牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
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2018年7月15日 今や、恵みの時

◆コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節
06:01 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
06:02 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
06:03 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
06:04 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
06:05 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
06:06 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
06:07 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
06:08 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
06:09 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
06:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

◆詩編18編26〜35節
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし
18:34 わたしの足を鹿のように速くし 高い所に立たせ
18:35 手に戦いの技を教え 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

この手紙を書いたパウロさんは苦労の多い人でした。わたしたちが想像するのも難しいような苦労を経験しています。4〜5節にある通りで「苦難、欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」。今、わたしはさらっとお読みしましたが、この中のたった一つでもわたしが経験したら耐えることができるだろうかと思うほど重みのある一つ一つです。しかし彼は大いなる忍耐をもってこのような苦しみにあっても大切なことを忘れずにいたのです。6節にある「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」。苦しみの中にあってもこれらを忘れずに示そうとしていたのです。どうやったらこんな大変なときに心広く親切に愛をもっていられるのかと思うのですが、それは人間の力ではなく7節にある通り「真理の言葉、神の力によって」そうすることができるのです。

わたしたちもこのパウロさんのように苦しいことにあっても潰れてしまうのではなく、それに耐えることができ、あわよくばそのような時であっても心広く親切で愛を忘れないでいたいと思います。これは苦しいことに直面した時になって対策を練るのでは間に合わないことだと思います。できるだけ常日頃から心と魂を健やかに保っておくこと、そして何よりも神様から毎日、恵みをいただいているんだと受け止めて感謝して、「神様、今日もありがとうございます」と祈る日々が必要です。それは、パウロさんがこう伝えているからです。2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。

現代日本社会で生きていますと「あなたにはあれが必要です。保険の見直しをしましょう。新しいこの商品がいいですよ」などなど繰り返し聞くことになります。そうしますと「自分にはまだ足りないものがある」という、感謝の思いとは違う気持ちにさせられていきます。もちろん新しくて良いものもありますが、テレビでも街を歩いていても繰り返されるこのような声は知らぬ間にわたしたちの意識の奥に入り込んできますから気をつける必要があります。わたしたちが「これは本物だ」と心を開いて聞くべきものは聖書が伝える福音の宣言です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。今、すでにわたしたちは恵みの時にいる。神様がわたしたちの願いを聞き入れてくださった恵みの時は今この時なんだと繰り返し受け止め、感謝するのです。例えば、「苦しいから助けてください」との願いはイエス様によって聞き入れられています。わたしたちが一番恐れるのは独りになること、誰からも愛されず、思いを寄せられない独りになることです。イエス様はそのことをよくわかってこう言われます。「あなたがたのまことの親である神はあなたがたに必要なものをご存知である。だから明日のことまで心配しないでもいい。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。

パウロさんは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い、神様は「救いの日にわたしはあなたを助けた」と言っておられますから、わたしたちはすでにイエス様によって助けられています。この日本では、大きな災害が起きたり、えらい人が平気で嘘をついたりと悪いことばかりが起きているようで、悲しみや怒りを感じることがあります。わたしたちの気持ちは自分の体の調子によっても変わりますし、社会で起きていることによっても影響を受けます。でも、パウロさんが苦しい状況におかれても「もう、わたしはダメだ」とくじけずにいられたのは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と日々信じて神様に感謝していたからだと思うのです。ある人がこう言っていました。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」。これは真理です。周りの状況に合わせて良い時には「あー幸せだな」と感じて感謝する。でも状況が悪くなると感謝しないではなく、どのような時でもここにはきっと神様の恵みと救いがあるんだと信じて「神様が今のこの時をくださったと信じ、感謝します。この病気になってもあなたはわたしを見捨てないと言っていると信じます」。一言、祈るのです。

2節「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神様は言っておられます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。このイエス・キリストによって与えられた恵みと救いがあるならば、どんなことがあってもくじけないで歩いていけると信じます。それは一人で困難に立ち向かうことではありません。なぜなら、これはパウロさんの日記ではなく、同じ神様を信じる仲間に送った手紙だからです。パウロさん自身がこのように自分の思いを伝えることによってそれを聞く人が励まされるはずですし、パウロさん自身もそのように仲間から励まされてきたからこそ、力強くコリントの人たちにこう伝えることができるのです。同じ手紙の1章6節で彼はこう言っています。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。

神様がこのわたしの願いをすでに聞きれてくださっているのだから、今や恵みの時。神様がわたしをすでに助けてくださっているのだから、今こそ救いの日、なのです。イエス・キリストにおいて願いは聞き入れられ、イエス・キリストの十字架と復活においてわたしたちはすでに助けられているのです。わたしたちの状況がどのようなものであるにもかかわらず、大丈夫だと言える信仰を持つわたしたちの真骨頂がここにあります。

先日、ラジオで面白いことを話していました。長生きの秘訣の9つのポイントです。世界各地の長生きをする人の多い地域を調査研究した結果、わかったこととして話していました。長生きですから、心も体も健康で生き生きとした歩みをするコツとも言えると思います。わたしはこの9つのポイントを聞いて、これはなんだか教会のことを言っているように思いました。全部が教会に当てはまるわけではありませんが、重なるところが多いと思いますのでお伝えします。このようなポイントです。1.適度な運動、2.腹八分、3.野菜中心の食事、4.適量の赤ワイン、5.家族第一、6.スローライフ、7.目的を持つ、8.人とつながる、9.信仰を持つ。どうですか。教会に来ている皆さんはこの9つの多くを実践しているんじゃないでしょうか。1の適度な運動。これは教会ではちょっと難しいかもしれませんが、週に1回教会に歩いてくることもそれなりの運動です。2の腹八分は聖書が伝えることと重なります。十戒でも貪るなとあり、新約でも「自分の持っているものに満足しなさい」と伝え、イエス様は少しのパンと魚をたくさんの人と分かち合いました。腹八分です。3の野菜中心の食事。聖書には肉は食べてはいけないとはありませんが、殺すなとありますから生きている動物を殺さないで生きるには野菜中心の食事となります。4の適量の赤ワインはどうでしょうか。原町田教会では聖餐の時ブドウジュースになっておりますが、教会は長年、パンと赤ワインを主の食卓でいただいて来ました。5の家族第一はどうですか?イエス様がもっとも大事だと言われた「隣人を自分のように愛しなさい」。これはまず第一にすぐ近くにいる家族のことだと言えます。人が心も体も健やかに「自分を信じて、自分を大切にでき、同時に隣人を大切にする人」として成長するためには、何よりも家族の中で「生まれてきてくれてありがとう。あなたが今、ここにいることが何よりもわたしの喜びです」と言われる愛の中で育つことが大切です。無条件に受け入れられることが「自分は自分でいいんだ」というその人の土台となりますから、家族が大切です。この自己肯定感と呼ばれる土台は子どもの頃だけでなく、大人になっても常に更新される必要がありますから、大人もこの教会という神の家族の中で互いに「あなたは神様に愛された大切な人」として受け入れられることが重要です。

さて、次に6のスローライフはどうでしょうか。日曜日も教会に来て忙しいと感じる人もいるかもしれません。神様は週に1日は必ず何もしないで休みなさいと安息する日を与えています。ですから、教会に来て忙しくて大変ですとなるのはできるだけ避けるべきです。ただ、教会は来てゆっくりと休むことが目的ではないのも事実です。聖書から神様のメッセージを聞いて、わたしたちに生きる意味、生きる目的を神様は教会を通して示してくれますから7の目的を持つとも関係しています。教会の活動に参加することで何かやりがいを感じているのでしたら、忙しくて辛いと思うことはあまりないかもしれません。教会は聖書を通して生きる目的をわたしたちにはっきりと教えてくれています。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。そのために自分ができることは何なのかをわたしたちは考えます。8の人とつながるは、教会以外のところでもできることですが、わたしは地域での人と人とのつながりが薄れてきた現代日本社会だからこそ、教会は胸を張って「わたしたちはつながりを大切にしています」と言うべきだと思うのです。小さい子どもからご高齢の方まで幅広くつながって毎週、このように集うつながりは教会ならではですし、このつながりがわたしたちに苦しいことにあっても忍耐するその力の源になるんだと信じることができます。苦しいことにあっても教会の仲間がいる。わたしのことを祈ってくれている人が教会にいる。わたしたちは独りではないのです。

最後に9の信仰のことですが、ラジオでは「信仰をもてば、病気になった時や何か悪いことがあってもそれを神様のせいにできるから心が軽くなるんです」と言っていました。信仰をそれだけで片付けられてしまうのはちょっと残念ですが、何か自分を超えた存在、わたしたちにとっては創造主であり、救い主イエス様を送ってくださった神様を信じる信仰があって、心も魂も体も健康でいられるとまさに信じるのです。

毎週、こうして教会に集って礼拝を捧げることが、わたしたちの体と心を健やかに保つために神様から与えられた恵みであり、今や恵みの時なんだと受け止めます。9つの長生きのポイントも実は神様からの恵みですし、わたしたちはそれらを神様に感謝します。毎日の当たり前のように思える事柄の中に神様の恵みが隠されていますから、「神様、今日も散歩という適度な運動ができ感謝です。腹八分の食事が与えられ感謝です。美味しい野菜中心の食事に感謝します」と神様から頂いている恵みに繰り返し感謝する。与えられている恵みの今を繰り返し感謝するその日々の感謝の積み重ねがわたしたちの忍耐力を強めていくのだと信じますし、そのようにして神様の力がわたしたちの中で働くようになるのです。わたしたちは「悲しんでいるようで、常に喜び」、わたしたちは「貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。今こそ、救いの日、今や恵みの時がイエス・キリストによって与えられているからです。

2018年7月8日 御言葉の上に立って見る

◆マルコによる福音書8章22〜26節
08:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
08:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
08:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
08:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
08:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ちょっと昔の話のことですが、わたしはロビン・ウィリアムズという俳優が好きで彼の映画をよく見ました。ご存知の方もいると思いますが、DJ役の『グッドモーニングベトナム』、女装する中年男性役の『ミセス・ダウト』などの映画に出ていますが、その中でもわたしの印象に残っているのが『いまを生きる』という映画です。

伝統ある全寮制の高校にロビン・ウィリアムズが演じる英語教師キーティングが新しい先生としてやって来ます。校長先生の厳しい指導の下で縛られていた学生たちに、キーティング先生は「教科書なんか破り捨てろ」と言い放って、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを教えようとします。ある日の授業でキーティング先生が突然机の上に靴のまま登って机の上に立って、「常に物事は別の視点で見なければならない! ほら、ここからは世界がまったく違って見えるだろ」と話し、生徒たちも机の上に立たせるのです。その変わった授業に生徒たちは最初、戸惑っていましたが、次第に刺激され、新鮮な考えや、規則や親の期待に縛られない自由な生き方に目覚めていきます。そんな中、ニールという青年がいまして彼は俳優を志して舞台に立つことを決心したのですが、彼の父親はそれに反対。でも、彼は父に内緒で役者の仕事に応募し、見事役者を演じる夢を叶えました。しかし、進学以外、進路を認めない厳しい父親に反抗することができず、悩んだ末に彼は自死してしまいます。そして、この事件がキーティング先生の責任とされて、学校を去ることになります。最後の場面で、キーティング先生が教室にあった荷物を取りに行って、そこを去ろうとしたとき、先生のことが大好きだった数人が机の上に立ち始め、「辞めなさい、そこから降りなさい」と他の先生に言われても降りずにじっと立っている。わたしは感動屋でして、この場面でだいたい涙を流します。すみません、これは映画を見た人にしかわからないかもしれません。

机の上に立って見ると、物事を違った角度から見ることができる。これはイエス様と出会って目が少しずつ開かれたという聖書に登場する人に似ています。イエス様と出会った盲人は目に唾をつけてもらって目が見えるようになりましたが、すぐにはっきり見えるようになりませんでした。はじめに「人が見えます。木のようです」と伝え、2回目に手を当ててもらって何でもはっきり見えるようになりました。イエス様と出会った人はそれまで見えていなかった物事がだんだんと見えてくるようになると聖書は伝えています。わたし宮島もイエス様と出会って、それまで見えていかなったものがだんだんと見えてくるという経験をしてきました。今日は、わたしがイエス様との出会いから目が開かれ、今まで見えていなかったことが見えるようになった経験をお話しいたします。

わたしが洗礼、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたのが大学4年生22歳の時でした。その時からクリスチャンとして20数年間生きてきましたが、まさにこの目が開かれた人と同じように物事を見る見方が少しずつ変えられてきたと感じています。今日は2つのポイントからお話しさせていただきます。

まず一つ目ですが、ヨハネによる福音書15章16節でイエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしが選んだのではなく、神様が選んだ。幼稚園の入園式で保護者の皆さんに向けて話すのですが、「みなさんは数ある幼稚園の中からこの原町田幼稚園をみなさんが選んだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。神様が皆さんを選んでこの原町田幼稚園に導いてくれたのです。これからの幼稚園生活を通して「わたしではなく、神様が選ばれた」という経験をしていってください」と話しています。これは幼稚園だけの話ではありません。わたしたちが自分で選んできたと思っていることが実は神様の選びであったということはわたしたちの人生の中にはたくさんあります。神様が選ばれたというのは、夫婦の関係でもそうですし、子どもが生まれることも、また、仕事や自分が今生活している環境も神様が選ばれてわたしたち一人一人をその場に置いてくださっている、そのように見るのです。夫と妻の関係のことで言えば、もし二人とも「わたしがこの人を選んだ」と思っていたとしたらどうでしょうか?自分がこの人を選んだと思っていますと相手が自分の意に反したこと、気に食わないことをしますと「自分はどうしてこんな人を選んだんだろう。もっといい人がいたかもしれないし、実際にもっといい人がいるかもしれない」と思ってしまうかもしれません。そのような考え方が発展しますと二人の関係がだんだんとギクシャクしたものになる恐れがあります。でも、神様がこの人を選んだという言葉の上に立ってみますと現実が違って見えてきます。相手が自分の意に反したことをしたとしても「神様がこの人を選んだのだからこのことにも何かの意味があるのだろう」と受け止めることもできますし、あるいは「神様が選んだのだから、仕方ない」とあきらめることもできます。あきらめると言っても互いに良い関係を保つためのあきらめです。生まれてきた子どものこともそうです。子どものことでいろいろとうまくいかないことがあって、「どうしてこんな子に育ってしまったんだろう」と思うかもしれませんが、そうではなく、神様がこの子をわたしたち夫婦のために選び、届けてくださったとの言葉の上に立つのです。そこに立ちますとうまくいかないことがあっても「神様、この子をくださってありがとうございます」と受け止めることができます。

「わたしが選んだのではなく、神様が選んだ」という言葉の上に立って物事をみる。教会にはそのような文化があります。わたしたちが置かれている学校、仕事、家庭、地域など様々な環境がありますが、時々自分が置かれている環境に不満を感じて、どうしてわたしはこんなことをしなければならないのかとやりきれない思いを持つかもしれません。でも、わたしではなく神様がここにわたしを置いてくださっているんだ。神様がわたしを選んでここに置かれているんだという言葉の上に立ってみますと違った景色がだんだんと見えてきます。「神様がわたしを選んでくださったのだから、きっとこれからうまくいくはずだし、今大変だと思っていたことから何かを学んで次に生かせるのかもしれない」。どのような状況に置かれたとしてもこれはわたしが選んだのではなくて、神様がわたしを必要としてわたしを選んでくださったんだと受け止める。その言葉の上に立って物事を見るように努力する。不満や不安ばかりが見えていたところに一筋の光が見えてくる。神様はわたしたちにそのような経験を与えてくださいます。

次に二つ目です。ヨハネによる福音書の11章でイエス様はこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。クリスチャンとなり、また特に牧師となってからわたしは人の死に何度も出会ってきました。そして親しい人を天に送って悲しむ人たちにこのように伝えてきました。「死は終わりではありません。神様のところで新しく生きる命の始まりです」。わたしは自分で死を経験したわけではありませんから、証明することはできませんが、でも聖書が伝えることを「これは本当だ」と信じて伝えることはできます。そして死が終わりではなくて新しい命の始まりだと信じることで「死ぬこと」に対する不安や恐れはだんだんとなくなってくると思うのです。「死ぬのが怖い。自分がどうなるのかわからない。独りになってしまう」。そんな恐れが心の中に出て来るのも事実ですが、聖書の言葉、揺らぐことのない言葉の上に立って親しい人の死、それといつか必ず経験する自分の死を見つめるならば、恐れや不安はなくなっていきます。

わたしは何年か前に自分の父を天に送った時も悲しくて寂しい気持ちになりましたが、聖書の詩編23編の言葉に支えられました。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。わたしの父は神様の家、天国に帰って行った、いつかまた天国で会うこともできる、そう思いますと心の中になんとも言えない安心が広がります。

4日前の水曜日にもこの原町田教会で荒谷さんという指揮者のお連れ合いの荒谷和子さんの葬儀が行われました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、自分の葬儀の時には讃美歌を歌って送って欲しいと言っていたので急遽、和子さんの娘さんの友人である牧師から「原町田教会を貸して欲しい」と言われてお貸ししました。その葬儀の中で読まれた聖書が詩編23編で、その牧師ははっきりと言いました。「和子さんは天国に帰って行かれ、今、神様と共にいる」。(間)死は終わりではなく、天国での新しい命の始まりだという言葉を信じて、その言葉の上に立って自分の死、親しい人の死をみるならば不安や恐れは少しずつ減っていきます。

どこに立って自分や人、物事を見るのでしょうか?日頃、あまり意識しないことかもしれませんが、これは大切なことだと思います。なぜなら、多くの場合無意識のうちに不安定な言葉を受け入れてその上に立ってしまうことがあるからです。自分が立つところがグラグラと揺れ動いていましたら、そこに立っている限り不安や恐れは消えません。けれども、決して変わらない土台、揺れ動くことのない方の変わらない言葉の上に立つならば、不安や恐れはなくなって行きます。変わることのない言葉がわたしたちを支えてくださっていると聖書は繰り返し伝えます。「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」。「わたしがあなたもあの人の罪も過ちも赦している」。「死は終わりではなく、新しい命の始まりです」。

揺れ動かない確固とした岩のような神様が、わたしたちと共にいて支えてくださいますし、神様の言葉という確固とした土台がありますから、その上に立って物事を見ることができる。これは何も難しいことではありません。この言葉は本当だと心から信じ続けるのです。

2018年6月24日 この時のためにこそあなたはいる

◆エステル記4章10節〜5章8節
04:10 エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。
04:11 「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」
04:12 エステルの返事がモルデカイに伝えられると、
04:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
04:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
04:15 エステルはモルデカイに返事を送った。
04:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
04:17 そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。
05:01 それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。
05:02 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。
05:03 王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
05:04 エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」
05:05 王は、「早速ハマンを来させなさい。エステルの望みどおりにしよう」と言い、王とハマンはエステルが準備した酒宴に赴いた。
05:06 王はぶどう酒を飲みながらエステルに言った。「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
05:07 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。
05:08 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」

◆使徒言行録13章13〜25節
13:13 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
13:14 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。
13:16 そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。
13:18 神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、
13:19 カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。
13:20 これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。
13:21 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、
13:22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
13:24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
13:25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

◆詩編33編4〜11節
33:04 主の御言葉は正しく 御業はすべて真実。
33:05 主は恵みの業と裁きを愛し 地は主の慈しみに満ちている。
33:06 御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた。
33:07 主は大海の水をせき止め 深淵の水を倉に納められた。
33:08 全地は主を畏れ 世界に住むものは皆、主におののく。
33:09 主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。
33:10 主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。
33:11 主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。

 

エステルには両親がいませんでしたので、彼女は小さい頃に親戚にあたるモルデカイにもらわれて、自分の娘のように育ててもらいました。二人ともペルシャ帝国に暮らすユダヤ人でしたが、モルデカイは王妃になったエステルに自分がユダヤ人であることを隠しておくように伝え、彼女はそれを守っていました。そんなある日のこと、モルデカイが国で王様につぐ力を持っていたハマンに敬礼をしませんでした。ハマンはそのことに腹を立てモルデカイだけでなくモルデカイが属するユダヤ人を皆、滅ぼすようにと命令を出し、王様も「お前がしたいようにすればいい」と認めてしまいました。モルデカイはその恐ろしいニュースを知って王妃であるエステルに伝えたのが今日の聖書の出来事です。モルデカイはエステルに「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」と伝え、その企(たくら)みを阻止するように迫りました。今日の聖書の後、7章になりますが、エステルは王様に「わたしの民族が滅ぼされそうになっておりますので、助けてください」と言い、「誰がそんなことを企んでいるのだ」と聞かれエステルは「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」と言って、その企みを止めさせることができたのです。

エステルは国中にいる同胞のユダヤ人たちが滅ぼされてしまわないように、勇気を出して王のところに行きました。育て親のモルデカイの一言「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか」。この一言が彼女の背中を押し、彼女は滅びの危機にあった「この時」を見逃すことなく、王の前に立つことができ、ユダヤの人たちを救い出したのです。

神様は原町田教会のわたしたち一人ひとりにも「この時のためにこそあなたはそこにいる」と言われます。いつが自分にとっての「この時のためにこそ」なのか。誰かが危機の中にあって、自分が何かをすればその人が助かるという「この時」はいつなのか。エステルにとってのこの時はモルデカイによって知らされましたが、わたしたちにとってのこの時を誰が知らせてくれるのでしょうか。わたしたち一人一人にとって、またわたしたち全員にとっての「この時」を見逃さないように、聞き逃さないようにと神様が今日の御言葉を伝えます。

今日の御言葉はエステル記と使徒言行録ですが、実は、今日の教団の聖書日課ではそれに加えてマルコによる福音書の6章14〜29節があります。その箇所は、洗礼者ヨハネさんがヘロデ王によって首をはねられて殺されるところです。権力を持つヘロデ王が妻ヘロディアの娘に「欲しいものがあればなんでも言いなさい。お前にやろう」と客の前で豪語した後、彼女が「洗礼者ヨハネの首を」と言ったので客の手前「それはできない」と言えず、ヘロデ王はヨハネの首を跳ねさせるのです。そして今日のもう一つの聖書箇所、使徒言行録ではイスラエルの民が王を求めたとあります。本来であれば神様だけが国を治めるまことの王であるにもかかわらず、彼らも「王様が欲しい」と言い出したのです。使徒言行録では短くそのことを伝えていますが、ここは大切なところなので詳しくサムエル記上8章をみてみたいと思います。イスラエルの民は、「わたしたちのために王を立ててください」と当時、預言者だったサムエルに願いました。神様は「彼らの声に従いなさい。ただし、王が持つ力を教えておきなさい」と言われ王を立てたら、あなたたちはこうなると次のように具体的に教えています。「あなたたちの上に立つ王はあなたたちの息子を戦争のために徴用し、娘を働き手として徴用する。あなたたちから10分の1の財産を奪い取る。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ」。サムエルは人々にここまで話したのですが、人々はその声を聞かず「王が必要なのです」と言い張ったので、サムエルはサウルの頭に油を注いで王をたてたのです。王が持っている権力とそれによって戦争が始められると神様ははっきりと言われ、実際にそうなりました。これはイスラエルだけのことではありません。わたしたちのこの国のことでもあり、世界中にある国々のことでもあります。どのような形であっても王のように国で権力を持つ人は息子を戦争のために連れていき、税金を取り立てて戦争を始めようと間違うことがあるのです。

今日、与えられた聖書箇所が共通して伝えることは、人が集って国をつくり、そこで力をもった者は、時に間違ってその力を用いることがあり、その結果、弱い立場にある人たちの命が脅かされるという事実です。福音書の洗礼者ヨハネもそうですし、エステルたちユダヤ人もそうでした。ですから、日本という国の中で生きるわたしたちは国の中で力を持つ人たちを見張っていかなければなりません。エステルにしてもモルデカイにしても、できればあのようなギリギリの事態になる前に止めたかったと思います。でも危機的なことは、ギリギリに迫ってこないと気づかないのかもしれません。実際、王宮の中にいたエステルは何が起きているのか気付かずにモルデカイに指摘されて初めてその危機に気づきました。同じようにわたしたちも今、自分たちがどのような時代を生きているのか、エステルのようなギリギリの事態にはまだ至っていないのかもしれませんが、それに似た時が近づいているかもしれません。「この時のためにこそあなたはそこにいる」と神様がわたしたちに言われる「この時」は、エステルのような決定的な一瞬だけでなく、わたしたちの日常の生活の中にも刻まれているのではないでしょうか。

わたしたちの淡々としているように感じる日常の中にもいくつもの「この時のためにこそ」が隠されています。わたし自身が経験したことなのですが、ついこの間、ある人にとっての「この時」を見逃してしまったような辛い思いをしました。それは今年の4月でしたが、わたしが保証人として仮放免を申請していたインドの青年が自らの命を絶ってしまったことです。31歳の彼は昨年の4月に日本にやってきて、3ヶ月後の7月にオーバーステイで入管に収容されまして、去年の9月にわたしは彼と初めて品川の入管で面会しました。彼はインドでビジネスに失敗して多額の借金を抱えておりましたので、国に帰るとヤクザに命を狙われるから帰らないと言っていまして、何とかここから出たいとわたしに連絡して来ました。その11月に1回目の仮放免を申請をし、12月末に不許可となり、彼は茨城県の収容所に移され、今年の1月に2回目の申請をしまして、その結果が3月に届いていました。わたしは茨城の収容所には面会に行っておりませんので、収容されている人たちからかかってくる電話でその結果を伝えておりましたが、4月12日に彼のインドの友達から電話があり、わたしはその人の保証人もしていましたので「結果はどうでしたか?」と聞いてくる彼に「ダメだった」と伝え、「そうだ、彼にもダメだったと伝えてください」と電話で話しました。そう伝えた次の日の4月13日、彼はシャワー室で首をつって命を絶ってしまったのです。わたしは不許可の結果を伝える時、「何回ダメになっても、何回でも申請してあなたがここから出るまで保証人をするから大丈夫」と伝えているのですが、その時にはそれを言えませんでした。

もちろん、このことはわたしだけの問題ではなくて収容制度の問題でもあります。いつ収容所から出られるのか、全く見通しが取れない状態にとどめて、いつ強制送還されるのかわからない状態で、長い場合では2〜3年もほとんど自由のないところに収容している入管のあり方にも問題があります。でも、わたしが直接関わっていたことですからショックを受けましたし、「必ず出られるから大丈夫。わたしが最後まで保証人をやるよ」と伝えておけばこんなことにならなかったと思いました。「この時のためにこそ」を見逃してしまったように感じるのです。

ただ、神様はこんなわたしなのですが、いまだに用いてくださっていると実感できることがつい先日ありました。2年も大阪の入管に収容されていたスリランカの女性の仮放免が先日許可されたのです。彼女から電話がくる前に一緒に彼女を支援している人から「仮放免が許可されました」と連絡がありましたので、その同じ日の夕方、彼女から電話がかかってきて「宮島さん、ありがとう」というので「よかったね。また、こっちに遊びにきてね」と話しました。ただ仮放免で万事オッケーという訳ではないのですが、とりあえず辛い収容所からは解放されたのですから、よかった、神様ありがとうございますと祈りました。

わたしたちの近くに困っている人がいたら自分ができることをしていこうという気持ちによって、「この時のためにこそ」を見逃さずにいたい。特に国の権力によって社会の中で弱い立場にある人たちの命が脅かされることのないように「この時のためにこそあなたがここにいるのだ」との声を聞き逃すことのないようにしたいです。そのためにはイエス様のように弱い立場に置かれている人たちをできる範囲で訪ね、その人たちの声を聞かなければならないと思います。

神様は言われます。「この時のためにこそ、あなたはそこに生きているのではないか」。この国の中でわたしたちは、だいたい毎日のように同じ人たちと会って生活をしています。そうしますとあまり国の力によって辛く苦しい立場に置かれる人たちとは出会わないかもしれません。しかし、クセルクセス王の国にユダヤ人がいたように、わたしたちのこの国にもモルデカイやエステルのようにすぐに弱い立場に追いやられてしまう人たちがいます。わたし宮島は個人的にほとんど何も関われていないのですが、原発事故によっていまも十字架を背負わされている福島県の人たち、また、アメリカ軍の基地という十字架を背負わされている沖縄の人たちのことを祈り続けなければならないと思うのです。祈り続けることは、「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのだ」との神様の声を聞き逃さないようにするための最低限のことです。わたしは3年前に沖縄に行く機会が与えられ、その時に「基地ができませんように」と祈り続けていた辺野古に行くことができ、1時間ぐらいでしたが、基地建設反対をする人たちと一緒に座り込みをしてきました。辺野古を去る時に一人のおばあさんが動き出した車の中にいるわたしに向かって「牧師先生、わたしたちのこと、忘れないでくださいね」と大きな声で叫んだその言葉がわたしの胸に残っています。

「この時のためにこそ」との声を聞き逃さないでエステルのように行動することはとても難しいことだと思います。でも、もし聞き逃してしまったらその人たちだけでなく、わたしたち自身も大変なことになると聖書は伝えますから、国という大きな力によって苦しい立場に置かれている人たちの声を聞き続け、また祈り続けましょう。

詩編33編10節「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」。人間の計画や企てはその時はうまくいったように見えますが、とこしえに立つことはありません。6節「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」。神様だけがすべての命を平等に愛し、治められる方。すべての命が等しく愛され、大切にされる神様の思いがこの地になりますようにと祈りつつ、小さくされている人たちの声を聞き逃さないようにしましょう。「この時のためにこそ、あなたはそこにいるのではないか」。

2018年6月10日 あなたも家族も救われます

◆使徒言行録16章16〜34節
16:16 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
16:18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。
16:19 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。
16:21 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
16:23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。 16:24この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
16:26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。
16:27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
16:29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、
16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
16:32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
16:33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
16:34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

◆詩編 32編1〜7節
32:01 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:02 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:03 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:04 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:05 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。
32:06 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:07 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。

 

わたしはあまり知りませんでしたが、自分のことを占って欲しいと思う人は今の時代もたくさんいるようでして、インターネットで「占いの市場規模」と調べますと、右肩上がりでなんと日本国内だけで5000億円もあるとありました。

使徒言行録に出てきます占い師の女性も占いによってたくさん儲けていまして、でもそのほとんどは主人たちに取り立てられていました。彼女はきっと占うのが上手だったのでしょう。相手の恐れや不安、自信のなさを巧みに読み取ってこのように話していたのかもしれません。例えば、子どもが欲しくても与えられない女性がやってきて「どうしてわたしには子どもができないんですか?」と藁をもすがる思いで聞きます。すると彼女は「あなたの先祖には子どもに悪いことをした人がいるようです。まずその悪い霊を取り除かなければなりません」と言って誰でもそうかもしれないと思うようなことを伝え、でもその不安は必ず取り除かれると解決策を提示します。すると聞いていた人は「本当かもしれない」と思い込み「ではお願いします」と言ってしまうのです。占い師は「この水晶を買って家に置いておけば子どもが生まれます」と言って、ちょっと高い、でも買えない値段ではない水晶を買わせていたのかもしれません。彼女は巧みにわたしたちが感じる病気への不安、家族や職場などあらゆる人間関係からの不安、将来への不安、お金の不安など心の揺れ動きを上手に掴み取り、「ズバリ、あなたの不安は悪い霊のせいです」と間違ったことを思い込ませ、高額な利益を得ていたのだと想像します。

しかし彼女自身、そのような偽りの生活をやめたかったのでしょう。人に間違った思い込みをさせて騙して大儲けしていたことに「こんなことはダメだ」。彼女は本当にこのままでいいのだろうかと不安や恐れを感じていたはずです。だから、彼女はパウロさんとシラスさんにしつこくついて行って「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と救いを求めて声をあげたのです。パウロさんはたまりかねて彼女に向かって言います。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。占いはお金をとって除霊などをしますが、パウロさんは無料でその人に救いを宣言します。こうして彼女は嘘をついてお金を騙し取る生活から解放されたのです。

占いの彼女とは対照的に彼女を使って金儲けをしていた主人たちは、パウロさんとシラスさんを高官たちに引き渡し、はらいせに本当はしてもいないことまで訴えたので、2人は鞭打たれ牢屋に入れられてしまいました。鞭で背中を打たれて、足かせをはめられて牢屋に入れられたら普通、気持ちが落ち込んで「もうダメだ」と思ってしまいますが、二人は牢屋の中でも賛美歌を歌って神様に祈っていました。神様は必ずわたしたちを助けてくれる。神様にできないことはないと2人は思い込んでいたのです。この2人の思い込みが人を救うことにつながっていきます。

神様を信じて生きることは、「神様の思いこそ本当のことだ」との思い込みでもあります。この2人は、必ず神様が助けてくださるし、たとえ牢から逃れられなかったとしてもこの中にいる人たちに福音を伝えて救いに導くことができると思い込んでいました。それとは反対に自分はもうダメだと思い込んでしまう人がここに登場します。牢屋を見張っていた看守です。彼は自分の間違った思い込みで自分自身を滅びへと追い込んでしまいます。大きな地震があって、牢の戸が全部開いて、囚人たちを逃げないようにつないでいた鎖も全部外れてしまいました。真夜中でしたので寝ていた看守は目を覚まして牢の戸が開いているのを見て、「囚人たちが逃げてしまった」と思いました。牢の戸が全部開いたのですから、そう思って当然です。もう、終わりだ。一人ならまだしも、囚人全員が逃げたとなるとわたしの人生もおしまいだ。そう思って持っていた剣を抜いて看守は自害しようとしましたが、でも、それは間違った思い込みだったのです。27節にある通りです。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのをみて、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」。しかし、救いの言葉が看守の耳に届きます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。パウロさんとシラスさんの二人だけでなく、囚人は皆そこにいたのです。牢の戸は開き、すべての囚人の鎖が外れていたにもかかわらず、誰もそこから逃げませんでした。看守はこの時点ですでに救われていました。こうなって当たり前だと思っていたことが実は違っていた。こうなるだろうと思っていたことは単なる人間の思い込み、間違った思い込みで、神様の思いは違っていた。そのことに目が開かれたのです。

わたしたちもこの看守のように思い込んでしまうこと、あると思います。「こんな自分はダメだ」「わたしはこんなに欲深いから神様から見放される」「自分は幸せになれないような気がする」「持っているお金も少ないし、自分を助けてくれる人なんか誰もいない」、そんな風に間違ったことを思い込み、自分は救われないと恐れにとりつかれてしまう。しかし、これは全部、人間の思いですし、神様の思いとは違います。そのような間違った思い込みは、わたしたちを神様から遠ざけようとしますから、間違った思い込みは悪い霊の働きと言うこともできます。わたしたち、あまり気づいていないのですが、間違った思い込みによってどれほど神様の思いを自分の中に入れないようにしているのか。でも、神様の思いはいつまでも変わらず語りかけてくださいます。「わたしはあなたを愛している」。「わたしはあなたを守る。わたしはあなたのまことの親だから、あなたを決して見捨てない」。「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。わたしたちは繰り返し神様の思いを聞いて「本当にそうだ、アーメン」と受け止め、自分の中にある自分の思い込みには、「どうぞ、もう出て行ってください」と伝え、神様の思いで心を満たしていただくのです。

自分の思いは単なる人間の思い込みなんだ、と気づいてわたしたちもこの看守のように「救われるためにはどうすべきでしょうか」と心を神様に向かって開きます。そして「神様はイエス様によってわたしを愛してくださり、ゆるしてくださっている」と信じるだけでいいのです。壺や水晶など買う必要もなければ、除霊もしなくてもいい。ただ主イエス様が本当の救い主だと信じるだけ。「そうすれば、あなたも家族も救われます」。パウロさんが言ったこの言葉には、すでに差し出されている神様の救いが大前提にあって、それが省かれていますので、わたしなりに補いますとこうなります。「すべての人にはすでに神様の救いが差し出されています。だから、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。もうすでに自分の家族も救いの中にいるとあなたが信じること、神様はすべての人を愛していると信じること。それが自分の救いであり、家族の救いでもあります。自分の家族は教会にも来ていないし、聖書の言葉もあまり知らない。でもすでに神様の救いの御手の中にあると信じる。すでにあの人も救いの中にある、神様の愛の中にあると信じるのです。神様の思いはわたしたちの思いをはるかに超えて大きく全ての人を包み込んでいます。その救いのしるしとして「わたしはイエス様を信じます」と信仰を告白することで、神様はわたしたちに「本当にわたしは救われたんだ」とまことの救いを実感させてくださいます。この看守も「わたしたちは皆ここにいる」と言われ命びろいをしてすでに救われていたのですが、彼はその自分が救われたというしるしを求めました。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロさんとシラスさんは、看守とその家族に主の言葉、神様の思いを伝えたところ、真夜中でしたが、看守は「わたしはイエス様を救い主として信じます」と信仰を告白し、バプテスマを受けました。看守とその家族は、バプテスマによって教会につながる者となりました。ここに救いがあります。教会につながることで神様の思いを繰り返し聞いて、自分の間違った思い込みを減らし、神様の豊かな思いで心を満たしていくことができるからです。神様の思いを仲間たちと一緒に聞いて、その仲間たちと一緒に食事をする。そこに救いが実現しています。

人間の間違った思い込みからの解放。自分の思い込みでなく神様の思いを自分の中に受け入れていく。わたしたちも自分の思い込みに気をつけたいです。「わたしは神様からこうしなさいと言われていることをほとんどできていないから、天国には入れないはずだ」。「嘘もついたこともあるし、自分が言ったことで人を傷つけてしまったこともある。だから、神様に合わせる顔がない。自分は赦されないだろう」。そんな思い込みはいつでも忍び寄ってきます。自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の失敗やだらしなさによって「自分はダメだ」「わたしなんかいてもいなくても同じだ」「自分は救われない」と思ってしまうこと。そのように思い込んでしまうのはそんなに難しいことでなく、看守がそうだったようにちょっとしたことでどんな人でも思ってしまうことなのです。

しかし、誰がなんと言おうと、わたしたちがどれほど「自分はダメだ」と思い込んでいたとしても、神様は変わらず神様の思いを伝え続けます。「わたしはあなたを愛している」「あなたはすでにわたしの救いの中にある」。「そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

この世界、この社会、わたしたちの周りには、神様の愛に気づかず、神様の思いを受け入れる機会が少なくて、たくさんの人が苦しんでいます。わたしたちも時々、間違った人間の思いに引っ張られてしまうこともありますが、でも神様の思いを聞き続けて、「神様の思いこそ本物だ」と信じていますし、互いにこうやって信じていこうと励まし合い、祈り合う仲間もいます。だからこそ、わたしたち教会は、自分の思い込みで苦しんでいる人たちに向かって神様の思いを伝えます。「神様はイエス様によってあなたもあなたの家族もすべて愛し、ゆるしています。そのことを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」。

2018年5月27日 でも、『わたしは神の子』

◆ローマの信徒への手紙8章12〜17節
08:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
08:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
08:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
08:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
08:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
08:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。イエス様のバプテスマによってこの救いの御言葉、福音の言葉がよりはっきりとすべての人に届くものとなりました。「あなたはわたしの愛する子」。

しかしながら、教会の歴史の中ではイエス様がどうしてバプテスマを受けられたのか、その意味を巡って論争が起こることもありました。キリスト者を悩ませ、論争を起こしたのは、洗礼者ヨハネさんのバプテスマが、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」だったからです。「罪なきイエス様がどうして罪の赦しのバプテスマを受けなければならないのか」という問いにどう答えればいいのか、大きな問題でした。全く罪のないイエス様が一体どうして悔い改めのバプテスマを受けなければならないのか。ある人はイエス様がバプテスマを受けたというのは歴史的事実ではなく、聖書を書いた人の作り話だと言うほどでした。

ここにはバプテスマとは何なのか、バプテスマをどのように理解すれば良いのかがこの問題を解く大きな鍵となります。本来的には、バプテスマは救いの条件ではありませんでした。「バプテスマを受けたらあなたは救われます」というものがバプテスマであったとしたら、イエス様は「それは本当のバプテスマではないから、わたしはそれを受けない」と拒否したことでしょう。でも、イエス様はバプテスマを受けられました。なぜなら、それは救われた者にとっての「救いの印」だったからです。すでに神様はわたしを愛してくださっている、救いは与えられているのだから、わたしはその印としての洗礼を受ける、そのようにしてイエス様は洗礼を受けられたと理解します。

わたしたちが教会で受けるバプテスマ(洗礼)も同じです。そこにはなんの条件もありません。わたしたちが良い行いをしたからでもなく、わたしたちが救われるに値するからバプテスマを受けることができる、そういうことでもありません。神様がわたしたちを赦し、神様がわたしたちを愛してくださっている。すでに神様から救いは差し出されている。だからわたしたちはその救いに気づいて、信じて、救いの印としてのバプテスマを受けるのです。

イエス様がバプテスマを受けられたのは、すでに差し出されている救いをすべての人に伝えるためでした。わたしたちが悔い改めたから救われるのではなく、すでに救われていてバプテスマを受けたからわたしたちは悔い改めて、愛を中心にして生きていこうと変えられていきます。悔い改めのバプテスマはそういう意味なのです。イエス様がバプテスマを受けられた後、霊が鳩のように降ってきて天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様がバプテスマを受けられたことで、聖霊は全ての人に与えられている命そのものだということが再確認されました。「わたしの心に適う者」を直訳すれば「わたしはあなたを喜ぶ」となりますから「これはわたしの愛する子、わたしはあなたの存在を喜ぶ」となります。

この天から声は、神様がすべての人に命の霊を吹きかけたあの創世記の出来事をほうふつとさせます。今日の招きの詞で読まれました創世記2章7節の御言葉です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。4月終わりの頃でしたが、幼稚園でわたしはこの箇所を子どもたちにお話しました。神様が土の塵で人を作りましたが人は動きださなかった。でも、神様がその人の鼻にふーと息を吹き入れ、「大好きだよ。生まれてきてくれて本当にありがとう。あなたがいること、それがとっても嬉しいよ。いろんなことに挑戦してね、応援してるよ」と園児たちの前に行って何度か声を息を吹きかけるように話しかけましたら、その言葉に子どもたちの目がキラキラしてですね、ある子はその時に「そう言ってくれて嬉しい」とばかりに立ち上がって拍手をしてくれました。これ、わたしが自分で創作した話のように思うかもしれませんが、そうではなくて聖書の言葉をそのまま話しているだけです。創世記で「息」と訳された言葉は「霊」と訳すことができる「ルーアッハ」という言葉ですから、イエス様のバプテスマを受けて降った霊は、すべての人に注がれている神様の息をリバイバル、再現させたのです。イエス様のところに降ってきた霊は「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」とある通りで、それはまさに神様が天地を創造されて人に命の息を吹き入れられた出来事の再現なのです。

パウロさんは言っています。ローマ8章14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。15節「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。神様が天地創造の時から今も続けて、すべての人に「あなたのこと大好きだよ。あなたがいること、それがとっても嬉しい」と息を吹きかけられています。だから、そのことに気づき、信じるわたしたちは神様に向かって「天のお父様、アッバ」と呼びかけることができるようになりました。神様はわたしたち、すべての人の親なのです。ローマ8章15節「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。イエス様が実際に使っていたアラム語。小さい子どもが「父さん」と親しみを込めて呼びかけるような響きの「アッバ」。神様に向かって何度も「アッバ、父さん」と呼びかける、それほど親しく近い、肉親よりも深いつながりを持つ、そういう関係、それが親なる神様とわたしたち子どもの関係なのです。御子イエス様と親なる神様との強く、決して切ることのできない豊かな関係をそのまま同じようにわたしたちも持つようになったのです。

わたしたち教会は「あなたは神の子です」とすべての人に向かって宣言します。これが福音のメッセージです。わたしが神学校に通っていた時にある神学生がわたしに「素敵な讃美歌があるから聞いてみますか」と言って一枚のCDをくれました。その中には「Child of God」神の子という英語の讃美歌が入っていました。その賛美歌はわたしたちが生きる現実の中にある様々な痛みや苦しみを歌っているのですが、でもわたしは神の子だ、と主にある希望を繰り返し歌います。妻が夫から受ける家庭内暴力の現実、国際的な経済格差が生み出す貧しさの現実、同性愛者への差別偏見の現実、紛争地域の子どもの現実。でも、その苦しい困難な中にあっても、どんなに苦しくても「でも、わたしは神様に愛された神の子だ」と歌うのです。わたしがその歌詞を日本語に訳しましたので、4人の登場人物の声を、彼らがどのような状態におかれているのかを想像しながら聞いてください。

「わたしの名前はマリー。昨晩、彼はわたしを殴りつけて、わたしは床に倒れました。これまでも何度も殴られてきた。彼はわたしに『ごめんね』と言って綺麗な花を持ってきて、しばらくは良い状態となるが、またちょっとすると、彼はわたしに『お前なんかいなくなればいい。最低なやつだ』と言って殴る。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエマニュエル。あなたたちがどうして豊かに生活しているのか、わたしのこの傷ついた手が教えることができます。これまでずーっと働いてきましたがわたしの家族はいつまでも貧しい。だから、あなたたちはバナナもコーヒーも安く手に入れられる。わたしの雇い主はこう言います。「お前の代わりの労働者などはいくらでもいるから、お前の言うことなんか聞かない」。雇い主は続けて言う。「お前の魂はいつか天国で自由になるんだから、今の辛いことなんか気にするな」。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はジェローム。先週家に帰った時、自分に正直になろうと思っていた。でも、お父さんはそれを聞いて部屋から出て行こうとし、お母さんはその場にへたり込んだ。「一体どうやったらお前は自分を男と言えるんだ?お前が自分は同性愛者だと言い張るなら、お前は家からいなくなったと近所の人には伝える」と言い、続けて「お前は病気だし、恥ずかしい。死んでしまえばいいのに」と両親はわたしに言った。でも、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

わたしの名前はエイミー。7歳の女の子。もう苦しいことに疲れてしまった。わたしの周りにはドラッグ、離婚、紛争は終わらない。でも、わたしは踊ったり、遊んだりしたい。戦争が終わって家族が一緒に暮らせること、アイスクリームを食べることをわたしは夢見ている。だって、わたしは神の子だ。どんなものもこの確信を変えることはできない。わたしは神の子、わたしが受け継いだものを誰も奪い取ることはできない。わたしは独りではない。わたしは神の子。

どんなに苦しくても、どんなに辛い現実であっても、でも、わたしは神の子だ。これはすべての人、神様から命の息、神の霊をいただいているすべての人が胸を張って言えることです。パウロさんは8章16節でこう伝えます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。

「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。これは神様からの福音の宣言です。神様がすべての人に向かって繰り返し伝えられる喜びの知らせです。神様はこの知らせを天地創造の時に伝え、そしてまたイエス・キリストを通してもう一度、よりはっきりと伝えてくださいました。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの子、神の子です」。この福音を聞き続けているわたしたちは、自分自身で「わたしは神の子です」と信じて、それで終わらずに身近にいる人にこう伝えていきます。「あなたは神様に愛された神の子です」。

2018年5月13日 永遠の輪の中に入れられて

◆ヨハネによる福音書17章1〜13節
17:01 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:02 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:03 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:04 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:05 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:06 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:07 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:08 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:09 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

イエス様の祈りは神様への信頼で満ちています。神様を「あなた」と呼び、ご自分を「わたし」と言うようにとても親しく語りかけています。ただ、イエス様が弟子たちにこのように祈りなさいと教えられた「主の祈り」とはずいぶん違っています。マタイ福音書で、イエス様は「あなたたちが祈るときは、くどくどと長くする必要はない。言葉数が多ければ聞き入れられると思っているがそれは違う。神様はあなたたちが願う前から必要なものをご存知だから、シンプルに祈りなさい」と言われています。でも、ここでのイエス様の祈りは長くて、同じようなことを繰り返し祈っています。イエス様が「こうしなさい」とわたしたちに言っていることとご自分でしていることが違っていると思うかもしれませんが、ヨハネ福音書17章の祈りは、「主の祈り」のような日々の祈りとは大きく違っています。18章以降のことを見ても、また祈りの中にもあるとおり、この祈りはご自分の死を目の前にしたイエス様の最後の祈り、遺言の祈りなのです。ですから、どうしても長くなりますし、最後にこれだけは祈っておきたいとの強いイエス様の思いが込められています。祈りの初めに「父よ、時が来ました」と言われ、13節では「今、わたしはみもとに参ります」とご自分の地上での命が終わる時が来たと告げられます。

「もうすぐ、あなたは召されます。あなたは何日かしたら死んで神様のところに帰っていきます」と神様のみ使いがやって来て、突然そのように告げられたとしたらどうでしょうか。残された時間は少ない。わたしたちは何をするでしょうか。そんなの嘘だ、信じられないと言って拒否するでしょうか。それとも、静かにその時を待つのでしょうか。「もうすぐ、あなたは召される」。そのように告げられた後、わたしたちは何を思うのでしょうか。自分がこれまでしてきたことを思って感謝するのでしょうか。それとも後悔するのでしょうか。地上での人生は終わってしまう。もっとやりたかったことがあったのに。明日、そうなることが何年か前にわかっていれば、こんな無駄なことをしてこなかったのに。もっと前にわかっていればもっとましな人生を生きてこれたはずなのに。

イエス様が自分の死を目の前にしてしたこと。それは祈りでありました。この祈りにはイエス様の最後の願い、心からの思いが現れています。1節「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。1〜5節までの祈りのキーワードは栄光です。これからイエス様の死と復活を通して神様が現される栄光をすべての人に与えてくださいと繰り返し願っています。実は、イエス様はすでにその言葉と行動を通して神様の栄光を現していました。4節に「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とある通りです。しかし、まだ、すべての人に永遠の命が与えられるとの素晴らしい知らせを多くの人がまだ知っていないので、イエス様は「栄光を与えてください」と再度願うのです。モーセが杖を高々と上げて海を二つに割るような輝かしいことは、もちろん神様の栄光の現れですが、そのようなことだけではなく、もっと単純で、もっと身近なことです。それは、神様がわたしたちを造られたから、神様はわたしたちのことを大切にし、最後の最後まで守ってくださること、それを自分のこととして知り、信じることです。イエス様はそのことをこう言っています。3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。神様がイエス様を送ってくださり、その命を与えてくださったほどにすべての人を愛している、その変わることのない愛を自分のこととして知り、信じること。それが永遠の命であり、神様の栄光が現れることです。

わたしたちは、日頃のほとんどの時間、死ぬことについて考えることはありません。死ぬことを考えるのは良くないこと、そんな雰囲気もありますから、死のことをあえて話さないようにしている節もあります。年齢を重ねていきまして80歳、90歳、100歳となりますと若い頃と比べて、時々ですが自分の死を思うことはあるかもしれません。それでもできれば、あまり考えたくないというのが正直な気持ちだと思います。けれども今日、イエス様は、ご自分の死と真剣に向き合い、ご自分の命をかけて、わたしたちのために祈っておられます。「肉体的な死を恐れるのではなく、魂の死に気をつけられますように」とわたしたちのために祈っておられるのです。最終的な肉体の死よりも、むしろ今の自分、毎日の自分が誰かから必要とされているのか、何かの求めに応えられているのかという魂のレベルでの生死の方が差し迫った課題だからです。それはもちろんご高齢の方だけでなく、どの世代の人にとっても重要なことです。「自分は本当に必要とされているのか」、「自分が生きていることに価値はあるのか」、そのような魂からの問いかけです。

イエス様はその問いに明確に答えてくださいます。6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」。神様が造られたものすべてはイエス様のものとなりました。ですから、わたしたちはこのように信じるのです。「わたしの命はわたしのものではなくて神様のもの、イエス様のものです」。これが永遠の命です。7節で「わたしに与えてくださったものみな、あなたからのものである」とあり、9節でも「彼らはあなたのもの」とイエス様が言われています。すべての人、人間だけでなく命あるすべてのものは神様のものであり、イエス様のものですから、わたしたちは神様とイエス様とつながっています。神様がこのわたしに命を与えてくださっているのだから、神様がわたしの命の所有者であり、その所有者がそれを必要ないと思えばすぐにでも捨ててしまうはず。でも今もこうして生きているのだから、神様がこう言われるのです。「今もあなたは誰かのために生きているし、あなたがいるからあの人も喜んでいるし、何よりもわたしがあなたを喜んでいる。わたしがあなたを必要としている」。

イエス様は死と復活を経て永遠に生きておられます。その永遠なるイエス様と自分はつながっている。わたしたちはそう信じていいのですが、ヨハネ福音書17章を読んでみてわたしは改めて目が開かれた思いをしました。それは、「永遠の命は、個人的なものではない」ということです。個人的にイエス様を信じて、個人的にイエス様とつながっていると感じること以上に、イエス様と神様との親しい関係の中に神様に愛された人たちと一緒に入れられている、そのことに気づく、それが永遠の命だということです。10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」。わたしたちすべての人は神様のものでもあり、イエス様のものでもあり、その切っても切れない輪の中にもうすでに入れられている。何よりも嬉しいことは、どれほど小さい者であっても、どれほど年老いた者であっても、祈りすらままならない者であっても、イエス様がその人たちを神様とつながる輪の中、永遠のサークルの中に入れられているということ。そのつながりは永遠ですから、わたしたちが生きている今もそして肉体的に死んだ後にもそのつながりから切り離されることはありません。イエス様はその大きな安心感、わたしは神様とつながっているから大丈夫と信じていました。だから、自分の死を前にしてもこのように語ることができるのです。13節後半「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるためです」。

教会の礼拝に出ていまして、賛美歌や祈りを一緒にするときに集った人たちとつながっている、一体感というのでしょうか、そのような気持ちを感じることがあります。それはそこにいるみんなが同じ思いになったとか、みんなが互いに愛し合うようになったと軽々しく言うことではなく、むしろ、苦手な人、嫌いな人もいる。けれども自分の心がその人のことから離れて神様に向かって祈り、賛美する時があり、ここに集められた一人一人の心が人への思いから神様に向かって「アーメン」と祈る。神様に向かって「ハレルヤ」と賛美する。それはもはや人間の力でも人間の業でもありません。神様がイエス様との輪の中にわたしたちを入れてくださっている、それをわたしたちが実感できた瞬間なのだと思います。それはわたしの個人的な感覚かもしれません。でも、それはイエス様が繰り返し「一つになるため」と言われていることだと信じますし、それが、わたしたちの目指すところであることは確かです。神様とイエス様と聖霊とが手を携えたその輪の中に入れられている、そのようなイメージです。

時々、祈ることすら難しくなってしまうことがあります。聖書を読んでも心に響かない。礼拝に出ても牧師の説教が心に響かない時もあります。そのような時のためにイエス様は、御名を現してくださいました。神様のお名前です。11節「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。イエス様は御名によって人々を守られ、これからもすべての人を御名によって守ってくださいます。

わたしたちは神様の御名前を知っています。神様のお名前は「わたしはある、あなたと共にある」(出エジプト記)であり、「インマヌエル」「主我らと共にある」。ヨハネ福音書によれば、イエス様は良い羊飼い、命のパン、まことのぶどうの木、世の光です。どれもわたしたちにとって身近な名前です。どの名前を聞いてもイメージが浮かんできます。良い羊飼い、命のパン、ぶどうの木、光。そしてイエス様。どのお名前でもいい。永遠の輪の中に入れていただいていますから、祈れないときにはただ御名を呼べばいい。「イエス様」と心の中で呼びかければいいのです。

イエス様の願いはすべての人が一つになることです。神様がすべての人を愛しているという真理をすべての人が知って、信じること、それが一つになるということです。わたしはなんのためにここに生まれ、何のために死んでいくのか。わたしたちは永遠の命を受けるために生まれ、永遠の命を生きるために死んでいきます。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。イエス様はすべての人に永遠の命を与えることができますし、十字架の死と復活によって神様の栄光は、父と子と聖霊という永遠の輪の中に現れました。ですから、わたしたちは素直にイエス様の思いを受け入れます。「わたしたちはすでに永遠の輪の中に入れられている」。イエス様のこの喜び、わたしはすでに永遠の輪の中に入れられている。その喜びがすべての人の内に満ちあふれますように。祈りましょう。

2018年3月4日 『苦しい』と安心して言える

◆マルコによる福音書8章27-33節
08:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
08:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
08:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
08:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
08:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
08:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
08:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエス様は次のように弟子たちに話されました。マルコ8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。自分がこれから多くの苦しみを受けて排斥されて殺されると話されたイエス様に弟子たちはとても驚いたはずです。ついさっき、周りの人たちから「エリヤだ」とか「預言者の一人だ」とか言われていたほどの方で、また弟子のリーダー的な存在のペトロからは「あなたはメシア、救い主です」と言われたほどのイエス様が、今度は「わたしは苦しめられて殺される」なんて言うのですから、冗談じゃないと思ったことでしょう。

この時、ペトロはイエス様の腕をギュっと掴んで、「ラビ、こちらに来てください」と引っ張るようにしてわきにお連れして、「そんなことは言うものではありません。あなたが苦しめられて殺されるなんてあるはずがない。イエス様、それはどう考えても間違っていますよ」と忠告したようです。ペトロさんは救い主であるイエス様が多くの苦しみを受けるということ、また当時の権力者たちから「お前なんかいらないやつだ」と退けられてイエス様が殺されることに納得できなかったのです。彼の頭の中では、救い主=苦しみから最も遠くにいるお方、救い主=力強いお方という方程式があったのでしょう。ペトロの反応は他の弟子たちも同じだったと思います。メシア救い主であれば、ローマの支配からわたしたちを救い出してくださる方。力強くローマ軍を打ち破り、イスラエルの民に自分たちの国、神の国を築き上げてくださる、そう思っていたからです。しかし、イエス様はペトロを叱りつけました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

イエス様は、ご自分が多くの苦しみを受けること、その後に排斥されて殺されることを隠そうとはされませんでした。「そんなことは言うものではない」といさめ始めたペトロに向かって厳しく「それは人間の思いであって、自分の苦しみや悲しみ、弱さを隠すのではなく互いに伝え合っていくことを神様は望んでおられる」と言われたのだと思うのです。このように自分が苦しみを受けることを弟子たちに伝えるのはイエス様にとって辛いことだったと思います。でも、イエス様は弟子たちを信頼していたからこそ、このように伝えられたのです。ただそのように心を開いても何もわかってくれない弟子たちだったのでイエス様は本当に大切なことを伝えたい、その思いからつい厳しい口調になったのかもしれません。自分の心の中にある苦しみを隠していたら仮面をかぶった表面的な関係になってしまう。そうではなくてお互いに苦しみや弱さをオープンにできる信頼した関係を築くことが大切。だからあえてイエス様は自分の方から隠しておきたい苦しみを伝えられたのだと受け止めます。

自分が苦しいと思うことを他の人に伝えるのは恐いです。自分自身をさらけ出して人前に出るのですからそこに危険を感じます。弱さや苦しみを伝えたら共感されるどころか、批判されてしまうかもしれないからです。自分の心の中にある苦しみを誰にでも見えるように差し出すと、その部分に対して「そんな苦しいことを言ったって何にもならない。もっと強くならなければいけない」と非難される場合があります。でも、イエス様は「自分が苦しい」と感じることはもっと話していいんだよと伝えています。自らが「こんなことを言っても弟子たちはわかってくれるだろうか」と感じながらも「でも、弟子たちを信頼して話してみよう」と思い「自分は多くの苦しみを受けて殺される」と伝えたのです。

苦しい時に「苦しいです」と安心して伝えられる人がいて、その人が「そうですか。大変でしたね。苦しかったですね」とわかってくれる。そのような関係性の中に生きることができるのは幸いなことです。先日、ある牧師からこんな話を聞きました。その牧師は神学校を卒業後、ある教会に牧師として赴任しました。その人の前任者だった牧師はその教会に20数年間いて、とても影響力のある人だったようで、その後に赴任した彼は役員会などでいろいろな提案をするのですが、その度に「前のあの先生はそんなことはしていませんでした」とことごとく却下されてしまいます。説教までも前任牧師と比較されるうち、ついには彼は精神的に苦しくなって病院に行ったところ、「心の病にかかっているからしばらく休んだ方が良い」と言われてしまいました。彼はそこで神学校に電話をしてかつてお世話になった先生に相談しました。「先生、とっても苦しいです。もうこのまま続けることはできないと思います」。するとその先生は彼に言いました。「何を言っているんだ。もっと頑張りなさい。弱音を吐いてはいけない」。その言葉を受けて彼曰く、「心がぽきっと折れたような気持ちになりました」。その後、彼は二度とその先生には相談することなく教会を辞任して、今、休みながら充電しているとのことです。

本当に苦しい時に「苦しいです」と安心して言えて、「そうだね、大変だったね。あなたのこと、お祈りしますね」と言って「神様、どうぞ◯◯さんを守ってください」と祈ってくれる人がいる。そのような教会こそが人間の思いではなく、神様の思いの教会なのではないでしょうか。

木曜日の祈祷会の時に、ある人が祈りの中でご自分の家族のことを祈りました。「二人の息子が苦しんでいると思います。どうぞ、神様と出会って救われますように」。祈るその人も自分の家族のことを思い、苦しんでおられるようにわたしは感じ、わたしもその人の祈りの後に「神様がすでにお二人の苦しみを担ってくださっている。お二人がそのことに気づいて救われますように」と祈りました。そうしましたら、祈祷会の後にその人から携帯にこんなメッセージが届きました。「個人的なお祈りをおさえきれずしてしまいましたのに、先生も加わってくださって本当にありがとうございます。勇気百倍です」。

先日にも同じようなことがありました。妊娠されている女性で、その方もまた胎児も心配な状態で1ヶ月くらい前から入院している方がおられました。そのご両親がわたしのところに来られて、「今日、手術をすることになりました。まだ600グラムぐらいですが、母親の状態を考えるともうこれ以上待てないそうです」と言うのです。帰って行こうとするお二人にわたしが「お祈りさせてください」と言いましたところ、「お願いします」と言われたので、手を合わせて祈りました。「今日、これから赤ちゃんを帝王切開の手術で出産します。神様。手術が無事に終わりますように。お母さんと生まれてくる赤ちゃんの命をお守りください。赤ちゃんは小さいですが、元気に成長しますように」。祖母の方は涙を流しながらアーメンと言っていました。その夕方、お二人が「無事に手術が終わりました。まだ会っていませんがお祈りをありがとうございました」と話してくれました。

イエス様は、ご自分が必ず多くの苦しみを受けることになっていると「自分の苦しみ」を話しました。けれども、リーダー的存在だったペトロはそのことを理解できませんでした。理解するどころか彼の中にメシア、救い主は苦しむことなんかありえない。救い主は力強くあるべきだ。そのようなメシア像を持っていたので逆にイエス様をいさめました。わたしたちも知らず知らずにうちに、「救い主はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなくてはならない。牧師とはこういう人だ」と自分の中にある鋳型に当てはめて、その形にその人がうまくはまらなかった場合には、その人を脇に連れて行って、「そんなこと、言うもんじゃありませんよ。あなたはクリスチャンなんですから」とペトロのように言ってしまうかもしれません。しかし、イエス様は「それは人間の思いです」と言われます。

「人は皆、強いところもあれば、弱いところもあるし、誰もが苦しみを抱えている。その苦しみを隠して一人で苦しまなくてもいい。苦しい時には苦しいと言ってもいい。あなたたち一人ひとりは、みんな同じように弱さや苦しみを抱えた一人の人として神様の前にこうべを垂れて、主の御手に苦しみを差し出して一緒に祈る。それが神様の思いなのですよ」とイエス様が言われていると信じます。

今日、わたしはみなさんに苦しみの情報公開をお勧めします。苦しんでいることを隠さなくてもいい。誰にでもどんどん話してくださいとは言いません。信頼できる人、一緒に祈ってくれる人に「わたしは今、このことが大変なんです」と伝えることでつながっていくのです。苦しみなど、できるだけ少ない方がいいと思うのですが、不思議なことに神様は「苦しみ」を用いて、わたしたちとの神様とのつながりを強くしてくださいますし、わたしたち同士のつながりも強くしてくださいます。苦しみを通して恵みを与えてくださるのです。苦しみの中にあるとき、わたしたちはこれまで以上に真剣に祈るようになります。また苦しみの情報公開があって、それを知った人はその人のためにこれまで以上に祈るようになって、神様をもっと近くに感じるようになるのです。

イエス様は多くの苦しみを受けられましたから、わたしたちの苦しみをすべて知ってくださっています。イエス様だって苦しみをできれば避けて通りたかったでしょうが、でも、この苦しみは苦しみのまま終わらない。神様はどんなことでもそれを益としてくださる方だから、この苦しみも必ず恵みへと変えてくださると信じていたのです。

「人は皆、強いところもあれば弱いところもあって、苦しいことも経験する。その全てがあってこそ一人の人なんだ」と人の子イエス様は言われます。自分の一部分だけをわかってもらっても信頼関係は深まりません。自分の強いところだけ、よく見える部分だけをわかってもらうのではなく、良いところも悪いところも、元気なところも苦しいところも、健康な自分も、病気の自分も全てをひっくるめたあなたをわかっている。それが人間の思いでなく、神の思いです。神様はあなたのすべてを知っておられますから、わたしたちも少しずつでいいですから、まず自分の中にある鋳型から、まず自分自身を取り外してあげましょう。そうすれば、「とっても苦しいです」と言ってくる人に「もっと頑張りなさい」ではなくて、「そう、苦しいですね」と言えるようになっていくでしょう。安心して自分の弱さや苦しみを話せる、そんな教会を目指していきましょう。

2018年2月18日 新しい契約に生きる

◆エレミヤ書31章27-34節
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28 かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
31:29 その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
31:30 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

◆マルコによる福音書1章12-15節
01:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
01:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
01:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
01:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

灰の水曜日と言われる14日のから受難節に入りました。2月14日から3月31日までの46日間はイエス様が十字架に向かって歩む受難を覚えて過ごすとても大切な期間です。この46日から6回の日曜日を引きますと40日となります。40日と聞いてお気付きの方もおられると思いますが、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けられたのが40日間です。ですから、長い教会の歴史の中でこの受難節の40日間に、信徒たちは断食をしたり、自分の好きなものを食べたり飲んだりすることを絶って少しでもキリストの苦しみに連なるようにと勧められることもありました。プロテスタント教会ではあまり知られていませんが、この受難節に入る直前にこれからお肉のようなぜいたく品が食べられなくなるから、その前にしっかり食べて楽しんでおこうと始まったのが、「謝肉祭(カーニバル)」です。ブラジルのリオの謝肉祭(カーニバル)は有名ですね。実はわたしも受難節に入る前の日に謝肉祭に参加してきました。リオではなく上野のカトリック教会に行きまして美味しいステーキをたくさん頂いてきました。

わたしはこれまで20数年間、信仰生活、教会生活を送ってきましたが一度も受難節に何かを断つということはしてきませんでした。修行みたいなことをするのはキリスト教的信仰にとってはあまり意味がないと考えてきたからですが、今回わたしは一つのことに挑戦しています。ある好きな飲み物を46日間断つことにしました。なぜ、そんなことをするのか。体の健康のためではありません。神様から頂いている挑戦状、あなたは本気でわたしに従ってきていますかと言われることに自分は「はい、従って行きます」と約束して、神様の恵みに応えることができているのか、この46日間の小さなチャレンジを通して見つめなおしてみたいと思ったからです。「少しぐらい飲んでも誰も見ていないから大丈夫だよ」といった誘惑の声はたびたび聞こえてくると思いますが、「飲んでもいいよ」と声が聞こえたら「これは神様と交わした約束だから今日は飲まない」と言います。このような試練を通して神様はわたしの心を今まで以上に神様に向けさせてくださっているんだと受け止めて受難節を過ごしていきたいと思っています。

なぜ、わたしがそのような心境になったかと言いますと信仰生活は日曜日だけでなく、月曜日から土曜日こそが信仰者として挑戦すべき日だと聖書が教えるからです。マルコによる福音書1章13節にあるとおりイエス様がサタンから誘惑を受けたのは46日間ではなく40日間でした。受難節を40日間とするならば、それは日曜日以外の月曜日から土曜日までとなります。月曜日から土曜日までの生活の中でどれだけ神様のこと、イエス様のことを考えて行動しているのか。そういう意味でも自分自身をもう一度試して見つめる必要があると思ったのです。

イエス様もサタンから40日間誘惑を受けられました。神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を頂いた直後のことです。「自分は神様に愛されている神の子なんだ」という確固たる土台、「神様の心に適う者なんだ」という揺るがない基礎をいただいた直後に、イエス様は誘惑を受けられました。神様の愛があればもう大丈夫。御言葉があればなんの問題もないと簡単に思ってしまうのですが、実はバプテスマ(洗礼)はイエス様にとって試練の始まりでしたし、わたしたちにとっても月〜土曜日の生活の中でキリスト者として生きていくことの始まりですから、サタンの誘惑もあるのだと聖書は伝えます。バプテスマを受けて、「わたしはイエス様に従って行きます」と告白したからこそ、サタンの誘惑をより強く感じるのです。

マルコによる福音書には誘惑の中身は何も示されていませんが、わたしの小さな試み、大好きなものを断ってみて少し見えてきたのは、誘惑とは神様と交わした約束を邪魔するものだいうことです。このように神様を信じる仲間、神の家族と教会に集っていますと安心して神様の御言葉に集中して、心を神様に向けることができるのですが、月曜日から土曜日までの日々はそうはいきません。日曜日に神様から愛と恵みを頂き、よし今週はこの御言葉を大切にしていこうと思ってこの世へと遣わされるのですが、月曜日、火曜日、水曜日と日を追うごとにその気持ちは弱くなっていきます。そして、自分はダメだ。神様に従っていけない罪ある者だと思ってしまうような「誘惑のサイクル」の中に入ってしまうのです。そうではなくて、イエス様が40日間の誘惑を経て確信したことは「時は満ち神の国は近づいたのだから、悔い改めて福音を信じる」ということでした。神の国はすぐそこまで来ている。エレミヤが伝えるように新しい契約の時代はイエス様によって始まっている。神様はモーセの石の板ではなくわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださったのですから、そのことに目覚めるのです。イエス様が言われる「悔い改め」とは、何か悪いことをしてそのことを反省してもうやりませんと思うことではありません。「悔い改め」と訳されたメタノイヤという言葉は、視点を変えるという意味ですから、こんな自分はダメだと思って心の中で内省するのではなく、神様がすでにわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださった。だから、わたし自身がどれだけ弱く小さくてもわたしの中のイエス様がわたしを支えてくださると信じて月曜日から土曜日の生活の中で何度も神様の方を向き直して歩き始めることなのです。悔い改めは心の中の問題というよりも生き方の問題です。自分はどっちに向かって進んでいくのか、心も体も生活も全てを含んでいるのが悔い改めですから、日曜日に教会に来て悔い改めるよりも、むしろ月〜土曜日の生活の中で神の方を向いて生きていくことが本当の悔い改めと言えます。

「悔い改めて福音を信じなさい」。神様の方向を向いて進むことがこの世的にみますと苦しいこと、受難の始まりなのですが、しかしそこには福音、喜びの知らせがあるとイエス様は言われます。詩編91編にはイエス様を信じて生きる人を支える福音が繰り返されています。3節「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」。月曜日から土曜日の生活の中で誘惑の言葉によって神様を忘れてしまっても、神様は必ず手を伸ばして進むべき道に引き戻してくださいます。わたしたちの道案内はこの世の言葉ではなく、聖書の御言葉ですから、日々の生活の中でこのような御言葉に支えられます。ただ、日曜日に神様からこの世へと遣わされたわたしたちは道半ばで疲れてしまい、「神様、もう歩けません」と言いたくなることもあります。でも、神様はわたしたちを見捨てずに言われます。91編4節「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」。母鳥が寒さに震え弱っている小さいヒナたちを羽の中に包み込むように神様はわたしたちを守ってくださいます。

エレミヤ書にも福音の御言葉があります。31章29〜30節「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」。何か原因のわからない病気になったり、自然災害に巻き込まれたりしますと「あなたの先祖が何か悪いことをしたから、今、あなたは苦しんでいる」という声が聞こえることがありますが、神様はそんなことはない、あなたの苦しみは先祖の罪のゆえではないと言われ、続けてこう言われます。34節の一番最後のところ。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。イエス・キリストの十字架によって自分の罪のゆえの罰としての死もなくなり、あなたたちの過ちも罪もすべて赦すとの福音が実現したのです。

古い契約では文字として書かれていましたのでだれが守ったか、守らなかったかとチェックすることができて、それができないと「できていませんね」「ルールを守ってください」と指摘されます。守れない場合には罰が与えられました。しかし新しい契約は義務でもありませんし、守らなければ罰が与えられるものでもなく、ただ神様の愛と恵みに応える喜びの約束となりました。神様とわたしたちとで交わした新しい契約はわたしたちの心の中に記されておりますから、月曜日から土曜日までの生活の中で、わたしたちは神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束したことをそれぞれの賜物を用いて喜んで果たしていきます。  

原町田教会では2年前から「教会の約束」というものを考えて宣教長期委員会で作ってきました。それは神様の愛と恵みをいただいたわたしたちが今度は「神様、あなたにこの約束をいたします」と言ってその恵みに応えてどう生きていくのかを自分たちの言葉で言い表すものです。その「教会の約束」にはこのような言葉があります。「わたしたちは、教会に集うすべての人たちを、神の家族として受け入れ、互いに喜びと悲しみを分かち合い、祈り支え合います」。その他にもこうあります。「わたしたちは、主の力が弱さの中でこそ十分に発揮されることを信じ、病や老い、労苦をも恵みとして受け入れ、すでに救われていることの喜びを証しします」。わたしたちは新約の時代に生きています。今日も、神様から福音という約束をいただきました。「わたしはあなたを仕掛けられた罠から、陥れる言葉から救い出す」「わたしは羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってあなたを守る」。「イエス・キリストの十字架によってわたしはすべての人の悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。聖書が繰り返し伝える約束、「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。わたしはあなたを決してひとりにしない」。神様から繰り返しお約束をいただいているわたしたちが、今度はわたしたちの方から神様に向かって喜んで約束を結び、初めて新しい契約となります。月曜日から土曜日の生活の中で神様からの約束を信じ、それに支えられて、自分が約束したことを守っていこうと生きる。それが私たちキリスト者の生きる力ですね。

受難節は福音に目覚める期節、神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束していることをやっていこうと決意を新たにする期間です。苦しいことがあっても、神様は詩編91編11節「あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださ」いますから、新しい契約に生きてまいりましょう。神様は今日、わたしたちに言われました。「あなたたちの中にはイエス・キリストが生きている。だからもう『主を知れ』と言って教えなくてもいい。あなたたちはすでに神様の恵みの中に生きているのだから、その福音を信じて、あなたがわたしに約束したことを生きていけば、それでいい。それがあなたたちの喜びとなる」。

2018年1月14日 水の中を通って

◆出エジプト記14章15〜22節
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

出エジプトという出来事は、神様がどのような方なのかをわたしたちにはっきりと伝えています。苦しむ人たちがいたら放っておけない。痛む人がいたらその痛みを自分の痛みのように知ってくださる。だからその人たちを救い出すために人を召し出し、その人を苦しむ人のところに遣わす。それが、わたしたちが信じる神様。出エジプト記3章で神様がモーセを呼び出して伝える御言葉にその思いをひしひしと感じます。出エジプト記3章7節「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの声を聞き、その痛みを知った』。そして、神様は苦しみにある人たちを救うためにモーセに呼びかけます。3章9節「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。エジプトに帰ったモーセさんは神様の指示通りにファラオ王と交渉を重ね、過越の災いの後にようやくエジプトからイスラエルの人たちを脱出させることに成功します。でも、ファラオ王はイスラエルの人たちを去らせたことを後悔し、エジプト中の戦車や馬でもって彼らを追いかけ始めます。今日の出エジプト記はまさにその場面です。エジプトを脱出し、自由になったと思った矢先、目の前には海が広がり後ろからはエジプトの軍隊がすぐそばまでやって来る。イスラエルの人たちはモーセに文句を言うのです。「わたしたちをエジプトから連れ出したのは、エジプトにお墓がないからですか。荒れ野でわたしたちを死なせるためですか。こんな荒れ野で死ぬよりもエジプトに帰ってエジプト人に仕える方がましだと言ったではありませんか」。

力強く見えるエジプトの軍隊を見てイスラエルの人たちは恐れおののきます。彼らは神様の方を見ないで人間の現実にだけ目を向けていました。神様が必ず救ってくださるという神の救いを見ないで、エジプト人だけを見たために恐くなったのです。今、目の前で起きている人間の現実だけに目を奪われ、目に見えるものを恐れてそこから動けなくなる。わたしたちも彼らと同じような経験をすることがあります。わたしにとってのそのような経験は東日本大震災でした。地震の直後からテレビやインターネットでの津波で家や車が次々に流されていく映像に言葉を失いました。合わせてその後に起きた原子力発電所の爆発、その爆発によって放出された放射能が自分たちの暮らしているところまで流れているのではないかと言われ始めた後、放射能がどれぐらい流れてくるのか、自分は何をすればいいのか、インターネットやテレビ、人を通して伝わること、何を信じてどう判断すればいいのか。目の前で起きている人間の現実に目が奪われて何をしていいのかわからなくなり、ただ動けなくなる。あの3・11から1週間ほどはそんな状態でした。

それでもあの3・11の2日後の3月13日は日曜日でしたから礼拝がありました。いつもよりも人数は少なく、準備した説教も今、本当に語るべきことは何なのかと思いながら話しました。自分の言葉を失うという感覚というのでしょうか。でも、神様は何を話せばいいのかわからないわたしに聖書の御言葉をくださいました。その日の聖書箇所はローマの信徒への手紙10章8〜13節で、13節にはこうありました。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」。目の前の現実に言葉を失い、何を語ればいいのかわからなくなる。しかし、神様はただ、わたしの名前を呼び求めればいい。ただ、「イエス様、助けてください」と呼び求めればいい。自分の言葉を失っても「イエス様」ということはできる。救いはそこにあると語ってくださったのです。

前方は海、その海には渡る橋もなければ船もない。そして後ろからはエジプト軍が今すぐにでも襲いかかって来ようとしている。どうすればいいのかわからない彼らに主なる神様は言われます。15節「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」。イスラエルの人たちと同じようにうろたえ、恐れにとらわれてしまうわたしたちを神様は決して見捨てることなく語りかけてくださいます。「出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ、海の中を、水の中を通って行きなさい。あなたたちは神の栄光をみる」。

神様は、崖っぷちに立たされて、追い込まれて、もはや自分の力ではどうにもならない時、御言葉によって進む道を開いてくださいます。それが神の栄光です。神様はわたしたちに御言葉で語りかけ、モーセのようにわたしたちを通して栄光を現します。「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べなさい」とモーセは聞きましたが、もし、彼が杖を上げなかったら栄光は現れなかったでしょう。御言葉が伝えられ、その御言葉に従った人たちが神の栄光を見る。神様は直接、御手を差し伸べて栄光を現すことはしません。神様は「わたしにそんなことができるのでしょうか。」と言っていたモーセに執拗なまでに語りかけて、海を前にした彼に杖を高く上げさせました。同じように神様は弱さや欠けをもったわたしたち一人一人を用いて栄光を現します。

わたしたちは度々、「神様の栄光が現れますように」「主の栄光のために教会を用いてください」「主の栄光を現す器としてください」と祈ります。そのようにわたしたちが祈るのは、未だに栄光が現れていない、だから現れますようにと願う気持ちがあるからだと思います。栄光と聞くと何か大きなこと、海の水が二つに別れるようなことをイメージするかもしれません。でも、イエス様が受けられたバプテスマによって実はすでに栄光がこれまでになんども現れ、しかも弱さや欠けをもったわたしたちを通して栄光が現れていると聖書は伝えています。

イエス様が「わたし」と一人称で書かれ、読者が「あなた」という語りかける形で書かれた黙想の本に次のような素敵な言葉がありましたので紹介します。「いつもわたしから離れずに生きていれば、わたしの恵みの光があなたを通して他の人たちを照らします。あなたの弱さとあなたの傷が窓になって、そこからわたしの栄光の光が輝き出る。わたしの強さと力は、あなたの弱さの中でこそ十分に発揮される」。

神様の御業は不思議です。栄光を現すと聞くと力や強さをイメージするのですが、神様はむしろ弱さや痛みを持ったモーセやイスラエルの人たち、そしてわたしたちを通して栄光を現します。自分の体の中や自分のすぐ近くで異変が起き、悲しみや苦しみを感じているときにこそ、神様はわたしたちの近くにいてくださいます。自分の弱さや痛みを思う時に、わたしたちは心から神様に依り頼みますから、神様はそのわたしたちの弱さと傷という窓を使って栄光の光を輝き出す。イエス様の十字架がそうであったようにです。

イエス様が水の中を通ってバプテスマを受けられると天から声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。これはバプテスマを受けた全ての人に宣言される神様の御言葉です。「あなたはわたしの愛する子」。なぜなら、聖書にはバプテスマを受けた人はキリストと結ばれて皆、神の子となると聖書に書いてあるからです。ガラテヤの信徒への手紙3章26〜27節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。水の中を通ってバプテスマを受けた人に神様はイエス様に言われたように「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださいます。水の中を通り、この神様の宣言を聞きますとそれまで恐れていたことが恐れではなくなり、自分でなんとかして生きていこうとする世界から抜け出して、神様が共にいてくださる世界に生きるようになります。

バプテスマを受けるということは、まさに「杖を高く上げなさい」と言われたことに従って、杖を上げれば神様が道を開いてくださると信じて水の中に入っていくことです。神様の御言葉を信じて一歩前に進み出ること。神様の御言葉に従って水の中に入っていくバプテスマにおいて神の栄光はすでに現れています。なぜなら、それはその人にとっての出エジプトと言えるからです。ここにいる多くの人は杖を高く上げなさいと言われた御言葉を信じて一歩前に進み出た人ですし、杖を上げた人によって開かれた海の中を通って行った人たちですから、神の栄光を経験しています。今日は、出エジプトの出来事と自分を重ね合わせて、もう一度、バプテスマを受けた自分を思い出して、水の中を通ったあの時に立ち返りましょう。なぜなら、神様はわたしたちに何度でも「御言葉に従って一歩前に出なさい。わたしが現す栄光を見なさい」と言われるからです。大きな海を渡る出エジプトがバプテスマとしてのスタートとするならば、その後にも小さな川や浅い海を渡る小さな出エジプトがあってわたしたちはその度に神の栄光を経験します。

神様の御言葉に従って進むのはなかなか大変なことです。一人でやろうとしたらすぐに挫折してしまうでしょう。しかし、わたしたちはキリストの体の教会として一緒に水の中を通る出エジプトをしていきます。神の家族と一緒に水の中を進んでいきますから、歩きにくいところでは足腰のしっかりした人が歩きにくそうにしている人を支えます。元気な人だけが早く先に行くことはありません。イスラエルの人たちの中には子どももいれば、高齢の人もいますし、青年も壮年もいて、全員が海を渡れるようにと手を差し出し、時には遅れた人のために後ろに戻って手助けしたはずです。わたしたち教会も互いに支えあいながら御言葉に従います。海を目の前にして「杖を高く上げなさい」と言われ、それに従えば神様が栄光を現してくださると心から信じて、わたしたち一人一人が杖を上げ、二つに分かれた水の中を進んで行きます。イエス様が言われる御言葉に従って一歩、半歩でもゆっくりであっても前に歩み出ます。なぜなら、聞くだけで一歩も前に出なかったとしたら、海の中を渡ることができないからです。

その時に忘れてはならない御言葉があります。水の中を通って進むわたしたちに神様がいつも語ってくださるこの御言葉「あなたはわたしの愛する子」。神様はこの御言葉をできるだけ多くの人に届けたいと願っています。なぜなら、この御言葉が届けられるところに神の栄光が現れるからです。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。