牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを掲載しています。
2017年1月分からは、主日礼拝の説教を音声で掲載しています。
日曜日の礼拝にもどうぞおいでください!お待ちしています。

2017年6月18日「立ち帰って生きよ」

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◆聖書
エゼキエル書18章25〜32節
25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。
27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。
28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。
31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

使徒言行録17章22〜34節
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
28 皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。
29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。
31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
33 それで、パウロはその場を立ち去った。
34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

2017年5月14日 「イエス様を通って」

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◆聖書◆
◆ヨハネの手紙一2章1~11節
02:01 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
02:02 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
02:03 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
02:04 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
02:05 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
02:06 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
02:07 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
02:08 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
02:09 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
02:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
02:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

◆ヨハネによる福音書14章1~11節
14:01 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:02 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:03 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:04 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:05 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:06 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:07 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:08 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:09 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

2017年4月23日 「一緒にいるから大丈夫」

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◆聖書◆
◆イザヤ書65章17~25節
65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。
65:19 わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
65:20 そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ百歳に達しない者は呪われた者とされる。
65:21 彼らは家を建てて住みぶどうを植えてその実を食べる。
65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。
65:23 彼らは無駄に労することなく生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる。
65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答えまだ語りかけている間に、聞き届ける。
65:25 狼と小羊は共に草をはみ獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物としわたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

◆使徒言行録13章26~31節
13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
13:28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
13:29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。

2017年3月12日 「喜びと楽しみがあなたを迎える」

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◆聖書
イザヤ書35章1-10節
01 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。
02 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
03 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。
04 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
05 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
06 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。
07 熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは 葦やパピルスの茂るところとなる。
08 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ 愚か者がそこに迷い入ることはない。
09 そこに、獅子はおらず 獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。

マタイによる福音書12章22-32節
22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

2017年2月26日 「あなたを決して手放さない」

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◆聖書
マタイによる福音書14章22-33節
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

2017年2月5日 「見て、聞いているから幸いだ」

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◆聖書
マタイによる福音書13章10~17節
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

2017年1月15日 「御言葉食堂へようこそ」

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◆聖書
エゼキエル書 2章 1節-10節
02:01 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
02:02 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
02:03 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
02:04 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
02:05 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
02:06 人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。
02:07 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。
02:08 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」
02:09 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。
02:10 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。

エゼキエル書 3章 1節-4節
03:01 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
03:02 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、
03:03 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
03:04 主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。

ヨハネの黙示録 10章 8節-11節
10:08すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」
10:09そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10:10わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
10:11すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」

2016年12月18日 わたしたちは一人ではありません

◆イザヤ書 第7章10〜14節
07:10 主は更にアハズに向かって言われた。
07:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
07:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
07:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
07:14 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

◆マタイによる福音書 第1章18〜23節
01:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
01:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
01:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
01:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
01:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
01:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

カナダ合同教会の信仰告白がとても素敵です。最初はこう始まります。「We are not alone, we live in God’s world.」「わたしたちは一人ではありません。わたしたちは神の世界に生きています」。I am not alone、わたしは一人ではありませんとは言わずにWe are not alone、わたしたちは一人ではありませんというところが、教会の信仰告白だなぁと思います。

先日、病院に入院していた90過ぎの方が回復して、老人ホームに移られたと聞きましたので、早速その方をホームまで訪ねました。明るい感じの開放的なつくりのホームの広間で3人の方達がテーブルに座ってお茶を飲んでいる中にそれらしい後ろ姿が見えましたので、「Kさん、原町田教会の宮島です」と声をかけますと、ゆっくり振り向いて「あ、」とわかってくれました。席を変えて少しお話をしました。Kさんがそこに移られてまだ1週間ちょっとでしたので、多分わたしが一番に来たんだろうと思っていましたら、「先日、教会の方が来て下さいました」とKさんが言うのです。むむ、原町田教会やるなと思いました。やはり「We are not alone.わたしたちは一人ではありません」なんですね。神様がわたしたちと共にいてくださるとの信仰告白が原町田教会のみなさんの中に生きています。神様がわたしたちと共におられる。だからホームに入った人を尋ねます。逆に「わたしは一人ではありません」という個人的な信仰告白であれば、皆さんそれぞれが個人的に神様と繋がっていることになりますから、極端に言えば、教会に集まって一緒に礼拝をささげる必要も無くなります。でも、神様とわたしたちの関係はそうではありません。毎週日曜日にこの礼拝堂に集って、神様からの御言葉を神の家族と一緒に聴き続けます。教団の信仰告白にこうあります。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」。

神様がわたしたちと共におられるとの信仰に支えられて、わたしたち原町田教会は、お互いに祈り合い、電話をしたり、ハガキを書いたり、訪問したりして、互いにつながっています。それは、ごく当たり前のように思われるかもしれませんが、聖書を読みますとそうでもないことがわかります。旧約聖書の時代では、神様がわたしたちととても近くにいてくださると信じることは難しかったからです。旧約の時代から、人々は苦しい時や困難に直面した時など、「神様、どうかわたしたちと共にいて、助けてください」と祈ってきました。それは、神様が高いところ、遠いところにおられて自分たちの手の届く方ではないと信じていたからです。モーセさんの場合などが典型的です。シナイ山に一人で登るよう神様に言われたモーセさんが山に登りますと、山全体を煙に包まれ、山を激しく震えさせました。それを見ていた人たちはみんな、恐ろしくなってブルブルと震えました。神様はわたしたちと一緒にいてくださるような方ではなく、近寄りがたい恐ろしい存在として捉えられていました。でも、神様がイエス様という人となってくださり、わたしたちのところに来てくださり、神様はわたしたちと共にいてくださる方なんだと信じることができるようになりました。

今日の聖書箇所のイザヤ書にも「共にいてくださる神様」が示されています。7章14節「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この言葉は、南ユダ国が近隣から攻撃を仕掛けられるかもしれない、しかも、一つの国だけでなくアラムとか、同じ民族である北イスラエルも一緒になって攻め上ってくるかもしれない、神様、どうかわたしたちを守ってくださいという切なる祈りへの応えとして主なる神様が語られたものです。インマヌエル。神様はわたしたちと共におられる。

それから長い年月を経て、片田舎のガリラヤに暮らすマリアさんを通して、神様はインマヌエルを実現してくださいました。「神様、わたしたちと共にいて支えてください。守ってください」との祈りに、神様がしるしとして応えてくださったのが、イエス様の降誕の出来事です。

あるカトリックの司祭がこう言っています。「神は人となった。彼は、わたしたちと共に苦しんでくださる。痛みの理由について、彼は語られることなく、自ら痛みの人となった。わたしたちは孤独の中にあっても、もはや独りではない。神はわたしたちのそばにいてくださる。わたしたちは、もはや孤独ではなく、連帯性の中に結ばれている」。教会はキリストの体です。みなさんの「わたしたちは一人ではありません。神様が共にいてくださるから」と信じる信仰の心によって教会は教会として立っています。神様がわたしたちと共にいてくださるとの御言葉が与えられていて、それを心から信じられるのは恵みであり、神様の業です。

オリーブ会や若穂会、壮年会やからしだねなどの例会では、教会に来ていない人がいると、「あの人、どうしてるんだろうね」という話によくなります。ある会に出た時に「○○さんに電話をしてもらえると嬉しいです」と言われたことがあります。わたしはその声にあと押しされて、ながらく礼拝に集っていない人にハガキを送り、またちょっとしてから電話をかけてみました。電話では「だいぶ元気になってきましたが、小さなことが気になってなかなか行けないんです」とその人が話していましたので、わたしはこう言いました。「神様がわたしに○○さんに電話をしなさいって言われたように感じて、今電話しました。ですから、神様が宮島を通して話しかけていると思っていただけると嬉しいです」。その人は「12月中には行けると思います」と言ってくださいました。

以前、聞いた話ですが、イギリスで実際にあった出来事を紹介します。ある時、交通事故が発生しました。車の下に男の人が挟まってしまい、人間の力ではどうしようもない状態になりました。事故の現場にはたくさんの人が集まり、成り行きを見守っています。その人は車の下敷きになったまま、ウンウン唸っていましたが、救急車やレッカー車はなかなか到着しません。その時です。一人の男性がさっと車の下に入り込んだというのです。何かが起こるのかと、また何か新しい事態になるのかと、人々は期待しました。しかし、何も起こりませんでした。長い時間が経過して、やっと救急車とレッカー車が現場に到着しました。そして、挟まっていた人は助け出されて、病院に運ばれ、見物人たちは、あとから車の下にもぐりこんだ人のことなどすっかり忘れて、去って行きました。しかし病院で手当てを受けた被害者の男性は、やがて人々にこんなことを語ったのです。「自分は車の下でとても不安でした。怪我をしているし、これから自分はどうなるのか。見物人がいっぱいいることがかえって苦痛でもありました。その時、一人の男性が自分の側に入り込んできました。その人はわたしにこう言ったのです。自分は何もできないが、でも、あなたの側に一緒にいることだけはできます。だからそうします。その人はわたしのそばでずっと一緒に寝ているだけでした。でも、それはとても心強く、たいへん慰められました。今こうして助け出され、元の体になってみると、あの不安の中であの人がそばにいてくれたことがどんなに重要であったかがわかります。あの人は何も語らず、ただわたしのそばで一緒にいてくれただけです。でも、自分のことを思ってくれる人が今ここにいる。それがわかるだけでとても慰められ、力づけられました」。

神様はわたしたちを共に生きる者としてお造りになりました。創世記でアダムさんを造られた後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて肋骨を取られて、もう一人の人を造られました。新約聖書に記されている教会のために書かれた手紙には、互いにという言葉が繰り返しでてきます。「互いに励まし合いなさい」「互いに愛し、互いに相手を優れたものと思いなさい」「互いに相手を受け入れなさい」「愛によって互いに仕えなさい」「互いに重荷を担いなさい」。神様がわたしたちと共にいてくださるから、皆さんは互いに助けあうことができますし、それこそ「わたしたちは一人ではない」との信仰告白に生かされている証しではないでしょうか。

今、原町田教会では、会堂建築の話をしています。今の礼拝堂は皆さんと牧師が向き合う形ですが、教会によっては、聖餐卓を丸く囲んで、礼拝に出席している皆さん同士が互いに顔を見ることができる形の礼拝堂があります。その形はその教会は繋がっている人たち同士の交わりを大切にしていることを示しています。もちろん、原町田教会も週報の裏面の「原町田教会 3つの目標」にあるとおり、交わりを大切にしていますと文章で示していますが、それを形で表すことも会堂建築が具体化したら考えられます。会堂の形で私たちの信仰のあり方を表すこともできるのです。

神様はわたしたちと共にいてくださる。神様がわたしたちのところに来てくださって、わたしたちと同じように病気になって苦しみ、わたしたちと同じように孤独を感じて「死ぬばかりに悲しい」と言われ、わたしたちと同じように空腹を感じられ、そんな課題、問題を抱えるわたしたちと全く同じ人となって来てくださいました。神様が来てくださり、一緒にいてくださるのだから、問題はスッキリなくなるというのではありません。むしろ、問題があるところに神様が来てくださり、一緒に悩み、苦しんでくださいます。インマヌエルなるイエス様はそのようなお方です。イエス様の父になる前のヨセフさんもまさに問題の真っ只中にいました。ヨセフさんはマリアさんと婚約していましたが、マリアさんと一緒になる前にマリアさんが妊娠していることがわかったからです。イスラエルの律法に従えば、彼女はその相手とともに石打ちの刑で死ななければなりませんでした。けれども、ヨセフさんはマリアさんを守るために結婚をやめて、縁を切ろうと考えました。そのような苦しみの只中、問題の只中にあったヨセフさんのところに神様が来てくださり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。原町田教会にも問題は色々あります。問題を抱えたわたしたちの只中に主イエスは来てくださり、わたしたちと共に悩み苦しんでくださいます。

カナダ合同教会の信仰告白の最後はこのように終わります。「In life, in death, in life beyond death, God is with us. We are not alone. Thanks be to God.私たちの生と、死と、死を超えた生において、神は私たちと共におられます。私たちは一人ではありません。神に感謝します」。

2016年11月10日 最も小さい者の一人に

◆マタイによる福音書25章31〜46節
25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、山羊を左に置く。
25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

神学生時代、わたしは横浜市中区にある「なか伝道所」の礼拝に1年間、研修のために通っていました。妻と上の娘は当時、牧師館をお借りしていた横浜本牧教会の礼拝に出席し、わたしは下の娘がまだ1歳になる前でしたが、彼女をおんぶして自転車に乗って2人でなか伝道所の礼拝に出席していました。わたしの赴任先が茨城県の牛久教会に決まり、そのことをなか伝道所の牧師に報告した時のことでした。その牧師がわたしに「牛久には入管の収容所があるから、そこに行くといい。マタイ福音書25章で『牢にいたときに訪ねてくれた』とイエス様が言われてますよ」と言ったのです。そのことがきっかけとなって、わたしは茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに収容されている人たちを訪問するようになりました。

それまで、わたしはそこがどんなところなのか、まったく知らなかったのですが、入管の収容所に行ってみて初めて、そこは刑務所と同じような厳しいところだということがわかりました。窓のない畳10畳ぐらいの部屋に多い時には7~8人が生活していて、施設の外に出るどころか、その部屋から出ることも午前3時間、午後も4時間ぐらいしか認められていないので、1日の大半をその部屋で過ごさなければなりません。部屋から出られる時間に室内で卓球やサッカーなどのスポーツはできても、刑務所のような労働時間はありませんので、あとは何もやることがない状態になります。食事は毎日、ほとんど同じメニューで朝は二切れのパン、ゆで卵、200mlのミルクまたはジュースです。昼食や夕食もご飯とスープとおかずというように同じようなものが続きます。そこからいつ出られるのか、刑期のようなものはありませんし、強制退去命令が出されている人は、いつ強制的に国に送還されるのかわからない恐れに不安の日々を過ごしています。国に帰っても、家族がいて仕事があるならばそうしますが、そこに留まる多くの人は国に帰ることが難しい人たちです。中には難民として命の危険から逃れるために来ている人もいますし、移民として仕事を求めて、働きたくて来ている人もいます。

わたしが入管収容所の中にいる人たちを訪ねるのは、助けを必要としている人がいるからで、そのきっかけを作ってくれたのが、マタイによる福音書の25章の御言葉です。原町田教会の礼拝にも時々、外国籍の方が来られます。そのほとんどが以前、入管に収容されていた人たちですから、どうぞ、皆さん、教会に来た彼らをこれからもあたたかく迎えてあげてください。入管収容所から出られた彼らですが、出た後の生活もなかなか大変ですから、彼らのためにもお祈りください。

このマタイ福音書25章の御言葉に導かれて、わたしはとっても素敵な人たちと出会ってきました。先日のゴスペルコンサートに出演してくれたAlexさんと出会ったのも牛久の入管でした。背が高くて、会う人たちと楽しそうに大きな声で「ガハハ」と笑っているAlexさんがゴスペルシンガーだったとは、出会ってからしばらく知りませんでした。馬鹿でかい声で笑う楽しいアフリカ系の人を、まさか原町田教会のコンサートに招くことになるとは夢にも思っていませんでした。御言葉を信じて、小さな一歩でも前に踏み出せば、神様が道を開いてくださるんだなぁと実感しています。ですから、「お腹が空いています」という人に出会えば、すぐに何かを差し上げ、病気の人がいて、入院したと聞けば、できるだけ早めにその人に会いに行くようにし、入管収容所にも定期的に行くように心がけてます。御言葉がわたしたちの道を切り開いてくださいます。

新共同訳聖書には、小見出しがありまして、今日の箇所には「すべての民族を裁く」とあります。なんだか、この見出しだけを見ると厳しい感じがしますが、実際にここを読みますとそうではなくて、イエス様がわたしたちにどのように生きて欲しいのか、その生き方を伝えていると受け止めることができます。今もイエス様がわたしたちの生きるこの社会で最も小さい者として生きておられて、あなたが「この一人にしたのは、わたしにしてくれた」のですよと言われています。イエス様は、世の終わりの時に小さな一人にしてくれなかった人を永遠に罰したいからこう言われたのでなく、皆さんは神様によって「助ける者」として造られていますから、そのように生きるのが、あなたの喜びなんだよと言われているのです。
 
ここで王として登場しているイエス様は、終わりの時にすべての人たちを右と左により分けて、まずはじめに右にいる人たちに「お前たちはいろいろと世話をしてくれた」と言われます。しかし、彼らは自分の業績をほとんど気にしていない人たちのようです。自分が積み重ねてきた過去の業績や成果をいちいちしっかりと覚えていて、それを誇りに思う人でもないようです。だから、王様から「あの時あなたはわたしにこれこれをしてくれましたね」と言われても「いつそんなことをしましたっけ」と覚えていない。肩肘はらず、自然体で小さな者を助けるこの人たちが素敵です。

次に左側の人たちに王は言われます。それもいきなり「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の前に用意してある永遠の火に入れ」と言い、「いつ、わたしたちはお世話しなかったですか」という人たちに対して、イエス様は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった」。だから、お前たちは永遠の罰を受けると言われます。

ここを読みますと、いかにも自分の業績が評価されることなど望んでもいない、「そんなこと、しましたか?」という右側の人たちのようになりなさいよと勧められている感じます。ただ、わたしはつい先ほど、この御言葉がきっかけとなって入管収容所という牢屋のようなところにいる人を訪ねるようになったと皆さんにお話ししました。この御言葉があってそうするようになったのですから、当然自分のしていることをどうしても意識してしまいます。ですから、終わりの時、主の前に立ったわたしに、「あなたは病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれましたか?」と聞かれたら、すぐに「はい、しましたよ。マタイによる福音書25章に書いてあることをできるだけ守ろうとしました」と言うと思います。

そんなわたしがどうして今も入管に訪ねて行くのか、その理由はこの聖書の御言葉がきっかけになったことは確かですが、それよりも前にわたしが経験したことと関係があります。それは大学の時に行ったフィリピンやインドで、経済的にとても貧しい人たちに出会ったことです。その時に「どうしてこんなに貧しい人がいるのだろう」という心の痛みや、「この人たちにわたしは何かできることがあるのか」とわたしなりに苦しんだ経験があって、それが今の自分につながっていると思うのです。ですから、日本という国に来て苦労している人にできることがあればしたいと思うようになりました。

今年の2月に天に召されました佐藤初女さんも同じようなことを言っています。彼女は17歳の時から35歳くらいまで17年間、ずっと闘病生活をしていました。長い長い闘病生活が終って、ようやく苦しみから解放されたとき、彼女は「これ以上の幸せはない。これからはもう何をすることも厭わない」と思ったのです。彼女は70歳を過ぎてからですが、青森県の岩木山麓で「森のイスキア」という居場所を作り、悩みや問題を抱えた人たちを受け入れてきました。佐藤初女さんは、ある本の中でこんなことを言っています。「わたしは心や体を病む人と接する機会が多いのですが、自分の体験から、その人たちのために親身になって考えてあげることができます。お見舞いや看病の仕方、どうすれば病人が癒されるかということが、単なる言葉や知識としてでなく、体でわかっているからです。17年余りの闘病生活は、人生にとってマイナスの時間と人には思われるかもしれません。ですが、わたしは闘病の体験から、病で苦しんだこと以上に大きく大切なものを与えられていると思うのです」。

みなさんもそれぞれに痛みを感じたり、苦しい経験をされていると思いますが、神様はその痛みや苦しみをそのままにされないで、ご用のために用いてくださいます。その一つの道がマタイ25章です。皆さんが経験する痛みや苦しみは、それを経験しているその時には、ただただ、早く過ぎ去ってくれと祈り、自分からそれがなくなることを願います。しかし、痛みや苦しみはそう簡単に自分の中からなくなるものではありません。治療や時間によって治り、それが過ぎ去ったように思っても、傷として心や魂に跡を残すことがあります。その傷跡を見るとあの経験が自分の人生にマイナスだけを残したように感じるかもしれません。しかし、神様はその経験を用いて、他者を助ける糸口としてくださるのです。旧約聖書にこのような言葉があります。「あなたたちの中にいる外国人、寄留者を助けなさい。何故ならばあなたたちもエジプトにいた時、外国人、寄留者だったから」。マイナスだと思っていたあの経験が人を助け、実はそれが自分にとってもプラスとなる。

みなさんが経験した痛みや苦しみは、必ず他者を助けるために用いられます。イエス様は今も、小さい者として、わたしたちの中におられ、こう言われます。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。