牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
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2018年3月4日 『苦しい』と安心して言える

◆マルコによる福音書8章27-33節
08:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
08:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
08:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
08:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
08:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
08:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
08:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエス様は次のように弟子たちに話されました。マルコ8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。自分がこれから多くの苦しみを受けて排斥されて殺されると話されたイエス様に弟子たちはとても驚いたはずです。ついさっき、周りの人たちから「エリヤだ」とか「預言者の一人だ」とか言われていたほどの方で、また弟子のリーダー的な存在のペトロからは「あなたはメシア、救い主です」と言われたほどのイエス様が、今度は「わたしは苦しめられて殺される」なんて言うのですから、冗談じゃないと思ったことでしょう。

この時、ペトロはイエス様の腕をギュっと掴んで、「ラビ、こちらに来てください」と引っ張るようにしてわきにお連れして、「そんなことは言うものではありません。あなたが苦しめられて殺されるなんてあるはずがない。イエス様、それはどう考えても間違っていますよ」と忠告したようです。ペトロさんは救い主であるイエス様が多くの苦しみを受けるということ、また当時の権力者たちから「お前なんかいらないやつだ」と退けられてイエス様が殺されることに納得できなかったのです。彼の頭の中では、救い主=苦しみから最も遠くにいるお方、救い主=力強いお方という方程式があったのでしょう。ペトロの反応は他の弟子たちも同じだったと思います。メシア救い主であれば、ローマの支配からわたしたちを救い出してくださる方。力強くローマ軍を打ち破り、イスラエルの民に自分たちの国、神の国を築き上げてくださる、そう思っていたからです。しかし、イエス様はペトロを叱りつけました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

イエス様は、ご自分が多くの苦しみを受けること、その後に排斥されて殺されることを隠そうとはされませんでした。「そんなことは言うものではない」といさめ始めたペトロに向かって厳しく「それは人間の思いであって、自分の苦しみや悲しみ、弱さを隠すのではなく互いに伝え合っていくことを神様は望んでおられる」と言われたのだと思うのです。このように自分が苦しみを受けることを弟子たちに伝えるのはイエス様にとって辛いことだったと思います。でも、イエス様は弟子たちを信頼していたからこそ、このように伝えられたのです。ただそのように心を開いても何もわかってくれない弟子たちだったのでイエス様は本当に大切なことを伝えたい、その思いからつい厳しい口調になったのかもしれません。自分の心の中にある苦しみを隠していたら仮面をかぶった表面的な関係になってしまう。そうではなくてお互いに苦しみや弱さをオープンにできる信頼した関係を築くことが大切。だからあえてイエス様は自分の方から隠しておきたい苦しみを伝えられたのだと受け止めます。

自分が苦しいと思うことを他の人に伝えるのは恐いです。自分自身をさらけ出して人前に出るのですからそこに危険を感じます。弱さや苦しみを伝えたら共感されるどころか、批判されてしまうかもしれないからです。自分の心の中にある苦しみを誰にでも見えるように差し出すと、その部分に対して「そんな苦しいことを言ったって何にもならない。もっと強くならなければいけない」と非難される場合があります。でも、イエス様は「自分が苦しい」と感じることはもっと話していいんだよと伝えています。自らが「こんなことを言っても弟子たちはわかってくれるだろうか」と感じながらも「でも、弟子たちを信頼して話してみよう」と思い「自分は多くの苦しみを受けて殺される」と伝えたのです。

苦しい時に「苦しいです」と安心して伝えられる人がいて、その人が「そうですか。大変でしたね。苦しかったですね」とわかってくれる。そのような関係性の中に生きることができるのは幸いなことです。先日、ある牧師からこんな話を聞きました。その牧師は神学校を卒業後、ある教会に牧師として赴任しました。その人の前任者だった牧師はその教会に20数年間いて、とても影響力のある人だったようで、その後に赴任した彼は役員会などでいろいろな提案をするのですが、その度に「前のあの先生はそんなことはしていませんでした」とことごとく却下されてしまいます。説教までも前任牧師と比較されるうち、ついには彼は精神的に苦しくなって病院に行ったところ、「心の病にかかっているからしばらく休んだ方が良い」と言われてしまいました。彼はそこで神学校に電話をしてかつてお世話になった先生に相談しました。「先生、とっても苦しいです。もうこのまま続けることはできないと思います」。するとその先生は彼に言いました。「何を言っているんだ。もっと頑張りなさい。弱音を吐いてはいけない」。その言葉を受けて彼曰く、「心がぽきっと折れたような気持ちになりました」。その後、彼は二度とその先生には相談することなく教会を辞任して、今、休みながら充電しているとのことです。

本当に苦しい時に「苦しいです」と安心して言えて、「そうだね、大変だったね。あなたのこと、お祈りしますね」と言って「神様、どうぞ◯◯さんを守ってください」と祈ってくれる人がいる。そのような教会こそが人間の思いではなく、神様の思いの教会なのではないでしょうか。

木曜日の祈祷会の時に、ある人が祈りの中でご自分の家族のことを祈りました。「二人の息子が苦しんでいると思います。どうぞ、神様と出会って救われますように」。祈るその人も自分の家族のことを思い、苦しんでおられるようにわたしは感じ、わたしもその人の祈りの後に「神様がすでにお二人の苦しみを担ってくださっている。お二人がそのことに気づいて救われますように」と祈りました。そうしましたら、祈祷会の後にその人から携帯にこんなメッセージが届きました。「個人的なお祈りをおさえきれずしてしまいましたのに、先生も加わってくださって本当にありがとうございます。勇気百倍です」。

先日にも同じようなことがありました。妊娠されている女性で、その方もまた胎児も心配な状態で1ヶ月くらい前から入院している方がおられました。そのご両親がわたしのところに来られて、「今日、手術をすることになりました。まだ600グラムぐらいですが、母親の状態を考えるともうこれ以上待てないそうです」と言うのです。帰って行こうとするお二人にわたしが「お祈りさせてください」と言いましたところ、「お願いします」と言われたので、手を合わせて祈りました。「今日、これから赤ちゃんを帝王切開の手術で出産します。神様。手術が無事に終わりますように。お母さんと生まれてくる赤ちゃんの命をお守りください。赤ちゃんは小さいですが、元気に成長しますように」。祖母の方は涙を流しながらアーメンと言っていました。その夕方、お二人が「無事に手術が終わりました。まだ会っていませんがお祈りをありがとうございました」と話してくれました。

イエス様は、ご自分が必ず多くの苦しみを受けることになっていると「自分の苦しみ」を話しました。けれども、リーダー的存在だったペトロはそのことを理解できませんでした。理解するどころか彼の中にメシア、救い主は苦しむことなんかありえない。救い主は力強くあるべきだ。そのようなメシア像を持っていたので逆にイエス様をいさめました。わたしたちも知らず知らずにうちに、「救い主はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなくてはならない。牧師とはこういう人だ」と自分の中にある鋳型に当てはめて、その形にその人がうまくはまらなかった場合には、その人を脇に連れて行って、「そんなこと、言うもんじゃありませんよ。あなたはクリスチャンなんですから」とペトロのように言ってしまうかもしれません。しかし、イエス様は「それは人間の思いです」と言われます。

「人は皆、強いところもあれば、弱いところもあるし、誰もが苦しみを抱えている。その苦しみを隠して一人で苦しまなくてもいい。苦しい時には苦しいと言ってもいい。あなたたち一人ひとりは、みんな同じように弱さや苦しみを抱えた一人の人として神様の前にこうべを垂れて、主の御手に苦しみを差し出して一緒に祈る。それが神様の思いなのですよ」とイエス様が言われていると信じます。

今日、わたしはみなさんに苦しみの情報公開をお勧めします。苦しんでいることを隠さなくてもいい。誰にでもどんどん話してくださいとは言いません。信頼できる人、一緒に祈ってくれる人に「わたしは今、このことが大変なんです」と伝えることでつながっていくのです。苦しみなど、できるだけ少ない方がいいと思うのですが、不思議なことに神様は「苦しみ」を用いて、わたしたちとの神様とのつながりを強くしてくださいますし、わたしたち同士のつながりも強くしてくださいます。苦しみを通して恵みを与えてくださるのです。苦しみの中にあるとき、わたしたちはこれまで以上に真剣に祈るようになります。また苦しみの情報公開があって、それを知った人はその人のためにこれまで以上に祈るようになって、神様をもっと近くに感じるようになるのです。

イエス様は多くの苦しみを受けられましたから、わたしたちの苦しみをすべて知ってくださっています。イエス様だって苦しみをできれば避けて通りたかったでしょうが、でも、この苦しみは苦しみのまま終わらない。神様はどんなことでもそれを益としてくださる方だから、この苦しみも必ず恵みへと変えてくださると信じていたのです。

「人は皆、強いところもあれば弱いところもあって、苦しいことも経験する。その全てがあってこそ一人の人なんだ」と人の子イエス様は言われます。自分の一部分だけをわかってもらっても信頼関係は深まりません。自分の強いところだけ、よく見える部分だけをわかってもらうのではなく、良いところも悪いところも、元気なところも苦しいところも、健康な自分も、病気の自分も全てをひっくるめたあなたをわかっている。それが人間の思いでなく、神の思いです。神様はあなたのすべてを知っておられますから、わたしたちも少しずつでいいですから、まず自分の中にある鋳型から、まず自分自身を取り外してあげましょう。そうすれば、「とっても苦しいです」と言ってくる人に「もっと頑張りなさい」ではなくて、「そう、苦しいですね」と言えるようになっていくでしょう。安心して自分の弱さや苦しみを話せる、そんな教会を目指していきましょう。

2018年2月18日 新しい契約に生きる

◆エレミヤ書31章27-34節
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28 かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
31:29 その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば
子孫の歯が浮く」と。
31:30 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

◆マルコによる福音書1章12-15節
01:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
01:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
01:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
01:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

灰の水曜日と言われる14日のから受難節に入りました。2月14日から3月31日までの46日間はイエス様が十字架に向かって歩む受難を覚えて過ごすとても大切な期間です。この46日から6回の日曜日を引きますと40日となります。40日と聞いてお気付きの方もおられると思いますが、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けられたのが40日間です。ですから、長い教会の歴史の中でこの受難節の40日間に、信徒たちは断食をしたり、自分の好きなものを食べたり飲んだりすることを絶って少しでもキリストの苦しみに連なるようにと勧められることもありました。プロテスタント教会ではあまり知られていませんが、この受難節に入る直前にこれからお肉のようなぜいたく品が食べられなくなるから、その前にしっかり食べて楽しんでおこうと始まったのが、「謝肉祭(カーニバル)」です。ブラジルのリオの謝肉祭(カーニバル)は有名ですね。実はわたしも受難節に入る前の日に謝肉祭に参加してきました。リオではなく上野のカトリック教会に行きまして美味しいステーキをたくさん頂いてきました。

わたしはこれまで20数年間、信仰生活、教会生活を送ってきましたが一度も受難節に何かを断つということはしてきませんでした。修行みたいなことをするのはキリスト教的信仰にとってはあまり意味がないと考えてきたからですが、今回わたしは一つのことに挑戦しています。ある好きな飲み物を46日間断つことにしました。なぜ、そんなことをするのか。体の健康のためではありません。神様から頂いている挑戦状、あなたは本気でわたしに従ってきていますかと言われることに自分は「はい、従って行きます」と約束して、神様の恵みに応えることができているのか、この46日間の小さなチャレンジを通して見つめなおしてみたいと思ったからです。「少しぐらい飲んでも誰も見ていないから大丈夫だよ」といった誘惑の声はたびたび聞こえてくると思いますが、「飲んでもいいよ」と声が聞こえたら「これは神様と交わした約束だから今日は飲まない」と言います。このような試練を通して神様はわたしの心を今まで以上に神様に向けさせてくださっているんだと受け止めて受難節を過ごしていきたいと思っています。

なぜ、わたしがそのような心境になったかと言いますと信仰生活は日曜日だけでなく、月曜日から土曜日こそが信仰者として挑戦すべき日だと聖書が教えるからです。マルコによる福音書1章13節にあるとおりイエス様がサタンから誘惑を受けたのは46日間ではなく40日間でした。受難節を40日間とするならば、それは日曜日以外の月曜日から土曜日までとなります。月曜日から土曜日までの生活の中でどれだけ神様のこと、イエス様のことを考えて行動しているのか。そういう意味でも自分自身をもう一度試して見つめる必要があると思ったのです。

イエス様もサタンから40日間誘惑を受けられました。神様から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を頂いた直後のことです。「自分は神様に愛されている神の子なんだ」という確固たる土台、「神様の心に適う者なんだ」という揺るがない基礎をいただいた直後に、イエス様は誘惑を受けられました。神様の愛があればもう大丈夫。御言葉があればなんの問題もないと簡単に思ってしまうのですが、実はバプテスマ(洗礼)はイエス様にとって試練の始まりでしたし、わたしたちにとっても月〜土曜日の生活の中でキリスト者として生きていくことの始まりですから、サタンの誘惑もあるのだと聖書は伝えます。バプテスマを受けて、「わたしはイエス様に従って行きます」と告白したからこそ、サタンの誘惑をより強く感じるのです。

マルコによる福音書には誘惑の中身は何も示されていませんが、わたしの小さな試み、大好きなものを断ってみて少し見えてきたのは、誘惑とは神様と交わした約束を邪魔するものだいうことです。このように神様を信じる仲間、神の家族と教会に集っていますと安心して神様の御言葉に集中して、心を神様に向けることができるのですが、月曜日から土曜日までの日々はそうはいきません。日曜日に神様から愛と恵みを頂き、よし今週はこの御言葉を大切にしていこうと思ってこの世へと遣わされるのですが、月曜日、火曜日、水曜日と日を追うごとにその気持ちは弱くなっていきます。そして、自分はダメだ。神様に従っていけない罪ある者だと思ってしまうような「誘惑のサイクル」の中に入ってしまうのです。そうではなくて、イエス様が40日間の誘惑を経て確信したことは「時は満ち神の国は近づいたのだから、悔い改めて福音を信じる」ということでした。神の国はすぐそこまで来ている。エレミヤが伝えるように新しい契約の時代はイエス様によって始まっている。神様はモーセの石の板ではなくわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださったのですから、そのことに目覚めるのです。イエス様が言われる「悔い改め」とは、何か悪いことをしてそのことを反省してもうやりませんと思うことではありません。「悔い改め」と訳されたメタノイヤという言葉は、視点を変えるという意味ですから、こんな自分はダメだと思って心の中で内省するのではなく、神様がすでにわたしたちの心にイエス・キリストなる新しい契約を記してくださった。だから、わたし自身がどれだけ弱く小さくてもわたしの中のイエス様がわたしを支えてくださると信じて月曜日から土曜日の生活の中で何度も神様の方を向き直して歩き始めることなのです。悔い改めは心の中の問題というよりも生き方の問題です。自分はどっちに向かって進んでいくのか、心も体も生活も全てを含んでいるのが悔い改めですから、日曜日に教会に来て悔い改めるよりも、むしろ月〜土曜日の生活の中で神の方を向いて生きていくことが本当の悔い改めと言えます。

「悔い改めて福音を信じなさい」。神様の方向を向いて進むことがこの世的にみますと苦しいこと、受難の始まりなのですが、しかしそこには福音、喜びの知らせがあるとイエス様は言われます。詩編91編にはイエス様を信じて生きる人を支える福音が繰り返されています。3節「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」。月曜日から土曜日の生活の中で誘惑の言葉によって神様を忘れてしまっても、神様は必ず手を伸ばして進むべき道に引き戻してくださいます。わたしたちの道案内はこの世の言葉ではなく、聖書の御言葉ですから、日々の生活の中でこのような御言葉に支えられます。ただ、日曜日に神様からこの世へと遣わされたわたしたちは道半ばで疲れてしまい、「神様、もう歩けません」と言いたくなることもあります。でも、神様はわたしたちを見捨てずに言われます。91編4節「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」。母鳥が寒さに震え弱っている小さいヒナたちを羽の中に包み込むように神様はわたしたちを守ってくださいます。

エレミヤ書にも福音の御言葉があります。31章29〜30節「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」。何か原因のわからない病気になったり、自然災害に巻き込まれたりしますと「あなたの先祖が何か悪いことをしたから、今、あなたは苦しんでいる」という声が聞こえることがありますが、神様はそんなことはない、あなたの苦しみは先祖の罪のゆえではないと言われ、続けてこう言われます。34節の一番最後のところ。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。イエス・キリストの十字架によって自分の罪のゆえの罰としての死もなくなり、あなたたちの過ちも罪もすべて赦すとの福音が実現したのです。

古い契約では文字として書かれていましたのでだれが守ったか、守らなかったかとチェックすることができて、それができないと「できていませんね」「ルールを守ってください」と指摘されます。守れない場合には罰が与えられました。しかし新しい契約は義務でもありませんし、守らなければ罰が与えられるものでもなく、ただ神様の愛と恵みに応える喜びの約束となりました。神様とわたしたちとで交わした新しい契約はわたしたちの心の中に記されておりますから、月曜日から土曜日までの生活の中で、わたしたちは神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束したことをそれぞれの賜物を用いて喜んで果たしていきます。  

原町田教会では2年前から「教会の約束」というものを考えて宣教長期委員会で作ってきました。それは神様の愛と恵みをいただいたわたしたちが今度は「神様、あなたにこの約束をいたします」と言ってその恵みに応えてどう生きていくのかを自分たちの言葉で言い表すものです。その「教会の約束」にはこのような言葉があります。「わたしたちは、教会に集うすべての人たちを、神の家族として受け入れ、互いに喜びと悲しみを分かち合い、祈り支え合います」。その他にもこうあります。「わたしたちは、主の力が弱さの中でこそ十分に発揮されることを信じ、病や老い、労苦をも恵みとして受け入れ、すでに救われていることの喜びを証しします」。わたしたちは新約の時代に生きています。今日も、神様から福音という約束をいただきました。「わたしはあなたを仕掛けられた罠から、陥れる言葉から救い出す」「わたしは羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってあなたを守る」。「イエス・キリストの十字架によってわたしはすべての人の悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。聖書が繰り返し伝える約束、「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。わたしはあなたを決してひとりにしない」。神様から繰り返しお約束をいただいているわたしたちが、今度はわたしたちの方から神様に向かって喜んで約束を結び、初めて新しい契約となります。月曜日から土曜日の生活の中で神様からの約束を信じ、それに支えられて、自分が約束したことを守っていこうと生きる。それが私たちキリスト者の生きる力ですね。

受難節は福音に目覚める期節、神様からの約束を思い起こし、わたしたちが神様に約束していることをやっていこうと決意を新たにする期間です。苦しいことがあっても、神様は詩編91編11節「あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださ」いますから、新しい契約に生きてまいりましょう。神様は今日、わたしたちに言われました。「あなたたちの中にはイエス・キリストが生きている。だからもう『主を知れ』と言って教えなくてもいい。あなたたちはすでに神様の恵みの中に生きているのだから、その福音を信じて、あなたがわたしに約束したことを生きていけば、それでいい。それがあなたたちの喜びとなる」。

2018年1月14日 水の中を通って

◆出エジプト記14章15〜22節
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

◆マルコによる福音書1章9〜11節
01:09 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
01:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
01:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

出エジプトという出来事は、神様がどのような方なのかをわたしたちにはっきりと伝えています。苦しむ人たちがいたら放っておけない。痛む人がいたらその痛みを自分の痛みのように知ってくださる。だからその人たちを救い出すために人を召し出し、その人を苦しむ人のところに遣わす。それが、わたしたちが信じる神様。出エジプト記3章で神様がモーセを呼び出して伝える御言葉にその思いをひしひしと感じます。出エジプト記3章7節「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの声を聞き、その痛みを知った』。そして、神様は苦しみにある人たちを救うためにモーセに呼びかけます。3章9節「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。エジプトに帰ったモーセさんは神様の指示通りにファラオ王と交渉を重ね、過越の災いの後にようやくエジプトからイスラエルの人たちを脱出させることに成功します。でも、ファラオ王はイスラエルの人たちを去らせたことを後悔し、エジプト中の戦車や馬でもって彼らを追いかけ始めます。今日の出エジプト記はまさにその場面です。エジプトを脱出し、自由になったと思った矢先、目の前には海が広がり後ろからはエジプトの軍隊がすぐそばまでやって来る。イスラエルの人たちはモーセに文句を言うのです。「わたしたちをエジプトから連れ出したのは、エジプトにお墓がないからですか。荒れ野でわたしたちを死なせるためですか。こんな荒れ野で死ぬよりもエジプトに帰ってエジプト人に仕える方がましだと言ったではありませんか」。

力強く見えるエジプトの軍隊を見てイスラエルの人たちは恐れおののきます。彼らは神様の方を見ないで人間の現実にだけ目を向けていました。神様が必ず救ってくださるという神の救いを見ないで、エジプト人だけを見たために恐くなったのです。今、目の前で起きている人間の現実だけに目を奪われ、目に見えるものを恐れてそこから動けなくなる。わたしたちも彼らと同じような経験をすることがあります。わたしにとってのそのような経験は東日本大震災でした。地震の直後からテレビやインターネットでの津波で家や車が次々に流されていく映像に言葉を失いました。合わせてその後に起きた原子力発電所の爆発、その爆発によって放出された放射能が自分たちの暮らしているところまで流れているのではないかと言われ始めた後、放射能がどれぐらい流れてくるのか、自分は何をすればいいのか、インターネットやテレビ、人を通して伝わること、何を信じてどう判断すればいいのか。目の前で起きている人間の現実に目が奪われて何をしていいのかわからなくなり、ただ動けなくなる。あの3・11から1週間ほどはそんな状態でした。

それでもあの3・11の2日後の3月13日は日曜日でしたから礼拝がありました。いつもよりも人数は少なく、準備した説教も今、本当に語るべきことは何なのかと思いながら話しました。自分の言葉を失うという感覚というのでしょうか。でも、神様は何を話せばいいのかわからないわたしに聖書の御言葉をくださいました。その日の聖書箇所はローマの信徒への手紙10章8〜13節で、13節にはこうありました。「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」。目の前の現実に言葉を失い、何を語ればいいのかわからなくなる。しかし、神様はただ、わたしの名前を呼び求めればいい。ただ、「イエス様、助けてください」と呼び求めればいい。自分の言葉を失っても「イエス様」ということはできる。救いはそこにあると語ってくださったのです。

前方は海、その海には渡る橋もなければ船もない。そして後ろからはエジプト軍が今すぐにでも襲いかかって来ようとしている。どうすればいいのかわからない彼らに主なる神様は言われます。15節「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」。イスラエルの人たちと同じようにうろたえ、恐れにとらわれてしまうわたしたちを神様は決して見捨てることなく語りかけてくださいます。「出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ、海の中を、水の中を通って行きなさい。あなたたちは神の栄光をみる」。

神様は、崖っぷちに立たされて、追い込まれて、もはや自分の力ではどうにもならない時、御言葉によって進む道を開いてくださいます。それが神の栄光です。神様はわたしたちに御言葉で語りかけ、モーセのようにわたしたちを通して栄光を現します。「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べなさい」とモーセは聞きましたが、もし、彼が杖を上げなかったら栄光は現れなかったでしょう。御言葉が伝えられ、その御言葉に従った人たちが神の栄光を見る。神様は直接、御手を差し伸べて栄光を現すことはしません。神様は「わたしにそんなことができるのでしょうか。」と言っていたモーセに執拗なまでに語りかけて、海を前にした彼に杖を高く上げさせました。同じように神様は弱さや欠けをもったわたしたち一人一人を用いて栄光を現します。

わたしたちは度々、「神様の栄光が現れますように」「主の栄光のために教会を用いてください」「主の栄光を現す器としてください」と祈ります。そのようにわたしたちが祈るのは、未だに栄光が現れていない、だから現れますようにと願う気持ちがあるからだと思います。栄光と聞くと何か大きなこと、海の水が二つに別れるようなことをイメージするかもしれません。でも、イエス様が受けられたバプテスマによって実はすでに栄光がこれまでになんども現れ、しかも弱さや欠けをもったわたしたちを通して栄光が現れていると聖書は伝えています。

イエス様が「わたし」と一人称で書かれ、読者が「あなた」という語りかける形で書かれた黙想の本に次のような素敵な言葉がありましたので紹介します。「いつもわたしから離れずに生きていれば、わたしの恵みの光があなたを通して他の人たちを照らします。あなたの弱さとあなたの傷が窓になって、そこからわたしの栄光の光が輝き出る。わたしの強さと力は、あなたの弱さの中でこそ十分に発揮される」。

神様の御業は不思議です。栄光を現すと聞くと力や強さをイメージするのですが、神様はむしろ弱さや痛みを持ったモーセやイスラエルの人たち、そしてわたしたちを通して栄光を現します。自分の体の中や自分のすぐ近くで異変が起き、悲しみや苦しみを感じているときにこそ、神様はわたしたちの近くにいてくださいます。自分の弱さや痛みを思う時に、わたしたちは心から神様に依り頼みますから、神様はそのわたしたちの弱さと傷という窓を使って栄光の光を輝き出す。イエス様の十字架がそうであったようにです。

イエス様が水の中を通ってバプテスマを受けられると天から声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。これはバプテスマを受けた全ての人に宣言される神様の御言葉です。「あなたはわたしの愛する子」。なぜなら、聖書にはバプテスマを受けた人はキリストと結ばれて皆、神の子となると聖書に書いてあるからです。ガラテヤの信徒への手紙3章26〜27節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。水の中を通ってバプテスマを受けた人に神様はイエス様に言われたように「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださいます。水の中を通り、この神様の宣言を聞きますとそれまで恐れていたことが恐れではなくなり、自分でなんとかして生きていこうとする世界から抜け出して、神様が共にいてくださる世界に生きるようになります。

バプテスマを受けるということは、まさに「杖を高く上げなさい」と言われたことに従って、杖を上げれば神様が道を開いてくださると信じて水の中に入っていくことです。神様の御言葉を信じて一歩前に進み出ること。神様の御言葉に従って水の中に入っていくバプテスマにおいて神の栄光はすでに現れています。なぜなら、それはその人にとっての出エジプトと言えるからです。ここにいる多くの人は杖を高く上げなさいと言われた御言葉を信じて一歩前に進み出た人ですし、杖を上げた人によって開かれた海の中を通って行った人たちですから、神の栄光を経験しています。今日は、出エジプトの出来事と自分を重ね合わせて、もう一度、バプテスマを受けた自分を思い出して、水の中を通ったあの時に立ち返りましょう。なぜなら、神様はわたしたちに何度でも「御言葉に従って一歩前に出なさい。わたしが現す栄光を見なさい」と言われるからです。大きな海を渡る出エジプトがバプテスマとしてのスタートとするならば、その後にも小さな川や浅い海を渡る小さな出エジプトがあってわたしたちはその度に神の栄光を経験します。

神様の御言葉に従って進むのはなかなか大変なことです。一人でやろうとしたらすぐに挫折してしまうでしょう。しかし、わたしたちはキリストの体の教会として一緒に水の中を通る出エジプトをしていきます。神の家族と一緒に水の中を進んでいきますから、歩きにくいところでは足腰のしっかりした人が歩きにくそうにしている人を支えます。元気な人だけが早く先に行くことはありません。イスラエルの人たちの中には子どももいれば、高齢の人もいますし、青年も壮年もいて、全員が海を渡れるようにと手を差し出し、時には遅れた人のために後ろに戻って手助けしたはずです。わたしたち教会も互いに支えあいながら御言葉に従います。海を目の前にして「杖を高く上げなさい」と言われ、それに従えば神様が栄光を現してくださると心から信じて、わたしたち一人一人が杖を上げ、二つに分かれた水の中を進んで行きます。イエス様が言われる御言葉に従って一歩、半歩でもゆっくりであっても前に歩み出ます。なぜなら、聞くだけで一歩も前に出なかったとしたら、海の中を渡ることができないからです。

その時に忘れてはならない御言葉があります。水の中を通って進むわたしたちに神様がいつも語ってくださるこの御言葉「あなたはわたしの愛する子」。神様はこの御言葉をできるだけ多くの人に届けたいと願っています。なぜなら、この御言葉が届けられるところに神の栄光が現れるからです。

2017年12月3日 悲しみは消え去る

◆詩編 82編1〜8節
82:01 【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。
82:02 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。82:03 弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
82:04 弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」
82:05 彼らは知ろうとせず、理解せず 闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
82:06 わたしは言った「あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか」と。
82:07 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
82:08 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

◆イザヤ書51章4〜11節
51:04 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
51:05 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む。
51:06 天に向かって目を上げ 下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。
51:07 わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。
51:08 彼らはしみに食われる衣 虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き わたしの救いは代々に永らえる。
51:09 奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに 遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。
51:10 海を、大いなる淵の水を、干上がらせ 深い海の底に道を開いて 贖われた人々を通らせたのは あなたではなかったか。
51:11 主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜びと楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る。

◆マルコによる福音書13章24〜37節
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

アドベントに入りました。イエス様がこの世に来てくださるのを待つ時です。イエス様を待つことができるというのは、希望です。漠然と何がやって来るのか、どのような方を待つのかわからないというのではなく、すべての人を救う方をわたしたちは待っているのです。ですから、今、自分がどんなに大変でも「必ず、夜明けはやって来る。暗い夜の後には暖かい太陽の日差しのようなイエス様が来て、『わたしがあなたと一緒にいるからもう大丈夫』と言ってくださる」と信じることができるのです。アドベントはそのようにわたしたち一人ひとりの「信じて待つ気持ち」を強くしてくれます。

キリスト教にはキリスト教の暦(カレンダー)があって、わたしが肩にかけています「ストール」の色もその暦によって変わってきます。お気付きの方もいると思いますが、先週までは緑色でしたが、今日からはアドベントの色の紫です。クランツのローソクも紫ですね。礼拝で使われる色にはそれぞれシンボリックな意味が込められていて、紫には「待望」待ち望む、そんな意味があります。皆さんもよろしければ、来週から紫色の服や紫色のスカーフでもネクタイでもワンポイント、つけて来られるのもいいですね。教会につながって教会の暦の中で生活をしていますと毎年、わたしたちは待降節を経験します。ですから、毎年いきなりクリスマスの日がやって来るのでもなく、町のお店がクリスマスの飾り付けをしたからクリスマスになるのでもなく、アドベントという4週間ほどの待ち望む期間を通して、礼拝を守りつつこの期間を過ごします。そしてイエス様が来られた日を迎えて、その喜びを信じて待ってきた仲間と共にお祝いする。一緒に信じて待つ仲間を与えられているからこそ、わたしたちは辛い時があっても忍耐することができます。その経験を重ねることによって、わたしたち一人一人の「信じて待つ」力が強くされていくんだなぁと実感しています。毎年、当たり前のようにアドベントが来て、クリスマスがやってくるというのではないんですね。神様が信じて待つ時間を与えてくださっているからこそ、わたしたちは一緒にこのように原町田教会に集うことができています。

聖書に登場するイスラエルの人たちは、まさにずっと長い間、忍耐しながら信じて待ってきた人たちです。ただ、いつも信じて待ってきたかと言いますと、そうでもなくて、いろいろと揺れ動きながら、時には神様に背を向けることもありました。しかし、神様は彼らを決して見捨てることなく、預言者などを遣わして信じて待つようにと伝え続けられます。イザヤ書の時代、イスラエルの人たちの国は侵略され、破壊されて、異郷の地であるバビロンに捕囚として連れてこられました。「もう、自分たちの故郷に帰ることなんてできない」。「神様はわたしたちの祈りを聞いてくれない」「神様はわたしたちを救ってくれない」。そのように言いながら、彼らの多くはバビロンの地に住み着いていました。彼らの目は、地上のことに注がれていて、神様が進めておられる救いには目覚めていなかったようです。だから、イザヤを通して神様はイスラエルの民、そして現代のわたしたちに言われます。51章6節「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ」。心を神様に向けるのです。そうすればこれまでとは違った世界が見えてくるのです。あなたたちの目が地上のことだけを見ていたら、この世の中はどんどん悪くなっていて、自分の心も暗くなるし、平和も遠くなっているように思えてしまう。しかし、天に向かって目をあげる、つまり神様がこの地を造られ、今もその創造の業を進めておられると目覚めるならば、6節〜8節のように信じて救いを待つことができるのです。6節「地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」どれだけ大変なことがあっても、神様の救いはまだ終わっていません。続いているのです。人に嘲(あざけ)られても、人にののしられても、しばらくは辛くて苦しいかもしれない。でも、それが永遠に続くわけではない。神様の恵みと救いだけが永遠に続いているのだから、あなたたちは必ず救われる。いや、「『わたしの救いは代々に永らえる』と言われる神様が今も生きておられ、一緒にいて信じて待つ仲間をくださったから大丈夫」と目覚めるなら、わたしたちはすでに恵みの業の中にいると気づきます。教会のわたしたち一人ひとりが「わたしは神に赦され、愛されているんだ」と自分自身を受け入れて、そして弱さや欠けのある自分を受け入れたように、この世で辛く、苦しむ人を「どうぞ、お待ちしていました」と心から受け入れることによってその人も救いの中に招かれるのです。わたしも教会の人にありのままの宮島牧人として受け入れられ「救われたなぁ」と実感する経験を何度もしています。牧師として、幼稚園の園長としていろいろと責任がありますが、でも同時にわたしは弱さを持った一人の人間です。そんなわたしのためにこれまで何度も祈ってもらいました。「宮島牧師のために祈ります。どうぞ、支えてください」と祈ってくれる教会の仲間によって、間違ったり失敗するわたしだけれども、神の子として受け入れられているなぁと思い、救われています。

天に向かって目を上げて、心を神様に向けましょう。わたしたちが生きるこの世は一見、大変なように見えますが、実はすでにわたしたちは救いの中にある。それが見えてくるということ。それが天に目覚めるということだと信じます。

預言者イザヤは、気づいていない、目覚めていないイスラエルの人たちを目覚めさせるためにエジプトから自分たちの先祖を救い出した神様は今も生きておられる方だと力強く伝えます。10節「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」。「あなたではなかったか」と繰り返し、あの恵みの業を成し遂げられた神様に「あなた」とまるですぐそこにいるかのように呼びかけることで、とこしえに続く救いは今も継続中だと伝えるのです。地上のことに心奪われている彼らを目覚めさせようとするのです。神様は永遠ですから、神様は今も生きて、苦しむ時のわたしたちを救おうとしています。目を覚まして神様の働きを見るならば、11節のような素晴らしい世界は、もうすでに始まっていることとして見えてきます。51章11節「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。天である神様に目を向けるならば、その目にはすでに囚われのイスラエルの人たちが解き放たれ故郷に仲間と一緒に肩を組んで、ニコニコしながら帰ってきているのが見えるはずだと伝えるのです。実は、すでにわたしたちは「喜びと楽しみを得」ていて、「嘆きと悲しみ」は消え去っていたんだと気づく。

わたしはキリスト者になってから毎日のように祈り続けていることがあります。それは、この地上に神様の御心である平和が実現することです。武器のない、基地のない、暴力のない平和が実現しますようにと祈り続けています。でも時々、わたし一人がこんなことを祈っていても何も変わらない。だから祈らなくてもいいんじゃないかという悪の囁きを聞きます。これこそ、悪との戦いなのですが、皆さんもそのような声を聞いたことがあるんじゃないでしょうか。今日この後、聖餐式を行いますが、そこでわたしたちは「生活綱領」を読みます。その中に「世界平和の達成を期すること」とあります。「期すること」という言葉の意味を皆さん、ご存知ですか?実はわたしあまり深く考えずに読んでいましたが、この度、調べましたら、「期すること」それは「あることを実現しようと心に誓うことや決意すること」とありました。世界平和が実現しますようにと祈り、働きますとの決意なんです。恵みをいただき、恵みの業によって救われたわたしたちは、永遠であり今も生きて平和を実現するためにわたしたちを用いてくださる主なる神様に目を向けます。

先日、長崎に行き、カトリック浦上教会で行われた宗教改革500年を記念した合同礼拝に出席してきました。その礼拝の中でとっても励まされ、また目覚めさせられる言葉をいただきました。それは、「ローマ教皇とルーテル世界連盟議長による共同声明」の中の一文です。「わたしたちは特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。暴力や過激主義を終わらせるために声を挙げ、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます」。

「あらゆる暴力がなくなりますように、あなたの平和がこの地になりますように」との祈りは、わたし一人の祈りではなく、世界にいるカトリック信者とルター派、それに加えて多くのプロテスタント教会のキリスト者が祈っていることなんだと気づいたのです。ちなみにカトリック信者は世界に12億人とルター派は7000万人、その他のプロテスタント教会信者は5億人ぐらい。20億人を超えるキリスト者が神様の御心である平和を祈っているのです。一人で祈っていても何も変わらないと思ってしまうわたしにとっての目覚めでした。ただ、それよりも大切な目覚めがあります。それはわたしたちキリスト者が祈っている以上に主なるキリストご自身が今も「嘆きと悲しみは消え去る」ようにと平和を祈り、願っておられることです。
わたしたちの平和への思いや言葉は強くなったり、弱くなったりして、時になくなってしまうこともあります。でも、救い主であるイエス・キリストが話された言葉は決して無くなりません。マルコ13章31節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

今がどれだけ苦しくても、必ず救いの時が来ます。イエス様は救い主としてすべての人のところに来られたのですから、必ず救いがやってくるとわたしたちは信じて待つことができます。キリスト教のメッセージは、「十字架と復活」。主イエス・キリストは十字架の死で終わらず復活されました。十字架の後には必ず復活が来る。主イエス・キリストは十字架で死んで、しかし、3日後に復活されて今も生きておられます。今は苦しくても、その後には必ず喜びがやって来る。それがキリスト教のメッセージです。イエス様が今日伝えることも同じです。大変なことがあるけれど、その後には人の子である主があなたたちを救うためにやって来る。その救いの時はすぐ近く、戸口に立っているくらいに近いから、目を覚ましていなさいと言われるのです。
「目を覚ましていなさい」とイエス様は言われます。わたしたちは永遠の神様によって建てられたこの教会を通して無条件に受け入れられて、救われています。わたしたちはこの世にいる特に貧しい人、苦しんでいる人、知らない人を受け入れてまいりましょう。一人でいるとすぐに自分一人では何にもならないという眠りに誘われますから、できるだけ信じて待つ仲間と一緒に集い、わたしたちは神様の御手の中にあって赦され、愛されているんだと信じ、お互いに目を覚ましていられるように励ましあってまいりましょう。

2017年11月26日 こんなわたしでも

◆サムエル記上16章1〜13節
16:01 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:02 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:03 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:04 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:05 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:06 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:07 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:08 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:09 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

◆テモテへの手紙一1章12〜17節
01:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
01:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 01:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
01:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
01:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
01:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

パウロほど劇的な変化を経験した人はいないかもしれません。キリスト者を迫害していた者から、キリストを信じる者に変えられるという経験です。パウロほど劇的ではありませんが、わたし宮島もイエス様と出会って少しずつですが自分の考え方が変えられ、それにともなって生き方も変えられていると感じています。皆さんはどうでしょうか。テモテへの手紙の1章13節でパウロが「以前、わたしは〇〇する者でした」と言うのと同じようにわたしたちも「以前、わたしは〇〇する者でしたが、今は」と言えることがあると思います。例えば「以前、教会の日曜日の礼拝に出席していませんでしたが、今は礼拝に出ています」というのは多くの方が言えることですし、「以前、わたしは聖書の言葉を知らない者でしたが、今は折々に聖書の言葉を思い出します」とも言えます。以前と比べて変わったのは、日曜日の午前中の1〜2時間を教会で過ごすようになったことだけのように思えますが、この礼拝で語られる福音の言葉は、東に向かって進んでいる人を「いや、わたしは東ではなく西に行くんだ」と思わせるほど力あるものだとパウロを筆頭に2000年の教会の歴史に生きた多くの人が伝えています。今日、わたしたちの進む方向を変える御言葉は15節です。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。

ここでいう罪人とはどういう人のことを言うのでしょうか?聖書にはっきりと「正しいものはいない。一人もいない」とありますから、全ての人が正しく、間違いなしに生きることなどできない罪人と言えます。聖書によれば、罪というのは「的外れ」という意味の言葉ですから、神様の願いから外れてしまっている、神様がこうしなさいと言われていることを守れないこと、それが罪となります。「神様を愛して、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたことを守りたいと思っていても完璧にはできませんから、人が神様の前に立つならば誰でも自分の罪を感じずにはいられません。だからこそ、今日の御言葉が心にしみます。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。キリスト・イエスはわたしたち全員をその罪から救うために来てくださったのです。

わたしが「自分の罪」を感じるのは、いつの間にか自分のことを優先して物事を考え、実際にそのように行動して、そのことに後になって気づいた時です。何かをしたい、何かをしようと心に思った時、ふと立ち止まってそれは何のためにしたいのか、誰のためになのかと考えますとなんだかんだ言って結局自分のためなのかなぁと思うのです。ある機会があって外国人問題に取り組んでいる弁護士たちにわたしが行なっている外国人支援のことを話すことになり、ちょっと立ち止まって自分が何のために外国人の人たちの支援をしているのかを考えてみました。わたしが入管収容所に行くようになったきっかけはお世話になったある牧師の一言でした。神学校を卒業する時に、茨城の牛久教会に赴任先が決まったことをその牧師に報告しましたら、「牛久には入管収容所があるから、そこを訪ねたらいいよ。外国人を助けるのはわたしにしてくれたことだとイエス様が言っているからね」と言ったのです。それから9年間、地道に入管収容所にいる人を訪ねてきましたが、どうしてこのように続けていられているのかと考えますとやっぱり自分のためなのかなぁと思います。入管収容所の中で何ヶ月も、長い人は1年、2年と収容されている外国人が「宮島さん、助けてください」と言ってくる。わたしのできる範囲で手を差し伸べ、その人が収容所から出ることができ、「宮島さん、助けてくれてありがとう」と言われた時は嬉しい。そのように心から喜んでくれるのが嬉しくて続けているのかもしれません。でも、この活動を続けていられるのはその牧師を通してきっかけを与えてくれた神様の力があるからだと信じています。ですから、「宮島さん、ありがとう」と言ってくる外国の人にわたしは「神様に感謝してね。神様があなたを助ける天使として宮島を遣わしたから」と言っています。

人のために良かれと思ってやったつもりが他の人の努力の邪魔をしてしまうこともあります。目の病気をしているナイジェリア人のJさんが入管収容所から出るために保証人を必要としているとナイジェリア人のEさんから聞きました。入管もJさんの病気を気にしているので早く申請すればすぐにでも入管から出られるとのこと。Jさんと面会しましたら、彼も早く出たいと言うので、仮放免を申請しました。わたしは1日でも早く出られるといいなと単純に思っていたのですが、何日かして医療支援をしている団体の方から電話があり、Jさんは外にいると目の治療にすごくお金がかかるからあえて入管に収容されてその中で適切な治療を受けて直してもらった方が良いとのこと。弁護士ともそのように相談して決めたことだから、勝手に仮放免を申請しないでくださいと言うのです。1週間ほどして入管からJさんの申請は許可されたという連絡がありました。わたしはJさんに医療支援をしている方の話を伝えましたが、Jさんはとにかく出たいというのです。「出た後の治療の支援はあの団体から受けられなくなるし、わたしも経済的な支援はできないけど大丈夫?」と聞くと「大丈夫だ」というのです。そこで彼の気持ちを尊重し、彼は仮放免されました。しかしその直後ですが、医療支援をしていた方から「宮島さんが責任をとって彼の目の治療をしてくれるのですか。それが無理ならどうして仮放免したのですか」とお叱りを受けました。自分が良かれと思ってしたことであってもそれが人の気持ちを傷つけてしまうことがあります。自分の都合を優先せずにJさんを支援する人たちとの話し合いをしていけばよかったと思っています。

他の人を傷つけず、迷惑をかけずに生きていくことはなかなかできないわたしですから、「配慮が足りなかった」「どうしてあのようなことを言ってしまったのか。やってしまったのか」と後になってから反省して、落ち込むことがあります。最近もあることで落ち込んでいたのですが、神様は今日の御言葉でわたしを励ましてくださいました。16節「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。主イエス様の忍耐には限りがありません。「限りない忍耐をお示しになった」とパウロが言うのは、こんなわたしは許されないだろうと思うほどのことをしたパウロが十字架につけられたイエス様と出会い、こんなわたしでも神様は憐れんでくださると信じることができたからです。パウロは、イエス様を信じる人たちに暴力をふるい、ステファノが石で打たれて殺された時には彼もそこにいてそれに賛成していました。改心した後のパウロには自分が何か償いをしなければならない、自分の命に匹敵するものによって償いをしなければならない、心の深いところでウズウズと癒されない傷のような罪悪感があったはずです。しかし、イエス様がこんな自分のため、自分の罪のために十字架にかかってくださったこと、イエス様の十字架には償うことのできない罪はないと気づき、彼の心の傷は癒されました。だからこう言うのです。14節「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」

こんなわたしをも神様は憐れんでくださいます。聖書が伝える憐れみとは「人が苦しんでいるのを見て、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べる」と言う意味で、英語で言えば「コンパッション」です。苦しみを意味するパッションを「コン」共にしようとする。人が苦しんでいたらその痛みを感じてその人のかたわらに立とうとする。それが憐れみです。パウロは十字架につけられたイエス様と出会い、あの苦しみはわたしの苦しみのためなんだと受け止めたのです。どうしてあんなことをしてしまったのだと後悔と罪悪感に苦しむ中で「あなたの苦しみと痛みをわたしの十字架に委ねなさい」と聞いて、彼はそうしたのでしょう。

「こんなわたしでも神様は憐れんでくださる」。わたしたちの理屈や思いをはるかに超えた神様のご計画がここにあります。それは神様がダビデを王として選ばれる時と同じです。主なる神様はサムエルに言いました。「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は眼に映ることを見るが、主は心によって見る」。神様はわたしたちが見るようには見ません。サムエル記では神様の選びがテーマとなっていますが、テモテへの手紙と共通しているのは、「こんなわたしもですか?」というわたしたち人間の驚きです。サムエルから見れば、王にふさわしいのは長男のエリアブだろう、見た目も良いし長男だからと思うのですが、神様が選ばれたのは末っ子でまだ小さい少年のダビデでした。ダビデにしてみれば「こんなわたしでいいのですか?お兄さんたちでなくてどうしてわたしなんですか?」と思ったことでしょう。

今日は、収穫感謝の日として、横浜市の寿町で路上生活をしている人、いわゆる「ホームレス」の人たちのために毎週500〜600食の炊き出しをしている寿地区センターで炊き出しの食材として使ってもらうために日々、神様からいただいている食料品などの恵みやその他の献金をここに捧げました。年に1回するだけでは自己満足かもしれません。でも、これも神様がわたしたちを用いてくださる神の業です。イエス様が言われています。「与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる」。お望みでしたら、わたしたちを用いてくださいと捧げましょう。神様が今、皆さんの中に生きて働いてくださっているのですから、こんなわたしですが用いてくださいと祈りましょう。

2017年10月15日 信仰によって

◆ヘブライ人への手紙11章17〜22、29〜31節
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

◆マタイによる福音書21章18〜32節
21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

◆詩編31:22〜25節
31:22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を
都が包囲されたとき、示してくださいました。
31:23 恐怖に襲われて、わたしは言いました
「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを
嘆き祈るわたしの声を
あなたは聞いてくださいました。
31:24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
31:25 雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。

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ヘブライ人への手紙の11章の御言葉は、わたしたちを励ましてくれる言葉が繰り返し出てきます。11章の1節から31節まで「信仰によって」「信仰によって」「信仰によって」と繰り返し、信仰によって神様を信じて生きてきた人たちの証が示され、神様を信じる信仰がどれほどにその人に勇気を与え、一歩また二歩とその人を前進させるのか、この11章を繰り返し読みますと、その神様の力、神様を信じることによって与えられる力がずんずんと伝わってきます。何よりも信仰はその人の生き方と直結している、信仰はわたしたちの行動とつながっているということを強く感じます。

11章17節にはアブラハムの名前があります。17節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです」。アブラハムと妻サラは若い頃からずっと「神様、どうか子どもを与えてください」と祈り願い続けてきたのに与えられず、もうこんな年寄りに子どもは無理だととっくにあきらめていた頃に神様はイサクという息子を2人に与えました。でも、イサクが少年に育ったとき神様はアブラハムに言いました。「イサクを焼き尽くす捧げものとして捧げなさい」。焼き尽くす捧げものですから、イサクさんの命を奪わなければなりません。「神様、どうしてですか?」。アブラハムはどれほど悩み、苦しい思いをしたのでしょうか。ただ聖書はアブラハムが淡々と神様に従ってイサクを献げたと伝えます。アブラハムがイサクを献げようと刃物で彼の胸を刺そうとしたその時、神様が「アブラハム、アブラハム」と言って彼を止めたのです。(幼稚園の子どもにこの物語を話しますとこの場面で子どもたちはグーっと引き寄せられていきます。)ヘブライ人への手紙では「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じていた」と伝えます。創世記では神様が繰り返しアブラハムに伝えていた約束があります。「あなたの子孫にこの土地を与える」「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムは神様が「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われた約束を心から信じていましたし、たとえイサクが死んだとしても生き返らせることもできると信じていたからこそイサクを捧げようとしたのです。

信仰によってアブラハムはイサクを献げた。信仰によってイサクは祝福を祈った。信仰によって、ヤコブは祝福を祈り、神を礼拝した。信仰によってヨセフは自分の遺骨について指示を与えた。信仰によって人々は紅海を渡った。信仰によって、エリコの城壁は崩れ落ちた。信仰によってラハブは探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ、殺されなくても済んだ。この「信仰によって」という約束はこの後もずーっと続いて、今もわたしたちの中に生きています。信仰によって原町田教会のわたしたちは祝福を祈り、「信仰によって」わたしたちは今礼拝を捧げています。信仰によって「わたしの命は神様のものです」と信じますから心が平安になります。信仰によってわたしたちは一人ではない、イエス様がこの教会としてわたしと共にいてくださると信じルことができます。だから安心します。

この聖書箇所を読んでいて気づくのは、信仰とは神様の約束を信じて一歩前に進むことだということです。モーセに率いられてエジプトを出た人たちは、信仰によって海を渡りました。今日もわたしたちは信仰によって一歩二歩と教会に向かって進みましたし、ここから出て行くときも信仰によって神様から示された挑戦を持って一歩前に進むのです。

誰かが言ったことを信じて挑戦するって、実はみなさんは小さい頃からすでに経験済みです。たとえば、自転車に乗ることもそうです。わたしの場合は小学校の3年生ぐらいだったと思いますが、友だちが自転車に乗っているのをみて、自分も乗りたいと思い、父に話しました。そして「大丈夫、乗れるようになる」と父の励ましの言葉に支えられて、何度も挑戦し、ついに乗れるようになりました。友だちが乗っているのを見て自分も乗ってみたいと思ったこと、父親の「大丈夫」という言葉を信じて挑戦したこと。自分が大人になって自分の子どもにも同じように「大丈夫、できるよ」と励まして子どもが乗る自転車を何度も押してあげたこと。みなさんも似たような経験をしているはずです。信頼できる人が言った言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦したこと。必ずあるはずです。そして、今度は自分が他の誰かを励ます。聖書が伝える「信仰によって」も全く同じです。神様の言葉を信じて生きている身近な人の姿に感動し、わたしも神様を信じて生きていきたいと思うようになる。そして神様が言われた約束を信じて励まされ、勇気をいただき自分なりに挑戦してみる。一度でうまくいかず、失敗することもありますが、でも信じて挑戦し続ける。それが真の親なる神様が言った約束を信じるわたしたちの姿です。

先日、原町田幼稚園で「みんなで運動をする日」がありました。その日に向けて子どもたちはいろいろなことに挑戦していました。年長クラスたんぽぽさんたちは鉄棒に挑戦していました。ある子は前まわりに挑戦、別な子は逆上がりに挑戦です。子どもたちは友達が逆上がりをできるようになるとそれに刺激されて「わたしもやりたい」と思う。信頼する先生が「○○ちゃん、できるよ」「そうそう、もう少し」と手伝ってもらいながら、何度も何度も挑戦して突然ある日できるようになるのです。一人で逆上がりができるようになった時の喜びは「ね、見て見て」と自分ができるところを見てもらって「すごいね」と言われることで何倍にも大きくなります。

わたしたちはみんなキリストによって神様の子どもとなりましたから、何歳になっても幼稚園の子どものように神様からの「大丈夫。恐れることはない。わたしがあなたと共にいるからチャレンジして」という言葉に励まされ、その言葉を信じて挑戦します。何に挑戦するのか。それは一人一人違っていることもありますし、同じこともあります。

教会は神様から色々な課題を受けて、それに挑戦しようとする者の集まりです。わたしたち原町田教会は今、神様から一つの課題を受けています。それは会堂建築のことです。わたしたちがこうしてこの礼拝堂で安心して礼拝を捧げ、伝道の柱として幼稚園を運営できているのは、この礼拝堂と幼稚園を建てようと50年ほど前に挑戦してくれた先達たちがいたからです。この礼拝堂と幼稚園を建てた先達たちは神様の約束を信じて勇気を出して一歩前に踏み出したから、これを残すことができました。イエス様は言います。今わたしたちが挑戦しているそれが神様の御心であると「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られ」る。

何のために神様がわたしたちに信仰を与えたのでしょうか。皆さんは何のためだと思いますか。皆さん自身を支え、一人でも多くの人に神の愛を伝えるために皆さん一人ひとりを用いるために神様が信仰を与えてくださいました。わたしたちが神様の御言葉に支えられて励まされて「わたしは本当に神様を信じて生きていることが嬉しい」と証しながら生きているならば、それを見た人がわたしも信じたいと思うでしょう。自転車や鉄棒に挑戦したくなる子どもたちと同じです。神様の約束の御言葉を信じて生きることの素晴らしさを証するためにわたしたちを生かしてくださっています。

イエス様も言っています。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。信じて祈って「立ち上がって海に飛び込め」と挑戦するのです。はじめからそんなの無理です、難しいと言いたくなるところですが、それは人間の力では無理なことでも、神様が言われたことですから、信じて祈って挑戦していいのです。山を動かすのはわたしたち人間を通して働かれる神様の力です。

御言葉を信じ、一歩前に踏み出しなさいとわたしたちを励ます言葉が聖書には満ち満ちています。例えば「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。「明日のことまでも思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない」。神様が聖書を通して、その時のその人に必要な御言葉を語られます。ヘブライ人への手紙に出てくる一人一人が信仰によって神様からいただいた御言葉と同じです。

信じることってものすごい力です。神様がわたしたちにくださったものの中でも最高に良いものです。「これ、とってもいいから買ってみて」って、初めて会う人に言われるのと、何年も付き合いのある信頼できる人に言われるのとではその信頼度は違いますし、この人が言うなら本当だと信じて実際に買ってみることもありますよね。ましてや、天地を創造された神様が約束されていることならそれを信じて「よし、やってみよう」と安心してさらに一歩踏み出せるはずです。神様が今もわたしたちの間に生きて働かれ、御言葉によって力づけ導いてくださるのですから、「信仰によって生きる」ということ、こんなに素晴らしいことはありません。

頭がいいとか、聖書のことをよく知っているとか、そういうことは信じることとはあまり関係ありません。イエス様が言っているじゃありませんか。「徴税人や娼婦たちは信じたからあなたたち祭司長や民の長老よりも先に神の国に入る」。聖書も神様もよく知っている祭司長や民の長老は、ヨハネが示した道を信じませんでしたが、聖書のこともほとんど分からない徴税人や娼婦たちは、その道を信じました。信じるってことは知識うんぬんではないのです。「あなたが何をしたわけでもなく、ただ神様があなたを大切だと思うからイエス様によってあなたを赦し、あなたを神の子としてくださいました」。この神様の御言葉を信じて、そして一歩前に出て「わたしは神様を信じます」と発表する。そこに救いがあるのです。教会の仲間と一緒に「アーメン、その通りです」と言う。教会には神様を信じて一歩前に進む仲間がいます。信じて生きるというのは一人の出来事ではなくて教会の出来事なんですね。

2017年9月3日 希望によって救われている

◆ローマの信徒への手紙8:18〜25
08:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
08:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
08:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
08:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
08:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
08:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
08:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
08:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

◆マタイによる福音書13章24〜33節
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

◆詩編90:1〜12
90:01 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:02 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。
90:03 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:04 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:05 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:06 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:07 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り あなたの憤りに恐れます。
90:08 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:09 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

8月の日曜日のことですが、初めて原町田教会の礼拝に来られた人が礼拝後の入門講座に出てくれました。その人はご自身が10代の時にしばらく教会に通っていたそうですが、ある時から行かなくなってずーと教会から離れていました。でも、ついこの間、ふとした時に「慈しみ深き、友なるイエスは」と賛美歌を口ずさんで、急に教会に行きたくなって、そしてその日曜日、礼拝に出席したと話してくれました。その人は次のように言いました。「わたしの中に種がまかれていたんですね」。

神様が蒔いてくださった種は、蒔かれたその時にはそれがとても小さくてその素晴らしい価値にはほとんど気づきません。でも、命がその種に宿っていて、その人の中に根を張り、芽を出して成長し、いつの間にかその人を導くほどにもなる。自分の中に蒔かれた種に導かれて久しぶりに礼拝に集ったその人だけでなく、皆さんの多くもそのような経験をされていると思います。教会以外のところで、日常生活の中で、突然に聖書の御言葉が浮かんでくる。突然に賛美歌の言葉が自分の中から出てくる。教会で会ったあの人のことが思い出される。教会で語られた説教の短い言葉が自分の中に立ち上がってくる。そして、その言葉が自分を神様に導いていく、そんな経験です。

イエス様は言われました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。

わたしは牧師になる前、信徒として教会生活を11年ほど過ごしましたが、礼拝に出席していて毎週のようにこの御言葉はすごい、今日の説教も素晴らしかったと感動していたかと言いますとそうではありませんでした。時に仕事で疲れて説教中に寝てしまったこともありましたし、説教を聞いていてもピンとこない、わからないこともありました。皆さんもそうだと思います。聞いたその時にはわからない、心に響かない。けれども、確かに命の種はその時、皆さんの中に蒔かれているのです。神様が皆さんの中に蒔かれたその種には命が宿っていますから、やがて根を張り、芽を出し成長して大きくなります。ただ、種が根を張り出し、芽ぶくにはその種に適した条件が整わなければなりません。わたしも以前、マリーゴールドやペチュニア、ベゴニヤなど花壇の花を種から発芽させて作っていましたが、それぞれの花によって発芽する温度が違うので、その花に合わせて温度を調整したりしました。芽が出る条件が整うまで種はじっとその時を待たなければなりません。種の中には長い期間生きるものもあれば、数ヶ月で芽が出なくなるものもあります。種がどれくらい生きるのか調べましたら、数十年前のことですが千葉県で弥生時代の遺跡の発掘をしていた時に約2000年前のハスの種が3粒発見されて、そのうちの1つの種は発芽に成功したとありました。2000年間も芽が出る時をその種は待っていたのです。種は発芽の条件が整うまで長い間、命をしっかりと保ちながらじっとその時を待つことができます。皆さんの中にも神様によって蒔かれた命の種があって、その中にはすでに芽吹いたものもあれば、芽吹かずにそのままじっとその時を待っているものもあるでしょう。確かなことは、蒔かれた時のその種はとても小さいけれど、いったん芽を出して成長すれば、木のように大きく成長するということです。その命の種が皆さんの中に確かに蒔かれているのです。

イエス様は、わたしたちの中に蒔かれた命の種は蒔かれた時は小さくても、成長して大きくなると言われます。いったい、どうやったら芽を出し、鳥が巣を作るほどに大きく成長していくのでしょうか?水をあげ、肥料をあげなければならない、自分がまず何かしなければならないのでしょうか?しかし、イエス様は何も言われません。別のたとえでイエス様は種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのかは人にはわからないと言い、パウロさんも「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と伝えます。わたしたちにできることは、何よりも蒔かれた種を成長させてくださる神様を信じることです。「神様が必ず、成長させてくださる。だから、焦らずじっと待とう」と信じ続けるのです。

教会生活をしていて、時々聞くことですが、例えば伝道委員の人がある人に「今度、礼拝の後の証をお願いしたいのですができますでしょうか?よろしくお願いします」と頼みました。するとその人は「わたしはまだ信仰が浅いですから難しいです」と言って断りました。皆さんも「信仰が浅い」という言葉、聞いたことがあるかもしれません。でも皆さんはどう思いますか?信仰にはレベルがあって、浅いとか深い、低いとか高いなどと測ることができると思いますか?信じることの中身をどうやって浅いとか深いと判断することができるのでしょうか?知識の量ですか?それとも教会に通っている年月でしょうか?信仰の浅い深いは決して測ることができません。何故ならば、信仰は神様がくださった命の種の一つだからです。

信仰も神様から与えられたもので、わたしたち人間が努力して勝ち得たものではない。神様が命の種である信仰を与えてくださったからこそ、わたしたちは「神様を信じます」「神様がこのわたしをイエス様によって赦し、神の子としてくださったと信じます」ということができるのです。

先日に参加した研修会でルーテル学院の江藤先生からマルティン・ルターのことを学んできましたが、とってもいいことを聞きました。信仰義認という言葉がありますが、信じることによって神様があなたを良しとする、救われるという意味の言葉ですが、江藤先生は、信仰義認は誤解を招くから「恵み義認」とした方がいいと言ったのです。信仰というとわたしたち人間の側の努力が求められる、信じるというわたしたちの行為が何よりも必要と勘違いしてしまいがちですが、わたしたちが信じるのは、まず第一に神様がわたしたちを招いてくださり、神様が「わたしはお前の創造主としてお前を愛し、わたしの子どもとする」と語りかけてくださっていることです。わたしたちが先ではなく、神様が最初にわたしたちを愛し、祝福し、数え切れないほどの恵みを与えてくださり、御子イエス様の命によって赦してくださっている。その恵みによって、わたしたちは神様を信じることができるのです。その講演会で初めて知ったのですが、ドイツ語で礼拝のことを、神(Gottesゴッテス)と奉仕(dienstディンストゥ)をくっつけて「Gottesdienst」というのです。ルターさんは、礼拝とは人が神へ奉仕するのではなく、神が人間に奉仕することとして理解していたというのです。実際にわたしたちが捧げている礼拝も、まず初めに神様が皆さんを招詞によって招き、聖書を通して神様が語りかけ、説教によって神様が福音を伝え、聖餐によって神様が罪の赦しと新しい命を与え、祝福と派遣によって神様が皆さんを世に遣わされる。その神様からの恵みに応える形で、わたしたちは賛美歌を歌い、祈り、信仰を告白し、献金を捧げるのです。わたしたちが何か、神様に奉仕したから救われたのでもなく、わたしたちが神様に献金をたくさん捧げたから罪赦されたのでもなく、ただ神様が全ての人を救うためにイエス様を送ってくださり、ただ神様が全ての命を大切に思っているからイエス様によって神の子としてくださったのです。

神様がわたしたちの中に蒔いてくださった種は皆、良い種です。信仰もそうですし、希望もそう、愛もすべて神様が蒔いてくださったものですから、良い実を実らせます。でも、残念ながらわたしたちの中には毒の種もまじっていて、芽を出して毒の実を実らせてしまうこともあります。自分の口から出る言葉によって他の人に毒づいてしまったり、自分の中にある毒で人に迷惑をかけてしまうこともあります。その場の雰囲気で何気なく言ってしまったことを後になって「あの時はまずいことを言ってしまったなぁ」と思うこと。ありませんか?自分で気づけばまだいいんですが、自分の言った言葉で他の人が傷ついてもまったく気付かないこともあります。

わたしの中にも毒があります。わたしはその毒に気づいているつもりなのですが、なかなか変えられないでいます。その毒は見方によったら良いところもあるのかもしれませんが、でもやっぱり毒ですね。仕事は早いけど雑という毒。教会の皆さんもそろそろお気づきだと思いますが、原稿依頼されたものとかは、結構早くに終わります。でも、その中身はどうかと言いますと、早いですからちょっと雑です。この「早いけど雑」によってわたしは以前の教会でも、またこちらでも何度かご迷惑をかけています。思いつきで計画を立てるところまではいいのですが、あまり深く考えていませんので、役員会や執事会で提案しても計画倒れすることがこれまでに何度もありました。計画段階ではこれはいいと思うのですが、なにぶん時間をかけるのが苦手ですから準備不足、説明不足なのです。

こんな毒を持ち、またこの口から出る言葉で人に傷つけて迷惑をかけてきたわたしなのですが、神様は「その毒麦をすぐに抜きなさい」とは言わずに「そのままにしておきなさい」と言ってくださるのです。ありがたいなぁと思います。今、わたしがここにこうして生きていられるのも神様が忍耐してくださっているからなんだとイエス様のたとえを読んでわかります。「毒麦なんか生やしておいたら良い麦まで悪くなるからすぐに抜いてしまいなさい」とは神様は言われません。「毒麦を抜き集めておきましょうか?」と聞く人に主人である神様は「いや、麦も毒麦も両方とも育つままにしておきなさい」と言われます。本当ならば、すぐにでも抜かれて束にされて燃やされてしまう毒を持ったわたしを刈り入れの時まで待ってくださる。この神様の忍耐があるから、わたしたちは今も赦されて生きています。

ローマの信徒への手紙でパウロさんが「わたしたちはこのような希望によって救われているのです」と言っているのは、まさに神様の忍耐のことです。もちろん、厳しく悲しく、恐ろしいことがわたしたちの現実にはあります。神様の恵みや神様の愛が見えなくなってしまい、自分の中の毒が元気になってしまうこともあります。そしてなぜか、わたしたちは現実に起きている悲しいことや苦しいことの方に心が傾いてしまう。でも、わたしたちは必ず完全な形で「神の子とされる」「この体が犯してきた罪は全て赦される」と信じて、その時を待ち望むことが赦されています。必ず神様がそうしてくださると信じるわたしたちはすでに救われています。ローマ8:24「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。このような希望。目に見えないけど確かに希望の種が与えられていることがわかります。「あなたは必ず神の子とされる」「あなたが犯してきた罪は全て赦される」。

毒麦も良い麦も育つままにしておきなさいと忍耐を持って待ってくださる神様がいます。その神様が今日も良い種をわたしたちの中に蒔いてくださいました。その種が神様の愛によって芽吹き、神様の忍耐の中で育ちわたしたちを支え、導いてくれるとの希望によってわたしたちは皆、救われているのです。

2017年8月27日 ここにわたしの家族がいる

◆マタイによる福音書12章46〜50節
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

今日、イエス様はわたしたちに「天の父の御心を行う人は、わたしの家族だ」と言われました。これはとても嬉しい言葉です。誰でもどんな人でもイエス様の家族になることができるからです。
どこで生まれたとか、どのように育ったとか、どこの学校を出たとか、なんの仕事をしたのかとか、できるできない、能力のある、なしに関係なく、ただ神様に愛されているあなたとして迎え入れてくれるイエス様の家族となる。心も体も安心して憩えるところ、イエス様に「おかえり」と受け入れられる神の家族ですから、「ここにわたしの家族がいる」とイエス様に言ってもらえるわたしたちは幸せです。

でも、皆さんの多くは「天の父の御心を行う人」という言葉にひっかると思います。「あなたは天の父なる神様の御心を行なっていますか?」と聞かれたら、「わたしは神様の御心を行うことなんてできていません」と言うんじゃないでしょうか。自信ありげに胸を張って「わたしは御心を行っています」なんていう人がいたら、心の中で指に唾をつけて眉毛に塗る人がいるんじゃないでしょうか。

もし、皆さんの近くにいる小さな子どもさんが、お孫さん、甥っ子さん、幼稚園、小学校の子どもかもしれませんが、ある時、こんな質問を皆さんにしたらなんと答えますか?「神様の御心って何?」。幼稚園でも時々、「神様ってどこにいるの?」などズバリの質問を受けることがあります。同じように「神様の御心って何?」と聞かれて、皆さんはなんと答えますか?神様の御心、神様が思っていること。小さい子どもですから簡潔にわかりやすく答えなければなりません。「聖書を読めばわかるよ」なんて答えるのもいいかもしれませんが、わたしでしたら、牧師としての意地がありますから、このように答えたいですね。「神様が『大好きだよ』っていつもわたしに言ってくれているから、同じように神様と近くの人にも『大好きだよ』って言えるようにすることかな」。神様と隣人を愛すること。これはとっても難しいことですから、結局、御心を行うことなんてできやしないと皆さん思われるんじゃないでしょうか。神様の御心を行うなんてできない。でも、本当にそうなんでしょうか。

神様の御心、神様が思っておられることをイエス様が何度か、はっきりとお話しくださったことがあります。その一つに次のようなたとえ話があります。イエス様が「100匹の羊のうち、1匹が迷い出てしまい、その1匹を探しに行って、それを見つけたら、その1匹のことを喜ぶだろう」と言って、このように続けました。「そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。小さな者の一人でも滅びることは天の父の御心ではない。「わたしは聖書をあまり読んでもいないし、いい加減な信仰生活を送っているから御心なんて行うことはできないダメなキリスト者だ」と思っている小さなあなたに神様は「わたしから離れていって滅びてほしくない」と思っておられる。そうイエス様は言われます。

福音書を読んでいますとイエス様がしきりに「福音を信じなさい」「恐れることはない。神を信じなさい」と言われていることがわかります。神様はわたしたちのためにイエス様を送ってくださり、その赦しによってわたしたちを神様の子どもとしてくださったと信じる。ただ、神様の憐れみによってのみ、私たちは神様を賛美することができ、イエス様の十字架の赦しによってのみ「わたしは神様を信じます」と言うことができる。わたしたちが何か良いことをしたからでもなく、ただ神様の憐れみと赦しがあったからだと聖書は伝えています。

詩編では繰り返し「神様を賛美せよ」とありますから、神様がイエス様によってしてくださったことを繰り返し覚えて、「神様は素晴らしい方です」と賛美する。それも神様の御心です。こんな小さなわたしを神様は憐れんでくださり、滅んでいきそうになるわたしをイエス様によって救ってくださった。「神様、ありがとうございます。あなたの御名を賛美します」とこれまでも、そして今日もこれからも礼拝する皆さんは、神様の御心を行なっていると言えます。

もちろん、日々の生活のほとんどの時間は、神様の思いではなく自分の思いを優先して考え、行動しているのがわたしたちです。御心を行なっていますなんて自分では言えないと思うのは当然です。だからこそ、神様は教会を与えてくださり、教会でささげる礼拝だからこそ自分の思いを横に置いて心を神様に向けて、神様を賛美し、神様を信じますと告白するのです。

今年の夏も子どもの教会のキャンプで奥多摩に行ってきました。あいにくの雨で川遊びはできませんでしたが、その代わりにアイデアを出しあって、楽しい室内運動会をしてきました。今年のテーマは「聖書」でした。いっぱい遊び、紙すきをしたり、何も書いていない無地の扇子に絵や文字を書いたり、黒い皮に文字を書いた聖書カバーも作りましたし、礼拝も何回もして、子どもたちと一緒に神様を賛美して、聖書が伝えるメッセージを一緒に聴いてきました。小学校1年生から5年生までの子どもたち27人のほとんどは原町田幼稚園出身ですが、まだ神様からの素晴らしい福音が十分に伝わっているとは言えません。ですから、すでに福音を受け入れ、福音を信じている奉仕者たちは一生懸命に子どもたちに喜びの知らせを伝え、また一緒に楽しい時を過ごしました。イエス様はこのように言われています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。このイエス様の言葉は神様の御心そのものですから、子どもたちに神様のこと、神様はイエス様の命をくださったほどにみんなのことが大好きだよと福音を伝えている原町田教会は、御心を行なっていると言えます。直接、子どもの教会の働きに繋がっている人はもちろんですが、繋がっていない人であっても、皆さんが献げている献金が子どもの教会を支えていますし、子どもの教会の働きを覚えて祈っているその祈りも大きな支えとなっていますから、それは教会として御心を行なうことになるのです。子どもの教会は教会全体の働きなのですから、直接働いている奉仕者とまた直接繋がっているない皆さんも福音を伝える御心を行う働き人なのです。

イエス様は、「あなたの母上とご兄弟たちが外で立っています」と言った人に「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と弟子たちの方を指して言いました。その弟子たちとはどんな人たちだったのでしょうか?私たちとは違って御心を行う力がある立派な人たちでしたか?聖書が伝える彼ら、弟子たちのほとんどは東北ガリラヤの無学な漁師や徴税人でありました。福音書を読めばわかりますが、原町田教会に集うわたしたちと変わらない、良いところもあれば、ダメなところもある人たちです。ペトロさんもいれば、ユダさんもいますし、イエス様をゲッセマネに置き去りにして逃げ去るそんな弟子たちを指差してイエス様は「ここにわたしの家族がいる」と言われ、続けて「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族だ」と言ったのです。ということは、たとえばこの原町田教会の特別伝道礼拝の講師にイエス様が来られお話をしていたとします。その時にイエス様のお母さんと兄弟たちがやってきて、「ちょっとどうしても会いたいので呼んできてもらえますか」と受付をしていた人に言いました。受付の人はイエス様のところに行って「ご家族がいらしています」と伝えます。するとイエス様は原町田教会に集うみなさんを指差してこう言うはずです。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。みなさんを指差してイエス様は言うのです。「ここにわたしの家族がいる」。嬉しいですね。神様が真の親であり、イエス様をお兄さんとした神の家族です。イエス様があなたはわたしの家族だよ、ここにわたしの家族がいると言ってくださるのですから、これは本物です。

イエス様は大きな心でわたしたちを家族として迎え入れてくれています。ですから、わたしたちもそれにならって、教会にやってきた人をあまりその人のことを詮索せずに、神の家族として受け入れたいですね。「どこで生まれたのか。何歳なのか。何ができるのか。どんな仕事をしているのか。などなど」。いろいろと聞きたくなりますが、まず、神様があなたを家族として迎え入れていますよと受け入れたいですね。

御心を行うってどういうことなんだろうと思っていましたら、イエス様がゲッセネマで苦しみながら祈った、あの祈りの言葉が浮かんできました。これから自分は十字架につけられて殺されるかもしれない。いやきっとそうなる。わたしたちと同じ体の痛みを感じられたイエス様は苦しみ悶えながらこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。痛い思いをしたくない、苦しみたくないと願うイエス様でしたが、でもその自分の願いでなく、神の思いである御心が行われますようにと祈りました。わたしたちも苦しいことにぶつかったり、痛い思いをすることもあります。そんな時、「神様、どうか助けてください。この苦しみをわたしから取りのけてください」と祈ります。イエス様がそう祈ったのですから、そう祈っていい。でも、いつも自分の願った通りになるとは限りません。そんな時であっても、わたしたちは「御心が行われますように」と祈ることができるのです。神様の御心はわたしたちを滅ぼすことではありませんから、必ずその苦しみに耐えられる逃れの道を示してくださる。滅びではなく、救ってくださる。いやすでに「御心が行われますように」と神様に祈っている時点で救われている。神様と繋がっていることが救いですし、こんな状態で苦しんでいるわたしですら神様は愛し、「わたしはお前を決して見捨てない」と言われていると信じられるからです。「御心が行われますように」と祈ることができるのは、まさに神様の御心なのです。

パウロさんがカイサリアにいた時のことですが、パウロさんのところにユダヤから来た人が訪ねて来て、パウロさんの帯をとって、それで自分の手足を縛って「聖霊がこうお告げになっている。エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に渡す」と言いました。それを聞いた教会の人たちにパウロさんは「主イエスの名のためならばエルサレムで縛られるばかりか死ぬこともさえも覚悟している」と言ったのです。パウロさんのその覚悟は確かで人の思いでは変わらないだろうと思った教会の人たちは、彼に向かってこのように言いました。「御心が行われますように」。

わたしたちも自分のこと、あるいは他の人のことで自分の思うようにことが進まない、そんな経験をします。そんな時、心配したり、落ち込むこともあれば、どうしてこんなことになるんだと怒りを感じることもあるでしょう。でも、わたしたちは「御心が行われますように」という祈りを知っています。神様の御心は自分の思いとは違う。でも、御心は必ず滅びではなく良い実を結びますから、神様を信じて「御心が行われますように」と委ねるのです。「御心が行われますように」。この言葉を口に出して祈ってみてください。イエス様が祈った言葉です。「御心が行われますように」とみなさん、神様を信じて祈ってください。そのように祈るのはすでに御心を信じて委ねる皆さんなのです。イエス様は原町田教会に集うわたしたちに向かって今日、言ってくださいました。「ここにわたしの家族がいる。わたしの天の父の御心を行う人がわたしの家族である」。

 

2017年7月16日 「良いものをくださる」

写真をクリックすると音声を聴くことができます。

◆聖書 テモテへの手紙一2章1〜8節
02:01 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
02:02 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
02:03 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
02:04 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
02:05 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
02:06 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
02:07 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
02:08 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

◆聖書 マタイによる福音書7章1〜12節
07:01 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
07:02 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
07:03 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
07:04 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
07:05 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
07:06 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
07:07 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
07:08 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
07:09 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
07:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
07:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
07:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。