牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
日曜日の礼拝にもどうぞおいでください!お待ちしています。

4月21日 あなたの涙はぬぐいとられる

◆ヨハネ福音書20章11〜18節
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

◆詩編30:2〜6節
30:02 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
30:03 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
30:04 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
30:05 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:06 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

皆さん、イースターおめでとうございます。イースターという素晴らしい日をこうして皆さんと一緒にお祝いできますことに感謝します。この集まりはわたしたち一人一人の意思によってできた集まりではありません。「今日は、イースターだから礼拝に行こう」と思って来たのだから、自分の意思によって集まったと思うかもしれませんが、そうではありません。この集いは神様が集めてくださったものです。復活日は神様がイエス様を死から起こされた日だからです。神様が今日、こうやって一人一人を原町田教会に集わせてくださったのですから、わたしたちはこの出会いに心から感謝したいと思うのです。隣に座っている人、前と後ろに座っている人を見てください。この人は「いつもと同じあの人」ではなくて、神様が復活日の今日、自分と出会うために集めてくださったあの人です。あの人は毎週のように会っている同じ人とは思わないで、むしろ今年も一緒にあの人と復活日をお祝いすることができるのだから、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできてとっても嬉しい」と心から感謝いたしましょう。なぜなら、イースターはどんな悲しみであっても、どんな苦しみであっても喜びへと変えられる日、流れている涙がぬぐい去られる日だからです。

マグダラのマリアさんは、墓の外に立って泣いていました。イエス様の遺体が墓からなくなっていたからです。彼女は確かにイエス様が十字架の上で死なれたことを見ていました。同じようにその遺体が墓に納められたのも彼女はその場にいて見ていました。ですから、イエス様が死んでしまったことで心の中に大きな穴がぽっかりと開いてしまったような寂しさを感じていたでしょうし、油を塗りに来たのにイエス様の遺体がなくなってしまったことで途方に暮れて泣いていたのです。遺体がない、遺体が見つからないというのは辛いことです。これは経験した人でないとわからないことかもしれませんが、東日本大震災の時に起きた津波によってたくさんの人の遺体が見つからなかったことで悲しみがより深くなったことをわたしたちは知りました。死んだ人を間近に見て、その遺体としばしの時を過ごし、そして遺体を棺に納め、葬儀をして火葬する。わたしが牧師となってこれまで何度も葬儀をしてきまして思いますのは、人が召されてからまず、遺体を前にして祈り、家族の方との日程などの打ち合わせ、納棺式、自宅からの出棺式、葬儀、火葬の前の式、骨を骨壷に入れる前の祈り、お墓に納骨する式など、一つ一つのこれらの「喪の作業」と呼ばれるプロセスが死を受け止めるにはとても大切だということです。そのような喪の作業があるからこそ「神様、あなたの御手にお委ねします」とその人の命を手渡すことができ、死の現実をなんとか受け止められるようになっていきます。でも、遺体がなくなってしまいますと油を塗ることも喪の作業もできません。

大切な人を亡くし、遺体もなくなってしまい、涙を流して途方にくれる人を神様はそのまま放っておかれません。神様は悲しむ人を決して一人にされることなく、涙を流すマリアさんにまず初めに天使が話しかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。天使に続いて涙を流す彼女にイエス様が声をかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。まさかこの人がイエス様だとは思いもしませんから、マリアさんは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、引き取ります」。深く悲しんでいる時のわたしたちはなかなか人の励ましや慰めの言葉を受け入れられないことがあります。彼女もそうでした。そこでイエス様は彼女の心に届くように「マリア」と声をかけられます。この人はイエス様だと気づいてマリアさんはよほど嬉しくなったのでしょう。もうイエス様を放さない。そんな思いで彼女はイエス様にしがみつきましたが、イエス様は彼女を立ち上がらせる言葉をくださいます。「わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。

わたし宮島は、8年ほど前になりますが、自分の父親を天に送ったときの葬儀でたくさん涙を流しました。父の葬儀はわたしが牧会をしていました茨城県の牛久教会で行いまして、当然、わたしが牧師としてその葬儀を司式いたしました。説教の時はなんとか堪えられたのですが、父の好きだった讃美歌を歌う時には涙を流し、また葬儀の後半の思い出を話す時になっても、小学生の頃一緒にヨットに乗って海に行ったことや一緒に釣りをしたことなど元気でいた父を思い出し、もうあのように楽しく過ごすことができないと思い、天に召される前の10年近く、父は病気で動けなくなっていて、自分は弱っていく父に何もできなかったという思いもあり、たくさん泣きました。でも、その時、その葬儀には教会員はもちろん、特に連絡を入れていなかったのですが、幼稚園の保護者の方たちや同じ地区の牧師仲間たちも数人駆けつけてくれまして、嬉しかったことを覚えています。そして何よりも、わたし自身が父と十分に心通わせる時間が取れていなかったという悔いが残る中でも、父はまことの親である神様のところに帰って行ったと信じられること。神様が父の手をとって「起きなさい。新しい朝だよ」と立ち上がらせてくださり、新しい命を神様のもとで生きていると信じることによってわたしは深い慰めを得ました。イエス様が死から起こされ立ちあがったからこそ、わたしたちは死は終わりではなく、新しい命の始まりだと信じることができます。復活を信じることができるわたしたちは本当に幸いです。
 
さて、イエス様の「マリア」との言葉で立ち直ったマグダラのマリアさんに、今度は使命、ミッションが与えられました。「弟子たちのところへ行って、こう言いなさい」と進むべき道が示されたのです。彼女は弟子たちのところに行って福音を伝えました。「わたしは主を見ました」。この彼女の一言が復活を信じる教会の始まりとなりました。死は終わりではなく、新しい命の始まりだと伝えるこの福音は「わたしは主を見ました」と告げたマグダラのマリアさんから始まり、彼女のこの一言が多くの人を慰め励ます教会の礎となりました。彼女はどこにでもいる普通の人で、いくつもの病気を抱えて苦しんでいましたがイエス様と出会い、病を癒されたことがきっかけとなりイエス様に従ってエルサレムまで来ていました。そして神様は悩みを抱える普通の女性マリアさんをイエス様の復活の証人として用いられたのです。同じようにイエス様と出会って救われた原町田教会のわたしたちを神様は復活の証し人として用いてくださいます。

イエス様は「わたしの父であり、あなたがたの父である方のところに上る」と言われました。イエス様が死んだ後、死から起こされて父なる神様のところに上っていかれたように、わたしたちも同じように神様のところに上ります。イエス様が「あなた方の父である方のところ」と言われているからです。ヨハネ福音書14章2節でイエス様はこう言っていました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。死は終わりではなく、神様のところで生きる命の始まりです。この世の旅路を終えた後、その旅路が長いとか短いとか、良し悪しに関係なくイエス様は必ずわたしたちを迎えに来てくださり、父なる神様の家に連れて行ってくださるのです。

ある人が「クリスチャンにならないと天国には行けないのですよね。わたしはクリスチャンになったのですが、わたしの前に亡くなった父や母は仏教徒でしたから、地獄にいるのですか?」と聞きました。その人にわたしたちはなんと答えるのでしょうか?「そうです。クリスチャンにならないと地獄に行くのですよ」と答えるのでしょうか。でも、想像してみてください。皆さんが大好きだった家族がただ洗礼を受けなかったからという理由で地獄にいて苦しむ様子を天国から見ている皆さんは幸せですか?大切な人が苦しむのを見ているところはどう考えても天国とは言えません。イエス様は人が苦しむのを見るようなところに皆さんを迎えることはなさらないはずです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」との御言葉は分け隔てなく、すべての人に伝えられたものです。あなたがたすべての人は、この世の旅路を終えた後には親である神様のところに上るのです。

これこそ、福音、喜びの知らせです。マグダラのマリアさんが「わたしは主を見ました」と告げたのと同じように、わたしたちも「わたしは復活を信じます。死は終わりではなく、新しい命の始まりです」と近くの人に伝えていくのです。親しい人の死を経験し、涙を流す人にわたしたちはマグダラのマリアさんが弟子たちに告げたように伝えます。

この世の旅路を終える時は誰にでも必ずやってきます。だからこそ、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできて嬉しい」と心から思うことができます。あなたと一緒に主の復活を祝う今という時がどれほど尊いのか。同時にこの世でのお別れが来た時でも「死は終わりではない。復活の主イエス様がわたしを迎えに来てくれて主の家に迎え入れてくれる」と信じることができるのです。

4月14日 わたしと一緒に楽園にいる

◆ルカ福音書23章32〜49節
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

◆詩編22:2〜12
22:02 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:03 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:04 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。
22:05 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。
22:06 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:07 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:08 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。
22:09 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

アートバイブルという本がありまして、2003年に1冊目が発行され、その5年後には2冊目が発行されています。聖書の御言葉とその御言葉を絵画で表現した作品がたくさん載せられていて、見るのがとても楽しい本です。わたしは毎週の週報の表紙の絵を選ぶ時によくこの本を参考にしています。アートバイブルを見ていまして面白いのは、一つの御言葉に対して絵が一つだけでなく、いくつかの違った画家の絵が載せられていまして、それを見比べていますと一つの御言葉をどう受け止めるのか、人によって違いがあることに気づかされます。この本の中で特に一つのテーマでたくさんの違った絵を紹介しているものがあるのですが、皆さん、なんのテーマだと思いますか?それはやっぱりイエス様が十字架につけられた絵です。今回、イエス様が十字架に架けられている絵をゆっくり見て気づいたのですが、この本で紹介されている絵のほとんどは、イエス様お一人が十字架に架けられているものでした。イエス様がお一人で十字架に架けられている絵の多くは両手を広げ、手に釘を打たれたイエス様が絵の全体を占めています。ただ、今日の御言葉が伝えますのは、イエス様は一人ではなく、一緒に二人の犯罪人が十字架につけられたとあります。23章32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった」。続く33節「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。イエス様は二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのですが、そのことを描いた絵もいくつかありまして、今日の週報に載せたレンブラントの絵はその一つです。

聖書を読んでいる時ですが、わたしたちは「もし、この聖書の時代に自分がここにいたとしたら、自分はここに登場する誰と似ているだろう?」と思いながら読むことがあります。今日の出来事、イエス様が十字架に架けられている出来事の中で、もし、自分がここにいたとしたらどの人と自分は重なるところが多いだろうかと想像するのです。そこに立って見ていた民衆に自分を重ねるでしょうか?「他人を救ったのだ。もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがいい」と嘲笑った議員、あるいは「お前もユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言った兵士たちでしょうか。あるいは49節に登場している「遠くに立って見ていた婦人たち」でしょうか?それとも二人の犯罪人でしょうか?多くの人は35節「民衆は立って見つめていた」とある民衆の立場に自分は近いと感じるのではないでしょうか?わたし自身も長らくそう思っていました。もし、自分がここにいたら何もできずにただそこに立っていたか、あるいは周りに合わせて「十字架につけろ」と叫び、イエス様が死なれた後には感動して、48節にある通り「胸を打ちながら帰って行った」群衆の一人だろう、その場に「何もしていないで」立ち尽くす群衆の一人と思っていました。

しかし、「何もしていない」で見ていることも実は人を苦しめることになる。「何もしないで」その場に傍観者としていることも実は罪を犯しているということにわたしは先日、ある短い文書を読んで知らされました。その文章を読んでわたしは頭をガツンと殴られるような衝撃を受けて「あ、自分は民衆ではなくて、イエス様の後ろで十字架につけられた罪人の一人なんだ」と気づいたのです。

34歳になる和田さんという作家が先日、新聞にこんな投稿をしていました。和田さんは自分が中学生の時、自分はいじめの加害者だという意識をつい最近まで持っていませんでした。それは久しぶりに再会した中学のクラスメートの一言「あの時は自殺してもおかしくなかった」と言われるまでは、自分といじめは関係ないと思っていたというのです。「自殺してもおかしくなかった」と言ったクラスメートの彼女はそこまで追い詰められていたのかと和田さんはそれを聞いて驚き、同時に自分自身が当事者意識をまったく持っていなかったことにも驚いたと言うのです。なぜなら、和田さんは実際に「何もしていなかった」からです。中学の3年間、彼女へのいじめは、「されたらイヤなこと」をすべて詰め込まれたゴミ箱のようでした。叩かれ、ばい菌と呼ばれ、机を廊下に出されていましたが、和田さんはそれを「何もしないでただ見ていました。叩くことに加わらず、でも助けもせずに少し居心地悪くしながらも多くのクラスメートと同じように何もせず見ていました」。その態度が、彼女に「自殺を考えさせるほどの苦しみ」を与えていたのです。和田さんはその後にこう書いています。「仮に彼女が自殺してもわたしには罰は下らない。教育委員会や警察がわたしを調べても、本当に『何もしていない』のだから。だからのうのうと生き、彼女の苦しみを知らずに大人になった。善人とは何か。波風立てず問題を起こさず、静かに生きている善人たちが、虚構を作っている。わたしもその一人だ」。そして最後の和田さんの一文を読んで、わたしは「十字架につけられているイエス様を見ている民衆に自分を重ねていたが本当はそれだけではなかった」と思ったのです。和田さんはこう言います。「差別やいじめは悪人から始まるものだろうか。テロリストは犯罪ばかりする家族から生まれるだろうか。案外、善人のつくる静かな平和から、それらは醸成されるかもしれないということを、わたしたちは今日も黙殺し、あるいは知らないまま生きている」。イエス様の十字架を傍観者として見ているだろうと想像するわたしは今も「何もしていない」という過ちを犯している罪人なのです。「何もしていない」から、わたしには罪はないと思って、イエス様が十字架に架けられているのを正面から見ているのではない。本当は、十字架に架けられたイエス様を斜め後ろから、しかも自分も十字架につけられた状態で見ているのがこのわたしなのだと気づいたのです。

苦しむ人がいてもわたしは「何もしていない」から、加害者ではない、自分は何も悪くないと思いたい。でも、苦しむその人たちを助けようとしないことは加害者とあまり変わらないことなのです。

この後に歌います讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」では、イエス様が十字架につけられたとき、主が釘で打たれたとき、主がやりで刺されたとき、あなたもそこにいたのかと問いかけます。今日の御言葉からこの歌に付け足すならば、議員や兵士がイエス様をあざ笑ったとき、イエス様が大声で「父よ、わたしの霊をあなたの手に委ねます」と言って息を引き取られたとき、あなたもそこにいたのかとなります。そうです。わたしたちはそこにいました。群衆として、ときには兵士として、また婦人として、「本当に、この人は正しい人だった」と言う百人隊長としてそこにいました。ただ、忘れてはならないのは、わたしたちは「何もしていない」という罪によって刑罰を受けるべく犯罪人の一人としてもそこにいて、自分の十字架を背負いながらイエス様が十字架に架けられているのを後ろから見ているのです。

犯罪人の一人はイエス様に兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。イエス様はそれには何もお答えになりません。しかし、もう一人の言葉にイエス様は答えられています。もう一人はこう言いました。40節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。続けて「イエスよ、あなたの御国に御出でになるときには、わたしを思い出してください」。わたしたちもこの犯罪人のように「わたしは罪人です」と告白し、イエス様に話しかけたいのです。「わたしたちは十字架を背負っています。でも、イエス様、あなたは何も悪いことをしていないのにわたしたちの罪のゆえに十字架に架けられ、苦しまれている。イエス様、どうかあなたが神の国に行かれるときにはわたしのことも覚えていてください」。この犯罪人の一人はわたしたち自身であり、わたしたちの良き模範です。イエス様は罪人であるわたしたちに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。何も悪いことをしていない方が十字架に架けられることによって神の国がそれまでは開かれていなかった犯罪人にも開かれたのです。明らかにわたしたちの罪のため、イエス様はわたしたちのために苦しんでくださっている。そう信じて「わたしは御国に行けないと思うけど、イエス様に思い出してもらえるだけで本望です」と心から思う時、イエス様の声が聞こえてくるのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

これが福音の御言葉です。わたしたちの多くはこの犯罪人のように自分の十字架を背負いながら日々生活をしています。わたしたちが背負う十字架は、「何もしない」罪だけでなく、体や心の病気であったり、人間関係から生まれる重荷もそうですし、歳を重ねて老いていくことで、できないことが増えていくことも十字架の一つです。そのようにわたしたちは自分の十字架を背負いながら、すぐ目の前に十字架に架けられたイエス様を見て、「イエスよ、わたしを思い出してください」と言うことができます。この苦しみをイエス様が覚えていてくださると確信するだけでも心は軽くなるのですが、イエス様はそれをはるかに超えた福音を今日与えてくださいました。イエス様は、わたしたちにはっきりと言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。どんな重荷を背負っていても、「何もしていない」という過ちを日々犯す罪人であっても、あなたたちは今日、イエス様と一緒に楽園にいるのです。イエス様は正しい人のためではなく犯罪人のために死なれました。良い人のためではなく、悪い人のためにイエス様は命を捨てられ、血を流されたのです。あなたのために主イエス様が命を捨てられ、あなたのために主イエス様が血を流されたのです。あなたたちを罪から救うために、あなたたちに命を与えるためにイエス様は死なれたのです。

時々、心の深いところで「わたしは本当に救われるのだろうか?」「こんな罪深いわたしが天国に入れるのだろうか?」と不安を感じることがあります。でも、それは人の心の思いであって、神様の御心ではありません。イエス様は、十字架を背負いながら歩くすべての人に神様の御心をはっきりと宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

2019年3月3日 わたしはあなたと共にいる

◆イザヤ書41章8〜16節
41:08 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
41:09 わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
41:10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。
41:11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆 恥を受け、辱められ 争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
41:12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず 戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
41:13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
41:14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
41:15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする 新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。
41:16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ 嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り イスラエルの聖なる神によって誇る。

◆詩編46:2〜12
46:02 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:03 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
46:04 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
46:05 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
46:06 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:07 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:08 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
46:09 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

ここにいるほとんどの人は、自分用の聖書を少なくとも1冊は持っていると思います。いつでもどこでも読もうと思えば、聖書を読むことができますし、実にいろいろな翻訳の聖書も読むことができます。原町田教会の中でもすでに買われた人がいると思いますが、つい先日には、31年ぶりの翻訳聖書『聖書協会共同訳聖書』が出ました。長い教会の歴史の中でこれほど聖書が身近になった時代はないと言っても大げさではありません。ただ、そこで問われますのは、わたしたちの聖書を読む姿勢です。わたしたちは神様の御言葉としての聖書を読むときにどのような思いで読んでいるでしょうか?聖書の知識をもっと蓄えるために読むのでしょうか?それとも神様からの救いを求めて読むのでしょうか?どちらも間違いではないと思います。

ある人がとってもいいことを言っています。聖書は「わたし」と語る神様が、読者である一人一人の「あなた」にあてて書かれた手紙の束、ラブレターだと言うのです。わたしたちの郵便ポストには毎日のようにいくつもの商品案内の手紙、あるいは以前に買い物をして住所を教えたお店からキャンペーンや何%オフと書かれたハガキなどが届きます。それは不特定多数の人にあてられた印刷された文字です。パッと見てほとんどはリサイクル用のゴミ箱に投げ入れられます。でも、最近は減ってきていると思いますが、自分の手で書かれたハガキや手紙がわたし宛に送られてきますと嬉しくなります。聖書は不特定多数の人にあてて印刷された神様を説明する文章ではなく、神様がすべてのあなた個人に宛てて書かれた神様直筆のラブレターだと言うのです。神様がこのわたしに書いてくださっているんだ、そのような思いをもって読みますと聖書に書かれた御言葉がグッとわたしたちに迫ってまいります。

イザヤ書41章9節「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」。神様があなたに言われるのです。すべての命を創造されている永遠なる神様が、とにかく多くの人に伝えようとするのでなく、一人一人のことを思いながら「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と言われているのです。それもわたしたちがその言葉の豊かさに気づいていない時からずっと繰り返し「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる」と伝え続けておられます。

3月になりました。卒業シーズンです。原町田幼稚園の卒業式も今月の15日に行われます。幼稚園では毎年、卒業していく子どもたち一人一人に宛てて担任からの手書きメッセージや他の先生たちから短いメッセージが印刷された「神様に守られて」という冊子をお渡ししています。わたしは毎年のように「たんぽぽのみんなに出会えてとっても嬉しかった。大好きだよ」と言うような言葉を送っています。卒業式だけでなくて、誕生会のときに送る一人一人へのメッセージでも「あなたと出会えて嬉しい。大好きだよ」と書いています。わたし自身が神様から愛の言葉をなんども頂いていますから、同じように子どもたちに愛の言葉を子どもたちがわかる言葉で伝え続けています。先日、年長の女の子がわたしのところにやって来て、いきなり「宮島先生、結婚して」と言うのです。真面目に「わたしはすでに結婚しているからできないよ」なんて言わずに「わたしも◯◯ちゃんのこと大好きだから、結婚したいよ」と答えますと「今すぐにして」と言うので、わたしはひざまずいて「◯◯ちゃん、結婚してください」と言いました。その子はとっても嬉しそうでしたし、わたしも心がほっこりしました。

身近な人にこそ、日頃から愛の言葉を何気なく伝えられるといいなぁと思います。何か特別な時だけでなく普通に「あなたが先週いなくて寂しかった」とか、「この間はあなたがいてくれたから本当に助かりました。ありがとう」。恥ずかしくて言えないと思うかもしれませんが、神様がわたしたちに繰り返しラブレターなる聖書を通して「わたしはあなたを愛している」と言っているのですから、わたしたちもいつも近くにいる人に伝え続けたいのです。愛の言葉は聞いた人にとって命のパンとしてその人を元気にするからです。

神様は毎日わたしたちに愛の言葉を伝えています。イザヤ書41章10節「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」。聖書を一人で読む時には、これは神様がわたしに書いてくださったラブレターなんだと思いながら読んでいただきたいのですが、今日のように礼拝の中で説教として聞く時には、神様が説教者を通してあなたに言われていると受け止めていただきたいのです。神様が宮島を通して今、あなたに言われているのです。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける」。

この神様の御言葉は紀元前6世紀ごろにイザヤさんを通してバビロンの地に連れて行かれ、故郷に戻ることを願っていたイスラエルの人たちに向けて伝えられた愛の言葉です。イスラエルの人たちは異国の地に無理やり連れてこられて何十年もそこにいましたから、「もう、わたしたちはダメだ。バビロン人たちからは『虫けら』と呼ばれているし、実際にわたしたちは虫けらだよ」と言っていたのかもしれません。わたしたちも思い描いている通りに物事が進まず、失敗ばかりしていますと「自分はダメだ。何の役にもたっていない。わたしなんていてもいなくても同じ」と自分を見下してしまいがちです。神様はそのようにいじけるわたしたちのことをよく知っていますから、何度も愛の言葉をかけてくださいます。14節「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」。

神様はこのラブレターに書いた言葉を本当の出来事として実行されました。この後、イスラエルの人たちはバビロンから解放され、故郷に戻ることができました。紀元前538年ごろと言われています。愛の言葉はイスラエルの人たちだけに伝えられたのではありません。その後500年以上経って神様はすべての人を助けてくださいました。それがイエス・キリストによる救いです。

今年の1月1日から、わたしはヘンリ・ナウエンさんが書いた『今日のパン、明日の糧』という黙想の本を毎朝読んで、お祈りをしています。先日、その本に慰めについてこのようなことが書かれてありましたので、紹介させてください。慰めという言葉を英語で言いますと、consolationとなります。この慰めという言葉は2つのラテン語がくっついてできておりましてConとSolusという言葉です。Conは「共に」「一緒に」で、Solusは一人の人という言葉ですから、慰めるは「人と共にいる」こととなる、とありました。

神様からの愛の言葉をなんどもなんども繰り返し読んで、聞いていますと心に深い慰めを感じるのは、神様がどこか遠いところにおられる方ではなく、とても近く、わたしの横に、前に後ろに、時には下にいてくださるからなんだと改めて思いました。神様は今日も「わたしはあなたを固くとらえている」、「わたしの救いの右の手であなたを支える」と言われます。神様がその御手でもってわたしを支えてくれているのですから大丈夫とわたしたちは信じるのです。「わたしはあなたと共にいる」。この慰めの愛の言葉が目に見えるキリストの体として、そうです、このエクレシア、この原町田教会の集まりとなってこれまでも、また今もそしてこれからもあなたを助け、支えます。

招詞でコリントの信徒への手紙が読まれまして、そこにはこうありました。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。もちろん、これは人間の力では難しいことです。痛み、悲しみの中にある人を前にした時、ほとんどの人はどんな言葉を言ったらいいのか、迷います。家族を失った人、重い病気を患った人、自死することを考えている人、生きる意味を見失った人。その人たちは心の底から慰めを求めていますが、わたしたちはオロオロしてしまうことがあります。でも、慰めるというのはその人の悲しみや苦しみを減らすのではなく、ただその人のそばにいて「わたしには何もできませんが、しばらく一緒にいることはできます」と言うこと。それこそ神様が教会を用いてわたしたちを慰めてくださっていることですし、勉強しなければできないことではありません。その人とお茶を飲み、お話しを聞いてしばしの時を一緒に過ごせばいいのです。

先ほどのご一緒に読みました詩編46編には、イザヤ書を通して語られる神様に向かって、わたしたちが応える言葉が記されていました。神様がまず言われます。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」。このラブレターにわたしたちはこう応えます。詩編46編2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。 続く3〜4節「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも」「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。この神様への返事の手紙は、一人一人が神様に宛てて書いているというよりも、教会のみんなで書いているイメージですね。先ほど一緒に声を合わせて詩編を読んだのもしっくりきます。神様が「わたしの救いの右の手であなたを支える」と言われたのに対して、わたしたちは応えます。8節と12節「万軍の主はわたしたちと共にいます」。だから、わたしたちは恐れません。思いもよらない状況に直面してもわたしたちは恐れません。なぜなら、「わたしはあなたを支え、助け、決して見捨てない」と言われる神様がわたしたちとどんな時でも一緒にいてくださるからです。

死から復活されたイエス様の親であり、わたしたちの親である神様は返事をするわたしたちに再度言われます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」。

2019年2月24日 苦しみにあってもあきらめない

◆ルカによる福音書5章12〜26節
05:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
05:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
05:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
05:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
05:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
05:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
05:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
05:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
05:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
05:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
05:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
05:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
05:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
05:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
05:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

◆詩編103:1〜13
103:01 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。
103:02 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:03 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し
103:04 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:05 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。
103:06 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。
103:07 主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。
103:08 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。
103:09 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。
103:10 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。
103:11 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
103:12 東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
103:13 父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 

わたしは毎朝、短い時間ですが聖書を読んで祈っています。教会や幼稚園の皆さん、特に痛み苦しみの中にある人を覚えて祈ります。そのあと、朝ごはんの前にも家族揃って「神様、今日も一人一人が元気に朝を迎えられましたことを感謝します。今日も心と体の健康を支えてください」と祈ります。その後、幼稚園に来て8時30分から始まる朝礼の時にも職員と一緒に祈っていまして、園では職員が順番に祈ります。「神様、子ども達、その家族、また職員一人一人の心と体の健康をお守りください」。わたしたちの祈りの多くは、自分の健康、身近な人の健康を願う祈りだと思いますが、今の季節、祈っていましても風邪を引いてしまうこともあります。そんな時は、「神様がいつもあなたは頑張っているから、少しはお休みしていいのですよ」と休ませてくれたと受け止めるようにしています。誰でも風邪ぐらい引きますし、実際に疲れている時ほど風邪を引きやすいのですから、風邪を引いたときくらいは堂々と「やすみます」と言ってゆっくりできます。でも、病気は病気でも重いもの、なかなか治らない、あるいはずっと治らない病気になった場合はどうでしょうか?「神様が与えてくれた休養期間だ」とは簡単には思えませんから、心から治してほしいとただ心から願い、祈ります。わたしたちの「健康をお守りください」との日々の祈りは、そのような重い病気からお守りくださいとの願いだと言えます。今日の聖書に登場する2人の人物はその祈りを繰り返し祈ってきた重い病気を患った人たちでした。

最初の人は全身に重い皮膚病を患っていました。当時、このような病気にかかった人は、家族から引き離され、街中に住むことが許されず、人に近寄ることもできませんでした。もし、その病いの人が誰か知らない人に近づいた時には「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければならないと定められていました(レビ記や民数記にその定めが書かれています)。でも、この人はイエス様の噂を聞きつけて、何としてもイエス様にお会いしたいと思って、本当は来てはいけないところにやって来て、決死の覚悟で、人に見つからないように待ち伏せしていました。そしてイエス様を見つけたら、さっとそこから飛び出し、目の前にひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くおできになります」と願ったのです。その人がこれまでどんな思いでいたのか、イエス様はその思いと祈りをしっかりと受け止められ、「汚れた者です」と自分で言わなければならないその人にイエス様は手を伸ばし、肩に手を乗せ、ただれた顔や腕に触れ、そしてその人の手をぎゅっと握って言われたのでしょう。「よろしい、清くなれ」。

同じように全身が麻痺して動くことのできない中風の人とその友人たちも決死の覚悟でイエス様に近づいていきます。ちょっとでも間違えたら、屋根が崩れて自分たちも落ちてしまうかもしれません。でも彼らは屋根に上って瓦をはがし、病人を乗せて床ごとイエス様の前につり降ろしました。

この病いの2人とその友人たちは治らないと思ってしまうほどの重い病気になっても生きることを諦めていません。必死に祈り、願い、イエス様に近づいて行きます。その思いを受け止めてイエス様も危険を顧みずに全力で病いを治そうとされています。病気の人も、イエス様も諦めていません。

医学、医療がずいぶんと良くなった現代でも難病と呼ばれて、治すことのできない病気はまだまだあります。わたしの父も難病でしたし、原町田教会の中にも、また幼稚園の家族の中にもそのような病いを負っている人がいます。わたしはその病の中にある人やその家族を前にした時、何を話したら良いのか、どんな言葉で話しかけたらいいのか、迷うことがあります。でも、今日の御言葉が迷うわたしにあきらめず祈りなさいと勇気をくれました。2000年も前のイエス様の時代でしたら、重い皮膚病や中風を患えば、その病気はその人または近い人の罪や過ちに対する神様からの罰と思われていましたから、人間の力では何もできないと諦めるのが普通だったと想像します。しかし、彼らは生きることを決して諦めず、祈り続けていました。そうでなければイエス様に近づくこともしなかったでしょう。イエス様も彼らと同じように生きることを諦めていません。わたしたちも重い病気の人を覚えて祈り続けます。生きることをあきらめずに難病になっても、癌になったとしても、復活され今も共におられるイエス様が触れてくださる、支えてくださると信じ、祈り続けます。

先ほど歌いました讃美歌533「どんなときでも」を開いていただきたいのですが、左上に作詞者の名前「高橋順子」とありまして、その右横に1959年から1967年とあります。59年から67年まで生きたということですから、順子さんは7歳で天に召されたとなります。ご存知の方も多いと思いますが、彼女は福島県の新町(しんまち)教会の教会学校に通っていましたが、幼稚園の時に、重い病気(骨のガン)にかかりました。いろいろと治療してきましたが、治らない中、今度は足にガンが移ったので、片足を切り落とさなければならないと医者に言われました。想像することすら辛いことです。でも、教会学校の先生をしていた人が順子さんの病院に来て、順子さんのお母さんと一緒に「大丈夫、イエス様が一緒にいてくださるから、大丈夫だよ。お祈りしようね」と励ましてくれました。十字架につけられて苦しんで死んでいったイエス様は、その後に復活されて、今も一緒にいてくださると順子さんは教会で聞いていましたし、そのことを信じる教会の人がここに来て祈ってくれる。足を切断する手術を受ける4日前に、順子さんは1つの詩を書きました。それがこの讃美歌の詩です。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イェスさまの、イェスさまの愛があるから」。彼女の病気そのものは治りませんでした。けれども彼女の信仰、イエス様の愛を信じていれば、どんなときでも苦しみに負けずに、くじけないで生きていける。その信じる想いは確かに生き続けています。重い皮膚病の人も同じでした。この人もあきらめずに、くじけずにイエス様のところに向かっていきました。中風を患っている人とその友人たちもあきらめずに屋根に登って瓦を外してイエス様のところに行きました。

わたしたちも同じようにあきらめずに祈り続けます。病気そのものが治らなかったとしても高橋順子さんの信仰、皮膚病の人や中風の人とその友人たちの信仰は今も歌や御言葉を通して生き続けていますように、わたしたちの信仰も復活のイエス様に繋がれて生き続けると信じます。今、まさにここに集う原町田教会の家族の中にも重い病気を患いながらも主にある希望を失わずに生きている人たちがいます。病いを患って、時にくじけそうになりながらも「イエス様の愛があるから」と歌うのです。その人たちの生きる姿そのものが、今日の御言葉の現代版なのではないでしょうか。病気を抱えながらもイエス様に会うためにゆっくり歩きながら、普通の人の2〜3倍の時間をかけて礼拝に集う人は、イエス様に友人たちの助けをかりて会いに来たあの中風の人に似ています。

先ほど、招詞で読まれましたコリントの信徒への手紙一の10章11節にはこうあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられなかったようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます」。

10日ほど前のことですが18歳の水泳選手、池江璃花子(いけえりかこ)さんは自分が白血病と診断されたことを公にし、それがニュースとなりました。彼女のところにはたくさんの人たちから、温かい励ましの言葉が届き、それに対して彼女は、ツイッターでこのように答えました。「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。いまは、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います」。彼女のコメントを読んですぐにわたしは、これは、コリントの御言葉だとわかりましたが、皆さんもそうじゃないですか?御言葉は今も生きて、重い病気を患った人など困難にぶつかった人たちを支えています。
わたしもこのコリントの御言葉が好きなのですが、「逃れの道をも備えていてくださる」という箇所を苦しいことがあっても必ずそこから逃げられる道、そこから離れて遠くを通っていくような違う道が与えられるのだと理解していました。しかし、先日読んだあるコラムにはこうありました。「逃れの道とは迂回路ではなく、出口が本当の意味であり、試練を避けて別の道を行くのではなく、その真っ只中を通り抜けた先に与えられる出口。神様が寄り添ってくださるから、どんな試練をも通り抜けて、希望の出口まで達することができる」。

重い皮膚病を患っている人も中風の人も、また高橋順子さん、池江さん、ここに集うわたしたち1人ひとりも試練や苦しみを通る中でこそ、イエス様と出会うことができるのだと思うのです。痛みや苦しみの中にあってもイエス様が寄り添ってくださっている。治ることのない病気、なかなか終わらない苦しみの真っ只中を通って、わたしたちはイエス様に出会います。たとえ病になっても、治るかどうかわからない病気であっても、イエス様を信じる心はなくなりません。なくなるどころか強められていきます。「わたしはあなたが耐えられない試練は与えない」との御言葉によって神様はわたしたちに寄り添い続けておられます。イエス様を信じる信仰は永遠なるイエス様としっかりとつながっていますから決してなくなることはありません。イエス様はわたしたちの手に触れてくださり、わたしたちの祈りを受け止めて言われます。「あなたの罪は赦されている。起き上がって、自分の家に帰りなさい」。わたしたちは「神を賛美しながら家に帰って行った」中風の人と同じように、わたしたちの中で今も生きて働かれる神様の御業をこれからも賛美してまいります。

2019年1月20日 御言葉は今日実現した

◆ルカによる福音書4章16〜30節
04:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
04:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
04:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
04:19 主の恵みの年を告げるためである。」
04:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
04:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
04:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
04:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
04:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
04:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
04:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
04:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
04:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
04:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
04:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

◆詩編111:1〜10
111:01 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:02 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:03 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:04 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:05 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:06 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:07 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:08 世々限りなく堅固にまことをもって、まっすぐに行われる。
111:09 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

イエス様が小さい頃から大人になるまで暮らしていましたガリラヤ地方のナザレは、ある聖書学者によれば人口500人ほどの村であったと言われています。500人と言いますとこの原町田教会が150人ほどの教会員数ですから、この教会が3つほどのイメージです。そのような小さな村でイエス様は大工仕事をする父ヨセフと母マリア、また兄弟たちと一緒に生活してきました。イエス様は幼少期をどのように過ごしたのか、福音書はあまり語っておりません。なぜなら、福音書の中心はイエス様の十字架と復活だからです。しかしながら、イエス様ご自身が聖書の御言葉をどう理解し、どんな経験をされて、生きてこられたのかを幸いなことにわたしたちは福音書を通して知ることができます。また、それ以上に幸いなことは、聖書が語る御言葉を、現代のわたしたちも経験することができるのです。すでにわたしたちは預言者イザヤが語った御言葉が実現したことを経験しています。イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この御言葉は、2000年前のベツレヘムで確かに実現しましたし、わたしたちも先月ですが、この御言葉の実現をクリスマスとしてお祝いしました。クリスマスにインマヌエルなるイエス様がお生まれになった。それゆえにイエス様が今もわたしたちと共にいてくださり一人一人を支えてくださっているのです。まさに御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現したということです。

これは2000年前のことだけではなく、2019年を生きるわたしたち一人一人が経験することでもあります。イエス様は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とのイザヤ書61章1〜2節の御言葉が2019年のわたしたちの経験としても実現しているのです。

御言葉が今日、実現しているんだということをわたしたちが経験するためには、まず何よりもイエス様を信頼することが大切です。ナザレの会堂にいた人たちはイエス様の口から出る恵み深い言葉を聞いて驚いたのですが、イエス様の言葉を信じて「アーメン、それは本当です」と言わずに、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。イエス様が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言ったのですから、ナザレでも捕らわれている人が解放され、見えない人の視力の回復と圧迫されている人の自由がすでに実現していたのですが、会堂にいた人たちはそれを信じることができなかったのです。なぜならば、彼らは御言葉に培われた経験ではなく、人の言葉に培われた経験からイエス様を見てしまったからです。人の言葉から見ればイエス様はどこにでもいるような大工職人ヨセフの息子となりますから、会堂で人に教えるような立場ではありません。「あいつはあのヨセフの子ではないか」と見てしまうのです。しかし、御言葉に培われた経験からイエス様を見ますと違って見えてきます。

わたしたちもこのナザレの会堂にいた人たちのように人の言葉からいろいろと影響を受けています。知らず知らずのうちに、御言葉でなくて人の言葉で物事を解釈してしまうことがあるのです。例えば、何か悪いことがあった時に人の言葉はこう言います。「あなたが何か良くないことをしたからそうなったのでしょう」。わたしたちが事故を起こした時、受験やテストに落ちたとき、災害にあった時、病気になった時、自分自身でも「日頃の行いが悪かったんだ。だからこうなってしまったんだ」と何の疑問もなく思ってしまう。反対に良いことがあると「日頃の行いがいいからだね」と人の言葉は伝えます。しかし、御言葉はそのようには語りません。事故を起こしても、テストに落ちて落ち込んでいても御言葉は、「そのことを通してすら、神様は栄光をあらわそうとされている」と伝えます。災害にあっても、病気になっても御言葉は「あなたが悪いことをしたからそうなったのではなく、あなたの家族が罪を犯したからでもなく、神の業があなたに現れるためだ」というのです。御言葉に培われた経験があれば、自分自身や他の人が経験していることをそのように解釈できるのです。

わたしたちが生きる現代は特に「経済が成長すること」が何にも増して良いことだと伝えます。ですから、そのような「人の言葉」の影響を受けて知らず知らずの内にわたしたちは損得勘定で物事の判断をしてしまうことがあります。損得勘定という人の言葉を御言葉よりも大切にしてしまうのです。「あの人と付き合ったら自分がどれだけ良い経験ができるだろうか?自分にとって学ぶことがあるだろうか?」と思ってしまうのです。教会の礼拝に来ることも「今日の礼拝で自分はどれだけ学ぶことができただろうか?」と考えて、あまり学ぶことがないから止めておこうとなる。自分がどれだけ損するのか、または得するのか?自分の中からすぐに取り出せるものさしが、「損得勘定ものさし」になってしまう恐れがあります。御言葉を信じて今日を生きるわたしたちは、その損得勘定ではなく「御言葉ものさし」を常備しておきたいのです。人との関わりでは、「あの人のことをわたしは祈ったことがあるだろうか?」と立ち止まって考える。礼拝に出て「自分は御言葉によって作りかえられているだろうか?」「神様がわたしをあるがまま受け入れてくださっている、赦してくださっていることに感謝できているだろうか?」と考えるのです。「御言葉ものさし」をすぐに取り出せるようにしていれば、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とのイエス様の御言葉に「アーメン」と答えられるようになっていくのだと信じます。

とは言いましても、人の言葉は繰り返し語り続けます。今や科学(サイエンス)こそが人類を救う鍵だから、バイオテクノロジーを使ってヒトゲノムや脳の研究が進められていまして、難病と呼ばれる治すのが難しい病気も近い将来には治療できると言われています。とにかく21世紀になって科学技術はものすごいスピードで進んでいます。科学こそ人類を救う鍵だからわたしたちはそこにエネルギーを注ぐべきだと人の言葉は伝えますが、その進む先には未知なる世界が広がっています。例えば、人が望めば科学の力によって生まれてくる子どもを自分の理想通りにデザインすることができる、いわゆるデザイナーズベイビーが生まれてくる可能性があります。実際にアメリカなどではすでに精子バンクというものがあって、女性が自分で望む男性の精子をインターネットで検索して、購入して人工受精して妊娠、出産しています。髪の毛の色、目の色、優秀な大学を出た人、病気のことなども調べるのでしょう。科学こそ人類を救う鍵だという人の言葉には注意しなければなりません。なぜなら御言葉はこう言うからです。命あるものはすべて創造主なる神様が造られたもの。それらは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。わたしたちが望んでいないようなことが起きたとしても、望んでいないような人と関わることになったとしても、その人も神から出た大切な命だと御言葉は語るのです。

さて、ナザレの会堂にいた人たちはイエス様を崖から突き落とそうとしました。それは彼らがイエス様の御言葉を勘違いしていたからだと思います。イエス様は「あなたたちに救いはない」と彼らに言われてはいません。イエス様は「すでに救いの御言葉は実現した」、「あなたたちはすでに解放され、視力も回復し、自由となった」と救いを宣言しているのですが、会堂にいた人たちはそれを信じて受け入れなかったのです。そこですでに実現している救いを彼らの目を開いて見せるために、イエス様は旧約聖書の2つの出来事を伝えました。それが列王記のエリヤとエリシャが同胞のユダヤ人ではなく、異邦人を助けた出来事です。イエス様はあえて外国人の2人を例として取り上げていますが、この2人に共通していることは苦しい状況にあっても伝えられた御言葉を信じて、それを行ったことです。サレプタのやもめは自分と息子の分しか残っていなかった小麦粉を使いきってパンをエリヤにあげました。壺の粉は尽きることがないと言った神様の御言葉を信じたからです。ナアマンは3度ヨルダン川に浸かりなさいと伝えたエリシャの御言葉を信じて恥を忍んで浸かりました。御言葉は実現するんだと信じて、自分自身とまわりを見るのです。そうすれば、主イエス様がすでにわたしたちを様々な囚われから解放してくださっているのが見えてきます。

捕らわれている人の解放も目の見えない人の視力の回復も、圧迫からの自由もナザレの人たちだけに与えられた特権ではなく、すべての人に与えられる恵みだとイエス様は伝えます。しかも、救いに預かるはずもないと思われていた異邦人であるサレプタのやもめとシリア人ナアマンが共に神様からの助けを頂いたというのです。これは「人の言葉」によって人を分け隔てて見てしまいがちなわたしたちに対するイエス様からのメッセージです。

イエス様によってすべての人はすでに救われています。すでに赦しは宣言され、主の恵みの年は始まりました。その御言葉を通してわたしたちは繰り返し自分自身を見るのです。こんなわたしは救いに価するのかとか、このわたしが愛され、赦されるなんてありえない、と勝手に決めつけてしまうことはないでしょうか?それは人の言葉で自分を見ているためです。御言葉は言います。「あなたはすでに捕らわれから解放されている。御言葉によってあなたの視力は回復し、自分自身を神様に愛された神の子として見ていいのです。それが圧迫からの解放であり、あなたは主にあって自由なのです」。イエス様を通して、聖書の御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現しています。

2018年12月23日 大きな喜びをすべての人に

◆ルカによる福音書2章1〜20節
02:01 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
02:02 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
02:03 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
02:04 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
02:05 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
02:06 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
02:07 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
02:08 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
02:09 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
02:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
02:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
02:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
02:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
02:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
02:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
02:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
02:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
02:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
02:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
02:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

◆詩編98編1〜9節
98:01 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。
98:02 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し
98:03 イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。
98:04 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
98:05 琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:06 ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:07 とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ。
98:08 潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ、共に喜び歌え
98:09 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き諸国の民を公平に裁かれる。

みなさん。クリスマスおめでとうございます。今年はたぶん、原町田教会の108年の歴史の中で初めてイランから来た人が2人もバプテスマを受けますから、ペルシャ語でもMerry Christmasを言ってみましょう。最初にわたしがゆっくり言いますから、覚えてくださいね。「キリスマス モバラックKirismass Mobarak」。では、一緒に言ってみましょう。「Kirismass Mobarak!」。

今日、この後に5人の方たちがバプテスマ、洗礼を受けられます。その中にはイラン国籍のHさんとVさんの二人がいます。日本語がまだあまり上手でないこの二人がバプテスマを受けることは、今日の御言葉が今まさにここで実現していることだと思うのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。民全体というのは、すべての人たちという意味です。決してイスラエルの民全体だけではありません。今月出版された新しい聖書「聖書協会共同訳」では、このように訳されています。「恐れるな。私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。救い主がすべての人たちのためにお生まれになりました。わたしたちは毎週、礼拝を自分たちの慣れ親しんだ言葉と場所で捧げています。そうしますとついついそれが当たり前のように感じてしまい、いつの間にか神様の思いから離れてしまうように感じます。なぜなら、わたしたちはどうしても、自分の安心のための教会、自分の満足のための教会を求めてしまう傾向にあるからです。しかし、神様の思いは「すべての人」ですから、外へも向かっているのです。ですから、今日は特にこの天使が告げた神様の思いを忘れないようにしたいのです。「私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。すべての人のための教会であれと神様は言われているのです。

今日、バプテスマを受けるHさんとVさんがイラン人という国の違いがありますから、わたしは余計にその神様の思いを感じます。ただ、神様は国の違いだけでなく、価値観が違う人にも、生まれや仕事、生き方が違う人にも、とにかくすべての人のために救い主イエス様を与えてくださいました。Iさん、Nさん、Yさんも国籍は日本で同じですが皆それぞれ違う生き方をする違う人です。神様はどんな人であっても、どこで生まれたとか、どんな学校を出てどんな仕事をしているのか。これまで何をしてきたのか、そのようなことは一切問わずに宣言されるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。生まれも生き方も違うこの5人が今日、「イエス様を救い主と信じます」と告白するのですから、この御言葉がここに実現しているのです。

すべての人が救い主イエス様と出会うことができるようにと神様は、イエス様との出会いの場所を誰でも緊張することなく行ける場所に設定されました。それが飼い葉桶です。神様はイエス様の誕生を当時の会堂、シナゴーグに告げ知らせずに野宿する羊飼いに伝えました。神様はすべての人がイエス様と出会って救われてほしいと願っているからです。もし、当時の人たちがシナゴーグでこの知らせを聞いたとします。でも、「わたしたちの新しい王様がどうして飼い葉桶に寝かされるんだ」と言って、探そうとしなかったかもしれません。あるいは知らされたことを信頼してそこまでやってきて飼い葉桶の中の赤ちゃんを見たとします。でも、「本当にこれが救い主なのか」と疑ったかもしれません。幸いにもそのようなことにはならず、羊飼いたちは急いで行って飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたのです。なぜなら、救い主は飼い葉桶の中にいたからです。もし、天使が羊飼いたちに「あなたがたは布にくるまって金でできた物に入れられた乳飲み子を宮殿で見つけるであろう」と言っていたら、彼らはそこにたどり着かなかったでしょう。でも、天使の言葉を信じていれば、どんな人でもたどり着ける飼い葉桶に救い主は寝かされていたのです。だから、彼らは救い主イエス様と出逢い、その光景をみてそのことを他の人たちに知らせたのです。救い主がお生まれになったという大きな喜びをすべての人に伝えたいという神様の思いが確かにここから始まりました。シナゴーグにあまり行ったことのない彼ら、羊飼いたちでしたが、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

すべての人に大きな喜びが告げ知らされました。わたしたちの周りにいる人、「こんなダメなわたしのところになんか神様の救いなんか来ないだろうと思い込んでいる人」のところにも、あるいは「とても苦しくて今を生きるので精一杯の人」のところにも神様は「あなたにこそ大きな喜びを告げる」と宣言されます。救い主イエス様が生まれましたとの知らせを最初に聞いたのが羊飼いだったというところに神様の思いが表れています。どんな人も、自分なんかダメだと思い込まされている人にも救い主が来たんだと神様は伝えるのです。

羊飼いは当時、律法学者さんたちからは「汚れた罪人」と見なされていましたし、実際に現代でいえば3K「きつい、汚い、危険」の仕事でした。夜通し羊の群れの番をしていたのですから、順番で寝ることができても外で寝なければなりませんし、眠たい時間に起きている必要もあります。羊が死んでしまった時には死んだ羊を葬らねばなりませんが、死んだ動物に触れることは律法では汚れたことでした。また羊を襲う狼や熊、ライオンなどから羊を守るために野獣と闘わなければなりませんので、非常に危険でした。きつい、汚い、危険の仕事をしていた羊飼いたちでしたから、会堂の礼拝に出ることも難しかったでしょう。そんな彼らですから、天使が現れた時にとてもビックリしたのです。

今日、5人の人たちがイエス様を救い主として信じてバプテスマを受けます。バプテスマは、新しい命の誕生でもあります。5人はすでに体をもってこの世に生まれていますが、今日、5人はキリスト者としての命を神様から頂きます。「オギャー」「オギャー」と5人がキリスト者として産声をあげるのですから、わたしたち原町田教会家族は5人が生まれてくることをとっても楽しみにしています。2000年も前に羊飼いたちが聞いた言葉を今日、原町田教会家族のわたしたちも聞くのです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。赤ちゃんが生まれますから、わたしたち家族は生まれた後のパーティーの準備もして来ました。一緒に新しい命の誕生を祝う愛餐会です。新しく生まれるのですから、この礼拝堂はある意味、分娩室といってもいいかもしれません。わたしたちは家族として、自分たちの家族となる新しい命の誕生に立ち会うのです。わたしたち原町田教会家族みんなにとって、それは大きな大きな喜びです。

わたしは5人が無事に生まれますようにとここ1、2ヶ月間ずっと祈ってきました。5人のみなさんにはそれぞれこの後、信仰告白をしてもらいますが、この中には病気をされて苦しい時を過ごしてきた人もいますし、国に帰ることができないので難民申請していまして、そのために生活が大変な人もいます。バプテスマを受けて、キリスト者になったからこれからはすべてうまくいく、と思いたくなるのですが、そううまくはいくかどうかはわかりません。でも、確かなことがあります。それは皆さん5人は原町田教会の家族になるということです。2週間前の礼拝の後に5人の人たちを礼拝堂の前に招き、会衆の皆さんに紹介をしましたが、どうしてそうしたのかと言いますと、「今回、バプテスマを受ける人たちがどんな人かわからないので、バプテスマ式の時に教会員になることを認めてくれる人は手をあげてくださいと言われても責任が持てないかもしれない」と言ってくださった人がいたからです。わたしは嬉しかったです。神の家族になろう、助け合える家族となるためにも事前に知っておきたいとの声だと受け止めました。毎週日曜日にここに集って礼拝を捧げ、時々一緒にご飯を食べ、お話をしていきますとだんだんとつながりができてきて、互いに祈り合い、助け合う家族になっていくとわたしは信じています。今日、新しく加わる5人も、またすでにつながっているわたしたちも皆、全員が救い主イエス様によって導かれて神の家族となっていますから、これこそ、神様の救いの御業です。

原町田教会のわたしたちは今、新しく会堂と園舎を建てる話を進めていますが、羊飼いたちでも入ってこられるような建物を建てたいと思います。バリヤフリーとかいろいろとハード面でのことが言われていますが、何よりもわたしたちの心が飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つこと、エルサレムのヘロデ王がいた宮殿ではなく、ベツレヘムにある小さな家の飼い葉桶のような低い心をもったわたしたち教会でありたいと思うのです。

どんな人でも神様の前に立つならば、みんな罪ある人間です。諸国の民を公平に裁いてくださる方の前に立つならば、横にいる人たちも皆、全く同じ高さに立つことになります。みんな等しく罪あるものであると同時に、みんな神様に等しく愛された者でもあるのです。詩編89編にありましたとおり、救い主はこの地を公平に裁くために来てくださいました。それは89編8節に「山々よ、共に喜び歌え」とある通り、嬉しいこと、喜びの知らせなのです。なぜなら、わたしたちが生きるこの地にはたくさんの不公平が蔓延しているからです。わたしたちの心は自分と人とを比較して、幸せを感じようとしたり、人と比べて自分は不幸だと思ってしまいます。あの人の方がわたしよりも愛されているんじゃないか。どうしてわたしはこんなに苦しまなければならないのか。他の人を見ているとどうしても自分と比較してしまうことがあるのですが、救い主を信じるわたしたちは地を正しく裁かれる神様の前に立って、自分の周りにいる人を見渡します。そうしますと、みんな、みんな等しく罪人なんだと気づくのです。あの人も、この人もすべての人が神の前に立つならば、罪人なのです。同じように神様はご自分がお造りになったすべての人を等しく、全く公平に愛しておられます。主なる神様の公平な裁きが、浮き沈みの多いわたしたちの心を平らに、平安にします。そして人と自分を比較することなく、あの人も、この人もわたしと同じように神様に愛された尊く大切な人として見ることができるのです。それが飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つということ。

この原町田教会という神の家族の中でまずそのことを実践していきましょう。そして少しずつ羊飼いのように、ここ原町田教会で見聞きしていることがすべて神様の話した通りだと信じ、神様を賛美し、他の人たちに「聖書のこと、本当だよ。日本人もイラン人もすべての人に大きな喜びが告げられているよ」と伝えてまいりましょう。

「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

2018年11月11日 約束を信じて一歩

◆創世記18章1〜15節
18:01 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:02 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:03 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:04 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:05 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:06 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:07 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:08 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
18:09 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

◆ローマの信徒への手紙9:8〜9
09:08 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
09:09 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

◆詩編105:1〜11
105:01 主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。
105:02 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい 驚くべき御業をことごとく歌え。
105:03 聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き
105:04 主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。
105:05 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を 主の口から出る裁きを心に留めよ。
105:06 主の僕アブラハムの子孫よ ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。
105:07 主はわたしたちの神 主の裁きは全地に及ぶ。
105:08 主はとこしえに契約を御心に留められる 千代に及ぼすように命じられた御言葉を
105:09 アブラハムと結ばれた契約 イサクに対する誓いを。
105:10 主はそれをヤコブに対する掟とし イスラエルへのとこしえの契約として立て  
105:11 宣言された 「わたしはあなたにカナンの地を 嗣業として継がせよう」と。

今から40年近く前の1979年に子門真人さんがある曲をレコードで売り出しました。この曲ですが、ご存知ですか?「アブラハムには7人の子、一人はのっぽであとはチビ。みんななかよく暮らしてる。さあ踊りましょう。みぎー手」。教会やYMCAのキャンプ、幼稚園や保育園でも歌われている曲です。元はアメリカの童話だと言われていますが、日本では、「およげ!たいやきくん」で有名な子門真人さんがこの曲をレコードに出してから知られるようになりました。この歌ではアブラハムには7人の子とあるので、そうだろうと思ってしまうのですが、聖書をよくよく読みますとアブラハムには、まず最初に女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、次にサラとの間に生まれたイサク、そしてサラが天に召された後にめとったケトラとの間に生まれた6人がいます。足し算しますと8人となりますので、正確に歌うと「アブラハムには8人の子」となります。ま、歌のことはいったん脇におくとしまして、8人ですからアブラハムにはとにかくたくさん子どもが与えられたことは確かです。

そのアブラハムが75歳の時です。突然、神様は次のような約束を彼に伝えました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。神様が初めてアブラハムに言ったのがこの約束の言葉でした。でも、その時まで子どもを持たなかった彼に子どもがすぐ与えられることはありませんでした。何年か経った後、神様は再びこのように約束の言葉を伝えました。「恐れるな、アブラムよ。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。最初の約束からすでに何年も経っていましたから、アブラハムは神様に問いかけます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。あなたはわたしに子どもを与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」。すると神様は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのでなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。そして神様は彼を外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。東京の夜のような空ではなく、満天の星がきらめく電気も何もない真っ暗な時代の星空ですから、その数は数え切れないほどでした。

今日の創世記18章では、アブラハムはすでに99歳となり、女奴隷ハガルから生まれた初めての子どもイシュマエルは13歳になっていました。でも、神様は人間の側の常識や知識などにとらわれることなく、約束を果たすためにアブラハムのところに使いの者を送られます。3人の人がアブラハムのところにきて、神様の約束を再び伝えます。18章10節「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」。この言葉を聞いたサラは笑いました。彼女は心で「そんなことは無理に決まっている。神様は20年以上も前からそう言っているけれども何も変わっていない」と思ったのでしょう。彼女の思いに多くの人は「そうだ、そうだ」と思うはずです。それがわたしたち人間の側の常識だからです。すると主なる神様は言われます。13節「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのか。主に不可能なことがあろうか」。

サラが笑ったように、わたしたちも時に自分の常識や知識から物事を見て、「そんなこと無理でしょう」と思ってしまうこともあります。信仰の父と呼ばれるアブラハムもそうでした。「そんなの無理」と笑ったのは実は彼女だけでなくアブラハムも18章の前のところで同じように「100歳の男に子どもが生まれるだろうか」と言って笑っています。信じて待ち続けていたけれども何も起こらない。実現するどころか、神様の約束とは違うようになっている。自分の目から見るとそのように見えてしまう。それがわたしたちの限られた視野なのでしょう。わたしたちの見える範囲は自分が経験したこと、あるいは知っている範囲ですし、時間で言えば長くても2、30年ぐらいの視野しかもつことができないのかもしれません。でも、神様が見える範囲は全然違います。時間で言えば1000年、あるいはもっと長い範囲で見ることができます。詩編90編にある通りです。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。また、知識や知恵に関しても神様はわたしたちをはるかに超えています。わたしたちが科学的な研究によって得た知識にしてもまだまだこの宇宙のほんの少しだけしかわかっていないのですから、宇宙を造られた神様と比べようがありません。そのことを忘れて自分の理解できる範囲のことしか信じない。自分の許容範囲を超えることを信じることにわたしたちは時に恐れを感じるのかもしれません。

しかし、神様はわたしたちが「そんなの無理」と笑っても、理解できなくても、わたしたちが信じられないと思っても、約束されたことを必ず果たされます。アブラハムもサラも神様の約束を聞いて笑い、「あなたは確かに笑った」と少し厳しく指摘されましたが、神様はその約束を確かに果たされました。21章の1節にはこうあります。「主は、約束された通りサラを顧み(少し飛ばして)彼女は身ごもり、男の子を産んだ」。

どうして、わたしたちは素直に約束の言葉を信じられないのでしょうか?たぶん、それはわたしたち自身が約束を守ることが難しいからなのかもしれません。わたしは大学生の時ですが、フィリピンのネグロス島に行きまして、ある NGO団体の施設に1ヶ月ほど滞在してボランティアをしました。農業の研修などで来ていた地元の青年たちと一緒にマングローブの木を植えたり、豚の世話をしたり、寝泊りも一緒でしたのでとても仲良くなりました。最後の別れの日に仲良くなった人から「また来てね。約束だよ」と言われまして、わたしは「Yes また必ず来るよ」と答えました。でも、その約束は20年以上経った今でも果たせていません。「必ずそうするよ」と言ったことを時に守ることができない自分ですから、人が言った約束も素直に信じられないのかもしれません。

でも、幸いなことにわたしたちが信じられなくても、たとえ「そんなこと無理」と思って笑ったとしても、神様は約束したことを変更することなく果たしてくださいます。主なる神様は、わたしたちを愛し、すべての人のまことの生みの親ですし、その親なる神様がすでに果たしてくださった約束が聖書の中にたくさん載っています。アブラハムとサラへの約束以外にも、ヨセフをエジプトに送ってヤコブたち家族を助けるとの夢によって知らせた約束、モーセに伝えたエジプトからイスラエルの人たちを助け出す約束などなど、たくさんあります。それに加えて、今も進行中の約束やこれから果たされる約束もあります。それらの約束は、今を生きるわたしたちに神様が伝えている言葉です。例えば、ノアを通しての約束「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。ヤコブを通しての約束。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」。イザヤ書にはこうあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直してすきとし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。イエス様が天に昇られる前に言われた約束の言葉はこうです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。終わりの日にはこうなるよとヨハネの黙示録で神様は約束の言葉を伝えます。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。わたしたち人間の常識を超えた約束をすでに何度も果たされてきた神様ですから、これらの約束も神様は必ずいつか果たされます。信じられないと思う時もあります。わたしたちの知識もまた心もグラグラと揺れ動くものですから、時にサラのように笑ってしまうこともありますが、神様は必ず約束を果たされます。だから、その約束を信じて生きていくところに希望があるのです。神様が伝える約束は時に常識を超えていると思ってしまうかもしれません。でもそれを信じて一歩、足を前に踏み出す先に道は開かれていくのです。アブラハムもサラも笑いましたが、その後、約束の言葉を信じて一歩踏み出しました。そうでなければ、子どもは産まれてこなかったでしょう。

わたしたちは毎週、礼拝の中で「神様を信じます」と声に出して言っています。使徒信条の中で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と声を合わせて一緒に信仰を告白しています。神様を信じるというのは、神様がいるとか、神様がいないとかそういう次元ではなく、神様がわたしたちに約束されているその言葉は必ずそうなると信じて一歩前に踏み出すことなのです。

ローマの信徒への手紙の9章8節にはこうあります。「すなわち、肉による子どもが神の子どもなのではなく、約束に従って生まれる子どもが、子孫とみなされるのです」。わたしたちは皆、それぞれに肉による親がいて、その親から生まれてきますが、子どもは親を選べません。でも、聖書が伝えるのは、すべての人は約束に従って生まれる神の子どもだということです。神様がアブラハムに最初に言われた約束は、「あなたによってすべての人が祝福に入る」でした。その約束は、わたしたちの罪をすべて赦してくださったイエス・キリストによって果たされました。すべての人は神の子どもとして今も祝福されています。これは神様の約束の言葉ですから、わたしたちは「イエス様によって、神様がこのわたしを含めたすべての人を祝福されている」と信じます。

今日は子ども祝福式ですから特に0〜7歳の子どもを覚えて神様の祝福を心から祈ります。でも、神様は70歳を超えた人も90歳を超えた人もすべての人を「あなたはわたしのかわいい子どもたち」と祝福しておられます。「そんなこと無理ですよ」と思って笑ってしまうこともあるわたしたちであっても、神様は「わたしが伝えた約束を信じて生きていきなさい。そうすれば、希望は決してなくならない」と言われていますから、神様の約束を信じてわたしたちは一歩前に踏み出します。

2018年11月4日 虹の契約

◆創世記9章8〜17節
09:08 神はノアと彼の息子たちに言われた。
09:09 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
09:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
09:11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
09:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
09:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
09:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
09:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
09:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
09:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

◆詩編1:1〜6
01:01 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
01:02 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
01:04 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ノアの物語は、創世記6章から始まっていまして、神様は人間が悪いことばかりしているのに心を痛め、後悔された場面から始まります。そしてノアとその家族にこのように言われました。「わたしはすべて肉なるものを滅ぼす。しかし、あなたたち家族は箱舟を造り、その中に入りなさい。また、全て命あるもののオスとメスも箱舟に連れて入り生き延びるようにしなさい」。実際に箱舟ができた後、雨が40日間も続いて、ものすごい洪水が起き地上からすべて命ある生き物はぬぐい去られました。しかし箱舟にいたノアとその家族、また動物のつがいたちは生き延びて、約1年後にようやく箱舟から地上に降り立つことができたのです。待ちに待った地上に彼らが降り立った時、ノアがまずしたことは、神様に礼拝を献げることでした。そのノアに神様が言われます。創世記8章21節「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

聖書は旧約聖書と新約聖書と二つに分かれていますが、いずれも神様とわたしたちとの契約の書物です。神様と人間との契約。契約と聞いてわたしたちがイメージしますのは、双方に守るべき事があって、お互いにそれを守ることが契約の条件となるということです。例えば、身近なことですと、働くときに交わす雇用契約もそうですし、アパートやマンションなどに住むときに交わす賃貸契約などが有ります。雇う側が働く時間や場所、仕事の内容をきちんと記して、その条件に対してこれだけの賃金を払いますと書いてその契約書に双方がサインをして契約が成立します。賃貸契約も同じ要領で借りる人と貸す人との双方が契約を交わします。旧約聖書でもシナイ山で神様がモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約は神様と人間との双方が交わすものでした。十戒を守るならば神様は必ずあなたたちを守り祝福するが、もしそれを破ったならば契約は破棄されるのです。

しかしながら、神様がノアと交わした契約は、双方が守るべき約束というよりも神様からの一方的な恵みを約束する契約でありました。9章9節で神様はノアと彼の息子たちにこう言われます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる」。10節後半「箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」と言われて、神様自身が守るべきことを続けて言われます。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。この契約の最大の特徴は、神様だけが「何があっても決して滅ぼさない」という無条件に義務を負っているところです。

神様はもう決して滅ぼさないという契約のしるしとして虹を示されました。今でも虹が出るときに神様は、雲の中に現れた虹を見て、「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と永遠の契約に心を留めてくださっています。創世記9章14節にあるとおりです。「わたしが地の上に雲を涌き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものすべて滅ぼすことは決してない」。

最近、虹を見た方はいらっしゃいますか?虹を見て、わたしたちは何を思うのでしょうか?綺麗だな、久しぶりに見たなと思うのでしょうか。わたしたちは、神様が「決して滅ぼさない」と言われた恵みの契約、虹の契約を思い出したいですね。神様はどうして虹を契約のしるしとして選ばれたのか?虹を選ばれたのには、理由があって、虹には神様からのメッセージが込められていると思うのです。虹は日本では7つ色の赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫があって、それぞれの色はどこからどこまでが赤で、ここからはっきりオレンジになるということが難しく、それぞれの色の境をはっきりさせるのが難しい。虹をよく見ますとそうなっています。わたしはその虹を契約のしるしとされた神様の思いは御子であるイエス様にしっかりと引き継がれていると思うのです。そのことをわかりやすく述べている御言葉があります。それが今日の礼拝の招詞で読まれましたガラテヤの信徒への手紙3章の御言葉です。契約のしるしである虹の意味を聖書はこう伝えています。3章26〜28節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。色と色との間にある境がはっきりしないグラデーションである虹を神様が契約のしるしとされたのは、いまだにわたしたちの中にある間違った考え方を正すためだと思うのです。色をはっきりと分けてその違いによってある人たちが他の人たちを否定しようとする間違った考え方を正すためです。例えば黒人と白人というように区別して考えることがありますが、想像して見てください。白と黒の色をグラデーションとして少しずつ白が黒くなり、黒の方からは少しずつ白くなっていったとしたら、どこからが黒人で、どこからが白人なんて線を引くことはできません。同じように身分の違いによって人の価値を高くしたり低くしたりすることも神様の前ではできません。男と女の違いも虹のようにグラデーションがあって、男と女の間には様々な色合いがあるだけで、はっきりと分けられません。でも、なぜかわたしたちは人と人との間にはっきりとした境界線を引こうとして、あなたたちはこの色だからとラベルを貼って、あなたたちはあっちに行きなさいと無理に分けようとしてしまうのです。その隔たりが大きくなればなるほど「あなたたちは滅びに近づくのだ」と警告するのが虹のしるしなのだと受け止めます。

わたしたち人間が心に思うことは幼い時から悪いものですが、神様は雨の後に虹を見せてくださって、あなたたちは虹の色のように少しずつ違っていて一人として同じではない。その違いの間にむりやり線を引いて境を作らないで、その境を虹のようにつなぎ合わせて一緒に生きていくのですよと教えてくださっています。キリストの体であるこの教会に集っていますと、教会の人たちって、みんな違っていて、一つの色にまとまるのが大変だけど、いろんな色だからこそ、それが虹のようなグラデーションでつながっていてまさにキリストにあって一つの虹なんだと思わされます。

今日は聖徒の日、永眠者記念礼拝です。この日に神様は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との一方的な恵みの御言葉をくださいました。色と色との境目がぼやけて途切れることなくつながっている虹の契約です。虹の契約には命と死という境目をもつなげてしまう約束が含まれています。それがイエス様の死と復活によって明らかになったことです。

3ヶ月ほど前の7月下旬のことですが、わたしは共助会というキリスト者の集まりで今年89歳の加藤常昭先生の講演を聞きました。そのお話が「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との虹の契約と深く関係しているように思いましたので、少しその話を紹介させてください。わたしはその時初めて、加藤先生が妻の介護や、彼女が地上の生涯を終えられた時の先生の気持ちをお聞きしました。加藤先生は、妻であるさゆり先生の10年を超える舌癌、最後にはリンパ癌を併発し、厳しい認知症を伴う苦しい病床生活を共にして、在宅介護を引き受けてきました。さゆり先生とはご一緒に伝道をした仲間であり、妻であり、母でした。加藤先生は、妻の死が近づいているのを覚えて、息もできないほど苦しみを味わったと話されました。そして妻の死去の日の夜、加藤先生は親友のメラー教授にメールをしました。するとその1時間後に次の返答をもらい、加藤先生はそれを読み1時間も涙を流し続け、深い慰めを得て、その後、涙にくれることはなくなったと話しました。これがそのメールです。「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再び手を取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、蘇りの朝だよ!』と。だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍にいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺していってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいてしあわせでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、心に食い込みます。あなたに神の慰めがくだってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの、仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますよね。キリストの蘇りのメッセージがあなたを捉え、この厳しいときに、励ましてくださいますように。あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころからの挨拶を送ります。クリスティアン・メラー」。

神様が今日、ここに集うわたしたちに言われました。「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。この一方的な恵みの契約は、イエス様の復活によって神様とイエス様を救い主と信じるすべての人との間の永遠の約束となりました。イエス・キリストは「生きる」と「死ぬ」という境界線を乗り越えられました。イエス様の復活以前の世界では死は命の敗北、死はすべての終わり、死は悪の勝利と思われていました。しかし、イエス様が復活されて死はもはや命の終わりではなく、復活の命の始まりとなりました。「肉なるものすべてを滅ぼすことは決してない」と言われた神様は、イエス・キリストの死と復活によって、ノアと交わした永遠の契約を確かに更新されたのです。わたしたちの多くが滅びとして恐れる死は、もはや滅びではなくなりました。イエス様の前に死そのものが滅んだのです。死んで、土に帰って、存在しなくなるわたしたちのからだを神様がその御手にとって、「起きなさい。蘇りの朝だよ」と必ず引き取ってくださいます。虹の契約は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と言われます。

2018年10月7日 一緒に福音宣教

◆使徒言行録5章27〜42節
05:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
05:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
05:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
05:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
05:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
05:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
05:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
05:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
05:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
05:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
05:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
05:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
05:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
05:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
05:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
05:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

◆詩編37編30〜40節
37:30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語る。
37:31 神の教えを心に抱き よろめくことなく歩む。
37:32 主に逆らう者は待ち構えて 主に従う人を殺そうとする。
37:33 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 罪に定められることをお許しにならない。
37:34 主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
37:35 主に逆らう者が横暴を極め 野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。
37:36 しかし、時がたてば彼は消えうせ 探しても、見いだすことはできないであろう。
37:37 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。
37:38 背く者はことごとく滅ぼされ 主に逆らう者の未来は断たれる。
37:39 主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。
37:40 主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

使徒言行録5章に出ていますペトロは、イエス様のことを3度も「知らない」と言って自分の身に危険が降りかかることを恐れた人でした。またペトロと一緒にいる使徒たちは皆、つい2ヶ月ほど前にイエス様を置き去りにして逃げていった人たちです。でも彼らは、イエス様を捕まえてピラトに引き渡したあの大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われても堂々と次のように答えました。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。それに続けて「こんなこと大祭司たちに言ったらイエス様と同じように殺されるかもしれない」と思うようなことをペトロや使徒たちは堂々と言うのです。30〜32節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。この言葉を聞いた人たちは、激しく怒ったとあります。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。しかし、そこに民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って落ち着いた感じで言いました。38節「そこで、今申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」。

ペトロなど使徒たちは、イエス様によって始められた救いの御業は神様が始められたことなのだと確信していました。だから、堂々と大祭司を前にして「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言えたのです。彼ら使徒たちはみんな以前から強い信仰を持っていたわけではなく、皆、自分の力ではイエス様に従いきれなかった弱さや欠けをもった人たちです。でも「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く言えたのは、彼らが聖書をいっぱい勉強したからでもなく、たくさん修行したからでもなく、ただ、神様の力がそこに働いていたからですし、神様が主となってわたしたちと一緒に働いていてくださると信じていたからです。それともう一つ。彼らはイエス様を裏切ったという辛い経験をしていましたが、イエス様はそれをなんの償いもなく赦してくださった。そんなわたしたちだけれども福音宣教のために遣わしてくださった。その神様の愛を経験していたのです。イエス様に従うことができなかった弱さを持った使徒たちが、教会をスタートしていることにわたしは正直ホッと安心しますし、それと同時に神様はそんな彼らを福音宣教という御業のために用いてくださることにわたしは勇気をもらいます。福音宣教というのは、人間主導で行うことではなく、神様がわたしたち人間を用いて行う神様の御業なのだと聖書は伝えているのです。

使徒言行録は駅伝に例えるならば、聖霊の「ヨーイ、ドン」との掛け声によって、福音宣教の使命を受けた教会が走り始めたスタート地点です。山あり谷ありのコースで福音という名前のタスキを手渡して走り続ける教会を神様が先導し、神様がこのレースの総監督ですから、必ずゴールすることができます。スタート地点から走り始めたわたしたち教会は、2000年経った今も走り続けていますから、これは律法の教師ガマリエルが言っている通りです。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。原町田教会もその福音という名前のタスキを手渡されて、他の教会と一緒に走り続けています。普通、駅伝は他のチームよりもより早く走ろうとしますが、神様主導の駅伝はより早く走るのではなく、一人でも多くの人に福音という名のタスキを渡すことを目的としていますから、一緒に走る他の教会とも協力して走るのが特徴です。

今日は世界聖餐日であると同時に「世界宣教の日」でもあります。宣教と聞いて、誰がそれをするのか。福音を宣べ伝えるのはもちろんわたしたち教会であり、福音を手渡されているわたしたちだからこそ、福音を伝えることができる、そのように考えます。でも今日の御言葉にも関係していますが覚えておきたいことがあります。それは「神の宣教」、ラテン語で「ミッシオ・デイ」という考えです。キリスト教会の歴史の中で長くヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考えていました。その考え方から教会は、まだキリスト教が伝わっていない国々にどんどん宣教師を派遣しました。でも、そのような教会の宣教の業が当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教を伝えていくことと同時に植民地支配に加担してしまったという負の歴史があります。そのことを反省し戦後になってからですが、WCC(世界教会協議会)は、「救いは教会から」だけでなく、「神様は教会に先立って、この世界で働いており、教会はその神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考え方を改めたのです。神様は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっています。だから教会は神様と一緒に福音宣教をしていく。これが「神の宣教」という考えです。

神様がわたしたちよりも先立って世界宣教を進めていると聞いて、ではどうして未だに世界では暴力がなくならず、また貧富の差があって、一部の人がものすごいお金持ちになり、反対にその日の食べるものにも苦労する貧しい人がまだいるのかと疑問も感じます。また、悪いことをする人が栄えていくようにも思えてしまいます。先ほど読みました詩編にもありました。37編35節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」。神様の言うことを聞かないで自分さえ良ければいいと思う人たちが勢いを増しているように見えるのです。ただ詩編では36節「しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見いだすことはできないであろう」とありますから、悪いことをした人はみんな滅びて、良いことをした人が最終的には幸せになると思いたいわたしたちでもあります。しかし、この詩編はわたしたち人間の側からの思いを神様に祈り願う言葉ですから、そこにはおのずと限界があります。悪は滅び、主を信じる者だけが生き残るというのは神様の本当の御心ではありません。なぜなら、神様の前に立って見れば誰でもどんな人でも大なり小なり悪に心を動かされる罪人だからです。だからこそ、神様はわたしたち人間があの人は悪い人だとか、あの人は良い人だと勝手に判断するのを超えて、命与えられたすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。31節で神様はイエス様をご自分の右に上げられたというのはそのことを言っているのです。

使徒信条でも、イエス様は復活した後「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言っています。イエス様は神様の右側にある椅子に今もどしりと座っている、そうイメージする人もいるかもしれません。でもこれはイエス様のいる場所を伝えているのではありません。イエス様が神様の右に上げられたというのは、イエス様が神様と同じようにわたしたちのいるところ、どこにでも共にいる神様の力を得て、今もわたしたちに「あなたは神様に愛された神の子ですから、あなたは独りではありません。だからわたしを信じて生きなさい」と福音を伝えている。「神の右に座したまえり」というのは、イエス様が神様と同じ普遍の存在だと伝えているのです。イエス様はまさに神様と同じ力を持つ救い主キリストであり、すべての人の救い主になられて今も生きて、わたしたちに先立って働いておられるのです。

教会につながる一人一人はこの事実の証人、あかしびと、イエス・キリストについての福音のタスキを手渡す素晴らしい使命を持っています。わたしたちに何か人にうまく伝える能力があるからでもなければ、長く教会に集っていれば福音を理解して伝えるのがうまくなるとか、聖書を勉強しなければできないとか、わたしたちの側の課題は二の次三の次で、まず何よりもこの計画やこの行動は神様から出たものであり、そのために神様が教会をたてられ、毎週日曜日の礼拝で福音が告げ知らされ、それが2000年も続けられている。これが人間から出たものではなく、神様から出たものであることは確かな事実です。

神様はわたしたちに福音を宣べ伝えるという喜びの働きを託されていますが、神様はわたしたちの働きを遠い天で椅子にどしんと座って眺めているわけではないのです。わたしたちに先立って神様ご自身が宣教されているのですから、福音のタスキをなんとか手渡そうと苦労しているわたしたちの走りをすぐ近くで見ていてくださり、時に「こっちの方に行けばいいよ」とわたしたちのところまで戻ってきて導いてくれる。そう思いますとホッとすると同時に力が湧いてきます。

わたしたちにできることは小さく、多くはありませんが、「神の宣教」の考え方からすれば、神様がわたしたちに先立ってわたしたちの小さな業をも福音宣教のために用いてくださっていると信じることができます。そこで特に大切にしたいのは、ただイエス様のことを知識や情報として伝えるのではなく、コリントの信徒への手紙に「愛がなければわたしに何の益もない。愛は決して滅びない」とありますから、愛をもって伝えることです。どれほどの知識があっても、どれほどの大事業を成し遂げたとしても、そこに愛がなければそれらは必ず消えてなくなります。わたしたちが取り組む福音宣教の活動でも愛がなければ、ガマリエル曰く「それは神から出たものではないので自滅する」でしょう。でも、小さな働きであってもそこに愛があれば、その行いを神様が支えてくださるのです。たとえ寝たきりで「生産性がないと思われても」その人が口で描く絵や祈りの言葉で一人でも力づけられるなら、それは小さいけれど愛の業です。80歳、90歳となって自分は「ご迷惑ばかりかけて申し訳ない」と思う人であっても教会の掲示板に説教題を書く奉仕をして、その掲示板を見た人が礼拝に集うようになるならば、それは小さいけれど愛の業です。わたしたちにできること、わたしたちが行うことは本当に小さなことなのですが、でもそこに愛があるならば、私たちに先立って働かれる神様がその働きを必ず助けてくださいます。この後に歌う讃美歌にある通りです。「小さな花をカゴに入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も晴れるでしょう。愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう」。

福音宣教はわたしたち自身の生き方だと思うのです。神様がこんなわたしだけれども福音のタスキをくださっているのだから、わたしはあの人に神様の愛を手渡そう。わたしたちに先立っておられる神様がいるのだから、小さなわたしを用いてくださいと祈りながら「これを差し上げます」とタスキを渡す。後は神様の御手にお委ねすればいいのです。それは人間から出たものではなく、神から出たものですから、決して無駄になることも無くなることもありません。自分で伝えることが難しければ、「教会へどうぞお越しください」と心を込めてお招きすればいい。後は先立って働かれる神様の御手にお任せする。

わたしたちが今、手にしている福音のタスキは、使徒たちの時から2000年の間に綿綿と手渡され続けてきたものです。このタスキを手渡すわたしたち原町田教会の福音宣教の計画と行動は、人間から出たものではなく、神様から出たものですから、たとえ「イエスという名前を話してはいけない」と言われても、わたしたちは愛と勇気を持って福音を告げ知らせてまいります。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。