらは必ず消えてなくなります。わたしたちが取り組む福音宣教の活動でも愛がなければ、ガマリエル曰く「それは神から出たものではないので自滅する」でしょう。でも、小さな働きであってもそこに愛があれば、その行いを神様が支えてくださるのです。たとえ寝たきりで「生産性がないと思われても」その人が口で描く絵や祈りの言葉で一人でも力づけられるなら、それは小さいけれど愛の業です。80歳、90歳となって自分は「ご迷惑ばかりかけて申し訳ない」と思う人であっても教会の掲示板に説教題を書く奉仕をして、その掲示板を見た人が礼拝に集うようになるならば、それは小さいけれど愛の業です。わたしたちにできること、わたしたちが行うことは本当に小さなことなのですが、でもそこに愛があるならば、私たちに先立って働かれる神様がその働きを必ず助けてくださいます。この後に歌う讃美歌にある通りです。「小さな花をカゴに入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も晴れるでしょう。愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう」。

福音宣教はわたしたち自身の生き方だと思うのです。神様がこんなわたしだけれども福音のタスキをくださっているのだから、わたしはあの人に神様の愛を手渡そう。わたしたちに先立っておられる神様がいるのだから、小さなわたしを用いてくださいと祈りながら「これを差し上げます」とタスキを渡す。後は神様の御手にお委ねすればいいのです。それは人間から出たものではなく、神から出たものですから、決して無駄になることも無くなることもありません。自分で伝えることが難しければ、「教会へどうぞお越しください」と心を込めてお招きすればいい。後は先立って働かれる神様の御手にお任せする。

わたしたちが今、手にしている福音のタスキは、使徒たちの時から2000年の間に綿綿と手渡され続けてきたものです。このタスキを手渡すわたしたち原町田教会の福音宣教の計画と行動は、人間から出たものではなく、神様から出たものですから、たとえ「イエスという名前を話してはいけない」と言われても、わたしたちは愛と勇気を持って福音を告げ知らせてまいります。

2018年9月16日 生きていることが素晴らしい ー大いなる肯定―

◆マルコによる福音書14章12〜25節
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

◆詩編96編1〜9節
96:01 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
96:02 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:03 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。
96:04 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。
96:05 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ
96:06 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。
96:07 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
96:08 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り
96:09 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

今日の御言葉で気になるのは、やはりユダという存在ではないでしょうか。イエス様はこの食事の席でこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしているものが、わたしを裏切ろうとしている」と言われ、続けてこう言われました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエス様はユダについて言われているのですが、この言葉はあまりにもひどいなぁ、どうしてイエス様はこんなことを言うのかなぁと思ってしまう。この一言はそんな言葉です。この言葉は一見、イエス様がユダの命を否定しているようにも見えてきます。しかし、今日の箇所全体を読みますとイエス様はご自分のすぐ近くにいるユダを否定するわけでもなく、排除するでもなく、ユダも含めたすべての人のためにご自分の命をかけて大切なことを伝えようとしているのが見えてきます。

この食事の席にはユダがいました。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えた時も、杯を飲んで「これは多くの人のために流されるわたしの血である」とイエス様が言われた時もユダはそこにいてパンを食べ、杯から飲みました。ヨハネ福音書ではイエス様に裏切りを予告された後、ユダはすぐにそこから出て行ったとありますから、他の福音書でもユダは裏切りの予告の後にすぐ退席したと思うかもしれません。でも、マルコによる福音書が最も古い福音書ですし、もし退席したならそのように書いてあるはずなのですが、今日読んだところにも、マタイやルカ福音書にもユダが食事の席から立ち去ったとは書いてありません。ですから、イエス様は「これはわたしの体である」と言って手で裂いたパンも「これは多くの人のために流されるわたしの血である」と言って渡した杯もユダは受け取ったのです。もし、ユダがこの席にいなかったとしたらイエス様が命をかけて伝えたことが限定されてしまいます。しかし、イエス様はそこにいたみんなが杯から飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と言われました。ここからイエス様が自らの命を多くの人の罪のために献げられたと解釈されるようになりました。なぜなら、彼らは過越の食事をしていたからです。本当ならば罪を犯した人がその償いのために罰を受けなければならないのですが、その罰はその人の前を過越していき、イエス様ご自身がその罪すべてを小羊のように負ってくださったのです。イエス様が言われる「多くの人のために」というのは、すべての人のためにと言い換えても良いと思います。なぜなら、聖書は、繰り返し神様はこの世にいるすべての人を救うために御子イエス様をお送りくださったと伝えているからです。例えば、招詞で読まれましたヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。すべての人の命は神様が与えられたものですから、その中でこの人はダメで、この人は救われると神様が選別することはありえません。この世界、この世を愛されたというのですから、神様はこの世にいるすべての人を愛され、すべての人の救いのためにイエス様の命を過越の小羊のように犠牲とされたのです。

「すべての人のため」ですから、そこにはイエス様を裏切ったユダも含まれていますし、「わたしなど選ばれるはずはない」と思っている人もすべて含まれています。そこが神様からの大いなる肯定です。「自分はダメだ」と思う人であっても、「こんなわたしなんかゆるされるはずはない」と言う人も、「どうしてあんな人がゆるされるのか」と思ってしまう人でも、神様は「あなたは赦されている。だからあなたは今のあなたで大丈夫」とすべてを包み込む大きな肯定をくださっています。それがこの食卓で手渡される霊なる食べ物です。

すべての人のための「大いなる肯定」を伝えたイエス様ですから、ユダに言ったあの言葉は彼を否定する意味はないと理解します。私訳で聖書を出しています本田哲郎神父はこの言葉を次のように訳しています。「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」。イエス様はユダを否定するのではなく、ユダの気持ちを思いやり、ユダ自身がそのように言っているだろうという表現で訳しています。イエス様はユダの痛みを代弁する言葉を語ったのです。旧約聖書でも自分の生まれた日を呪う言葉が出て来ます。家族のほとんどを失い、財産のほとんどを失って暗い暗い闇の中に放り込まれたヨブはこう言いました。ヨブ記3章3節。「わたしの生まれた日は消えうせよ」、周りの人のほとんどから反対され、迫害されて苦しんだ預言者エレミヤはこう言いました。エレミヤ書20章14節「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」。また、コヘレトの言葉にも虐げられた人たちへの配慮ある言葉があります。4章1〜3節「見よ虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」。ヨブもエレミヤも本人が自分に対して「自分の耐え難い苦しみ」を言い表わす一種の慣用句としての表現であり、またコヘレトの言葉はイエス様の言葉にとても似ていて、相手の苦しみを自分のことのように感じるがゆえの表現なのです。イエス様は、自分が生まれて来たことを呪ってしまうほどのユダの痛みを受け止めて、「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」と彼の苦しみを代弁しているのです。それがこのイエス様の言葉の意味です。

イエス様と一緒に囲む食卓は、否定ではなく、肯定の雰囲気で満ちています。「あなたはこれまでもそうだったし、これからもいろいろと大変なことがある。後悔することもあるし、あれはダメだったと思うこともある。でも、今のあなたは確かに生きていて、わたしと一緒に食卓を囲んでいるから大丈夫。取りなさい。これはわたしの体です」。

これはイエス様が伝える神様の赦しです。この赦しはすべての人を肯定する福音の言葉です。

先日、新聞を読んでいましたら9月は小学生や中学生など若い子どもたちが自分の命を絶つのが多い時期だとありました。学校に行きたくない、でも行かなければならないと葛藤する中で八方塞がりになって自らの命を絶つ道を選んでしまう。何年間も日本では自死する人が年間3万人を超えていましたが、数年前から3万人以下になりました。けれども若い年代の数は減るどころか増えています。その新聞ではそのことを憂いて特集が組まれて若い人たちへのメッセージが書かれてありました。その中の一人、お笑い芸人の山田ルイ53世さんは、自身が中学2年生の時の登校中に大便を漏らしてしまい、それがきっかけになって学校に行けなくなり6年間引きこもり生活をしました。その彼がこう言っていました。「引きこもりが自分の糧になったという人もいます。人生の全てに何かしらの意味があって、あの期間も無駄じゃなかったと。それはそれでいいけど、『結局、意味がないと、生きてはだめってこと?』とも思う。無駄や後悔を許さず、意味や意義を求める生き方って、けっこうしんどい」。

わたしはこの記事を読んでいて、アウシュビッツ収容所を生き延びて『夜と霧』を書いた精神科医師のフランクルの次のような言葉を思い出しました。このような言葉です。「生きる意味についての問いを180度、方向転換すること。わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何かを期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ」。彼は、わたしたちが何を人生に期待するのか、生きることの意味を自分で何だろうと考えるのではなく、命そのもの、人生そのものがあなたの命、生きる意味に問いかけている、そのことに気づきなさいと言うのです。つまり、命そのものがあなたの生き方を肯定していると言うのです。そう、生きていること自体において、あなたには意味がある、命あること自体、あなたには意味があると言うのです。

わたしたちは生きている限り周りから「自分らしくいるのがいい」とか「目的を持って生きなさい」とか、「あなたは何を生きがいにしていますか」とかいろいろな声を聞きます。それによって時に心が揺れて、本当にこんな自分でいいのだろうかと痛みを感じることがあります。わたしが生きている意味ってなんだろうか。いつでもわたしは自分らしくこんな目的や「こんな生きがいを持って生きています」なんて言えるだろうか。自分に無理をして背伸びして心や体に負担をかけたり、反対に必要以上に自分を小さく卑下して見せたりすることもあるかもしれません。でも、イエス様はそのように揺れ動くわたしたちに、変わることのない神様の言葉を伝えてくださいます。「取りなさい。これはあなたのためのわたしの体です。これを食べて元気を出しなさい。あなたは今日も精一杯生きていく」。

イエス様は食卓でパンを手に取って神様を讃美し、杯を取って神様に感謝しました。それは何も特別なことではなく、いつもの食事でしていたことでした。わたしたちの毎日の平凡な生活の中にも神様は「大いなる肯定」をいくつも散りばめられています。食前の感謝の祈り、日曜日の礼拝での讃美の祈り、それらの平凡な生活を通して神様はわたしたちに「あなたと今日もこうして出会えてわたしは嬉しい。あなたが生きていること、それが素晴らしい」、そう伝えておられます。

ご自分を裏切ろうとしているユダと、またご自分を置き去りにして逃げて行こうとする弟子たちと共に、イエス様はパンと杯を手にしていつもと変わらない賛美といつもと同じ感謝を唱えて食卓を囲みました。どんな状況でも、日常と変わらずに食卓で感謝と讃美の祈りを捧げること。私たちも日常と変わらないところで神様からの大いなる肯定を聞きとります。「パンを取りなさい。あなたが生きていることをわたしは喜ぶ」。

神様から肯定の言葉をいただいているわたしたちは日常生活の中でイエス様と同じように隣人に肯定の言葉を伝えていきます。「あなたに出会えて嬉しい。食事を一緒にできて嬉しいです」。

2018年8月26日 最も大いなるものは愛

◆コリントの信徒への手紙一13章1〜13節
13:01 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 
13:02 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:03 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 
13:04 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 
13:05 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 
13:06 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:07 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 
13:08 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 
13:09 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

◆マルコによる福音書12章28〜34節
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

◆詩編62編2〜13節
62:02 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:03 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
62:04 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:05 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:06 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:07 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:08わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:09民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ
62:10人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた
力は神のものであり
62:13慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
ひとりひとりに、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。

わたしはこれまでいくつかの外国に行く機会がありましたが、外国に行ったらほぼ必ずすることがありまして、それはその土地の言葉で「あなたのこと、大好きです」をその土地の人に聞いて、覚えることです。初めて行ったフィリピンでもすぐに聞いて覚えました。タガログ語で「マハールキタ」。インドに行った時にも聞きまして、旅をしていて会う人、会う人に「わたしはインドの言葉ヒンズー語を知っている。それは『マエアプセピアルカルタホ』」と言うとそこにいた人たちの多くは「ワハハ」と言って笑顔になりました。その言葉を言った相手はほぼ男の人でしたが。まだ行ったことのない国の「I love you」もいくつか知っています。ドイツ語では「イッヒリーベデッヒ」、フランス語で「ジュティーム」。「そういうのは言葉ではなく行動で」と思う人もいるかもしれませんが、わたしはどちらかと言うと主に家族に対して言う方だと思います。聖書にありますように、わたしたちが「あなたのことを大好きです」と言うことができるのは、神様がまずわたしたちを愛してくださったから。ヨハネの手紙一4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」。

「キリスト教を一言で言ったら何と言いますか?」と聞かれましたら、なんと答えますでしょうか?いろいろな言葉で言い表すことが出来ると思いますが、キリスト教を一言で言うなら、それは「愛」「キリスト教は愛の宗教」と言うことができると思います。ただ日本語で「愛」と一言で言いましても、聖書には実にその「愛」を言い表す元々の言葉はいくつもありまして、招詞で読んでいただいたホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。この中の愛と日本語に訳された元々のヘブル語は「へセド」で、他の聖書では「誠実」とか「慈しみ」と訳すことができる言葉です。また、今日の御言葉のコリントの信徒への手紙とマタイ福音書の「愛」はぜんぶ「アガペー」という言葉です。その他にも日本語で「愛」と訳される聖書の中の「愛」はたくさんあります。どうして日本語の「愛」が聖書にはたくさんの言葉で表されているのでしょうか?わたしが思うに、それはきっと神様の愛は人間の言葉では言い表すにはあまりにも大きく、広く、高く、豊かだということに行き着きます。

コリントの信徒への手紙13章を読んでいましても、神様が、どれほど罪深く汚いところを持ったわたしたち人間を愛しているのかが見えてきます。4節〜7節をお読みします。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。愛となっているところを「神様」と変えて読んでみますと愛は神様から出たものなんだとわかります。「神様は忍耐強い。神様は情け深い。ねたまない。神様は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。神様がわたしたちのことを忍耐強く耐え、忍んでいてくださる。神様はわたしたちのことをわたしたちの身になって考えてくださる情深い方です。神様はわたしたちが犯す罪や命を傷つけてしまうこと、取り返しのつかない過ちであっても、じっと耐え忍んでくださり、わたしたちを信じ、「わたしがあなたと一緒にいるから大丈夫」とわたしたちに望みをかけてくださっています。神様が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のは、どんなわたしたちであっても、神の子どもとして愛してくださっているからです。神様は愛そのものだと聖書は伝えます。

先月の終わりのことですが、わたしは以前、信徒としてつながっていました岩手県の奥中山教会に行ってきまして、りっちゃんという双子の姉妹の妹さんで62年間のこの地上での歩みを終えた友人の葬儀に出てきました。神学校に行く前に信徒として5年間、わたしの信仰を豊かにしてくれた教会の仲間として、一緒に賛美をする集まりをしたり、教会を通してつながってきた大切な人でしたので、妻に相談して日曜日の礼拝後、新幹線に飛び乗って行ってきました。葬儀に出席できて良かったなぁと思います。わたしはこの葬儀に出て、涙を流しましたが、でも悲しいというよりもなんだか心があたたかくなり、また、お姉さんのむっちゃんや親戚の人などがりっちゃんとの思い出を話してくれまして、それが面白くて何度も笑って、わたしだけでなく集った人たちの笑顔をなんども見るような2日間を過ごしてきました。葬儀に出席して心が温かくなるって、なんだか不思議ですが、いま思いますとそこには神様の愛が詰まっていて、わたしはその愛を感じてきたんだろうと思うのです。

りっちゃんの双子の姉であるむっちゃんが「むっちゃんから皆さんへ」という文章を葬儀の時に配りまして、それを読みますとりっちゃんの歩みが神様の愛の中にあり、また、その神様の愛が今もわたしたちを赦し、忍び、信じ、望んでおられると感じることが出来ると思いますので、一部分を読ませていただきます。「神様は体の弱い、でもいつも明るく親しみやすいりっちゃんをわたしたち家族に与えてくださり、その成長と苦難を通して、みんなが愛し合い結び合うことの大切さを教えてくれました。5歳で東京女子医大で最初の心臓手術。小学校中学校は毎日母の背に乗って登校、8年間寝たきりの生活、東大病院、岩手医大、聖路加病院などで大手術が繰り返されました。週3日の肝臓透析が始まり、一日500ccの水分制限、次第に体力もなくなり転倒と骨折、そして車椅子生活となりました。どんな苦しみにもめげないりっちゃんの周りにはその都度、人が集まりたくさんの人が繋がっていきました。2歳までしか生きられないと言われたりっちゃんが起こした奇跡です。そして、7月26日朝、家族全員に手を握られ感謝の言葉を聞きながら静かに心臓の鼓動が止まっていきました。安らかな最期でした。『りっちゃん、ありがとう!たくさんの愛をありがとう!たくさんの出会いをありがとう』これはわたしだけの言葉でなく出会ったみんなの声です。人生に幕引きなんかないような気がします。だって、りっちゃんが作ってくれた仲間がいて、家族がいるのですから。りっちゃんが作ってくれた奇跡はこれからも続きます。『こんなに愛し合う仲間が増えたよ!』。天国にいる妹へこんなお土産話ができる日まで歩んでまいります」。

教会につながっていますとこのような奇跡、神様の愛が引き起こす奇跡を経験すると思います。体に辛い病気を抱えても神様の愛である教会のつながりに支えられて苦しみに忍耐することができる。愛は忍耐強い。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

りっちゃんの葬儀に出て思いましたのは、神様の愛はわたしたちが価値あるものとしてこの世から教えられている知識、お金、科学、山を動かすほどの力などを通して現れるのではなくて、りっちゃん自身がそうであったように病気などの弱さや困難さ、そしてその病気や困難さをめげずに笑い飛ばすユーモアを通す事によってはっきりと現れる、そんな思いを持ちました。今日の御言葉でもこう伝えています。8節「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。知識は一部分、それはよくわかるのですが、予言も一部分と言われると少しどきっとします。それは神様から預かっている御言葉であってもわたしたちが語る限りにおいては完全ではなく、この世の中が伝える知識と同じ一部分だということです。わたしたち教会が永遠なる命を信じ、死んだ後の復活を信じるのは、それを知識や聖書の御言葉で知っているからではないのです。神様の愛によって耐え忍んでいただいているわたしたちが互いに忍び耐えることによって永遠の命、命の復活を信じることができるのです。

わたしの知り合いに「愛を一言で言えば何になりますか?」とききましたら、その人は「愛は赦しだ」と答えてくれまして、言った本人は忘れているかもしれませんが、わたしは良く覚えています。神様の愛は忍耐強い。情深い。すべてを忍び、すべてに耐える。神様がわたしたちをご自分の子どもとして忍耐強く赦してくださっているのです。それはまるで1〜2歳ぐらいの赤ちゃんを見守る親のようです。そのぐらいの子は歩き始めて階段を見るとすぐにのぼりたがります。小さい子どもが階段を1〜2段登りますと親はその子を少し登ったところで捕まえては下ろす。でもその子はまた同じことをする。親は忍耐強くその子に付き合います。小さい子どもは同じことを何度も繰り返しますが、大抵の親はある程度、その子の繰り返しに付き合いますが、だいたいキリのいいところで「今日はおしまい」と切り上げます。でも神様の堪忍袋はわたしたちよりも大きくて広くて深くて高いのですから、わたしたちが過ちを犯し、何度も何度も失敗してもぐっと耐え忍んでくださいます。

その神様の愛、すべてを忍び、すべてに耐える神様の愛の極め付けがあのイエス様の十字架と復活です。神様がどれほどわたしたちのことを忍耐されているのか。わたしたちが今尚裏切り、傷つけあっているのをどれほど耐え忍んでおられるのか。でも、その神様の忍耐に気づかずにいる多くの人間に神様は声を大にして言われました。「いい加減に気づいてくれ。怖がらなくても、恐れなくもいい。わたしはあなたたちを独り子イエスを愛するように愛している。わたしはイエスの命をささげるほどにあなたたちを愛している」。

この神様の愛は天地創造の時からずーと今に至るまで、そしてこれからも滅びることなく永遠に残ります。なぜなら、その愛はイエス・キリストの十字架と死、そして死からの復活によって示されましたから決して滅びることはないのです。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛」だからです。わたしたちはその神様の愛によって結びつけられています。だからわたしたちはこの教会と、そしてわたしたち自身の間に脈々と流れ続ける神様の愛を何よりも大切にします。神は愛です。イエス・キリストは愛です。わたしたちは愛であるキリストの体にしっかりと結びつけられていますから永遠です。死すらも恐れるものではありません。神様が「りっちゃん、永遠の朝が明けましたよ。起きなさい」と言って彼女の手をとって引き上げてくださるのと同じように、神様はわたしたち一人一人の手をとって死から引き上げてくださると信じ、希望をもってその日まで与えられた命を地上で生きていきます。いつか、死ぬ時がきます。でも、死ですらもわたしたちをイエス様によって示された神様の愛から引き離すことはできません。

神様の愛を頂いているわたしたちにイエス様は愛の生き方を教えてくださいました。愛を頂くだけでなく、愛を生きる者になりなさいと言われます。マルコによる福音書12章30節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。31節「隣人を自分のように愛しなさい」。

愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢しないで、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、真実を喜ぶ。全部でなくてもいい。この中から1つでもこの愛を実践してまいりましょう。神様が今もわたしたちのことを愛して、耐え忍んでくださっていますから。

2018年7月15日 今や、恵みの時

◆コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節
06:01 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
06:02 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
06:03 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
06:04 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
06:05 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
06:06 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
06:07 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
06:08 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
06:09 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
06:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

◆詩編18編26〜35節
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし
18:34 わたしの足を鹿のように速くし 高い所に立たせ
18:35 手に戦いの技を教え 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

この手紙を書いたパウロさんは苦労の多い人でした。わたしたちが想像するのも難しいような苦労を経験しています。4〜5節にある通りで「苦難、欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」。今、わたしはさらっとお読みしましたが、この中のたった一つでもわたしが経験したら耐えることができるだろうかと思うほど重みのある一つ一つです。しかし彼は大いなる忍耐をもってこのような苦しみにあっても大切なことを忘れずにいたのです。6節にある「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」。苦しみの中にあってもこれらを忘れずに示そうとしていたのです。どうやったらこんな大変なときに心広く親切に愛をもっていられるのかと思うのですが、それは人間の力ではなく7節にある通り「真理の言葉、神の力によって」そうすることができるのです。

わたしたちもこのパウロさんのように苦しいことにあっても潰れてしまうのではなく、それに耐えることができ、あわよくばそのような時であっても心広く親切で愛を忘れないでいたいと思います。これは苦しいことに直面した時になって対策を練るのでは間に合わないことだと思います。できるだけ常日頃から心と魂を健やかに保っておくこと、そして何よりも神様から毎日、恵みをいただいているんだと受け止めて感謝して、「神様、今日もありがとうございます」と祈る日々が必要です。それは、パウロさんがこう伝えているからです。2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。

現代日本社会で生きていますと「あなたにはあれが必要です。保険の見直しをしましょう。新しいこの商品がいいですよ」などなど繰り返し聞くことになります。そうしますと「自分にはまだ足りないものがある」という、感謝の思いとは違う気持ちにさせられていきます。もちろん新しくて良いものもありますが、テレビでも街を歩いていても繰り返されるこのような声は知らぬ間にわたしたちの意識の奥に入り込んできますから気をつける必要があります。わたしたちが「これは本物だ」と心を開いて聞くべきものは聖書が伝える福音の宣言です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。今、すでにわたしたちは恵みの時にいる。神様がわたしたちの願いを聞き入れてくださった恵みの時は今この時なんだと繰り返し受け止め、感謝するのです。例えば、「苦しいから助けてください」との願いはイエス様によって聞き入れられています。わたしたちが一番恐れるのは独りになること、誰からも愛されず、思いを寄せられない独りになることです。イエス様はそのことをよくわかってこう言われます。「あなたがたのまことの親である神はあなたがたに必要なものをご存知である。だから明日のことまで心配しないでもいい。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。

パウロさんは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い、神様は「救いの日にわたしはあなたを助けた」と言っておられますから、わたしたちはすでにイエス様によって助けられています。この日本では、大きな災害が起きたり、えらい人が平気で嘘をついたりと悪いことばかりが起きているようで、悲しみや怒りを感じることがあります。わたしたちの気持ちは自分の体の調子によっても変わりますし、社会で起きていることによっても影響を受けます。でも、パウロさんが苦しい状況におかれても「もう、わたしはダメだ」とくじけずにいられたのは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と日々信じて神様に感謝していたからだと思うのです。ある人がこう言っていました。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」。これは真理です。周りの状況に合わせて良い時には「あー幸せだな」と感じて感謝する。でも状況が悪くなると感謝しないではなく、どのような時でもここにはきっと神様の恵みと救いがあるんだと信じて「神様が今のこの時をくださったと信じ、感謝します。この病気になってもあなたはわたしを見捨てないと言っていると信じます」。一言、祈るのです。

2節「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神様は言っておられます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。このイエス・キリストによって与えられた恵みと救いがあるならば、どんなことがあってもくじけないで歩いていけると信じます。それは一人で困難に立ち向かうことではありません。なぜなら、これはパウロさんの日記ではなく、同じ神様を信じる仲間に送った手紙だからです。パウロさん自身がこのように自分の思いを伝えることによってそれを聞く人が励まされるはずですし、パウロさん自身もそのように仲間から励まされてきたからこそ、力強くコリントの人たちにこう伝えることができるのです。同じ手紙の1章6節で彼はこう言っています。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。

神様がこのわたしの願いをすでに聞きれてくださっているのだから、今や恵みの時。神様がわたしをすでに助けてくださっているのだから、今こそ救いの日、なのです。イエス・キリストにおいて願いは聞き入れられ、イエス・キリストの十字架と復活においてわたしたちはすでに助けられているのです。わたしたちの状況がどのようなものであるにもかかわらず、大丈夫だと言える信仰を持つわたしたちの真骨頂がここにあります。

先日、ラジオで面白いことを話していました。長生きの秘訣の9つのポイントです。世界各地の長生きをする人の多い地域を調査研究した結果、わかったこととして話していました。長生きですから、心も体も健康で生き生きとした歩みをするコツとも言えると思います。わたしはこの9つのポイントを聞いて、これはなんだか教会のことを言っているように思いました。全部が教会に当てはまるわけではありませんが、重なるところが多いと思いますのでお伝えします。このようなポイントです。1.適度な運動、2.腹八分、3.野菜中心の食事、4.適量の赤ワイン、5.家族第一、6.スローライフ、7.目的を持つ、8.人とつながる、9.信仰を持つ。どうですか。教会に来ている皆さんはこの9つの多くを実践しているんじゃないでしょうか。1の適度な運動。これは教会ではちょっと難しいかもしれませんが、週に1回教会に歩いてくることもそれなりの運動です。2の腹八分は聖書が伝えることと重なります。十戒でも貪るなとあり、新約でも「自分の持っているものに満足しなさい」と伝え、イエス様は少しのパンと魚をたくさんの人と分かち合いました。腹八分です。3の野菜中心の食事。聖書には肉は食べてはいけないとはありませんが、殺すなとありますから生きている動物を殺さないで生きるには野菜中心の食事となります。4の適量の赤ワインはどうでしょうか。原町田教会では聖餐の時ブドウジュースになっておりますが、教会は長年、パンと赤ワインを主の食卓でいただいて来ました。5の家族第一はどうですか?イエス様がもっとも大事だと言われた「隣人を自分のように愛しなさい」。これはまず第一にすぐ近くにいる家族のことだと言えます。人が心も体も健やかに「自分を信じて、自分を大切にでき、同時に隣人を大切にする人」として成長するためには、何よりも家族の中で「生まれてきてくれてありがとう。あなたが今、ここにいることが何よりもわたしの喜びです」と言われる愛の中で育つことが大切です。無条件に受け入れられることが「自分は自分でいいんだ」というその人の土台となりますから、家族が大切です。この自己肯定感と呼ばれる土台は子どもの頃だけでなく、大人になっても常に更新される必要がありますから、大人もこの教会という神の家族の中で互いに「あなたは神様に愛された大切な人」として受け入れられることが重要です。

さて、次に6のスローライフはどうでしょうか。日曜日も教会に来て忙しいと感じる人もいるかもしれません。神様は週に1日は必ず何もしないで休みなさいと安息する日を与えています。ですから、教会に来て忙しくて大変ですとなるのはできるだけ避けるべきです。ただ、教会は来てゆっくりと休むことが目的ではないのも事実です。聖書から神様のメッセージを聞いて、わたしたちに生きる意味、生きる目的を神様は教会を通して示してくれますから7の目的を持つとも関係しています。教会の活動に参加することで何かやりがいを感じているのでしたら、忙しくて辛いと思うことはあまりないかもしれません。教会は聖書を通して生きる目的をわたしたちにはっきりと教えてくれています。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。そのために自分ができることは何なのかをわたしたちは考えます。8の人とつながるは、教会以外のところでもできることですが、わたしは地域での人と人とのつながりが薄れてきた現代日本社会だからこそ、教会は胸を張って「わたしたちはつながりを大切にしています」と言うべきだと思うのです。小さい子どもからご高齢の方まで幅広くつながって毎週、このように集うつながりは教会ならではですし、このつながりがわたしたちに苦しいことにあっても忍耐するその力の源になるんだと信じることができます。苦しいことにあっても教会の仲間がいる。わたしのことを祈ってくれている人が教会にいる。わたしたちは独りではないのです。

最後に9の信仰のことですが、ラジオでは「信仰をもてば、病気になった時や何か悪いことがあってもそれを神様のせいにできるから心が軽くなるんです」と言っていました。信仰をそれだけで片付けられてしまうのはちょっと残念ですが、何か自分を超えた存在、わたしたちにとっては創造主であり、救い主イエス様を送ってくださった神様を信じる信仰があって、心も魂も体も健康でいられるとまさに信じるのです。

毎週、こうして教会に集って礼拝を捧げることが、わたしたちの体と心を健やかに保つために神様から与えられた恵みであり、今や恵みの時なんだと受け止めます。9つの長生きのポイントも実は神様からの恵みですし、わたしたちはそれらを神様に感謝します。毎日の当たり前のように思える事柄の中に神様の恵みが隠されていますから、「神様、今日も散歩という適度な運動ができ感謝です。腹八分の食事が与えられ感謝です。美味しい野菜中心の食事に感謝します」と神様から頂いている恵みに繰り返し感謝する。与えられている恵みの今を繰り返し感謝するその日々の感謝の積み重ねがわたしたちの忍耐力を強めていくのだと信じますし、そのようにして神様の力がわたしたちの中で働くようになるのです。わたしたちは「悲しんでいるようで、常に喜び」、わたしたちは「貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。今こそ、救いの日、今や恵みの時がイエス・キリストによって与えられているからです。

2018年7月8日 御言葉の上に立って見る

◆マルコによる福音書8章22〜26節
08:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
08:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
08:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
08:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
08:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ちょっと昔の話のことですが、わたしはロビン・ウィリアムズという俳優が好きで彼の映画をよく見ました。ご存知の方もいると思いますが、DJ役の『グッドモーニングベトナム』、女装する中年男性役の『ミセス・ダウト』などの映画に出ていますが、その中でもわたしの印象に残っているのが『いまを生きる』という映画です。

伝統ある全寮制の高校にロビン・ウィリアムズが演じる英語教師キーティングが新しい先生としてやって来ます。校長先生の厳しい指導の下で縛られていた学生たちに、キーティング先生は「教科書なんか破り捨てろ」と言い放って、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを教えようとします。ある日の授業でキーティング先生が突然机の上に靴のまま登って机の上に立って、「常に物事は別の視点で見なければならない! ほら、ここからは世界がまったく違って見えるだろ」と話し、生徒たちも机の上に立たせるのです。その変わった授業に生徒たちは最初、戸惑っていましたが、次第に刺激され、新鮮な考えや、規則や親の期待に縛られない自由な生き方に目覚めていきます。そんな中、ニールという青年がいまして彼は俳優を志して舞台に立つことを決心したのですが、彼の父親はそれに反対。でも、彼は父に内緒で役者の仕事に応募し、見事役者を演じる夢を叶えました。しかし、進学以外、進路を認めない厳しい父親に反抗することができず、悩んだ末に彼は自死してしまいます。そして、この事件がキーティング先生の責任とされて、学校を去ることになります。最後の場面で、キーティング先生が教室にあった荷物を取りに行って、そこを去ろうとしたとき、先生のことが大好きだった数人が机の上に立ち始め、「辞めなさい、そこから降りなさい」と他の先生に言われても降りずにじっと立っている。わたしは感動屋でして、この場面でだいたい涙を流します。すみません、これは映画を見た人にしかわからないかもしれません。

机の上に立って見ると、物事を違った角度から見ることができる。これはイエス様と出会って目が少しずつ開かれたという聖書に登場する人に似ています。イエス様と出会った盲人は目に唾をつけてもらって目が見えるようになりましたが、すぐにはっきり見えるようになりませんでした。はじめに「人が見えます。木のようです」と伝え、2回目に手を当ててもらって何でもはっきり見えるようになりました。イエス様と出会った人はそれまで見えていなかった物事がだんだんと見えてくるようになると聖書は伝えています。わたし宮島もイエス様と出会って、それまで見えていかなったものがだんだんと見えてくるという経験をしてきました。今日は、わたしがイエス様との出会いから目が開かれ、今まで見えていなかったことが見えるようになった経験をお話しいたします。

わたしが洗礼、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたのが大学4年生22歳の時でした。その時からクリスチャンとして20数年間生きてきましたが、まさにこの目が開かれた人と同じように物事を見る見方が少しずつ変えられてきたと感じています。今日は2つのポイントからお話しさせていただきます。

まず一つ目ですが、ヨハネによる福音書15章16節でイエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしが選んだのではなく、神様が選んだ。幼稚園の入園式で保護者の皆さんに向けて話すのですが、「みなさんは数ある幼稚園の中からこの原町田幼稚園をみなさんが選んだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。神様が皆さんを選んでこの原町田幼稚園に導いてくれたのです。これからの幼稚園生活を通して「わたしではなく、神様が選ばれた」という経験をしていってください」と話しています。これは幼稚園だけの話ではありません。わたしたちが自分で選んできたと思っていることが実は神様の選びであったということはわたしたちの人生の中にはたくさんあります。神様が選ばれたというのは、夫婦の関係でもそうですし、子どもが生まれることも、また、仕事や自分が今生活している環境も神様が選ばれてわたしたち一人一人をその場に置いてくださっている、そのように見るのです。夫と妻の関係のことで言えば、もし二人とも「わたしがこの人を選んだ」と思っていたとしたらどうでしょうか?自分がこの人を選んだと思っていますと相手が自分の意に反したこと、気に食わないことをしますと「自分はどうしてこんな人を選んだんだろう。もっといい人がいたかもしれないし、実際にもっといい人がいるかもしれない」と思ってしまうかもしれません。そのような考え方が発展しますと二人の関係がだんだんとギクシャクしたものになる恐れがあります。でも、神様がこの人を選んだという言葉の上に立ってみますと現実が違って見えてきます。相手が自分の意に反したことをしたとしても「神様がこの人を選んだのだからこのことにも何かの意味があるのだろう」と受け止めることもできますし、あるいは「神様が選んだのだから、仕方ない」とあきらめることもできます。あきらめると言っても互いに良い関係を保つためのあきらめです。生まれてきた子どものこともそうです。子どものことでいろいろとうまくいかないことがあって、「どうしてこんな子に育ってしまったんだろう」と思うかもしれませんが、そうではなく、神様がこの子をわたしたち夫婦のために選び、届けてくださったとの言葉の上に立つのです。そこに立ちますとうまくいかないことがあっても「神様、この子をくださってありがとうございます」と受け止めることができます。

「わたしが選んだのではなく、神様が選んだ」という言葉の上に立って物事をみる。教会にはそのような文化があります。わたしたちが置かれている学校、仕事、家庭、地域など様々な環境がありますが、時々自分が置かれている環境に不満を感じて、どうしてわたしはこんなことをしなければならないのかとやりきれない思いを持つかもしれません。でも、わたしではなく神様がここにわたしを置いてくださっているんだ。神様がわたしを選んでここに置かれているんだという言葉の上に立ってみますと違った景色がだんだんと見えてきます。「神様がわたしを選んでくださったのだから、きっとこれからうまくいくはずだし、今大変だと思っていたことから何かを学んで次に生かせるのかもしれない」。どのような状況に置かれたとしてもこれはわたしが選んだのではなくて、神様がわたしを必要としてわたしを選んでくださったんだと受け止める。その言葉の上に立って物事を見るように努力する。不満や不安ばかりが見えていたところに一筋の光が見えてくる。神様はわたしたちにそのような経験を与えてくださいます。

次に二つ目です。ヨハネによる福音書の11章でイエス様はこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。クリスチャンとなり、また特に牧師となってからわたしは人の死に何度も出会ってきました。そして親しい人を天に送って悲しむ人たちにこのように伝えてきました。「死は終わりではありません。神様のところで新しく生きる命の始まりです」。わたしは自分で死を経験したわけではありませんから、証明することはできませんが、でも聖書が伝えることを「これは本当だ」と信じて伝えることはできます。そして死が終わりではなくて新しい命の始まりだと信じることで「死ぬこと」に対する不安や恐れはだんだんとなくなってくると思うのです。「死ぬのが怖い。自分がどうなるのかわからない。独りになってしまう」。そんな恐れが心の中に出て来るのも事実ですが、聖書の言葉、揺らぐことのない言葉の上に立って親しい人の死、それといつか必ず経験する自分の死を見つめるならば、恐れや不安はなくなっていきます。

わたしは何年か前に自分の父を天に送った時も悲しくて寂しい気持ちになりましたが、聖書の詩編23編の言葉に支えられました。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。わたしの父は神様の家、天国に帰って行った、いつかまた天国で会うこともできる、そう思いますと心の中になんとも言えない安心が広がります。

4日前の水曜日にもこの原町田教会で荒谷さんという指揮者のお連れ合いの荒谷和子さんの葬儀が行われました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、自分の葬儀の時には讃美歌を歌って送って欲しいと言っていたので急遽、和子さんの娘さんの友人である牧師から「原町田教会を貸して欲しい」と言われてお貸ししました。その葬儀の中で読まれた聖書が詩編23編で、その牧師ははっきりと言いました。「和子さんは天国に帰って行かれ、今、神様と共にいる」。(間)死は終わりではなく、天国での新しい命の始まりだという言葉を信じて、その言葉の上に立って自分の死、親しい人の死をみるならば不安や恐れは少しずつ減っていきます。

どこに立って自分や人、物事を見るのでしょうか?日頃、あまり意識しないことかもしれませんが、これは大切なことだと思います。なぜなら、多くの場合無意識のうちに不安定な言葉を受け入れてその上に立ってしまうことがあるからです。自分が立つところがグラグラと揺れ動いていましたら、そこに立っている限り不安や恐れは消えません。けれども、決して変わらない土台、揺れ動くことのない方の変わらない言葉の上に立つならば、不安や恐れはなくなって行きます。変わることのない言葉がわたしたちを支えてくださっていると聖書は繰り返し伝えます。「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」。「わたしがあなたもあの人の罪も過ちも赦している」。「死は終わりではなく、新しい命の始まりです」。

揺れ動かない確固とした岩のような神様が、わたしたちと共にいて支えてくださいますし、神様の言葉という確固とした土台がありますから、その上に立って物事を見ることができる。これは何も難しいことではありません。この言葉は本当だと心から信じ続けるのです。

2018年6月24日 この時のためにこそあなたはいる

◆エステル記4章10節〜5章8節
04:10 エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。
04:11 「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」
04:12 エステルの返事がモルデカイに伝えられると、
04:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
04:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
04:15 エステルはモルデカイに返事を送った。
04:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
04:17 そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。
05:01 それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。
05:02 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。
05:03 王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
05:04 エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」
05:05 王は、「早速ハマンを来させなさい。エステルの望みどおりにしよう」と言い、王とハマンはエステルが準備した酒宴に赴いた。
05:06 王はぶどう酒を飲みながらエステルに言った。「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
05:07 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。
05:08 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」

◆使徒言行録13章13〜25節
13:13 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
13:14 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。
13:16 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。
13:18 神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、
13:19 カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。
13:20 これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。
13:21 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、
13:22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
13:24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
13:25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

◆詩編33編4〜11節
33:04 主の御言葉は正しく 御業はすべて真実。
33:05 主は恵みの業と裁きを愛し 地は主の慈しみに満ちている。
33:06 御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた。
33:07 主は大海の水をせき止め 深淵の水を倉に納められた。
33:08 全地は主を畏れ 世界に住むものは皆、主におののく。
33:09 主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。
33:10 主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。
33:11 主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。

 

エステルには両親がいませんでしたので、彼女は小さい頃に親戚にあたるモルデカイにもらわれて、自分の娘のように育ててもらいました。二人ともペルシャ帝国に暮らすユダヤ人でしたが、モルデカイは王妃になったエステルに自分がユダヤ人であることを隠しておくように伝え、彼女はそれを守っていました。そんなある日のこと、モルデカイが国で王様につぐ力を持っていたハマンに敬礼をしませんでした。ハマンはそのことに腹を立てモルデカイだけでなくモルデカイが属するユダヤ人を皆、滅ぼすようにと命令を出し、王様も「お前がしたいようにすればいい」と認めてしまいました。モルデカイはその恐ろしいニュースを知って王妃であるエステルに伝えたのが今日の聖書の出来事です。モルデカイはエステルに「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」と伝え、その企(たくら)みを阻止するように迫りました。今日の聖書の後、7章になりますが、エステルは王様に「わたしの民族が滅ぼされそうになっておりますので、助けてください」と言い、「誰がそんなことを企んでいるのだ」と聞かれエステルは「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」と言って、その企みを止めさせることができたのです。

エステルは国中にいる同胞のユダヤ人たちが滅ぼされてしまわないように、勇気を出して王のところに行きました。育て親のモルデカイの一言「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」。この一言が彼女の背中を押し、彼女は滅びの危機にあった「この時」を見逃すことなく、王の前に立つことができ、ユダヤの人たちを救い出したのです。

神様は原町田教会のわたしたち一人ひとりにも「この時のためにこそあなたはそこにいる」と言われます。いつが自分にとっての「この時のためにこそ」なのか。誰かが危機の中にあって、自分が何かをすればその人が助かるという「この時」はいつなのか。エステルにとってのこの時はモルデカイによって知らされましたが、わたしたちにとってのこの時を誰が知らせてくれるのでしょうか。わたしたち一人一人にとって、またわたしたち全員にとっての「この時」を見逃さないように、聞き逃さないようにと神様が今日の御言葉を伝えます。

今日の御言葉はエステル記と使徒言行録ですが、実は、今日の教団の聖書日課ではそれに加えてマルコによる福音書の6章14〜29節があります。その箇所は、洗礼者ヨハネさんがヘロデ王によって首をはねられて殺されるところです。権力を持つヘロデ王が妻ヘロディアの娘に「欲しいものがあればなんでも言いなさい。お前にやろう」と客の前で豪語した後、彼女が「洗礼者ヨハネの首を」と言ったので客の手前「それはできない」と言えず、ヘロデ王はヨハネの首を跳ねさせるのです。そして今日のもう一つの聖書箇所、使徒言行録ではイスラエルの民が王を求めたとあります。本来であれば神様だけが国を治めるまことの王であるにもかかわらず、彼らも「王様が欲しい」と言い出したのです。使徒言行録では短くそのことを伝えていますが、ここは大切なところなので詳しくサムエル記上8章をみてみたいと思います。イスラエルの民は、「わたしたちのために王を立ててください」と当時、預言者だったサムエルに願いました。神様は「彼らの声に従いなさい。ただし、王が持つ力を教えておきなさい」と言われ王を立てたら、あなたたちはこうなると次のように具体的に教えています。「あなたたちの上に立つ王はあなたたちの息子を戦争のために徴用し、娘を働き手として徴用する。あなたたちから10分の1の財産を奪い取る。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ」。サムエルは人々にここまで話したのですが、人々はその声を聞かず「王が必要なのです」と言い張ったので、サムエルはサウルの頭に油を注いで王をたてたのです。王が持っている権力とそれによって戦争が始められると神様ははっきりと言われ、実際にそうなりました。これはイスラエルだけのことではありません。わたしたちのこの国のことでもあり、世界中にある国々のことでもあります。どのような形であっても王のように国で権力を持つ人は息子を戦争のために連れていき、税金を取り立てて戦争を始めようと間違うことがあるのです。

今日、与えられた聖書箇所が共通して伝えることは、人が集って国をつくり、そこで力をもった者は、時に間違ってその力を用いることがあり、その結果、弱い立場にある人たちの命が脅かされるという事実です。福音書の洗礼者ヨハネもそうですし、エステルたちユダヤ人もそうでした。ですから、日本という国の中で生きるわたしたちは国の中で力を持つ人たちを見張っていかなければなりません。エステルにしてもモルデカイにしても、できればあのようなギリギリの事態になる前に止めたかったと思います。でも危機的なことは、ギリギリに迫ってこないと気づかないのかもしれません。実際、王宮の中にいたエステルは何が起きているのか気付かずにモルデカイに指摘されて初めてその危機に気づきました。同じようにわたしたちも今、自分たちがどのような時代を生きているのか、エステルのようなギリギリの事態にはまだ至っていないのかもしれませんが、それに似た時が近づいているかもしれません。「この時のためにこそあなたはそこにいる」と神様がわたしたちに言われる「この時」は、エステルのような決定的な一瞬だけでなく、わたしたちの日常の生活の中にも刻まれているのではないでしょうか。

わたしたちの淡々としているように感じる日常の中にもいくつもの「この時のためにこそ」が隠されています。わたし自身が経験したことなのですが、ついこの間、ある人にとっての「この時」を見逃してしまったような辛い思いをしました。それは今年の4月でしたが、わたしが保証人として仮放免を申請していたインドの青年が自らの命を絶ってしまったことです。31歳の彼は昨年の4月に日本にやってきて、3ヶ月後の7月にオーバーステイで入管に収容されまして、去年の9月にわたしは彼と初めて品川の入管で面会しました。彼はインドでビジネスに失敗して多額の借金を抱えておりましたので、国に帰るとヤクザに命を狙われるから帰らないと言っていまして、何とかここから出たいとわたしに連絡して来ました。その11月に1回目の仮放免を申請をし、12月末に不許可となり、彼は茨城県の収容所に移され、今年の1月に2回目の申請をしまして、その結果が3月に届いていました。わたしは茨城の収容所には面会に行っておりませんので、収容されている人たちからかかってくる電話でその結果を伝えておりましたが、4月12日に彼のインドの友達から電話があり、わたしはその人の保証人もしていましたので「結果はどうでしたか?」と聞いてくる彼に「ダメだった」と伝え、「そうだ、彼にもダメだったと伝えてください」と電話で話しました。そう伝えた次の日の4月13日、彼はシャワー室で首をつって命を絶ってしまったのです。わたしは不許可の結果を伝える時、「何回ダメになっても、何回でも申請してあなたがここから出るまで保証人をするから大丈夫」と伝えているのですが、その時にはそれを言えませんでした。

もちろん、このことはわたしだけの問題ではなくて収容制度の問題でもあります。いつ収容所から出られるのか、全く見通しが取れない状態にとどめて、いつ強制送還されるのかわからない状態で、長い場合では2〜3年もほとんど自由のないところに収容している入管のあり方にも問題があります。でも、わたしが直接関わっていたことですからショックを受けましたし、「必ず出られるから大丈夫。わたしが最後まで保証人をやるよ」と伝えておけばこんなことにならなかったと思いました。「この時のためにこそ」を見逃してしまったように感じるのです。

ただ、神様はこんなわたしなのですが、いまだに用いてくださっていると実感できることがつい先日ありました。2年も大阪の入管に収容されていたスリランカの女性の仮放免が先日許可されたのです。彼女から電話がくる前に一緒に彼女を支援している人から「仮放免が許可されました」と連絡がありましたので、その同じ日の夕方、彼女から電話がかかってきて「宮島さん、ありがとう」というので「よかったね。また、こっちに遊びにきてね」と話しました。ただ仮放免で万事オッケーという訳ではないのですが、とりあえず辛い収容所からは解放されたのですから、よかった、神様ありがとうございますと祈りました。

わたしたちの近くに困っている人がいたら自分ができることをしていこうという気持ちによって、「この時のためにこそ」を見逃さずにいたい。特に国の権力によって社会の中で弱い立場にある人たちの命が脅かされることのないように「この時のためにこそあなたがここにいるのだ」との声を聞き逃すことのないようにしたいです。そのためにはイエス様のように弱い立場に置かれている人たちをできる範囲で訪ね、その人たちの声を聞かなければならないと思います。

神様は言われます。「この時のためにこそ、あなたはそこに生きているのではないか」。この国の中でわたしたちは、だいたい毎日のように同じ人たちと会って生活をしています。そうしますとあまり国の力によって辛く苦しい立場に置かれる人たちとは出会わないかもしれません。しかし、クセルクセス王の国にユダヤ人がいたように、わたしたちのこの国にもモルデカイやエステルのようにすぐに弱い立場に追いやられてしまう人たちがいます。わたし宮島は個人的にほとんど何も関われていないのですが、原発事故によっていまも十字架を背負わされている福島県の人たち、また、アメリカ軍の基地という十字架を背負わされている沖縄の人たちのことを祈り続けなければならないと思うのです。祈り続けることは、「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのだ」との神様の声を聞き逃さないようにするための最低限のことです。わたしは3年前に沖縄に行く機会が与えられ、その時に「基地ができませんように」と祈り続けていた辺野古に行くことができ、1時間ぐらいでしたが、基地建設反対をする人たちと一緒に座り込みをしてきました。辺野古を去る時に一人のおばあさんが動き出した車の中にいるわたしに向かって「牧師先生、わたしたちのこと、忘れないでくださいね」と大きな声で叫んだその言葉がわたしの胸に残っています。

「この時のためにこそ」との声を聞き逃さないでエステルのように行動することはとても難しいことだと思います。でも、もし聞き逃してしまったらその人たちだけでなく、わたしたち自身も大変なことになると聖書は伝えますから、国という大きな力によって苦しい立場に置かれている人たちの声を聞き続け、また祈り続けましょう。

詩編33編10節「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」。人間の計画や企てはその時はうまくいったように見えますが、とこしえに立つことはありません。6節「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」。神様だけがすべての命を平等に愛し、治められる方。すべての命が等しく愛され、大切にされる神様の思いがこの地になりますようにと祈りつつ、小さくされている人たちの声を聞き逃さないようにしましょう。「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのではないか」。

2018年6月10日 あなたも家族も救われます

◆使徒言行録16章16〜34節
16:16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
16:18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。
16:19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。
16:21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
16:23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。 16:24この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
16:26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。
16:27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
16:29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、
16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
16:32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
16:33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
16:34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

◆詩編 32編1〜7節
32:01 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:02 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:03 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:04 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:05 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。
32:06 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:07 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。

 

わたしはあまり知りませんでしたが、自分のことを占って欲しいと思う人は今の時代もたくさんいるようでして、インターネットで「占いの市場規模」と調べますと、右肩上がりでなんと日本国内だけで5000億円もあるとありました。

使徒言行録に出てきます占い師の女性も占いによってたくさん儲けていまして、でもそのほとんどは主人たちに取り立てられていました。彼女はきっと占うのが上手だったのでしょう。相手の恐れや不安、自信のなさを巧みに読み取ってこのように話していたのかもしれません。例えば、子どもが欲しくても与えられない女性がやってきて「どうしてわたしには子どもができないんですか?」と藁をもすがる思いで聞きます。すると彼女は「あなたの先祖には子どもに悪いことをした人がいるようです。まずその悪い霊を取り除かなければなりません」と言って誰でもそうかもしれないと思うようなことを伝え、でもその不安は必ず取り除かれると解決策を提示します。すると聞いていた人は「本当かもしれない」と思い込み「ではお願いします」と言ってしまうのです。占い師は「この水晶を買って家に置いておけば子どもが生まれます」と言って、ちょっと高い、でも買えない値段ではない水晶を買わせていたのかもしれません。彼女は巧みにわたしたちが感じる病気への不安、家族や職場などあらゆる人間関係からの不安、将来への不安、お金の不安など心の揺れ動きを上手に掴み取り、「ズバリ、あなたの不安は悪い霊のせいです」と間違ったことを思い込ませ、高額な利益を得ていたのだと想像します。

しかし彼女自身、そのような偽りの生活をやめたかったのでしょう。人に間違った思い込みをさせて騙して大儲けしていたことに「こんなことはダメだ」。彼女は本当にこのままでいいのだろうかと不安や恐れを感じていたはずです。だから、彼女はパウロさんとシラスさんにしつこくついて行って「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と救いを求めて声をあげたのです。パウロさんはたまりかねて彼女に向かって言います。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。占いはお金をとって除霊などをしますが、パウロさんは無料でその人に救いを宣言します。こうして彼女は嘘をついてお金を騙し取る生活から解放されたのです。

占いの彼女とは対照的に彼女を使って金儲けをしていた主人たちは、パウロさんとシラスさんを高官たちに引き渡し、はらいせに本当はしてもいないことまで訴えたので、2人は鞭打たれ牢屋に入れられてしまいました。鞭で背中を打たれて、足かせをはめられて牢屋に入れられたら普通、気持ちが落ち込んで「もうダメだ」と思ってしまいますが、二人は牢屋の中でも賛美歌を歌って神様に祈っていました。神様は必ずわたしたちを助けてくれる。神様にできないことはないと2人は思い込んでいたのです。この2人の思い込みが人を救うことにつながっていきます。

神様を信じて生きることは、「神様の思いこそ本当のことだ」との思い込みでもあります。この2人は、必ず神様が助けてくださるし、たとえ牢から逃れられなかったとしてもこの中にいる人たちに福音を伝えて救いに導くことができると思い込んでいました。それとは反対に自分はもうダメだと思い込んでしまう人がここに登場します。牢屋を見張っていた看守です。彼は自分の間違った思い込みで自分自身を滅びへと追い込んでしまいます。大きな地震があって、牢の戸が全部開いて、囚人たちを逃げないようにつないでいた鎖も全部外れてしまいました。真夜中でしたので寝ていた看守は目を覚まして牢の戸が開いているのを見て、「囚人たちが逃げてしまった」と思いました。牢の戸が全部開いたのですから、そう思って当然です。もう、終わりだ。一人ならまだしも、囚人全員が逃げたとなるとわたしの人生もおしまいだ。そう思って持っていた剣を抜いて看守は自害しようとしましたが、でも、それは間違った思い込みだったのです。27節にある通りです。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのをみて、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、救いの言葉が看守の耳に届きます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。パウロさんとシラスさんの二人だけでなく、囚人は皆そこにいたのです。牢の戸は開き、すべての囚人の鎖が外れていたにもかかわらず、誰もそこから逃げませんでした。看守はこの時点ですでに救われていました。こうなって当たり前だと思っていたことが実は違っていた。こうなるだろうと思っていたことは単なる人間の思い込み、間違った思い込みで、神様の思いは違っていた。そのことに目が開かれたのです。

わたしたちもこの看守のように思い込んでしまうこと、あると思います。「こんな自分はダメだ」「わたしはこんなに欲深いから神様から見放される」「自分は幸せになれないような気がする」「持っているお金も少ないし、自分を助けてくれる人なんか誰もいない」、そんな風に間違ったことを思い込み、自分は救われないと恐れにとりつかれてしまう。しかし、これは全部、人間の思いですし、神様の思いとは違います。そのような間違った思い込みは、わたしたちを神様から遠ざけようとしますから、間違った思い込みは悪い霊の働きと言うこともできます。わたしたち、あまり気づいていないのですが、間違った思い込みによってどれほど神様の思いを自分の中に入れないようにしているのか。でも、神様の思いはいつまでも変わらず語りかけてくださいます。「わたしはあなたを愛している」。「わたしはあなたを守る。わたしはあなたのまことの親だから、あなたを決して見捨てない」。「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。わたしたちは繰り返し神様の思いを聞いて「本当にそうだ、アーメン」と受け止め、自分の中にある自分の思い込みには、「どうぞ、もう出て行ってください」と伝え、神様の思いで心を満たしていただくのです。

自分の思いは単なる人間の思い込みなんだ、と気づいてわたしたちもこの看守のように「救われるためにはどうすべきでしょうか」と心を神様に向かって開きます。そして「神様はイエス様によってわたしを愛してくださり、ゆるしてくださっている」と信じるだけでいいのです。壺や水晶など買う必要もなければ、除霊もしなくてもいい。ただ主イエス様が本当の救い主だと信じるだけ。「そうすれば、あなたも家族も救われます」。パウロさんが言ったこの言葉には、すでに差し出されている神様の救いが大前提にあって、それが省かれていますので、わたしなりに補いますとこうなります。「すべての人にはすでに神様の救いが差し出されています。だから、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。もうすでに自分の家族も救いの中にいるとあなたが信じること、神様はすべての人を愛していると信じること。それが自分の救いであり、家族の救いでもあります。自分の家族は教会にも来ていないし、聖書の言葉もあまり知らない。でもすでに神様の救いの御手の中にあると信じる。すでにあの人も救いの中にある、神様の愛の中にあると信じるのです。神様の思いはわたしたちの思いをはるかに超えて大きく全ての人を包み込んでいます。その救いのしるしとして「わたしはイエス様を信じます」と信仰を告白することで、神様はわたしたちに「本当にわたしは救われたんだ」とまことの救いを実感させてくださいます。この看守も「わたしたちは皆ここにいる」と言われ命びろいをしてすでに救われていたのですが、彼はその自分が救われたというしるしを求めました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロさんとシラスさんは、看守とその家族に主の言葉、神様の思いを伝えたところ、真夜中でしたが、看守は「わたしはイエス様を救い主として信じます」と信仰を告白し、バプテスマを受けました。看守とその家族は、バプテスマによって教会につながる者となりました。ここに救いがあります。教会につながることで神様の思いを繰り返し聞いて、自分の間違った思い込みを減らし、神様の豊かな思いで心を満たしていくことができるからです。神様の思いを仲間たちと一緒に聞いて、その仲間たちと一緒に食事をする。そこに救いが実現しています。

人間の間違った思い込みからの解放。自分の思い込みでなく神様の思いを自分の中に受け入れていく。わたしたちも自分の思い込みに気をつけたいです。「わたしは神様からこうしなさいと言われていることをほとんどできていないから、天国には入れないはずだ」。「嘘もついたこともあるし、自分が言ったことで人を傷つけてしまったこともある。だから、神様に合わせる顔がない。自分は赦されないだろう」。そんな思い込みはいつでも忍び寄ってきます。自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の失敗やだらしなさによって「自分はダメだ」「わたしなんかいてもいなくても同じだ」「自分は救われない」と思ってしまうこと。そのように思い込んでしまうのはそんなに難しいことでなく、看守がそうだったようにちょっとしたことでどんな人でも思ってしまうことなのです。

しかし、誰がなんと言おうと、わたしたちがどれほど「自分はダメだ」と思い込んでいたとしても、神様は変わらず神様の思いを伝え続けます。「わたしはあなたを愛している」「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。「そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

この世界、この社会、わたしたちの周りには、神様の愛に気づかず、神様の思いを受け入れる機会が少なくて、たくさんの人が苦しんでいます。わたしたちも時々、間違った人間の思いに引っ張られてしまうこともありますが、でも神様の思いを聞き続けて、「神様の思いこそ本物だ」と信じていますし、互いにこうやって信じていこうと励まし合い、祈り合う仲間もいます。だからこそ、わたしたち教会は、自分の思い込みで苦しんでいる人たちに向かって神様の思いを伝えます。「神様はイエス様によってあなたもあなたの家族もすべて愛し、ゆるしています。そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

2018年5月27日 でも、『わたしは神の子』

◆ローマの信徒への手紙8章12〜17節
08:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
08:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
08:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
08:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
08:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
08:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。イエス様のバプテスマによってこの救いの御言葉、福音の言葉がよりはっきりとすべての人に届くものとなりました。「あなたはわたしの愛する子」。

しかしながら、教会の歴史の中ではイエス様がどうしてバプテスマを受けられたのか、その意味を巡って論争が起こることもありました。キリスト者を悩ませ、論争を起こしたのは、洗礼者ヨハネさんのバプテスマが、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」だったからです。「罪なきイエス様がどうして罪の赦しのバプテスマを受けなければならないのか」という問いにどう答えればいいのか、大きな問題でした。全く罪のないイエス様が一体どうして悔い改めのバプテスマを受けなければならないのか。ある人はイエス様がバプテスマを受けたというのは歴史的事実ではなく、聖書を書いた人の作り話だと言うほどでした。

ここにはバプテスマとは何なのか、バプテスマをどのように理解すれば良いのかがこの問題を解く大きな鍵となります。本来的には、バプテスマは救いの条件ではありませんでした。「バプテスマを受けたらあなたは救われます」というものがバプテスマであったとしたら、イエス様は「それは本当のバプテスマではないから、わたしはそれを受けない」と拒否したことでしょう。でも、イエス様はバプテスマを受けられました。なぜなら、それは救われた者にとっての「救いの印」だったからです。すでに神様はわたしを愛してくださっている、救いは与えられているのだから、わたしはその印としての洗礼を受ける、そのようにしてイエス様は洗礼を受けられたと理解します。

わたしたちが教会で受けるバプテスマ(洗礼)も同じです。そこにはなんの条件もありません。わたしたちが良い行いをしたからでもなく、わたしたちが救われるに値するからバプテスマを受けることができる、そういうことでもありません。神様がわたしたちを赦し、神様がわたしたちを愛してくださっている。すでに神様から救いは差し出されている。だからわたしたちはその救いに気づいて、信じて、救いの印としてのバプテスマを受けるのです。

イエス様がバプテスマを受けられたのは、すでに差し出されている救いをすべての人に伝えるためでした。わたしたちが悔い改めたから救われるのではなく、すでに救われていてバプテスマを受けたからわたしたちは悔い改めて、愛を中心にして生きていこうと変えられていきます。悔い改めのバプテスマはそういう意味なのです。イエス様がバプテスマを受けられた後、霊が鳩のように降ってきて天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様がバプテスマを受けられたことで、聖霊は全ての人に与えられている命そのものだということが再確認されました。「わたしの心に適う者」を直訳すれば「わたしはあなたを喜ぶ」となりますから「これはわたしの愛する子、わたしはあなたの存在を喜ぶ」となります。

この天から声は、神様がすべての人に命の霊を吹きかけたあの創世記の出来事をほうふつとさせます。今日の招きの詞で読まれました創世記2章7節の御言葉です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。4月終わりの頃でしたが、幼稚園でわたしはこの箇所を子どもたちにお話しました。神様が土の塵で人を作りましたが人は動きださなかった。でも、神様がその人の鼻にふーと息を吹き入れ、「大好きだよ。生まれてきてくれて本当にありがとう。あなたがいること、それがとっても嬉しいよ。いろんなことに挑戦してね、応援してるよ」と園児たちの前に行って何度か声を息を吹きかけるように話しかけましたら、その言葉に子どもたちの目がキラキラしてですね、ある子はその時に「そう言ってくれて嬉しい」とばかりに立ち上がって拍手をしてくれました。これ、わたしが自分で創作した話のように思うかもしれませんが、そうではなくて聖書の言葉をそのまま話しているだけです。創世記で「息」と訳された言葉は「霊」と訳すことができる「ルーアッハ」という言葉ですから、イエス様のバプテスマを受けて降った霊は、すべての人に注がれている神様の息をリバイバル、再現させたのです。イエス様のところに降ってきた霊は「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」とある通りで、それはまさに神様が天地を創造されて人に命の息を吹き入れられた出来事の再現なのです。

パウロさんは言っています。ローマ8章14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。15節「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。神様が天地創造の時から今も続けて、すべての人に「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」と息を吹きかけられています。だから、そのことに気づき、信じるわたしたちは神様に向かって「天のお父様、アッバ」と呼びかけることができるようになりました。神様はわたしたち、すべての人の親なのです。ローマ8章15節「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。イエス様が実際に使っていたアラム語。小さい子どもが「父さん」と親しみを込めて呼びかけるような響きの「アッバ」。神様に向かって何度も「アッバ、父さん」と呼びかける、それほど親しく近い、肉親よりも深いつながりを持つ、そういう関係、それが親なる神様とわたしたち子どもの関係なのです。御子イエス様と親なる神様との強く、決して切ることのできない豊かな関係をそのまま同じようにわたしたちも持つようになったのです。

わたしたち教会は「あなたは神の子です」とすべての人に向かって宣言します。これが福音のメッセージです。わたしが神学校に通っていた時にある神学生がわたしに「素敵な讃美歌があるから聞いてみますか」と言って一枚のCDをくれました。その中には「Child of God」神の子という英語の讃美歌が入っていました。その賛美歌はわたしたちが生きる現実の中にある様々な痛みや苦しみを歌っているのですが、でもわたしは神の子だ、と主にある希望を繰り返し歌います。妻が夫から受ける家庭内暴力の現実、国際的な経済格差が生み出す貧しさの現実、同性愛者への差別偏見の現実、紛争地域の子どもの現実。でも、その苦しい困難な中にあっても、どんなに苦しくても「でも、わたしは神様に愛された神の子だ」と歌うのです。わたしがその歌詞を日本語に訳しましたので、4人の登場人物の声を、彼らがどのような状態におかれているのかを想像しながら聞いてください。

「わたしの名前はマリー。昨晩、彼はわたしを殴りつけて、わたしは床に倒れました。これまでも何度も殴られてきた。彼はわたしに『ごめんね』と言って綺麗な花を持ってきて、しばらくは良い状態となるが、またちょっとすると、彼はわたしに『お前なんかいなくなればいい。最低なやつだ』と言って殴る。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエマニュエル。あなたたちがどうして豊かに生活しているのか、わたしのこの傷ついた手が教えることができます。これまでずーっと働いてきましたがわたしの家族はいつまでも貧しい。だから、あなたたちはバナナもコーヒーも安く手に入れられる。わたしの雇い主はこう言います。「お前の代わりの労働者などはいくらでもいるから、お前の言うことなんか聞かない」。雇い主は続けて言う。「お前の魂はいつか天国で自由になるんだから、今の辛いことなんか気にするな」。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はジェローム。先週家に帰った時、自分に正直になろうと思っていた。でも、お父さんはそれを聞いて部屋から出て行こうとし、お母さんはその場にへたり込んだ。「一体どうやったらお前は自分を男と言えるんだ?お前が自分は同性愛者だと言い張るなら、お前は家からいなくなったと近所の人には伝える」と言い、続けて「お前は病気だし、恥ずかしい。死んでしまえばいいのに」と両親はわたしに言った。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエイミー。7歳の女の子。もう苦しいことに疲れてしまった。わたしの周りにはドラッグ、離婚、紛争は終わらない。でも、わたしは踊ったり、遊んだりしたい。戦争が終わって家族が一緒に暮らせること、アイスクリームを食べることをわたしは夢見ている。だって、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

どんなに苦しくても、どんなに辛い現実であっても、でも、わたしは神の子だ。これはすべての人、神様から命の息、神の霊をいただいているすべての人が胸を張って言えることです。パウロさんは8章16節でこう伝えます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。これは神様からの福音の宣言です。神様がすべての人に向かって繰り返し伝えられる喜びの知らせです。神様はこの知らせを天地創造の時に伝え、そしてまたイエス・キリストを通してもう一度、よりはっきりと伝えてくださいました。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。この福音を聞き続けているわたしたちは、自分自身で「わたしは神の子です」と信じて、それで終わらずに身近にいる人にこう伝えていきます。「あなたは神様に愛された神の子です」。

2018年5月13日 永遠の輪の中に入れられて

◆ヨハネによる福音書17章1〜13節
17:01 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:02 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:03 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:04 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:05 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:06 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:07 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:08 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:09 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

イエス様の祈りは神様への信頼で満ちています。神様を「あなた」と呼び、ご自分を「わたし」と言うようにとても親しく語りかけています。ただ、イエス様が弟子たちにこのように祈りなさいと教えられた「主の祈り」とはずいぶん違っています。マタイ福音書で、イエス様は「あなたたちが祈るときは、くどくどと長くする必要はない。言葉数が多ければ聞き入れられると思っているがそれは違う。神様はあなたたちが願う前から必要なものをご存知だから、シンプルに祈りなさい」と言われています。でも、ここでのイエス様の祈りは長くて、同じようなことを繰り返し祈っています。イエス様が「こうしなさい」とわたしたちに言っていることとご自分でしていることが違っていると思うかもしれませんが、ヨハネ福音書17章の祈りは、「主の祈り」のような日々の祈りとは大きく違っています。18章以降のことを見ても、また祈りの中にもあるとおり、この祈りはご自分の死を目の前にしたイエス様の最後の祈り、遺言の祈りなのです。ですから、どうしても長くなりますし、最後にこれだけは祈っておきたいとの強いイエス様の思いが込められています。祈りの初めに「父よ、時が来ました」と言われ、13節では「今、わたしはみもとに参ります」とご自分の地上での命が終わる時が来たと告げられます。

「もうすぐ、あなたは召されます。あなたは何日かしたら死んで神様のところに帰っていきます」と神様のみ使いがやって来て、突然そのように告げられたとしたらどうでしょうか。残された時間は少ない。わたしたちは何をするでしょうか。そんなの嘘だ、信じられないと言って拒否するでしょうか。それとも、静かにその時を待つのでしょうか。「もうすぐ、あなたは召される」。そのように告げられた後、わたしたちは何を思うのでしょうか。自分がこれまでしてきたことを思って感謝するのでしょうか。それとも後悔するのでしょうか。地上での人生は終わってしまう。もっとやりたかったことがあったのに。明日、そうなることが何年か前にわかっていれば、こんな無駄なことをしてこなかったのに。もっと前にわかっていればもっとましな人生を生きてこれたはずなのに。

イエス様が自分の死を目の前にしてしたこと。それは祈りでありました。この祈りにはイエス様の最後の願い、心からの思いが現れています。1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。1〜5節までの祈りのキーワードは栄光です。これからイエス様の死と復活を通して神様が現される栄光をすべての人に与えてくださいと繰り返し願っています。実は、イエス様はすでにその言葉と行動を通して神様の栄光を現していました。4節に「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とある通りです。しかし、まだ、すべての人に永遠の命が与えられるとの素晴らしい知らせを多くの人がまだ知っていないので、イエス様は「栄光を与えてください」と再度願うのです。モーセが杖を高々と上げて海を二つに割るような輝かしいことは、もちろん神様の栄光の現れですが、そのようなことだけではなく、もっと単純で、もっと身近なことです。それは、神様がわたしたちを造られたから、神様はわたしたちのことを大切にし、最後の最後まで守ってくださること、それを自分のこととして知り、信じることです。イエス様はそのことをこう言っています。3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。神様がイエス様を送ってくださり、その命を与えてくださったほどにすべての人を愛している、その変わることのない愛を自分のこととして知り、信じること。それが永遠の命であり、神様の栄光が現れることです。

わたしたちは、日頃のほとんどの時間、死ぬことについて考えることはありません。死ぬことを考えるのは良くないこと、そんな雰囲気もありますから、死のことをあえて話さないようにしている節もあります。年齢を重ねていきまして80歳、90歳、100歳となりますと若い頃と比べて、時々ですが自分の死を思うことはあるかもしれません。それでもできれば、あまり考えたくないというのが正直な気持ちだと思います。けれども今日、イエス様は、ご自分の死と真剣に向き合い、ご自分の命をかけて、わたしたちのために祈っておられます。「肉体的な死を恐れるのではなく、魂の死に気をつけられますように」とわたしたちのために祈っておられるのです。最終的な肉体の死よりも、むしろ今の自分、毎日の自分が誰かから必要とされているのか、何かの求めに応えられているのかという魂のレベルでの生死の方が差し迫った課題だからです。それはもちろんご高齢の方だけでなく、どの世代の人にとっても重要なことです。「自分は本当に必要とされているのか」、「自分が生きていることに価値はあるのか」、そのような魂からの問いかけです。

イエス様はその問いに明確に答えてくださいます。6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」。神様が造られたものすべてはイエス様のものとなりました。ですから、わたしたちはこのように信じるのです。「わたしの命はわたしのものではなくて神様のもの、イエス様のものです」。これが永遠の命です。7節で「わたしに与えてくださったものみな、あなたからのものである」とあり、9節でも「彼らはあなたのもの」とイエス様が言われています。すべての人、人間だけでなく命あるすべてのものは神様のものであり、イエス様のものですから、わたしたちは神様とイエス様とつながっています。神様がこのわたしに命を与えてくださっているのだから、神様がわたしの命の所有者であり、その所有者がそれを必要ないと思えばすぐにでも捨ててしまうはず。でも今もこうして生きているのだから、神様がこう言われるのです。「今もあなたは誰かのために生きているし、あなたがいるからあの人も喜んでいるし、何よりもわたしがあなたを喜んでいる。わたしがあなたを必要としている」。

イエス様は死と復活を経て永遠に生きておられます。その永遠なるイエス様と自分はつながっている。わたしたちはそう信じていいのですが、ヨハネ福音書17章を読んでみてわたしは改めて目が開かれた思いをしました。それは、「永遠の命は、個人的なものではない」ということです。個人的にイエス様を信じて、個人的にイエス様とつながっていると感じること以上に、イエス様と神様との親しい関係の中に神様に愛された人たちと一緒に入れられている、そのことに気づく、それが永遠の命だということです。10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」。わたしたちすべての人は神様のものでもあり、イエス様のものでもあり、その切っても切れない輪の中にもうすでに入れられている。何よりも嬉しいことは、どれほど小さい者であっても、どれほど年老いた者であっても、祈りすらままならない者であっても、イエス様がその人たちを神様とつながる輪の中、永遠のサークルの中に入れられているということ。そのつながりは永遠ですから、わたしたちが生きている今もそして肉体的に死んだ後にもそのつながりから切り離されることはありません。イエス様はその大きな安心感、わたしは神様とつながっているから大丈夫と信じていました。だから、自分の死を前にしてもこのように語ることができるのです。13節後半「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです」。

教会の礼拝に出ていまして、賛美歌や祈りを一緒にするときに集った人たちとつながっている、一体感というのでしょうか、そのような気持ちを感じることがあります。それはそこにいるみんなが同じ思いになったとか、みんなが互いに愛し合うようになったと軽々しく言うことではなく、むしろ、苦手な人、嫌いな人もいる。けれども自分の心がその人のことから離れて神様に向かって祈り、賛美する時があり、ここに集められた一人一人の心が人への思いから神様に向かって「アーメン」と祈る。神様に向かって「ハレルヤ」と賛美する。それはもはや人間の力でも人間の業でもありません。神様がイエス様との輪の中にわたしたちを入れてくださっている、それをわたしたちが実感できた瞬間なのだと思います。それはわたしの個人的な感覚かもしれません。でも、それはイエス様が繰り返し「一つになるため」と言われていることだと信じますし、それが、わたしたちの目指すところであることは確かです。神様とイエス様と聖霊とが手を携えたその輪の中に入れられている、そのようなイメージです。

時々、祈ることすら難しくなってしまうことがあります。聖書を読んでも心に響かない。礼拝に出ても牧師の説教が心に響かない時もあります。そのような時のためにイエス様は、御名を現してくださいました。神様のお名前です。11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。イエス様は御名によって人々を守られ、これからもすべての人を御名によって守ってくださいます。

わたしたちは神様の御名前を知っています。神様のお名前は「わたしはある、あなたと共にある」(出エジプト記)であり、「インマヌエル」「主我らと共にある」。ヨハネ福音書によれば、イエス様は良い羊飼い、命のパン、まことのぶどうの木、世の光です。どれもわたしたちにとって身近な名前です。どの名前を聞いてもイメージが浮かんできます。良い羊飼い、命のパン、ぶどうの木、光。そしてイエス様。どのお名前でもいい。永遠の輪の中に入れていただいていますから、祈れないときにはただ御名を呼べばいい。「イエス様」と心の中で呼びかければいいのです。

イエス様の願いはすべての人が一つになることです。神様がすべての人を愛しているという真理をすべての人が知って、信じること、それが一つになるということです。わたしはなんのためにここに生まれ、何のために死んでいくのか。わたしたちは永遠の命を受けるために生まれ、永遠の命を生きるために死んでいきます。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。イエス様はすべての人に永遠の命を与えることができますし、十字架の死と復活によって神様の栄光は、父と子と聖霊という永遠の輪の中に現れました。ですから、わたしたちは素直にイエス様の思いを受け入れます。「わたしたちはすでに永遠の輪の中に入れられている」。イエス様のこの喜び、わたしはすでに永遠の輪の中に入れられている。その喜びがすべての人の内に満ちあふれますように。祈りましょう。

日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。