牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
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2020年2月16日 良くなりたいのです

聖書箇所 ◆ヨハネによる福音書5章1〜18節 ◆詩編 32編1〜7節

38年間も病気で苦しみ、ベトザタの池のすぐ横の回廊で横たわっている人がいました。イエス様はその人を見てこう言われました。「良くなりたいか」。なんとも味気ない言葉のように聞こえます。病気だったら誰でも1日でも早く良くなりたいと思うに決まっているからです。でも、実はこのイエス様の「良くなりたいか」という言葉の中には病気の人の立場を想像し思いはかる優しさが込められています。まず、イエス様はその人を見て「長い間病気であることを知って」とあります。その人の顔や手に刻まれたシワ、着ている服、うつろな目、ボロボロになった薄っぺらな布団などからイエス様はその人がかなり長い間病気でその回廊に横になっているとわかりました。その病気の人は身動きもできずそこに横たわっていましたから、人の情けにすがって長年物乞いをして生き延びてきました。

エルサレムの神殿にやってくる多くの人たちに「病気ですから助けてください」と物乞いしてきましたから、この人にとって病気であることは大事な商売道具でした。その商売道具である病気が治ってしまったら38年間も続けてきた物乞いができなくなります。この人が10代から病気になったとしたら、この時はすでに50歳ぐらいでしたから当時の感覚からしてもうすでに働き盛りを過ぎた年齢ですし、仕事を自分で探して働くことはとても大変なことです。イエス様はその立場を想像し思いはかって、それでも「良くなりたいか」と聞いたのです。

イエス様は神様だから病気の人のことをそこまで想像し思い計ることができたとも言えますが、わたしはそれだけではないと思います。イエス様は人としてご自分が育って来られた中で見てきたこと、経験したことを通して痛み、苦しみにある人たちのことを想像し、思いはかることを学んできたのだと思うのです。

イエス様はマルコによる福音書によれば地元で周りの人から「マリアの息子ではないか」と言われています。聖書の中ではほぼ100%近く、父親の名前の後に息子の名前が出てきますが、イエス様は「マリアの息子ではないか」と言われています。つまり父ヨセフさんは若いうちに亡くなって、シングルマザーとしてマリアさんに育てられたと理解することができます。シングルマザーの家庭は現代でも大変ですが、2000年前の当時ではそれこそ物乞いをしないと生活できないほどの大変さがあったと想像します。先ほどの讃美歌280番の1番にもありました。「貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめしこの人を見よ」。当時は現代のような社会保障は整っていませんし、男社会だった中で女性が働いて家族を養うことは到底できません。ですから長男だったイエス様はそれこそ10代の時から父親の仕事を継いで大工の仕事をしていたのでしょう。大工仕事と言っても日本の大工のように木を使って家を作るのではなく、2000年前のガリラヤでは底辺労働者たちの仕事であった石切り労働者だったと言う人もいます。石を切る仕事はあまりやりたくない重労働ですし、粉塵が飛んで肺の病気にもかかりやすい危険な仕事でもありました。中には若いうちに肺の病気になって亡くなる人もいたはずです。イエス様はそのような生活の中で、病気になってしまい仕事ができず物乞いをして生きる人たち、社会の底辺に押しやられながらもなんとか生き延びている人たちと出会い、その人たちの苦労話を聞き、祈ってきました。だからイエス様は病気の人が横たわっているのを見て、長い間病気であるのを想像し、思い計ることができたのです。

わたしはこれまで人の苦労や苦しみをわかることは難しい、相手の立場に立って相手のことを想像し、思い計ることも極めて難しい、と考えていました。でも先日、わたしは目からウロコのような言葉に出会いました。ある本の中にあった言葉ですが、イギリスの人と結婚された日本人女性が中学生の息子さんについて書いた本でして、イギリスには「シンパシー」と「エンパシー」という言葉をしっかりと使い分けているというのです。「シンパシー」はカワイイ、可哀そう、共鳴してぐっとくる、など自分で努力しなくても出てくる「感情」のことを言うのに対して、「エンパシー」は人のことを想像する「能力」だと言うのです。自分とは違う立ち位置の人に対して、その人がどうしてこう思うのだろうと想像する能力のことを「エンパシー」といい、シンパシーは感情のことで学ぶことは難しいのですが、エンパシーは知的作業ですから経験し、学ぶことができるというのです。その本の著者曰く、イギリスは日本に比べて「階級」が明確で、「上流階級」と言われる人たちから「底辺」と言われる人たちまで貧富の差が大きく、加えて人種や民族や宗教も様々で、差別や格差が広がっています。そんな社会だからこそ、相手の立場や気持ちを想像することが大切で、彼女の息子さんが通う学校でもエンパシー教育が行われている、つまり違う立場の人たちのことを想像し、思い計るための学びが行われているというのです。

わたしは大人なってから教会に26年間つながってきましたが、この間に実にいろいろな人と出会ってきました。教会は誰でもどんな人でも集うことができるところですから、生まれた国や地域が違う人たち、違った職業、異なる家庭環境、年齢の違いなどありとあらゆる人が集うことができます。以前にいたある教会で、何人かの人に地元の方言で主の祈りを発表してもらったことがあります。九州の言葉、関西の言葉、東北の言葉などそれぞれの方言で主の祈りを事前に訳してもらってきて愛餐会の時に発表してもらいました。原町田教会ではペンテコステの時にペルシャ語やインドの言葉などで聖書を読んでもらったこともありますね。教会には色々な人がいますし、それだけでなく特に教会には様々な重荷を負いながらも一生懸命に生きている人がこうして毎週日曜日に集っています。わたしたちはこの礼拝堂に集う自分とは違う人たちと出会い、その人たちの経験を聞くことができます。教会は違う立場の人たちのことを想像し、思い計るエンパシーの力を高める最適な場所の一つなのです。

イエス様が「良くなりたいか」と相手のことを想像し、思いはかった言葉をかけると病気の人はその優しさに心動かされて正直な思いを伝えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。今日の箇所の5章3節終わりに十字架のようなマークがあるのに気づきましたでしょうか?3節の途中から4節にかけて底本にない部分でして、212ページに今日のところで欠けた文章が載っていますので読みますね。(212ページの文書を読む)。水が動いた時に1番に池に入った人はその病気が癒されるのに、それができない、つまりこの38年間病気だった人は「良くなりたいか」と聞かれ、「良くなりたいのです」と答えたのです。その人の思いを受け止めたイエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、その人は癒されました。その後の出来事を読みますとイエス様とユダヤ人たちのこの人に対する関わり方が大きく違っていることに気づきます。ユダヤ人たちは安息日にしてはいけないことをしたと病気の人の苦労や痛みを想像し思いはかることではなく、ただ自分たちの正しさを突き通そうとします。この病気だった人への関わり方の違いを見て思うのは、わたしたちはここでのユダヤ人のように自分の正しさを優先するのでなく、イエス様のように人の痛みや苦しみを想像し、思いはかることを優先したいのです。

イエス様は神殿の境内でこの人にもう一度出会われ、こう言われます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。ここにもイエス様の相手の立場を想像し、思いはかる優しさがあります。この人は自分が罪を犯したからその罰として病気になったと周りからも言われ、また自分でも信じていました。ですから、イエス様はもうこの人にあのような苦しい経験をさせたくないとの思いから「もうあなたは十分に苦しんだのだから、もっと悪いことがあなたに起きないように罪を犯さないで生きていくんだよ」と励ましの言葉をかけたのです。

イエス様をわたしたちは救い主であり、神様であると信じていますが、同時に人としてどう生きるべきなのかを示すわたしたちの良きモデルでもあります。イエス様に憧れて、イエス様の真似をして生きていきたい。そのために神様は教会という素晴らしい学びの場、違う立場の人たちのことを思い計るエンパシーの力を高める場をわたしたちに与えてくださっています。いまこのように礼拝を捧げている時は皆、神様の方に心を向けて福音のメッセージを聞いていますが、礼拝が終わった後の食事の時間、第一、第三主日は食事がありますし、何かの他の集いがあるときには、ぜひ、原町田教会に集っているいろいろな人とお話をしてください。いろいろな経験談や苦労話を聞くことによって自分とは立場の違う人たちのことを想像し、思い計るエンパシー力を高めることができます。病気の人に向かって「起き上がりなさい」と言うことはできませんが、その人の置かれた状況に想いを馳せて、その人の話を「うん、うん」とうなずきながら「そうですね」と心を傾けて聴くことはできますし、そして何よりも病気があれば「1日も早く良くなりますように」と心から祈ることができます。それがどれほどその人にとって慰めになるか、支えになるか。誰でも病気になったら良くなりたいのです。イエス様がわたしたちのその気持ちをよくわかってくださっていますから、わたしたちもお互いに「良くなりますように」と相手の思いを受け止めつつ、心を込めて祈りましょう。イエス様がわたしたちのうちに働いて病気やその痛み、苦しみで折れかかった心と体を起き上がらせてくださいます。

2020年1月26日 カナでの栄光はこれからも

聖書箇所 ◆ヨハネによる福音書2章1〜11節 ◆詩編19:2〜7

年末年始にかけて、母と姉が住んでいる長野県に行ってきました。そこでいろいろな話をした中で、母が病気になって入院をした時の話になりました。それはわたしが町田に来る前に住んでいました茨城県牛久にいた時のことです。母は難病の父の介護を中心に生活をしていて、忙しくしているわたしに配慮してほとんどのことを自分でやっていましたが、ある日、父をショートステイで預かってもらったと言いながら、体調が悪いのでちょっとだけ休ませて、明日になったら病院に行くからと牧師館に来ました。「いいよ。どうぞ」とその牧師館は部屋がたくさんありましたから泊まってもらい、翌日近くのクリニックに行きましたら、風邪が悪化して膿がノドの周りに溜まっていて、すぐに手術をしないと危ないと言われ、急遽大きな病院に連れて行くことになり、その後無事手術を終えてしばらくしてから退院となりました。先日、長野で母にあった時、そのことを「あの時は助けてもらってありがとね」と言うのです。わたしは「当然」と心に思いながらも母を助けることができてわたし自身嬉しかったと感じました。わたしは当然と言いましたが、それだけわたし自身が生まれたから大人になるまでたくさん母に助けてもらいましたから「当然」と思いますよね。

今日の聖書でもイエス様が母マリアさんからの願い事にしっかりと応えられています。母マリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。きっと息子イエスならなんとかしてくれるんじゃないかと信頼して助けを求めたのです。自分のことを信頼して「助けてほしい」と家族から言ってもらえるのは幸せなことです。なぜなら、あんな奴に頼んでも何もしてくれないし、できるわけがないと思われているのは、そう思われるだけでなく日々の生活の中でお互いに何も頼まれず、しまいには挨拶すらなくなってしまうかもしれないからです。もちろん頼まれても何でもできるわけではありません。でも、困った時に「これがなくなってしまったけど、どうしましょう?」と相談されるのは「できる・できない」に関わらず一緒に考え、一緒に悩んでくれると信頼されている証拠です。母マリアさんはイエス様を信頼していましたし、イエス様もそれに応えたいと思われていました。ですから、「わたしの時はまだ来ていません」と言われても「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使いたちに言えたのです。イエス様が「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言ったのが気になる人もいるかもしれません。わたしの場合ですが高校生の頃、なぜだかわかりませんが母親に対してイライラしていた時がありました。「俺となんの関係もないだろう」というような気持ち、反抗期というのでしょうか。そんな気持ちを持ったことがありますのでこのイエス様の言葉もそのような肉親同士の難しさを表している。そのように受け止めることもできます。

イエス様は母マリアさんから「ぶどう酒がなくなりました」と信頼に裏打ちされたヘルプコールを受け止めて「水瓶に水をいっぱい入れなさい」と召使いたちに伝え、水がかめの縁まで満ちた後、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われました。その水は美味しいぶどう酒に変わり、その婚礼の宴は途中で途切れることなく続いたのです。

先日、幼稚園で興味深いこんな話を聞きましたのでご紹介します。それは子どもたちが幸せだなと思う幸福度の調査でわかったことなのですが、次の3つのことが大切とのこと。1つは、子ども自身が人を助けたり、手伝うことができること。2つめは、子ども自身が困った時には安心して「助けて」と言える人がいること。3つ目は、子どもの母親が困った時には「助けて」と安心して言える人が身近にいること。その話を聞いて「それは聖書が言う通りだなぁ」と思いました。「人が一人でいるのは良くない。助ける者を造ろう」と神様は言われてアダムから肋骨をとって助ける者としてのエバを創造されたことが創世記にあります。神様はわたしたち人間を助け合って生きる者として造られました。

カナの婚礼での母マリアさんとイエス様との信頼関係、またイエス様と召使いたちとの信頼関係を見ていますと神様の「助ける者を造ろう」との願いがそこに実現していることに気付かされます。「これがなくなりましたので助けてください」と言う母に応えようとする息子イエス様。イエス様の「水をいっぱい入れなさい」と言われた言葉を信頼した召使いたち。彼らはこの水がめが飲むためではなく、律法に従って清めのために使う水だと知っていました。ですから「どうして清めのかめに婚礼の最中に水を入れるのだろう?」と疑問を感じたかもしれませんし、ましてや清めのための水をくんで婚礼の世話役に持って行くなんてできるわけがない。世話役に「どうしてこんな水を持ってきたんだ!」と怒鳴られて、給料を減らされてしまうかもしれない。そのようなリスクもありましたが、召使いたちはイエス様を信頼して、また自分たちを信頼してくれるイエス様に応えたいとの思いもあって水をくんで運んで行きました。母を助けたり、婚礼の手伝いもできたイエス様は幸せを感じ、イエス様の手伝いをした召使いたちも幸せ、息子を信頼して助けてと言えた母マリアさんも嬉しかったことでしょう。それぞれが自分の手柄を自慢することもありませんでした。世話役はぶどう酒がどこから来たのか知らなかったとある通りです。

わたし自身も細々ですが外国人の方たちのお手伝いをしていまして、特に長崎や東京、茨城などの入管に収容されている人を仮放免という制度を使って外に出られるように手伝いをしています。ここ2年間ほどは入管から仮放免が許可されることが少なくなってきていて、面会に行く時に『ごめんね。また不許可でした』と伝えなければならないことが増えていますし、わたしが支援している人が強制的に帰国させられることもあります。それでも時には長く収容された人が外に出られることになり涙を流しながら「宮島さん、ありがとう」と言ってくれることもあり、この働きをして良かったなと感じます。先ほど挙げた3つのことは子どもだけでなくわたしたち大人にも共通していると思います。誰か、他の人を助けたり手伝って「ありがとう」と言ってもらい、自分が困ったときには近くに「ちょっと困っていてね」と言える人がいて、一緒に生活する人が「大変なときでもわたしのことを覚えて祈ってくれる人がいて感謝だな」と言える。イエス様と母マリアさん、召使いたちが互いに助け合って婚礼は祝福されました。聖書はそのことを11節にある「栄光」という言葉で表現します。栄光と聞きますと何か素晴らしく輝かしいことのように思ってしまいがちですが、そうではありません。困った時には「手伝って」と言える信頼する人がいて、「いいよ」とその声に応えて「手伝ってくれてありがとう」と言われて嬉しく思う。助け、助けられ、感謝し、感謝される。そんな人との関わり合いをここでは栄光が現されたと伝えているのです。

先日、わたしが牧師になる前の4年間、神学生として牧師館をお借りしてそこに住みこみ、いろいろと助けてもらいました横浜本牧教会に行ってきました。そこの教会員の人で家族ぐるみでつながっている人が天に召されて前夜式に出席してきました。吉澤のぶひろさんという人ですが、わたしたちは親しみを込めて「おっちゃん」と呼んでいまして、そのおっちゃんがガンという病気で76年間の地上での歩みを終えて、天に帰って行かれました。おっちゃんは50歳の時に洗礼を受けてキリスト者になり、その直後にガンを患い、それから20数年間ガンと闘いながら生きてこれらました。おっちゃんのお連れ合いは食べるもの、飲み水などに気を配り、できるだけのことをしてきました。そんな中、おっちゃんは「僕はね、病気になって良かったと思うよ。病気のおかげで神様をもっと信じられるようになったからね」と葬儀説教で牧師は話しました。また遺族の挨拶をした息子さんも「わたしが父と同じ病気になったら『病気になって良かったよ』なんてわたしには言えないでしょうから、父を尊敬しています」と言いました。自分のことを思い、苦しい時には駆けつけてくれる人がいる。おっちゃんの葬儀に出てわかったのですが、先月の暮れから体調を崩されて自宅で療養していたおっちゃんのところには教会の人を始め、つながりのある人たちが何人も何度も訪れていました。わたしも今月の7日に横浜本牧教会の牧師から「吉澤さんは今週いっぱいかもしれない」との電話を受けていましたので、次の日の8日に自宅まで行ってベッドで少し苦しそうに息をするおっちゃんの横で詩編23編を読み祈ってきました。

わたしが横浜本牧教会にいた時には、おっちゃんとお連れ合いのはるさんにわたしたち家族は助けてもらいました。横浜本牧の牧師館に引っ越した2002年の3月下旬、妻のお腹はもうすぐ出産を迎える時でした。7月に初めての赤ちゃんを産み、初めての子育てでしたが肝心の夫であるわたしは朝8時から夜12時まで毎日出かけていて、土日も勉強と教会奉仕で子育ての手伝いはほとんどできませんでした。2004年の2月には下の娘も生まれて妻はとても大変でした。そんな時に妻によく「家においで。一緒にご飯でも食べましょう」と声をかけてくれたのがおっちゃんとお連れ合いでした。教会の神の家族ってすごいなぁと思います。この原町田教会でも、他の教会でも同じように困った時には「助けて、手伝って」と声をかけることができ、また寂しそうにしている人がいたら「一緒にご飯でも食べよう」と声をかける仲間がいる。ちょっとした手伝い、助けをして「ありがとう。助かったよ」と言われて嬉しい気持ちになる。ヨハネ福音書が伝える栄光がここ原町田教会に現されているのです。

2019年12月15日 心と心を向かわせる方を待つ

聖書箇所 ◆マラキ書3章19〜24節

以前、わたしは「神様の堪忍袋」というタイトルで説教をしたことがありますが、神様の堪忍袋はわたしたち人間が想像することのできないほど、この宇宙の端から端以上の大きさを持っている。そんな内容でした。今日のマラキ書を読んでいても神様の堪忍袋は大きくて、神様はわたしたちの過ち、罪にどれほどまで耐えてくださっているのか、その計り知れない大きさを感じます。

マラキ書の最後の言葉、旧約聖書の最後の御言葉になりますが3章23〜24節にはこうあります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」。神様の堪忍袋はついにいっぱいになって、はち切れてしまって、あなたたち人間を破滅させると思う前に、神様自らが恐るべき主の日が来ないようにと預言者エリヤを遣わすと言われるのです。その預言者は、神様の御心を子どもであるわたしたちに向けさせ、同じように子どもであるわたしたち一人一人の心を父である神様に向けさせます。旧約聖書の最後の言葉が破滅で終わらず、救いの言葉で終わっています。ここに集う多くの皆さんはお気づきだと思いますが、堪忍袋がはち切れる前に神様とわたしたちとの間に立って父と子の心を向き合わせるこの預言者こそ、クリスマスに降誕されるあの方に他なりません。

マラキ書を読みますと改めてイエス様は全ての人の救い主であると気づかされます。19節では、「高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」とあります。これは20節との対比なのですが、20節では「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て飛び跳ねる」とあります。簡単に言いますと悪いことをしている人はその日には焼き尽くされるけれども、神様を畏れ敬っている人たちは救われる。その日には、悪は亡び、善は生き残るとなります。でも、その恐るべき主の日が来る前に神様は預言者を遣わしてくださり、地を撃つことのないように、すべての人を救ってくださるのです。

「でも、神様」と思うのがわたしたちです。そんなに我慢して、忍耐されて待ってばかりいたら、この世の中、この世界は良くなるどころか、どんどんと悪くなってしまいますよ。いっそのこと、悪を行う人たちを燃え上がらせて、彼らの根も枝も残さないようにしてくれませんか、と思うのです。なぜなら、今も昔もわたしたちの世界では、悪事をする人たちがいい目を見て、真面目に働く人たちが苦労する、そんなやりきれないことがずっと続いていると思うからです。15節「むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行なっても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」。税金を真面目に支払って生活している一般の人たちのことなど気にもせず、その税金を自分のために使って桜を楽しく見ている人たちがいますし、その税金を使って国を守るという名目の下、何千億円という戦闘機やミサイル施設をある国の友だちからどんどんと買っている人がいます。もっと福祉や教育に当てがうべき税金の使い道を自分の都合のために使う人たちです。他にも多額な税金の支払いを避けるための工作をして巨額な利益を上げている人たちもいます。高慢な人たちは自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいいと言いながら悪事を行って栄えているように見えます。ともするとわたしたちはそのような悪い人たちがいなくなった方が世の中は良くなると思うかもしれません。マラキ書3章18節で「そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」とあり、続く19節で高慢で悪を行う人たちを燃え上がらせ、燃やし尽くしてしまうと言われます。なんだか、ハリウッド映画を見ているようでスカッとします。真面目で正直な主人公は、最初弱くて悪い奴らにやられてばかりいるのですが、最終的には仲間を得て、悪者をやっつけてハッピーエンド。15節から21節までを読みますとそんな気がします。21節にはこうあります。「わたしが備えているその日にあなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる」。万軍の主は、神様に逆らう者たちを燃やし尽くして灰にしてしまい、神様を信じ、神様に仕えてきた人たちの足の下に置かれます。

そのようにスッキリいってほしい、そうなってほしいと期待しないと言ったら嘘になるでしょう。それはニュースなどを見たり聞いたりして、「あの人は本当にひどい。あれは悪いことだ」と自分が思うのと同時に自分はあれほど高慢でもなければ、悪いことはしてないから大丈夫だろうと心で思う自分がいるからです。つまり、マラキ書を読んでいる自分はあくまでも神様に仕える者の側、牛舎の子牛のように躍り出て飛び回る側にいて、高慢で悪を行う側にはいないと思っています。

2019年がもう少しで終わろうとしています。今年を振り返って見ますと、わたし自身のことですが表面的な部分では、教会の牧師として祈り、幼稚園でも働き、一家庭の父としても歩んできましたが、でも、深いところでは多くの場面で自分のことを優先してきたように思います。自分の中にも高慢な思い、楽をして儲けたらいいよと悪魔の誘惑の声が聞こえてくることがあります。今年を振り返りながら、自分は善であり、自分は高慢で悪を行う者ではないとは言いきれないなぁと思うのです。ご一緒に交読しました詩編にある祈りは、2019年を終えるわたしの祈りでもあります。19編13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕をおごりから引き離し、支配されないようにしてください」。

わたしは先ほど、桜を見ることで多額の税金を使うことなどを例に挙げて、「高慢な人たちは自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいいと言いながら悪事を行って栄えている」と話しました。もちろん、そのような社会の悪を批判します。ただ、人が悪なのではありません。悪は人の中に入ってきて、人を高慢にさせ、人に悪いことを行わせます。わたしたちも「自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいい」と思って悪事を行って栄えようとする悪の誘惑に気をつけなければなりません。

もう一つ思うことがありまして、それはわたしが一人でいる時に感じる孤独感というのでしょうか。自分は何のために存在しているのだろうかと思う時があり、その孤独感をどうにか無くそう、埋めようとしてきた自分もいました。それは結局自分の心が自分のことばかりに向いてしまって寂しさを感じるのです。心が神様と隣人に向いていないのです。

アドベントの時に、クリスマスの喜びを前にして悪の誘惑に負けてしまうことや孤独感なんか、言わなくてもいいじゃないですかと思うかもしれません。でもわたしたちは自分の中に入ってこようとする悪の声、悪の力を見るべきだと思うのです。そして時にその悪に負けそうになって、「自分たちが儲かればいい、自分たちがうまくいけばいい」と思う自分がいたことにも目を向けるべきなのです。また孤独を感じ寂しくて自分のことばかりを優先してしまう自分もいた。そんな自分から目を背けない時に初めて23〜24節の御言葉が福音として浮かび上がってくるのです。もう一度お読みします。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」。主なる神様が言われるのです。「あなたは一人ではない。わたしの心はあなたに向いているし、あなたも心を自分のことばかり考えていないでわたしに向けなさい。そうすれば、悪の誘惑に負けず、孤独を感じて寂しい気持ちも少なくなる」。

万軍の主という何か強そうで、戦われるような印象の神様はここにはおられません。神様は、悪を行う者がすべてわらのように燃やし尽くされる恐るべき主の日が来る前に、いやそのような日が来ることのないようにと預言者を遣わしてくださいます。ここにはエリヤとありますが、クリスマスを前にしたわたしたちにとってこの預言者はイエス様です。イエス様は24節にある通り、壊れかけていた親と子どもの関係を修復してくださいます。親と子どもが心を向け合って、親は子どもがいてこそ、自分は親であることが嬉しくなるし、子どもは親がいなければ生きていけない。お互いに助け合い、祈りあって一緒にご飯を食べて生活していかなければ生きていけない。そのように心と心が向き合った関係を通してこそ、わたしたちは悪の声に打ち勝つことができますし、孤独で寂しくて、いじけるような自分からも解放されるのです。
イエス様は「父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことのないように」してくださいます。新約聖書につながっていく旧約聖書の最後の御言葉には、悪い人が滅びるとか、良い人が生き残るとか、そんな単純な二元論的な救いの世界ではなく、すべての人の救いが御言葉を預かる預言者イエス様によってもたらされると伝えます。

最後にご一緒に交読しました詩編19編の御言葉を祈りの言葉としてお読みます。15節「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように、主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。

2020年12月1日 面倒くさい教会に

聖書箇所 ◆ローマの信徒への手紙11章13〜24節

先日、『日本一めんどくさい幼稚園』という本を読みました。武蔵野幼稚園の園長が書いた本でなかなか面白かったです。その幼稚園が大切にしていることが書かれているのですが、子どもの成長にとって良いことをわたしたち大人が根気よく行うのは、とてもめんどくさいこと。でも、「困難だと思っても挑戦できる」「最後までやり抜ける」、そのような力を子どもが身につけるために「目には見えない根っこを伸ばす」と信じて根気よく関わっていく。そのめんどくさいことをやり抜くことで子どももまた親も、幼稚園の先生も成長するとその本に書かれてありました。どうして「めんどくさい幼稚園」というネガティブなタイトルで本を出したのかと疑問に思うのですが「めんどくさい、でもそれを通してこそ成長がある」との信念があって、あえてそのタイトルにしたのだと思います。わたしたち教会も目には見えない神様は今も生きておられ、目には見えない神の国はすでに始まっていると信じて、根気よく宣教活動をしていますから、原町田教会もあえて「面倒くさい」を目指していきたいのです。どうして「面倒くさい教会」を目指すのかと言いますと、教会は人が集まって地縁・血縁を超えたキリストにある家族、助け合い祈り合う家族をつくるためにあるからです。人が定期的に集まるところには当然めんどくさいことが起こります。でも、そこにつながり続けて祈り合い、助け合っていく。それがキリストにある家族としての教会だからだと聖書が伝えるからです。

パウロさんは、ローマの信徒への手紙で、接ぎ木されるという比喩を使ってキリストの体なる教会につながることを伝えています。異邦人も救いの約束をもらっていたユダヤ人と同じように救われるのか?イエス・キリストとつながることができるのか?というユダヤ人からの問題提起がこの時代にはありました。神様は異邦人もユダヤ人も共に救う方だとパウロさんは信じていましたので彼は、麦やオリーブの木に例えてイエス・キリストにつながることに救いがあると伝え、すべての人がキリストにつながって救われる道があると言います。16節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」。初穂も根っこもイエス様を例えていますから、そのイエス様とつながる練り粉全体も、枝も共に聖なるものとなります。そこには何人であるとかは問われることはありません。また、オリーブの木でも24節後半に「まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」とある通り、どんな人でもイエス様という木につながることができます。パウロさんはとにかくイエス様につながること、接ぎ木されることに希望をもっていました。接ぎ木されることはイエス様につながることですが、枝が自分でできることではなく、神様がしてくださることです。ですから、わたしたちがこの原町田教会につながっているのは、神様がしてくださったこと、わたしたちではなく神様が枝である一人一人を御手にとってこのブドウの木である原町田教会に接ぎ木してくださったと理解します。

わたしたちは教会に来始めた頃、あるいは長く通っていてもなお教会には自分の意思で来ていると思う部分もあると思います。自分でこの教会のここが良いからこの教会がいいと選んで来ている。だから、嫌なこと、めんどくさいことがあれば、いつでも教会を変えることができるし、自分にはその権利がある、そう思ったり、自分でこの教会に来ると決断したのだから、来ることも、来ないこともできる。そう思う自分がいると思います。しかし、聖書はわたしたちに「そうではない」と伝えます。あなたが自分の知識や判断で決定してこの教会につながったのではない。あなたという枝を枯れないようにと神様が大切にあなたを御手にとって、このぶどうの木である原町田教会に接ぎ木してくださったのです。接ぎ木された枝はすぐにつながるのではなく、その幹にしっかりとつながるためには時間が必要です。時間をかけてつながり、枝は木から栄養をもらって生きていきます。

わたしは静岡で農業の手伝いを1年間していた時がありまして、その時に接ぎ木をしたことがあります。オリーブの木ではありませんが、キウイフルーツの枝に接木をしました。キウイフルーツにはオスの木とメスの木がありまして、オスの木がどんどんと大きくなるのでオスの木にメスの木の枝を何箇所も接木をしました。もっと収穫できるようにするためです。接木は葉が落ちた後、活動を休んでいる冬の時期にしますので、その枝がうまく元の木に接木されたかどうか春にならないとわかりません。春になって接ぎ木した枝が伸びて葉を茂らせるとうまくいったことがわかります。わたしたちを接ぎ木して、キリストとつなげてくださるのは神様です。でもつながり続けることに関してはわたしたち自身が時間を献げるのです。キウイフルーツの枝が元の木にしっかりとつながるためには時間が必要だったのと同じように枝であるわたしたちがこのぶどうの木につながって栄養をもらい、葉を茂らせ、そして花を咲かせて実をつけるまでにはその木につながり続ける時間が必要なのです。

わたしたちは一本一本の枝なんだと思うのは大切なことです。なぜなら、枝がその木を支えているのではなく、木や根が一本一本の枝を支えているからです。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。時々、わたしたちは自分たちの献金や奉仕が教会を支えていると思ってしまいますが、そうではなくキリストの体である教会がわたしたちを支えています。幹であるイエス・キリストが枝であるわたしたちに愛と恵みという養分をこの教会を通して与えて、わたしたちは今生かされています。この幹とつながれた枝がわたしたちだというシンボルを繰り返し思い出さなければなりません。

枝はみんな葉をつけ、太陽の光を求めて広がりますから、枝と枝とは適度な距離をもっています。また全ての枝は外に向かって広がっていますが、枝のもとをたどっていきますとみんな一つの幹につながっています。これがわたしたち教会の姿です。わたしたちは皆、枝が外に向かって伸びていくのと同じように、礼拝が終わったら神様から遣わされて週の6日間は外に出て行きます。外に出ていってそのままずっと外にいますと枝であるわたしたちは枯れてしまいますので週に一度は自分が何に繋がっているのか、わたしたちのルーツである神様、力と元気をいただくために自分がつながる幹、ぶどうの木に帰ってくるのです。このつながりがキリストの体である教会、わたしたちにとっての原町田教会です。教会は人と人とをつなぎ合わせるぶどうの木ですから、ここにつながっていない限り、枝であるわたしたちはいつか枯れてしまいます。

わたしたち枝は、他の枝とも協力して太陽の光を分け合っていかなければなりません。枝は幹からの栄養と太陽の光があってこそ成長するからです。時に嵐に遭遇し他の枝とぶつかったりして、この幹につながったことを後悔することもあるかもしれません。一つの枝が「わたしはあなたの隣にいたくない」と言い出すことも、また暗闇の中、台風のように強風が吹き荒れた時には枝が折れてしまうこともあるでしょう。ここにつながっていても何の得もないし、苦労が多いと思ってしまい、もう幹のことなんか忘れてとにかく外の方に伸びていればいいと思う枝も出てくるかもしれません。あるいは別の幹に移りたいと思うかもしれません。キリストのぶどうの木である教会は世界中にたくさんあり、ここ町田や相模原にもたくさんありますから、移った後時間をかけてしっかりつながれば大丈夫です。でも、教会とのつながりを自分で決められると思っているならば、それは改めるべきでしょう。22節にある通りです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです、もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」。枝であるわたしたちは接木されたものですが、同時に神様の慈しみにとどまるか、とどまらないかを選ぶこともできるのです。もちろん、神様はわたしたちがとどまることを願っていますが、強制的にとどまらせることはいたしません。あくまでもわたしたちの意思に任せられているのです。

病気をしたり、高齢になったためにしばらく教会に来ることが難しくなることがあります。あるいは人との関係でしばらく教会に来れなくなることもありますが、神様はすぐにその枝を切り取ってしまうことはありません。また、自分の意思でこの幹から離れますと出ていった人であっても、神様はその一本の枝を再び接木することはできます。23節「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」。

教会はエクレシアです。建物が教会ではなく、一人一人がイエス様の名前によって定期的に集まる集会がエクレシアなる教会です。様々な一人一人が集まるのが教会ですから、そこではすんなりいくこともあれば、面倒くさいことも起こります。でも神様によって接ぎ木されたのですからわたしたちはこの集まりに神様の思い、神様のご計画があるのだと信じます。神様が接ぎ木してくださったこの原町田教会というぶどうの木は、枝同士が困った時には家族のように助け合い、祈り合う。わたしたちの計画やわたしたちの思いを超えた神の国の計画がここに始まっているのです。原町田教会は、年齢の壁、人種の壁、文化の違い、価値観の違いなどを持ったいろいろな人が受け入れられ、大切にされる面倒くさい教会にすでになりつつありますが、これからもその道を歩んでいきます。

2019年11月3日 知識ではなく愛を

聖書箇所 ◆創世記3章1~15節 ◆詩編51:3~11

先月のことですが、韓国に行って聖書の学びのための会議に出席してきました。アジア太平洋地域17カ国から150人ほどがその会議に出ていまして、その中にネパールから来ていた牧師さんがいました。その牧師は流暢に英語を話し、またユーモアもあり、話が上手でみるからに頭がいい人、頭のキレる人でした。その人は大勢の人がいる前で、原稿もメモも見ないで、しかも自分の国の言葉ではない英語で緊張する様子もなく話していたので、すごいなぁと思って聞いていました。わたしはこれまで何回か、冷や汗を流す怖い夢を見たことがあるのですが、夢の中でわたしは日曜日の朝、説教をする講壇に立ちます。そして手元を見ましたら、あるはずの説教の原稿がないのです。もう、頭の中が真っ白。どうしようと思った瞬間にパッと目が覚めたという夢です。「あ、夢でよかった」と思いました。そんなわたしですから、原稿もメモも持たないで人前に立って1時間も話し続けて、しかもその話が面白い、そんな頭のいい人に出会うと感心し、羨ましく思うのです。

頭のいい人、賢い人は良い学校に入れますし、その後の人生も良い給料をもらい、良いところに住んで人生うまくいくと多くの人は信じていると思います。ですから、頭が良い人しか入れないような高校や大学を卒業しましたと言う人に出会いますと「あ、この人は頭がいいんだ」と自動的に思いますし、大人であればさぞかし良い仕事をしているのだろうと思うのです。でも「頭がいい」人、「賢い」人はそれだけですごいと思ってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか?頭がいいこと、賢いことを聖書はなんとわたしたちに伝えているのでしょうか?創世記3章で神様が造られたものの中で最も賢い生き物が登場します。聖書を全く読まない状態で「神様が造られたものの中で一番賢い生き物はなんだ?」という問題が出たら、たくさんの人は「人間」と答えると思います。けれども聖書は「最も賢いのは蛇であった」と伝えます。そしてその賢さを使って蛇は人をだまし、そそのかして神様から「食べたら必ず死んでしまう」と言われていた善悪の知識の木の実を食べさせようとしました。蛇は女にこう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」。賢いこと、頭がいいことを聖書は諸手を挙げて良いこととして捉えていません。蛇が神様の御心に沿って賢いのなら、神様が食べてはいけないと言った木の実を食べるよう、人をそそのかすことはしなかったはずです。でも、聖書は、賢くなるとそのように人に嘘をついたり、人を騙したりするようになると伝えるのです。

善悪を知る木の実を食べてしまった2人は賢くなって、頭が良くなって良い仕事について、良い人生を過ごしたとは聖書は語りません。3章7節「2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづりあわせ、腰を覆うものとした」。賢くなる、頭が良くなると自分が嫌だと思う部分を隠したくなるのです。善悪を知りますと自分の中にある良いところもわかるのですが、その反対の嫌なところ、悪くて汚い部分も見てしまい恥ずかしくなってそこを隠すようになる。とても示唆に富んだメッセージです。

でも「どうして」と疑問を感じるかもしれません。どうして善悪の知識の木の実を食べることを神様は良しとされなかったのだろうかと疑問に思う人は多いのではないでしょうか?なぜなら、わたしたちは生きていく上で善いことと悪いことの区別ができてこそ社会の中で生活ができると思っているからです。原町田幼稚園でも善いことと悪いことをはっきりと伝えています。人を叩いてはいけない。使ったものはもとのところに戻す。誰かを傷つけたら「ごめんなさい」と言う。食事の前には手を洗う。このように善いことと悪いことを子どもに伝え、うまくできたら「よくできたね」と褒めます。それらを日々実践することで子どもたちは社会の中で共に生きていく上でのルールやマナーを体得していきます。ですから、善いことと悪いことを知ることは必要なことなのですが、どうして神様はそれを禁止していたのかと疑問に思うのです。しかし、善いことや悪いことは決して変わらないものではないこともわたしたちは知っています。良いことと悪いことは変わりうるのです。以前これは善いことだと思って実践していたのですが後になってそれはあまり良いとは言いにくくなったことはいくつもあります。例えば、わたしが子どもの頃、転んで擦り傷をした時にはいつも消毒液をつけていましたが、最近ではまず傷口を水でよく洗うことが何よりも大切で消毒液はつけない方がいいと言われています。時間が経つことで良いことと悪いことが変わりますし、場所が変われば善悪の基準が違うこともあります。わたしたちが知っている善悪の知識というのは流動的であり、相対的でもあり、何よりもそのことによって時に、人と人がぶつかり合い、裁き合い、理解し合えない関係になってしまう恐れがあります。善悪の理解が違うために人同士が争い合う悲劇も繰り返し起きています。善悪を知る木から実をとって食べてしまったわたしたち人間は、そのような難しさを抱えることになったのです。

善悪を知る木の実を食べた後の2人の神様とのやりとりを見ますとそれがよくわかります。神様はまずアダムさんを「どこにいるのか」と呼ばれました。彼は「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。それまでは裸であってもなんの恐れも恥じらいも感じなかった彼でしたが、善悪の知識を知って恐ろしくなったのです。そして彼らのこの後の態度がわたしたちとそっくりなので驚きます。神様が「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と聞きますとアダムさんは「申し訳ありません。食べてはいけないという木から食べてしまいました」と素直に謝っていれば良かったのですが、そうしないでこう言いました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。わたしが食べたのは、女のせいでもあり、神様あなたにも責任がありますと言ったのです。女も同じように自分の過ちを蛇のせいにしました。ここにわたしたち一人一人の姿があります。善悪の知識を得ることで神様から離れていくわたしたちの姿です。神様なしでも生きていけると言って神様から離れていくところにわたしたちの死があります。

聖書はわたしたち、人間の良いところだけでなく、嘘をつき、自分の失敗を人のせいにするような汚いところを創世記の最初から見せてくれています。ただ汚れた心を持ち神様から離れて行こうとするわたしたちを神様は見捨てることはありません。今日は読みませんでしたが、神様はエデンの園から彼らを追い出す時に2人に皮の衣を作って着せられています。それ以上に神様はわたしたち人間の思いをはるかに超えた形で死からの救いを与えてくださいました。なんの条件も、なんの償いも請求しないでイエス様をお送りくださってわたしたち全ての人に救いを与えてくださったのです。イエス様によってわたしたち全ての人は神様との関係が回復し、祈ることもできるようになりました。死からの復活。嬉しい知らせです。

また嬉しいことに聖書では数カ所を除いて、ほとんど「頭を良くしなさい」「賢くなりなさい」とは伝えていません。例外としてはイエス様が弟子たちに「蛇のように賢く鳩のように素直になりなさい」と言われたことがあります。しかし、今日の御言葉にあるように、むしろ賢くなることに対して聖書は懐疑的ですし、頭を良くするよりも神様を信じること、人と人とが互いに愛し合い、赦し合いながら生きていくことを何よりも大切だと伝えています。例えば、こういう言葉があります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(コリント一8:1)。賢くなること、頭が良いこと自体を聖書は否定しているわけではありませんが、頭が良いことを何のために用いて行くのか、蛇のように人を騙すことではなく、人と人とが互いに助け合うことに知恵と知識を用いたいのです。わたしたちは何のために勉強し、何のために聖書を学ぶのでしょうか?自分の知識を増やすため、自分が賢くなるためでしょうか。そうではありません。わたしたちは、イエス様のようにゆるし合い、仕え合う社会を作るために学びます。自分が間違いを犯してしまったら人のせいにするのではなく素直に謝ることができるように、反対に人が自分に間違いを犯してもゆるすことができるようにとわたしたちは日々学ぶのです。ゆるしあえる共同体をつくるためにです。わたしには最終的な善悪の判断はできないのですが、でも神様、できるだけあなたの御心に近い判断をさせてくださいと神様と人の前に謙虚でありたい。

 今日は、永眠者記念礼拝です。先に天に帰って行かれた人たちを覚えるとき、今日は特にその人たちの賢さや頭の良さよりもその一人一人に注がれていた神様の愛を思い出しましょう。先ほど読み上げられた永眠者の一人一人が神様の愛によって支えられて来たことを感謝したいと思うのです。

2019年10月6日 恩寵に応える

聖書箇所 ◆ルカによる福音書16章1〜8節 ◆詩編49:14〜20

このたとえ話を読みますと、この管理人のように抜け目なく嘘をついて人のお金を勝手に使ってもいいんだよとイエス様が言っているように読めてしまいます。8節で「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」とあるからです。ある本には、このたとえをどのように理解したらいいのか、全然わからないのでこれまで多くの牧師や神父はこのたとえを避けてきたとありました。ただ、少しだけ当時の時代背景を学んでみますとイエス様の思いがおぼろげに見えてきます。イエス様が生きていた時代の人々はどんな生活でどんな苦労をしていたのかということです。それともう一つこのたとえを読み解く鍵があります。それは管理人ではなく、主人に注目すると言うことです。管理人がしたこと以上に主人がどう対応しているのかを見るのです。それは管理人という人間ではなく、たとえの中で寛大な心を持って立ち振る舞う神様である主に心を向けることになるからです。

まず時代背景ですが、イエス様が生きてきたガリラヤ地方に暮らす人たちの多くは何らかの借金を抱えて暮らす農民たちでした。麦を作ったり、オリーブオイルを作る農家の人たちは村の中で互いに助け合いながら暮らしていましたが、地主さんに年貢を納めなければならず、不作が続いたりしますと年貢を納めることができず、負債を負うことになりました。負債にはいつまでに返さなければいけないという期限もあり、また利子もありましたから簡単には減りません。合わせて神殿やローマに納める税金などもあって、農民たちの生活は楽なものではありませんでした。まさに「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり、ぢっと手を見る」です。そのような重荷を背負いながら生きる人たちを思いながらイエス様はこのたとえを話されました。このたとえを律法学者たちが聞いたとしたら「どうして主人は管理人のやり方をほめたのか?」と疑問に思ったはずです。しかし、負債に苦しむ人たちがこれを聞いたらあたかも自分たちの借金が減ったかのように大いに喜んだはずです。自分たちの苦しみをわかって助けてくれる人がいるんだと勇気をもらったはずです。

たとえの中で負債を減らしてもらった人を見て実際に借金で苦しむ人は、「もうダメだと思っていたけど、借金が減るかもしれない」と生きていく希望を持ったと想像できます。油50バトスも小麦20コロスもおよそ当時の農場労働者1年半分の給料となりますから、わたしたちの感覚に置き換えれば300〜500万円ぐらいでしょうか。たとえには描かれていませんが想像しますと、借金を減らしてもらったのでこの二人は嬉しさのあまりすぐに家族や隣近所に走ってこのことを伝えます。「『油百バトス』の借りがあったけど、今日管理人のところに行ったら50バトスにしてもらった。あの管理人の主人はなんて心の優しい人なんだ」。負債を負っていた二人の知らせは、すぐさま村中の人たちに知れ渡りました。「二人の借金を減らしてくれたのだから、わたしたちの負債も減らしてくれるに違いない。素晴らしい主人だ。これで希望を持って生きられるぞ。やったー」。二人の家ではいつもよりも少しおかずが増えた食事が出て、この主人に対して感謝の気持ちと喜びを家族で味わおうとしていました。すると夕暮れ時になって村のあちこちから料理を乗せたお皿を持った村人たちが集まってきます。「どうやって借金を減らしてもらったのですか?」「わたしはどうすればいいのですか?」など二人から聞こう!と思ってやってきたのです。テーブルには乗り切れないほどの豊かな食卓になりましたので、油を50バトス減らしてもらった人は小麦を減らしてもらった人を家に招いて一緒に食べてワインを飲んでお祝いすることになりました。

さて、次に主人に心を向けてみたいと思います。管理人が無駄遣いしているとの告げ口があった時、この主人は彼に「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せるわけにはいかない」と伝えました。もう任せられないと言っていますから管理人をクビにしたわけですが、でも会計の報告を出しなさいと言って主人は彼にチャンスを与えています。つまり管理人の手にはまだ会計簿や証文があって、それをまとめて報告する時間が与えられたのです。普通に考えれば自分のお金を勝手に使っているとわかった時点で、主人は管理人を牢屋に入れることもできましたがそうしませんでした。主人は管理人が無断で自分のお金を使ったことを理由に彼と彼の家族を奴隷として売り飛ばし、そのお金で損失した分の穴埋めにすることもできましたが、それもしませんでした。主人は管理人が無駄遣いしても罰を与えず、また生きる希望と生きるすべを奪うことなく、本人にどうすればいいのかと考える時間を与えてくれたのです。このたとえでの主人はまさに過ちを犯してしまうわたしたちにすぐ罰を与えず忍耐し、生きる道を備えてくださる神様だと理解できます。

では、時間が与えられた管理人はその一方的な恵みにどのように応えたのでしょうか。彼は負債を負っている人たちの借りを減らすことにしました。4節を読みますと「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と言っていますから、自分のためにしたことではないかと読めてしまいます。しかし、負債を減らすことで彼は実際に困っている人たちを助けました。それも農場労働者1年半分の給料に匹敵する額を免除したのですから、減らしてもらった方は家族の命を救ってくれたと受け止められるほどでした。管理人は書き直した証文と変更した帳簿をまとめて、主人のところに行き、「これが会計の報告です」と言ってそれらを主人に提出しました。わたしたちはどうしても管理人の方に目も心も向いてしまうのですが、管理人のやり方の大前提となる主人の関わりに注目することが大切です。主人は負債を減らした管理人をここでどう扱うのか、大きく分けて2つありました。一つ目の選択肢は、管理人を褒めるのではなく、村の当局に行って、この負債の減額はわたしの許可なしでされたこと、また管理人はすでに解雇されているので、減額する権限はないこと、従って減額前の油100バトスと小麦100コロスはいずれもしっかりと全部返すべきだと説明して、この管理人を牢屋に入れてしまうのです。ただ、そうしますと主人は村人から「あの主人は嘘つきで、欲張りだ」と言われ、たった今、村人たちが集まって主人の優しさと寛大さを祝い、感謝する集まりが抗議集会になってしまうでしょう。主人はそんなことを望んではいません。主人は管理人が提出した会計報告を見て8節にある通り、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」のです。ここにも主人の心の大きさが現れています。負債を減らすことなど、わたしたちにはなかなかできない寛大な心は神様の心そのものです。

負債を減らした管理人は自分が頂いた恩寵、一方的な赦しに対して、負債を減らして苦しんでいる人を助ける形で応えました。自分が奴隷として売られても、また家族も一緒に売り飛ばされてもおかしくない状況で「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言って会計簿や負債の証文の管理という猶予を与えてくださった、その恵みへ応答です。イエス様は8節で「この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめ」ました。主人から頂いた大きな恵み、その恩寵を苦しんでいる人たちを助ける方法で応える、それが神様の御心ですと伝えているのです。

わたしたちも管理人のように時間を無駄に使ってしまったり、人の思いを受け止めきれずに失望させてしまうことがあります。でも、神様はじっと耐えて、そんなわたしたちに時間の猶予を、まだ生きる道を与えてくださいます。その神様の恩寵に気づいて、それぞれの生き方でその恩寵に応えたいと思うのです。

神様からの恩寵はすべての人にすでに届いています。恩寵というのは、わたしたちが優れているとか、わたしたち人間が魅力があるとか、何か良いことをしたから与えられる報酬でもご褒美でもありません。神様から一方的に与えられる恵み、それが恩寵です。恩寵、別な言い方では恩恵とも言いますが、それはいつどんな形でもたらされるのかを予測するのは難しいものです。ですから、わたしたちは日々、神様に感謝の祈りをささげて心を開き、まだ気づいていない恵みを受け止めたいのです。

10日ほど前の祈祷会である人がこんな証をしてくれました。「今朝の新聞に認知症学会の会長の長谷川和夫さんのことが載っていまして、90歳の長谷川さん自身が認知症になって、でも『認知症は恩寵です』と言っていたのでみなさんに紹介したいと思いました」。新聞にはこうありました。「物忘れがひどくなってね。自分のなかの『確かさ』があやふやになって、朝起きて少し時間がたつと、今が昼か、間もなく夕ご飯なのか、はっきりしなくなる。外にでかければ、ふと『あれ、自分はいまどのへんにいるのかな』と思ったり。そんな感じです」。それに続けてこう書かれてありました。「僕は心臓の病気もあるから、本当に死を考えたら不安でいっぱいだよね。神様は、その不安を和らげるために、わたしを認知症にしてくれているんじゃないか。ならば、神の手に任せようと」。祈祷会の時にこの記事を紹介してくれた人は自分自身のことをこのように話しました。「わたしの耳もだいぶ遠くなってきましたし、目も白内障が少しあって見えにくくなっていますが、これらも全部神様からの恩寵として受け止めたいと思ってます」。わたしは「あなたのその証によってたくさんの人が励まされますので、皆さんの前で証をしてもらいたいです」と話しましたがご遠慮されましたので、こうして紹介させていただきました。皆さんにもこのような証をしていっていただきたい。それこそ、神様の恩寵に応えることになるからです。

普通、認知症になること、自分の体が弱っていくことはできるだけ避けたいし、なってしまったら隠したいと思うものです。でも、それを神様からいただいた恩寵、恵みだと言える。老いていく中で困難にぶつかっている、認知症で苦しんでいる当事者やその家族にはその証しは大きな励ましとなるのです。

今日は、世界聖餐日です。パンと杯という恩寵をわたしたちはいただいていますし、何よりもイエス様がわたしたちの中に生きておられますから、その恩寵に応えて、わたしたちは「神様を信じて生きる喜び」を証しするのです。

2019年9月8日 人間復興の安息日

聖書箇所 ◆ルカによる福音書14章1〜6節 ◆出エジプト記23章10〜13節 ◆詩編92:13〜16

ある日本の新聞記者がイスラエルに行った時、びっくりする体験をしました。金曜日の夜7時過ぎ、この記者は安息日の取材でテルアビブ近郊にあるシナゴーグを訪れましたら、強面(こわもて)の男性に呼び止められました。「おい、あんたら外国人だろ。ちょっとこっちに来てくれないか」。キッパと呼ばれる帽子をかぶったその男性は、記者たちを近くのアパートまで連れてきますと「エレベーターで5階まで先に上がって待っていてくれ」と言って、自分は階段を上り始めました。ドキドキしながら5階の薄暗い廊下で待っていますと、その男性が汗だくで階段を上ってきて、玄関先で配電盤を指さし、こう言ったのです。「すまないけど、そこのスイッチを入れ直してくれないか。部屋の漏電ブレーカーが落ちてしまったんだ」。言われた通りにしますと、暗闇に包まれていた部屋にパッと明かりがともり、中から女性たちの歓声が上がったのです。今でも厳格なユダヤ教の人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの間を「安息日」と定め、一切の「労働」は禁じられ、39種類の禁止事項をかたくなに守っています。例えば、「耕す」「蒔く」「壊す」「書く」……。そして、代表例が「火をつける」。時代に合わせて「電気のつけたり消したりするのも火をつける行為にあたる」と解釈されたため、安息日には照明をつけることも、エレベーターの操作もやってはいけないこととなりました。さて、この記者は翌日、まだ安息日が続く土曜日の昼、ユダヤ教のラビのところに行って単刀直入に質問しました。「どうして、安息日に休むのですか?」そのラビはこう答えました。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう?人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」

イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれていました。食事が終わり、くつろいでいる時、イエス様を招いたファリサイ派の人たちはイエス様の様子をうかがっていました。その日は14章1節にある通り、安息日でしたので、やっていいことと、やってはいけないことがはっきりしていました。病人を癒すことも仕事だからしてはいけない。それは神様からの掟、律法だからとファリサイ派や律法の先生たちは考え、それを実践していました。神様の掟を守ることは神様に従うことですから、正しいこと、良いことであり、その反対に掟を守らないのは、間違いであり、悪いことでした。でも、イエス様は言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。そう言われてから、イエス様は病人の手を取って、病気を癒されました。そして言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

安息日について聖書はまず初めに創世記でこう伝えます。2章2〜3節「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。聖書によれば、わたしたち人間は神様にかたどって造られました。礼拝の招きの言葉にあった通りです。創世記1章27節。「神は御自分にかたどって人を想像された。男と女に創造された」。神様に似て造られたとありますから、それゆえにわたしたちも神様と同じように7日目には安息するのだと聖書は言うのです。安息日には、体や心を休息する、休ませるという意味もありますが、それ以上に安息日には、「自分は何者なのか」と自分自身を確認する意味があるのです。神様はわたしたち人間をご自分に似せた尊い存在として造られました。神様に似て愛すること、ゆるすこと、癒すことを完全ではないけど、できる存在としてです。

月曜日から土曜日までの1週間の生活の中で、人を憎み、あんなやつはいなくなればいいと心の中で思ってしまうことがあった。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいても声をかけられずに通り過ぎてしまった。そういうわたしたちなのですが、「あなたは神の似姿、愛し、ゆるし、癒されるわたしに似て造られている」。その神様に似て造られた自分自身に復興するために神様は安息日を守るようにと言われているのです。

先ほど読みました出エジプト記の23章12節にも安息日の意味が明確に記されていました。12節にはこうあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休んで元気になるためであるとは言わず、当時の社会で最も小さいもの、低い立場にあった女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためだというのです。軽んじられて当然、過酷な仕事を休みなしにやらされたとしても何も言えない立場にある家畜、またそういう人たちを元気にするためなのです。当時、牛やろばと並列して書かれている女奴隷はもの同然の扱いで、寄留者は人間以下という世界でしたから、休みを与えなさいという掟は当時の世界では驚くべき考え方でした。他のオリエント世界の宗教には見出されない掟です。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちを休ませ、大切に扱うことは何よりもそうしている自分自身の人間性を復興することなのです。見失いがちな隣人を愛し、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められているのです。

10の戒めである十戒にはこうあります。出エジプト記20章8〜11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこなるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。神様は安息日を祝福し、聖別されました。聖別するというのは、これは神様のものであって、あなたたち人間には変えることできないものという意味があります。ここにも休む権利など考えつかない「男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、あなたと同じように休ませなさいとあります。ここに安息日の本当の意味があります。しかしながら、時代を経るごとに安息日は祝福された日からだんだんと離れていき、次第に「なになにしてはいけない日」となっていきました。

安息日には癒してはいけない。それは仕事だから。病人を助けてはいけない。それも仕事だから。そのように安息日の形だけが継承されて、本当の意味はずいぶんと見失われていたようです。イエス様は安息日を「何々をしてはいけない」とか「しなければいけない」という義務の日から人間復興の日、救いの日へと生き返らせてくださいました。

キリスト教では、イエス様の復活を記念して週の初めの日である日曜日を霊的な安息の日、聖なる日として2000年来、礼拝をささげています。ですから、わたしたちにとっての安息日は、日曜日となります。でもイエス様がそうであったように安息日は仕事をしない、休息の日というよりも、むしろわたしたちを造られた創造主なる神様の方を向くことによって自分自身を復興する日です。人を愛することに遅く、ゆるすことも難しく、癒すことなどできないと思ってしまうわたしたちにイエス様は言われます。「そんなあなたたちでも自分の子どもが溺れていたら助けるだろう」。目を覚ましなさい、思い出しなさいと言われているのです。本当のあなたは人を愛し、人をゆるし、人を癒すことができるのです。「神様に似て造られている自分を見出しなさい。あなたたちが目を覚まして愛し、ゆるし、癒す本当の自分に気づくように、わたしは独り子イエスをあなたたちに与えた」。

日曜日は、救いの喜びの日です。イエス・キリストを信じるわたしたちは毎週日曜日に礼拝を捧げて、「神様、イエス様によってわたしたちの罪を赦し、今週1週間も支え、守ってくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げます。安息日は救いの日、すでにイエス様によって救われていることを再確認して、自信や力をなくし、衰えた自分を復興する日です。

イエス様は安息日以外の日も人を助け、癒し、愛しておられます。安息日だから反感を買うのを知りつつもその日だけ病気の人を癒したのではありません。安息日の本当の意味をわかって欲しくて、イエス様は何回も安息日にしてはいけないと言われていたことをしたのです。出エジプト記にある人間復興の安息日に立ち返って欲しいと願われていたのだと思うのです。安息日は牛やろばなどの家畜、また女奴隷の子どもや寄留者たちがゆっくり休んで回復すること、それは同時に雇っていた人たち自身の人間性を回復するためでもありました。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちの心も体も休ませ、彼らを大切に扱うことは何よりもそうしている人の人間性を復興することになるからです。

自分よりも弱い立場にある人がいますと威張りたくなり、反対に自分よりも強い立場にある人がいますと急に腰が低くなるのがわたしたちです。でもそのような自分は神様の似姿からは随分遠くに離れてしまっています。自分よりも弱い立場にある人たちを時に軽んじてしまうことのあるわたしたちにイエス様は「あなたは神に似て造られた人です。神は小さいもの、弱いものも同じように愛し、ゆるし、癒しています」と伝えています。失いがちになる隣人愛、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められています。これからも、愛し、ゆるし、癒す本当の自分自身に復興するため、神様に似て造られた自分を再確認するために主の日の礼拝に集ってまいりましょう。

2019年8月11日 ささやく小さな声の中に

聖書箇所 ◆列王記上19章1〜18節

エリヤさんという人は、新約聖書にも何度か名前が挙げられる人物です。例えば、イエス様が山の上で真っ白な服に輝き始めた時、エリヤさんとモーセさんがそこに現れて、イエス様と語り始めたとあります。また、イエス様が十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そこにいた人が「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エリヤ」という名前が、彼の実際に生きた時代から800年以上経ったイエス様の時にまで覚えられていたのには理由があります。それはエリヤさんの最後の時と深く関係していまして、彼は地上で死んでお墓に葬られたのではなく、生きたまま「火の戦車」に乗って天に上げられたと聖書が伝えるからです(列王記下の2章)。そのため、後の時代になって神様の審判が下される前にエリヤさんが地上に戻ってくると信じられるようになりました。

さて、このエリヤさんですが、生きたまま天に上げられるほどの人ですから、よほど素晴らしいことをした人なのかと思うかもしれません。でも、聖書を読みますとそうではなくて、とても苦労の多い人でした。今日読みました聖書の出来事では、ユダヤの王アハブさんの妻イゼベルさんから命を狙われることになったとあります。イゼベルさんが信奉していたバアルの宗教の預言者たち450人がエリヤさんとイスラエルの人たちの手によって命を落としたからです。それは今日の箇所の前、列王記上18章に記されています。そのことに怒ったイザベルさんはエリヤさんに使者を送ってこのように言わせました。19章2節「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」。この言葉にエリヤさんは恐ろしくなってすぐにそこから逃げ、エニシダという木の下に来て座って言いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。主なる神様に従ってやってきたのに状況は悪くなるばかり。もう八方塞がり、どこに行けばいいのかわからない。死んだ方がいい。エリヤさんの心はあとちょっとでポキリと折れてしまう状態でした。

エリヤさんの苦労は、人間関係での苦労です。彼のように命を狙われるほどのことはありませんが、わたしたちも人間関係で苦労することがあります。相手に理解してもらえないこと。一方的に「悪いのはあなただ」と言われることなど、人との関係がうまくいかず、落ち込んでしまうことをわたしたちも経験します。ある時には「もう、十分です。わたしの命を取ってください」と思うほどの暗闇を経験するかもしれません。エリヤさんは神様に従って良いことをしたと思っていました。数年間、干ばつのためにカラカラに乾いて、農作物がほとんど取れないひどい飢饉に見舞われていたイスラエルの地に、バアルの預言者との戦いの後、ようやく恵みの雨が降りました。神様に従って預言者と戦った結果、与えられた待望の恵みの雨でしたから、アハブ王もわかってくれるだろう、そう期待していたエリヤさんでしたが、アハブ王は見事に彼の期待を裏切りました。時間とエネルギーと思いを込めて良いことだろうと取り組んで、「きっとわかってくれる」と期待していたのに、あっさりと反対のことをされてしまったのです。

エリヤさんはとにかく神様が言われたことを良いことだと信じて実行してきましたが、その結果、自分の命が狙われることになりました。神様を信じて生きてきたのに何も良いことがない。良いどころか悪くなっている。わたしたちもそう思うことがあるかもしれません。毎週礼拝に出席して、時間も力も献金も捧げてきたのにどうしてこうなってしまうのだろう。突然、重い病気になってしまう。人間関係がうまくいかない。どこに進めばいいのかわからない、八方塞がりになってしまうことがあります。エリヤさんは「もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いました。すると神様は御使いを遣わせてエリヤさんに触れられ言われます。「起きて食べよ」。周りの人があなたのことをわかってくれなくても、わたしはあなたを決して見捨てない。神様は御使いを遣わし、「起きて食べなさい」と励ましてくださいます。

この原町田教会で長く礼拝生活を送り、また祈祷会にも出席している一人の姉妹が7月ごろから体調を崩され、何度か礼拝と祈祷会をお休みしていました。7月の最終週の祈祷会の時、彼女が出席してくれまして、一緒に祈りを合わせました。ここ数年ですが7月最後の祈祷会では8月が1ヶ月間お休みなので、一緒にお食事をしていまして、その姉妹オススメのシュウマイ弁当で食卓を囲みました。体調を崩されて病院にいかれた彼女は、その席で「自分は病気かもしれない。でも、自分はこれまで豊かな礼拝生活と祈祷会に出席できたことを本当に嬉しく思う」と話されました。また、健康でいられたことを当たり前のように考えていたことを傲慢だったと祈られました。健康でいられること、礼拝や祈祷会に出席できることがどれほどの恵みであるのか。当たり前のことではなく、限りある命の中で与えられているかけがえのない時間なんだとわたしは彼女のお話と祈りを聞いて思いました。淡々とご自分のことを話される彼女と出会って、わたしは神様を信じて生きることの強さというのでしょうか、困難な状況に直面してもただ神様を信じることができる恵みを思いました。彼女はしばらくほとんど食べることができず、水だけ飲んでおられたとのことで体重は5キロも減ってしまったと言っていました。今は少しずつ食べられるようになってきたとシュウマイ弁当に箸をつけていましたので少し安心しました。神様は彼女に、またお一人お一人に御使いを送ってくださり、「起きて食べよ。まだ、あなたにはやるべきことがある」と言われているのです。今日、礼拝に集うことのできたわたしたちは、この御言葉を心に刻みたいのです。「起きて食べよ」。神様がまだわたしたちを必要としてくださっている。これは礼拝を覚えながらも集うことのできない人たち、特に病気のゆえに集うことが難しい人たちにも告げられている御言葉です。どんな状況になっても神様がエリヤさんを立ち上がらせたように病床に伏す一人一人に「起きて食べよ。あなたにはやるべきことがある」と言われています。

神様は洞穴に隠れていたエリヤさんに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞かれます。エリヤさんは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。エリヤさんはまだイゼベルさんのことが恐ろしくて洞穴に隠れていたのですが、主なる神様は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。ここでも主なる神様は「あなたはまだ生きるのです。あなたには果たすべき使命がある」と洞窟に引きこもる彼を外に出され、姿を現されます。はじめに激しい風が起こって、山を裂き、岩を砕きました。次に地震が起きました。その次に火が起こりました。しかし、いずれの中にも神様はおられません。そのあとに静かにささやく声が聞こえました。聖書は伝えます。神様は静かにささやく声の中におられる。神様は、激しい風の中、地震の中、火の中のように、大きな音、強い力、燃やしてしまうような熱さの中にはおられない。静かにささやく声、よーく耳を澄まさないと聞こえてこないほど小さく弱いものの中に神様はおられる。19章13節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。外套、コートで顔を覆うというのは、モーセさんもそうでしたが自分が神様の前に立つことを意味しています。小さな声、今にも消えそうな弱い声の中にこそ神様がおられるとエリヤさんは理解したのです。

この神様の姿は、十字架の上で殺されていったイエス様と重なります。パウロさんも言っていますが、十字架で死んでいくことは勝利ではなく敗北です、強さではなく弱さそのものです。その弱さの中に神様はご自分を現されたと聖書は伝えますから、わたしたちは静かにささやく小さな声の中におられる神様に心の耳を向けるのです。

病気や障がい、あるいは誰しもが経験する「老いていくこと」で感じる弱さもあります。できていたことができなくなっていく。少しずつですが、確実に弱くなっていく自分。もしできるのならその弱くなっていくスピードを遅くしたい。なんとかして弱くならずに生きていきたい。そう思って祈ります。「神様、どうか守ってください。健康でいられますように」。でも、神様は聖書を通して言われるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さの中に本当の強さがある。弱さを自覚して初めて気づくことがあります。病気になって、体に弱さを覚えて初めて気づくこともあります。これまでは聞こえなかった小さな声。体が弱いからこそ他者を優しく思う気持ちになれる。自分の弱さを受け入れて、初めて見えてきた他者の中にある痛みや苦しみ。わたしたちが一緒に生きていく中で助けられ、支えられて「ありがたい」と思うのは自分が弱くなった時ですし、助けられた経験を持つ人は、今度は困った人がいたら、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることができます。聖書は言います。「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

ささやくような小さな声の中に神様がおられますから、原町田教会のわたしたちは、ささやくような小さな声に心の耳を傾けます。エリヤさんはささやく声の中に神様がいることに気づいたことで、自分自身も小さく弱い者だけれども神様はそんなわたしも必要としてくださっている、その恵みに気づいたのではないのでしょうか。神様はささやく声で皆さんに言われています。「起きて、食べなさい。あなたにはまだやることがある」。

2019年8月4日 ラハブの系譜

聖書箇所 ◆ヨシュア記2章1〜14節 ◆詩編97:7〜12

今日は、平和聖日です。この平和聖日の礼拝に、どうして戦いだらけのヨシュア記が読まれるのかと、疑問を感じる人もいるかもしれません。このヨシュア記にはエジプトを脱出したイスラエルの人たちがモーセの後継者であるヨシュアに率いられ、約束の地であるカナンの土地を戦いながら、ある意味では侵略するような形で奪い取っていく出来事が記されています。それは神様がアブラハム、イサク、ヤコブそしてモーセに約束したことでした。ヨシュア記1章の初めにその約束が記されてあります。1章1〜3節を読む。約束の地に入っていくのだから、戦いがあってもやむをえないとイスラエルの側からみれば言えるかもしれません。でも、侵入され、土地や命を奪われる側からみれば、神様の約束であっても納得できません。そのような戦いだらけのヨシュア記ですが、今日の2章には平和のメッセージがはっきりと示されていました。死からの救い、滅びからの救いが一人の女性によって成し遂げられたのです。

モーセの後継者であるヨシュアがついにヨルダン川を渡って約束の地に入っていきます。40年間荒野をさまよい続けた後での「ついに」です。彼らがまず初めに攻め込むと決めた場所は、世界最古の町の一つと言われるエリコという町で、ヨシュアは攻め込む前に二人の斥候、スパイを送り出します。その二人が隠れた場所が城壁の中にあった遊女ラハブの家でした。彼女は遊女ですから、自分の体を売り物としていました。彼女がそうしなければ生きていけない状態、つまりそうせざるをえなかったのか、それともそうではないのか、聖書は何も語っていませんのでわかりません。しかし、どの社会でも自分の性を売り物にしている人は世間から嫌な目で見られる傾向にあります。決して好ましい働きではありませんから、エリコの街で母親が子どもと歩いていて、たまたまラハブを見かけたなら親はこう言うでしょう。「あんな人になってはいけないよ。汚いことをする人だから」。イエス様の時代でも律法学者などは娼婦たちのことを明らかに罪人であり、神の国に入ることができないトップランナーだと蔑んでいました。しかし、その遊女ラハブが決断して行った、命がけのアクションが数え切れないほどの多くの人の命を死から救うことになるのです。

彼女はエリコの街に攻めてくるであろう敵のスパイをかくまいました。エリコの王はラハブのところに人を遣わして「家に入り込んだ者を引き渡せ」と迫りましたが、彼女は「その人たちはもう出て行きました」と嘘をついて二人を守ります。これは命がけのことです。もし、スパイの二人が見つかって捕らえられてしまったら、二人はもちろん彼女も裏切り者として確実に命を失うことになります。でも、ラハブは機転をきかせて二人を屋上の亜麻の束の中に隠し追っ手から守りました。彼女は出エジプトの出来事を人伝えに聞いて、直感的に確信したのです。ここエリコにも神様がいる。でも、本当にすべての人を救うのは、この方だと。10〜11節を読みます。「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心はくじけ、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません」。そして彼女は言うのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

当時、それぞれの民族は自分たちの神様を信じていました。それぞれの民族、その土地土地には神様がいて、戦争で負ければその神様が負けたことになりますから、その民族の神様もいなくなります。エリコにも当然、彼らが信じる神様がいましたから、ラハブの家族や親族のほとんどはその神様につながっていました。収穫のお祭りに参加したり、結婚式や葬儀など冠婚葬祭もその神様に捧げていました。何代にもわたってその神様の宗教に繋がってきていましたし、エリコのほとんどの人は、自分たちの神様こそが本物で絶対だと信じていました。でも、彼女はエジプトから小さな民族であるイスラエルを救った神様こそが全ての人を救う方だと気づき確信したのです。だから彼女は命がけでスパイの二人に頼みます。13節「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。当時の宗教観であれば、敵の神様に自分の家族の救いを求めることなどできることではありませんでした。でも、彼女の鋭い気づきと勇気ある決断が多くの人を死から救ったのです。

わたしたちにもこのラハブのように自分とつながる家族がいて、その中には教会に来たことのない人たちがたくさんいると思います。自分の親戚、いとこ、親の親戚、そのように家族とのつながりを広げて見ていきますと、彼らに連なるすべての者たちは実にたくさんになります。わたしたちはそのたくさんの人にとってのラハブになりたいのです。その人たちの命がすぐにエリコの人たちのように危険な状態になるわけではありません。でも、どの時代であっても気づかないうちに、わたしたちを少しずつ縛り付けていく原理主義という罠にとらわれてしまい、そこから逃れられなくなる人も出てくるからです。原理主義というのは、これさえあれば大丈夫。これを信じていれば他のことは必要ないという考え方です。お金原理主義があります。お金さえあれば幸せになれる、健康が守られる。そう伝えます。科学原理主義もそうです。科学技術によってどれほど寿命が伸び、生活は豊かになり、今では宇宙にまで人間を飛ばし、遺伝子を操作することで治らない病気もなくなる。人間にできないことはないとまでいう勢いが科学原理主義にはあります。宗教の中にも原理主義があります。キリスト教原理主義もその一つです。キリスト教でなければ救われない。他の宗教は全部うそ。あなたの家族もキリスト教にならなければ滅びますと伝えます。

ラハブはこの原理主義から自由でした。彼女はエリコの人たちが信じている神様ではなく、葦の海を干上がらせた上は天、下は地に至るまでの神様を信じて、この方こそまことの神様だと自分と家族とそれに連なるすべての者たちの命を委ねました。彼女は自分たちが信じる神様だけが絶対だという原理主義から自由だったのです。それと同時に天と地の全ての命を創造された普遍主義の神様こそ、わたしたちを死から救ってくださる方だと見抜きました。原理主義ではなく、普遍主義を嗅ぎ取るこのセンスというのでしょうか。嗅覚というのでしょうか。彼女にはそれがあります。わたしたちもそのセンスを身につけたいのです。この神様を信じなければ滅びますと原理主義者のようにではなく、この神様はすべての人を救う方だから、わたしも、わたしの家族親族、それに連なるすべての者たちを委ねる。わたしたちも彼女のように祈るのです。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。なぜなら、「神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

神様になんか頼まなくても自分の力でなんとかやれる。実際、神様なんて信じなくてもお金さえあれば幸せになる。そのような原理主義的な声が聞こえてきます。それは命の神様からすべての人を引き離す死への誘いです。ラハブは言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。天から地に至るまですべては神様によってつくられ、神様によって保たれ、支えられているのですから、その主なる神様から離れていくことは死んでいくこと、滅んでいくこと。彼女はそのことに気づいていたのです。

神などいない。神は死んだと言われた20世紀は、ある意味では科学原理主義が力をつけて、資本主義というお金原理主義がたくさんの人を惹きつけた時代だと言えます。ただ、同時にたくさんの人の命が戦争によって奪われた時代でもあります。21世紀に入って19年が過ぎましたが、わたしたちはラハブに倣って決断し、祈り願いたいのです。科学でもなく、お金でもない。本当にすべての者を生かし、わたしたちの命を救うのは、天と地を創造され御子イエス様の十字架と復活によってすべての人を救う神様だと、原理主義的ではなく、普遍主義的に信じるのです。

ラハブはマタイによる福音書の最初に出てくる系図によりますとダビデ王のひいひいお婆さんに当たります。ダビデ王のおじいさんのおばあさん、ルツの夫となったボアズのお母さんになります。ボアズが外国人のルツと結婚することにしたのもラハブお母さんの影響もあったと想像できます。マタイによる福音書の系図から見ますとこのラハブからダビデ王、そしてそのずっと後にイエス様がお生まれになったことがわかります。アブラハムから始まってダビデ王を通り、イエス様に至るこの系図の中にラハブの名前があること。原理主義的にある特定の人たちだけを救うのではなく、普遍的にすべての人を救う主イエス・キリストは彼女を含んだ系譜から生まれてくるのです。

ラハブはわたしたちと同じ弱さや欠けをもった一人の女性です。仕事も決して社会から評価されるようなものではありませんでした。世間からは冷たい目で見られていましたし、家族からも、家族に連なるいろいろな人からも嫌なことを言われていたことでしょう。しかし、彼女はできるだけ多くの人を死から救ってもらいたいと願いました。命の源である神様は必ずそうしてくださると彼女は信じたのです。だからこそ、勇気をもってエリコの王の命令に反して二人のスパイをかくまったのです。

礼拝の初めに読まれました招きのことば、ヨハネによる福音書3章16〜17節にはこうありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の御心は続く17節にこうはっきりと伝えられています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。御子イエス様によって一人でも多くの人が救われること、それが神様の願いです。

ラハブは願いました。わたしたちも彼女のように願います。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。主にある平和を心から願うわたしたちは、特定の人だけが救われる原理主義ではなく、すべての人が死から救われる普遍主義の道を歩んだラハブの系譜を継いでいきます。

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当ぺージでの引用聖書:日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988