牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
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2019年1月20日 御言葉は今日実現した

◆ルカによる福音書4章16〜30節
04:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
04:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
04:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
04:19 主の恵みの年を告げるためである。」
04:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
04:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
04:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
04:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
04:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
04:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
04:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
04:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
04:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
04:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
04:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

◆詩編111:1〜10
111:01 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:02 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:03 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:04 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:05 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:06 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:07 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:08 世々限りなく堅固にまことをもって、まっすぐに行われる。
111:09 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

イエス様が小さい頃から大人になるまで暮らしていましたガリラヤ地方のナザレは、ある聖書学者によれば人口500人ほどの村であったと言われています。500人と言いますとこの原町田教会が150人ほどの教会員数ですから、この教会が3つほどのイメージです。そのような小さな村でイエス様は大工仕事をする父ヨセフと母マリア、また兄弟たちと一緒に生活してきました。イエス様は幼少期をどのように過ごしたのか、福音書はあまり語っておりません。なぜなら、福音書の中心はイエス様の十字架と復活だからです。しかしながら、イエス様ご自身が聖書の御言葉をどう理解し、どんな経験をされて、生きてこられたのかを幸いなことにわたしたちは福音書を通して知ることができます。また、それ以上に幸いなことは、聖書が語る御言葉を、現代のわたしたちも経験することができるのです。すでにわたしたちは預言者イザヤが語った御言葉が実現したことを経験しています。イザヤ書7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この御言葉は、2000年前のベツレヘムで確かに実現しましたし、わたしたちも先月ですが、この御言葉の実現をクリスマスとしてお祝いしました。クリスマスにインマヌエルなるイエス様がお生まれになった。それゆえにイエス様が今もわたしたちと共にいてくださり一人一人を支えてくださっているのです。まさに御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現したということです。

これは2000年前のことだけではなく、2019年を生きるわたしたち一人一人が経験することでもあります。イエス様は言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とのイザヤ書61章1〜2節の御言葉が2019年のわたしたちの経験としても実現しているのです。

御言葉が今日、実現しているんだということをわたしたちが経験するためには、まず何よりもイエス様を信頼することが大切です。ナザレの会堂にいた人たちはイエス様の口から出る恵み深い言葉を聞いて驚いたのですが、イエス様の言葉を信じて「アーメン、それは本当です」と言わずに、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。イエス様が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言ったのですから、ナザレでも捕らわれている人が解放され、見えない人の視力の回復と圧迫されている人の自由がすでに実現していたのですが、会堂にいた人たちはそれを信じることができなかったのです。なぜならば、彼らは御言葉に培われた経験ではなく、人の言葉に培われた経験からイエス様を見てしまったからです。人の言葉から見ればイエス様はどこにでもいるような大工職人ヨセフの息子となりますから、会堂で人に教えるような立場ではありません。「あいつはあのヨセフの子ではないか」と見てしまうのです。しかし、御言葉に培われた経験からイエス様を見ますと違って見えてきます。

わたしたちもこのナザレの会堂にいた人たちのように人の言葉からいろいろと影響を受けています。知らず知らずのうちに、御言葉でなくて人の言葉で物事を解釈してしまうことがあるのです。例えば、何か悪いことがあった時に人の言葉はこう言います。「あなたが何か良くないことをしたからそうなったのでしょう」。わたしたちが事故を起こした時、受験やテストに落ちたとき、災害にあった時、病気になった時、自分自身でも「日頃の行いが悪かったんだ。だからこうなってしまったんだ」と何の疑問もなく思ってしまう。反対に良いことがあると「日頃の行いがいいからだね」と人の言葉は伝えます。しかし、御言葉はそのようには語りません。事故を起こしても、テストに落ちて落ち込んでいても御言葉は、「そのことを通してすら、神様は栄光をあらわそうとされている」と伝えます。災害にあっても、病気になっても御言葉は「あなたが悪いことをしたからそうなったのではなく、あなたの家族が罪を犯したからでもなく、神の業があなたに現れるためだ」というのです。御言葉に培われた経験があれば、自分自身や他の人が経験していることをそのように解釈できるのです。

わたしたちが生きる現代は特に「経済が成長すること」が何にも増して良いことだと伝えます。ですから、そのような「人の言葉」の影響を受けて知らず知らずの内にわたしたちは損得勘定で物事の判断をしてしまうことがあります。損得勘定という人の言葉を御言葉よりも大切にしてしまうのです。「あの人と付き合ったら自分がどれだけ良い経験ができるだろうか?自分にとって学ぶことがあるだろうか?」と思ってしまうのです。教会の礼拝に来ることも「今日の礼拝で自分はどれだけ学ぶことができただろうか?」と考えて、あまり学ぶことがないから止めておこうとなる。自分がどれだけ損するのか、または得するのか?自分の中からすぐに取り出せるものさしが、「損得勘定ものさし」になってしまう恐れがあります。御言葉を信じて今日を生きるわたしたちは、その損得勘定ではなく「御言葉ものさし」を常備しておきたいのです。人との関わりでは、「あの人のことをわたしは祈ったことがあるだろうか?」と立ち止まって考える。礼拝に出て「自分は御言葉によって作りかえられているだろうか?」「神様がわたしをあるがまま受け入れてくださっている、赦してくださっていることに感謝できているだろうか?」と考えるのです。「御言葉ものさし」をすぐに取り出せるようにしていれば、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とのイエス様の御言葉に「アーメン」と答えられるようになっていくのだと信じます。

とは言いましても、人の言葉は繰り返し語り続けます。今や科学(サイエンス)こそが人類を救う鍵だから、バイオテクノロジーを使ってヒトゲノムや脳の研究が進められていまして、難病と呼ばれる治すのが難しい病気も近い将来には治療できると言われています。とにかく21世紀になって科学技術はものすごいスピードで進んでいます。科学こそ人類を救う鍵だからわたしたちはそこにエネルギーを注ぐべきだと人の言葉は伝えますが、その進む先には未知なる世界が広がっています。例えば、人が望めば科学の力によって生まれてくる子どもを自分の理想通りにデザインすることができる、いわゆるデザイナーズベイビーが生まれてくる可能性があります。実際にアメリカなどではすでに精子バンクというものがあって、女性が自分で望む男性の精子をインターネットで検索して、購入して人工受精して妊娠、出産しています。髪の毛の色、目の色、優秀な大学を出た人、病気のことなども調べるのでしょう。科学こそ人類を救う鍵だという人の言葉には注意しなければなりません。なぜなら御言葉はこう言うからです。命あるものはすべて創造主なる神様が造られたもの。それらは「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。わたしたちが望んでいないようなことが起きたとしても、望んでいないような人と関わることになったとしても、その人も神から出た大切な命だと御言葉は語るのです。

さて、ナザレの会堂にいた人たちはイエス様を崖から突き落とそうとしました。それは彼らがイエス様の御言葉を勘違いしていたからだと思います。イエス様は「あなたたちに救いはない」と彼らに言われてはいません。イエス様は「すでに救いの御言葉は実現した」、「あなたたちはすでに解放され、視力も回復し、自由となった」と救いを宣言しているのですが、会堂にいた人たちはそれを信じて受け入れなかったのです。そこですでに実現している救いを彼らの目を開いて見せるために、イエス様は旧約聖書の2つの出来事を伝えました。それが列王記のエリヤとエリシャが同胞のユダヤ人ではなく、異邦人を助けた出来事です。イエス様はあえて外国人の2人を例として取り上げていますが、この2人に共通していることは苦しい状況にあっても伝えられた御言葉を信じて、それを行ったことです。サレプタのやもめは自分と息子の分しか残っていなかった小麦粉を使いきってパンをエリヤにあげました。壺の粉は尽きることがないと言った神様の御言葉を信じたからです。ナアマンは3度ヨルダン川に浸かりなさいと伝えたエリシャの御言葉を信じて恥を忍んで浸かりました。御言葉は実現するんだと信じて、自分自身とまわりを見るのです。そうすれば、主イエス様がすでにわたしたちを様々な囚われから解放してくださっているのが見えてきます。

捕らわれている人の解放も目の見えない人の視力の回復も、圧迫からの自由もナザレの人たちだけに与えられた特権ではなく、すべての人に与えられる恵みだとイエス様は伝えます。しかも、救いに預かるはずもないと思われていた異邦人であるサレプタのやもめとシリア人ナアマンが共に神様からの助けを頂いたというのです。これは「人の言葉」によって人を分け隔てて見てしまいがちなわたしたちに対するイエス様からのメッセージです。

イエス様によってすべての人はすでに救われています。すでに赦しは宣言され、主の恵みの年は始まりました。その御言葉を通してわたしたちは繰り返し自分自身を見るのです。こんなわたしは救いに価するのかとか、このわたしが愛され、赦されるなんてありえない、と勝手に決めつけてしまうことはないでしょうか?それは人の言葉で自分を見ているためです。御言葉は言います。「あなたはすでに捕らわれから解放されている。御言葉によってあなたの視力は回復し、自分自身を神様に愛された神の子として見ていいのです。それが圧迫からの解放であり、あなたは主にあって自由なのです」。イエス様を通して、聖書の御言葉が今日、わたしたちが耳にしたときに実現しています。

2018年12月23日 大きな喜びをすべての人に

◆ルカによる福音書2章1〜20節
02:01 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
02:02 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
02:03 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
02:04 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
02:05 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
02:06 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
02:07 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
02:08 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
02:09 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
02:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
02:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
02:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
02:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
02:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
02:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
02:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
02:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
02:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
02:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
02:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

◆詩編98編1〜9節
98:01 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。
98:02 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し
98:03 イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。
98:04 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
98:05 琴に合わせてほめ歌え 琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:06 ラッパを吹き、角笛を響かせて 王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:07 とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ。
98:08 潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ、共に喜び歌え
98:09 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き諸国の民を公平に裁かれる。

みなさん。クリスマスおめでとうございます。今年はたぶん、原町田教会の108年の歴史の中で初めてイランから来た人が2人もバプテスマを受けますから、ペルシャ語でもMerry Christmasを言ってみましょう。最初にわたしがゆっくり言いますから、覚えてくださいね。「キリスマス モバラックKirismass Mobarak」。では、一緒に言ってみましょう。「Kirismass Mobarak!」。

今日、この後に5人の方たちがバプテスマ、洗礼を受けられます。その中にはイラン国籍のHさんとVさんの二人がいます。日本語がまだあまり上手でないこの二人がバプテスマを受けることは、今日の御言葉が今まさにここで実現していることだと思うのです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。民全体というのは、すべての人たちという意味です。決してイスラエルの民全体だけではありません。今月出版された新しい聖書「聖書協会共同訳」では、このように訳されています。「恐れるな。私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。救い主がすべての人たちのためにお生まれになりました。わたしたちは毎週、礼拝を自分たちの慣れ親しんだ言葉と場所で捧げています。そうしますとついついそれが当たり前のように感じてしまい、いつの間にか神様の思いから離れてしまうように感じます。なぜなら、わたしたちはどうしても、自分の安心のための教会、自分の満足のための教会を求めてしまう傾向にあるからです。しかし、神様の思いは「すべての人」ですから、外へも向かっているのです。ですから、今日は特にこの天使が告げた神様の思いを忘れないようにしたいのです。「私はすべての民に与えられる大いなる喜びを告げる」。すべての人のための教会であれと神様は言われているのです。

今日、バプテスマを受けるHさんとVさんがイラン人という国の違いがありますから、わたしは余計にその神様の思いを感じます。ただ、神様は国の違いだけでなく、価値観が違う人にも、生まれや仕事、生き方が違う人にも、とにかくすべての人のために救い主イエス様を与えてくださいました。Iさん、Nさん、Yさんも国籍は日本で同じですが皆それぞれ違う生き方をする違う人です。神様はどんな人であっても、どこで生まれたとか、どんな学校を出てどんな仕事をしているのか。これまで何をしてきたのか、そのようなことは一切問わずに宣言されるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。生まれも生き方も違うこの5人が今日、「イエス様を救い主と信じます」と告白するのですから、この御言葉がここに実現しているのです。

すべての人が救い主イエス様と出会うことができるようにと神様は、イエス様との出会いの場所を誰でも緊張することなく行ける場所に設定されました。それが飼い葉桶です。神様はイエス様の誕生を当時の会堂、シナゴーグに告げ知らせずに野宿する羊飼いに伝えました。神様はすべての人がイエス様と出会って救われてほしいと願っているからです。もし、当時の人たちがシナゴーグでこの知らせを聞いたとします。でも、「わたしたちの新しい王様がどうして飼い葉桶に寝かされるんだ」と言って、探そうとしなかったかもしれません。あるいは知らされたことを信頼してそこまでやってきて飼い葉桶の中の赤ちゃんを見たとします。でも、「本当にこれが救い主なのか」と疑ったかもしれません。幸いにもそのようなことにはならず、羊飼いたちは急いで行って飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたのです。なぜなら、救い主は飼い葉桶の中にいたからです。もし、天使が羊飼いたちに「あなたがたは布にくるまって金でできた物に入れられた乳飲み子を宮殿で見つけるであろう」と言っていたら、彼らはそこにたどり着かなかったでしょう。でも、天使の言葉を信じていれば、どんな人でもたどり着ける飼い葉桶に救い主は寝かされていたのです。だから、彼らは救い主イエス様と出逢い、その光景をみてそのことを他の人たちに知らせたのです。救い主がお生まれになったという大きな喜びをすべての人に伝えたいという神様の思いが確かにここから始まりました。シナゴーグにあまり行ったことのない彼ら、羊飼いたちでしたが、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

すべての人に大きな喜びが告げ知らされました。わたしたちの周りにいる人、「こんなダメなわたしのところになんか神様の救いなんか来ないだろうと思い込んでいる人」のところにも、あるいは「とても苦しくて今を生きるので精一杯の人」のところにも神様は「あなたにこそ大きな喜びを告げる」と宣言されます。救い主イエス様が生まれましたとの知らせを最初に聞いたのが羊飼いだったというところに神様の思いが表れています。どんな人も、自分なんかダメだと思い込まされている人にも救い主が来たんだと神様は伝えるのです。

羊飼いは当時、律法学者さんたちからは「汚れた罪人」と見なされていましたし、実際に現代でいえば3K「きつい、汚い、危険」の仕事でした。夜通し羊の群れの番をしていたのですから、順番で寝ることができても外で寝なければなりませんし、眠たい時間に起きている必要もあります。羊が死んでしまった時には死んだ羊を葬らねばなりませんが、死んだ動物に触れることは律法では汚れたことでした。また羊を襲う狼や熊、ライオンなどから羊を守るために野獣と闘わなければなりませんので、非常に危険でした。きつい、汚い、危険の仕事をしていた羊飼いたちでしたから、会堂の礼拝に出ることも難しかったでしょう。そんな彼らですから、天使が現れた時にとてもビックリしたのです。

今日、5人の人たちがイエス様を救い主として信じてバプテスマを受けます。バプテスマは、新しい命の誕生でもあります。5人はすでに体をもってこの世に生まれていますが、今日、5人はキリスト者としての命を神様から頂きます。「オギャー」「オギャー」と5人がキリスト者として産声をあげるのですから、わたしたち原町田教会家族は5人が生まれてくることをとっても楽しみにしています。2000年も前に羊飼いたちが聞いた言葉を今日、原町田教会家族のわたしたちも聞くのです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。赤ちゃんが生まれますから、わたしたち家族は生まれた後のパーティーの準備もして来ました。一緒に新しい命の誕生を祝う愛餐会です。新しく生まれるのですから、この礼拝堂はある意味、分娩室といってもいいかもしれません。わたしたちは家族として、自分たちの家族となる新しい命の誕生に立ち会うのです。わたしたち原町田教会家族みんなにとって、それは大きな大きな喜びです。

わたしは5人が無事に生まれますようにとここ1、2ヶ月間ずっと祈ってきました。5人のみなさんにはそれぞれこの後、信仰告白をしてもらいますが、この中には病気をされて苦しい時を過ごしてきた人もいますし、国に帰ることができないので難民申請していまして、そのために生活が大変な人もいます。バプテスマを受けて、キリスト者になったからこれからはすべてうまくいく、と思いたくなるのですが、そううまくはいくかどうかはわかりません。でも、確かなことがあります。それは皆さん5人は原町田教会の家族になるということです。2週間前の礼拝の後に5人の人たちを礼拝堂の前に招き、会衆の皆さんに紹介をしましたが、どうしてそうしたのかと言いますと、「今回、バプテスマを受ける人たちがどんな人かわからないので、バプテスマ式の時に教会員になることを認めてくれる人は手をあげてくださいと言われても責任が持てないかもしれない」と言ってくださった人がいたからです。わたしは嬉しかったです。神の家族になろう、助け合える家族となるためにも事前に知っておきたいとの声だと受け止めました。毎週日曜日にここに集って礼拝を捧げ、時々一緒にご飯を食べ、お話をしていきますとだんだんとつながりができてきて、互いに祈り合い、助け合う家族になっていくとわたしは信じています。今日、新しく加わる5人も、またすでにつながっているわたしたちも皆、全員が救い主イエス様によって導かれて神の家族となっていますから、これこそ、神様の救いの御業です。

原町田教会のわたしたちは今、新しく会堂と園舎を建てる話を進めていますが、羊飼いたちでも入ってこられるような建物を建てたいと思います。バリヤフリーとかいろいろとハード面でのことが言われていますが、何よりもわたしたちの心が飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つこと、エルサレムのヘロデ王がいた宮殿ではなく、ベツレヘムにある小さな家の飼い葉桶のような低い心をもったわたしたち教会でありたいと思うのです。

どんな人でも神様の前に立つならば、みんな罪ある人間です。諸国の民を公平に裁いてくださる方の前に立つならば、横にいる人たちも皆、全く同じ高さに立つことになります。みんな等しく罪あるものであると同時に、みんな神様に等しく愛された者でもあるのです。詩編89編にありましたとおり、救い主はこの地を公平に裁くために来てくださいました。それは89編8節に「山々よ、共に喜び歌え」とある通り、嬉しいこと、喜びの知らせなのです。なぜなら、わたしたちが生きるこの地にはたくさんの不公平が蔓延しているからです。わたしたちの心は自分と人とを比較して、幸せを感じようとしたり、人と比べて自分は不幸だと思ってしまいます。あの人の方がわたしよりも愛されているんじゃないか。どうしてわたしはこんなに苦しまなければならないのか。他の人を見ているとどうしても自分と比較してしまうことがあるのですが、救い主を信じるわたしたちは地を正しく裁かれる神様の前に立って、自分の周りにいる人を見渡します。そうしますと、みんな、みんな等しく罪人なんだと気づくのです。あの人も、この人もすべての人が神の前に立つならば、罪人なのです。同じように神様はご自分がお造りになったすべての人を等しく、全く公平に愛しておられます。主なる神様の公平な裁きが、浮き沈みの多いわたしたちの心を平らに、平安にします。そして人と自分を比較することなく、あの人も、この人もわたしと同じように神様に愛された尊く大切な人として見ることができるのです。それが飼い葉桶に寝ているイエス様と同じ地平に立つということ。

この原町田教会という神の家族の中でまずそのことを実践していきましょう。そして少しずつ羊飼いのように、ここ原町田教会で見聞きしていることがすべて神様の話した通りだと信じ、神様を賛美し、他の人たちに「聖書のこと、本当だよ。日本人もイラン人もすべての人に大きな喜びが告げられているよ」と伝えてまいりましょう。

「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

2018年11月11日 約束を信じて一歩

◆創世記18章1〜15節
18:01 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:02 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:03 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:04 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:05 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:06 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:07 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:08 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
18:09 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

◆ローマの信徒への手紙9:8〜9
09:08 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
09:09 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

◆詩編105:1〜11
105:01 主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。
105:02 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい 驚くべき御業をことごとく歌え。
105:03 聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人よ、心に喜びを抱き
105:04 主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。
105:05 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を 主の口から出る裁きを心に留めよ。
105:06 主の僕アブラハムの子孫よ ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。
105:07 主はわたしたちの神 主の裁きは全地に及ぶ。
105:08 主はとこしえに契約を御心に留められる 千代に及ぼすように命じられた御言葉を
105:09 アブラハムと結ばれた契約 イサクに対する誓いを。
105:10 主はそれをヤコブに対する掟とし イスラエルへのとこしえの契約として立て  
105:11 宣言された 「わたしはあなたにカナンの地を 嗣業として継がせよう」と。

今から40年近く前の1979年に子門真人さんがある曲をレコードで売り出しました。この曲ですが、ご存知ですか?「アブラハムには7人の子、一人はのっぽであとはチビ。みんななかよく暮らしてる。さあ踊りましょう。みぎー手」。教会やYMCAのキャンプ、幼稚園や保育園でも歌われている曲です。元はアメリカの童話だと言われていますが、日本では、「およげ!たいやきくん」で有名な子門真人さんがこの曲をレコードに出してから知られるようになりました。この歌ではアブラハムには7人の子とあるので、そうだろうと思ってしまうのですが、聖書をよくよく読みますとアブラハムには、まず最初に女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、次にサラとの間に生まれたイサク、そしてサラが天に召された後にめとったケトラとの間に生まれた6人がいます。足し算しますと8人となりますので、正確に歌うと「アブラハムには8人の子」となります。ま、歌のことはいったん脇におくとしまして、8人ですからアブラハムにはとにかくたくさん子どもが与えられたことは確かです。

そのアブラハムが75歳の時です。突然、神様は次のような約束を彼に伝えました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。神様が初めてアブラハムに言ったのがこの約束の言葉でした。でも、その時まで子どもを持たなかった彼に子どもがすぐ与えられることはありませんでした。何年か経った後、神様は再びこのように約束の言葉を伝えました。「恐れるな、アブラムよ。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。最初の約束からすでに何年も経っていましたから、アブラハムは神様に問いかけます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。あなたはわたしに子どもを与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」。すると神様は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのでなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。そして神様は彼を外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。東京の夜のような空ではなく、満天の星がきらめく電気も何もない真っ暗な時代の星空ですから、その数は数え切れないほどでした。

今日の創世記18章では、アブラハムはすでに99歳となり、女奴隷ハガルから生まれた初めての子どもイシュマエルは13歳になっていました。でも、神様は人間の側の常識や知識などにとらわれることなく、約束を果たすためにアブラハムのところに使いの者を送られます。3人の人がアブラハムのところにきて、神様の約束を再び伝えます。18章10節「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」。この言葉を聞いたサラは笑いました。彼女は心で「そんなことは無理に決まっている。神様は20年以上も前からそう言っているけれども何も変わっていない」と思ったのでしょう。彼女の思いに多くの人は「そうだ、そうだ」と思うはずです。それがわたしたち人間の側の常識だからです。すると主なる神様は言われます。13節「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのか。主に不可能なことがあろうか」。

サラが笑ったように、わたしたちも時に自分の常識や知識から物事を見て、「そんなこと無理でしょう」と思ってしまうこともあります。信仰の父と呼ばれるアブラハムもそうでした。「そんなの無理」と笑ったのは実は彼女だけでなくアブラハムも18章の前のところで同じように「100歳の男に子どもが生まれるだろうか」と言って笑っています。信じて待ち続けていたけれども何も起こらない。実現するどころか、神様の約束とは違うようになっている。自分の目から見るとそのように見えてしまう。それがわたしたちの限られた視野なのでしょう。わたしたちの見える範囲は自分が経験したこと、あるいは知っている範囲ですし、時間で言えば長くても2、30年ぐらいの視野しかもつことができないのかもしれません。でも、神様が見える範囲は全然違います。時間で言えば1000年、あるいはもっと長い範囲で見ることができます。詩編90編にある通りです。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。また、知識や知恵に関しても神様はわたしたちをはるかに超えています。わたしたちが科学的な研究によって得た知識にしてもまだまだこの宇宙のほんの少しだけしかわかっていないのですから、宇宙を造られた神様と比べようがありません。そのことを忘れて自分の理解できる範囲のことしか信じない。自分の許容範囲を超えることを信じることにわたしたちは時に恐れを感じるのかもしれません。

しかし、神様はわたしたちが「そんなの無理」と笑っても、理解できなくても、わたしたちが信じられないと思っても、約束されたことを必ず果たされます。アブラハムもサラも神様の約束を聞いて笑い、「あなたは確かに笑った」と少し厳しく指摘されましたが、神様はその約束を確かに果たされました。21章の1節にはこうあります。「主は、約束された通りサラを顧み(少し飛ばして)彼女は身ごもり、男の子を産んだ」。

どうして、わたしたちは素直に約束の言葉を信じられないのでしょうか?たぶん、それはわたしたち自身が約束を守ることが難しいからなのかもしれません。わたしは大学生の時ですが、フィリピンのネグロス島に行きまして、ある NGO団体の施設に1ヶ月ほど滞在してボランティアをしました。農業の研修などで来ていた地元の青年たちと一緒にマングローブの木を植えたり、豚の世話をしたり、寝泊りも一緒でしたのでとても仲良くなりました。最後の別れの日に仲良くなった人から「また来てね。約束だよ」と言われまして、わたしは「Yes また必ず来るよ」と答えました。でも、その約束は20年以上経った今でも果たせていません。「必ずそうするよ」と言ったことを時に守ることができない自分ですから、人が言った約束も素直に信じられないのかもしれません。

でも、幸いなことにわたしたちが信じられなくても、たとえ「そんなこと無理」と思って笑ったとしても、神様は約束したことを変更することなく果たしてくださいます。主なる神様は、わたしたちを愛し、すべての人のまことの生みの親ですし、その親なる神様がすでに果たしてくださった約束が聖書の中にたくさん載っています。アブラハムとサラへの約束以外にも、ヨセフをエジプトに送ってヤコブたち家族を助けるとの夢によって知らせた約束、モーセに伝えたエジプトからイスラエルの人たちを助け出す約束などなど、たくさんあります。それに加えて、今も進行中の約束やこれから果たされる約束もあります。それらの約束は、今を生きるわたしたちに神様が伝えている言葉です。例えば、ノアを通しての約束「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。ヤコブを通しての約束。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」。イザヤ書にはこうあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直してすきとし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。イエス様が天に昇られる前に言われた約束の言葉はこうです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。終わりの日にはこうなるよとヨハネの黙示録で神様は約束の言葉を伝えます。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。わたしたち人間の常識を超えた約束をすでに何度も果たされてきた神様ですから、これらの約束も神様は必ずいつか果たされます。信じられないと思う時もあります。わたしたちの知識もまた心もグラグラと揺れ動くものですから、時にサラのように笑ってしまうこともありますが、神様は必ず約束を果たされます。だから、その約束を信じて生きていくところに希望があるのです。神様が伝える約束は時に常識を超えていると思ってしまうかもしれません。でもそれを信じて一歩、足を前に踏み出す先に道は開かれていくのです。アブラハムもサラも笑いましたが、その後、約束の言葉を信じて一歩踏み出しました。そうでなければ、子どもは産まれてこなかったでしょう。

わたしたちは毎週、礼拝の中で「神様を信じます」と声に出して言っています。使徒信条の中で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と声を合わせて一緒に信仰を告白しています。神様を信じるというのは、神様がいるとか、神様がいないとかそういう次元ではなく、神様がわたしたちに約束されているその言葉は必ずそうなると信じて一歩前に踏み出すことなのです。

ローマの信徒への手紙の9章8節にはこうあります。「すなわち、肉による子どもが神の子どもなのではなく、約束に従って生まれる子どもが、子孫とみなされるのです」。わたしたちは皆、それぞれに肉による親がいて、その親から生まれてきますが、子どもは親を選べません。でも、聖書が伝えるのは、すべての人は約束に従って生まれる神の子どもだということです。神様がアブラハムに最初に言われた約束は、「あなたによってすべての人が祝福に入る」でした。その約束は、わたしたちの罪をすべて赦してくださったイエス・キリストによって果たされました。すべての人は神の子どもとして今も祝福されています。これは神様の約束の言葉ですから、わたしたちは「イエス様によって、神様がこのわたしを含めたすべての人を祝福されている」と信じます。

今日は子ども祝福式ですから特に0〜7歳の子どもを覚えて神様の祝福を心から祈ります。でも、神様は70歳を超えた人も90歳を超えた人もすべての人を「あなたはわたしのかわいい子どもたち」と祝福しておられます。「そんなこと無理ですよ」と思って笑ってしまうこともあるわたしたちであっても、神様は「わたしが伝えた約束を信じて生きていきなさい。そうすれば、希望は決してなくならない」と言われていますから、神様の約束を信じてわたしたちは一歩前に踏み出します。

2018年11月4日 虹の契約

◆創世記9章8〜17節
09:08 神はノアと彼の息子たちに言われた。
09:09 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
09:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
09:11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
09:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
09:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
09:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
09:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
09:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
09:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

◆詩編1:1〜6
01:01 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
01:02 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
01:04 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ノアの物語は、創世記6章から始まっていまして、神様は人間が悪いことばかりしているのに心を痛め、後悔された場面から始まります。そしてノアとその家族にこのように言われました。「わたしはすべて肉なるものを滅ぼす。しかし、あなたたち家族は箱舟を造り、その中に入りなさい。また、全て命あるもののオスとメスも箱舟に連れて入り生き延びるようにしなさい」。実際に箱舟ができた後、雨が40日間も続いて、ものすごい洪水が起き地上からすべて命ある生き物はぬぐい去られました。しかし箱舟にいたノアとその家族、また動物のつがいたちは生き延びて、約1年後にようやく箱舟から地上に降り立つことができたのです。待ちに待った地上に彼らが降り立った時、ノアがまずしたことは、神様に礼拝を献げることでした。そのノアに神様が言われます。創世記8章21節「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

聖書は旧約聖書と新約聖書と二つに分かれていますが、いずれも神様とわたしたちとの契約の書物です。神様と人間との契約。契約と聞いてわたしたちがイメージしますのは、双方に守るべき事があって、お互いにそれを守ることが契約の条件となるということです。例えば、身近なことですと、働くときに交わす雇用契約もそうですし、アパートやマンションなどに住むときに交わす賃貸契約などが有ります。雇う側が働く時間や場所、仕事の内容をきちんと記して、その条件に対してこれだけの賃金を払いますと書いてその契約書に双方がサインをして契約が成立します。賃貸契約も同じ要領で借りる人と貸す人との双方が契約を交わします。旧約聖書でもシナイ山で神様がモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約は神様と人間との双方が交わすものでした。十戒を守るならば神様は必ずあなたたちを守り祝福するが、もしそれを破ったならば契約は破棄されるのです。

しかしながら、神様がノアと交わした契約は、双方が守るべき約束というよりも神様からの一方的な恵みを約束する契約でありました。9章9節で神様はノアと彼の息子たちにこう言われます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる」。10節後半「箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」と言われて、神様自身が守るべきことを続けて言われます。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。この契約の最大の特徴は、神様だけが「何があっても決して滅ぼさない」という無条件に義務を負っているところです。

神様はもう決して滅ぼさないという契約のしるしとして虹を示されました。今でも虹が出るときに神様は、雲の中に現れた虹を見て、「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と永遠の契約に心を留めてくださっています。創世記9章14節にあるとおりです。「わたしが地の上に雲を涌き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものすべて滅ぼすことは決してない」。

最近、虹を見た方はいらっしゃいますか?虹を見て、わたしたちは何を思うのでしょうか?綺麗だな、久しぶりに見たなと思うのでしょうか。わたしたちは、神様が「決して滅ぼさない」と言われた恵みの契約、虹の契約を思い出したいですね。神様はどうして虹を契約のしるしとして選ばれたのか?虹を選ばれたのには、理由があって、虹には神様からのメッセージが込められていると思うのです。虹は日本では7つ色の赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫があって、それぞれの色はどこからどこまでが赤で、ここからはっきりオレンジになるということが難しく、それぞれの色の境をはっきりさせるのが難しい。虹をよく見ますとそうなっています。わたしはその虹を契約のしるしとされた神様の思いは御子であるイエス様にしっかりと引き継がれていると思うのです。そのことをわかりやすく述べている御言葉があります。それが今日の礼拝の招詞で読まれましたガラテヤの信徒への手紙3章の御言葉です。契約のしるしである虹の意味を聖書はこう伝えています。3章26〜28節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。色と色との間にある境がはっきりしないグラデーションである虹を神様が契約のしるしとされたのは、いまだにわたしたちの中にある間違った考え方を正すためだと思うのです。色をはっきりと分けてその違いによってある人たちが他の人たちを否定しようとする間違った考え方を正すためです。例えば黒人と白人というように区別して考えることがありますが、想像して見てください。白と黒の色をグラデーションとして少しずつ白が黒くなり、黒の方からは少しずつ白くなっていったとしたら、どこからが黒人で、どこからが白人なんて線を引くことはできません。同じように身分の違いによって人の価値を高くしたり低くしたりすることも神様の前ではできません。男と女の違いも虹のようにグラデーションがあって、男と女の間には様々な色合いがあるだけで、はっきりと分けられません。でも、なぜかわたしたちは人と人との間にはっきりとした境界線を引こうとして、あなたたちはこの色だからとラベルを貼って、あなたたちはあっちに行きなさいと無理に分けようとしてしまうのです。その隔たりが大きくなればなるほど「あなたたちは滅びに近づくのだ」と警告するのが虹のしるしなのだと受け止めます。

わたしたち人間が心に思うことは幼い時から悪いものですが、神様は雨の後に虹を見せてくださって、あなたたちは虹の色のように少しずつ違っていて一人として同じではない。その違いの間にむりやり線を引いて境を作らないで、その境を虹のようにつなぎ合わせて一緒に生きていくのですよと教えてくださっています。キリストの体であるこの教会に集っていますと、教会の人たちって、みんな違っていて、一つの色にまとまるのが大変だけど、いろんな色だからこそ、それが虹のようなグラデーションでつながっていてまさにキリストにあって一つの虹なんだと思わされます。

今日は聖徒の日、永眠者記念礼拝です。この日に神様は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との一方的な恵みの御言葉をくださいました。色と色との境目がぼやけて途切れることなくつながっている虹の契約です。虹の契約には命と死という境目をもつなげてしまう約束が含まれています。それがイエス様の死と復活によって明らかになったことです。

3ヶ月ほど前の7月下旬のことですが、わたしは共助会というキリスト者の集まりで今年89歳の加藤常昭先生の講演を聞きました。そのお話が「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との虹の契約と深く関係しているように思いましたので、少しその話を紹介させてください。わたしはその時初めて、加藤先生が妻の介護や、彼女が地上の生涯を終えられた時の先生の気持ちをお聞きしました。加藤先生は、妻であるさゆり先生の10年を超える舌癌、最後にはリンパ癌を併発し、厳しい認知症を伴う苦しい病床生活を共にして、在宅介護を引き受けてきました。さゆり先生とはご一緒に伝道をした仲間であり、妻であり、母でした。加藤先生は、妻の死が近づいているのを覚えて、息もできないほど苦しみを味わったと話されました。そして妻の死去の日の夜、加藤先生は親友のメラー教授にメールをしました。するとその1時間後に次の返答をもらい、加藤先生はそれを読み1時間も涙を流し続け、深い慰めを得て、その後、涙にくれることはなくなったと話しました。これがそのメールです。「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再び手を取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、蘇りの朝だよ!』と。だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍にいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺していってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいてしあわせでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、心に食い込みます。あなたに神の慰めがくだってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの、仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますよね。キリストの蘇りのメッセージがあなたを捉え、この厳しいときに、励ましてくださいますように。あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころからの挨拶を送ります。クリスティアン・メラー」。

神様が今日、ここに集うわたしたちに言われました。「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」。この一方的な恵みの契約は、イエス様の復活によって神様とイエス様を救い主と信じるすべての人との間の永遠の約束となりました。イエス・キリストは「生きる」と「死ぬ」という境界線を乗り越えられました。イエス様の復活以前の世界では死は命の敗北、死はすべての終わり、死は悪の勝利と思われていました。しかし、イエス様が復活されて死はもはや命の終わりではなく、復活の命の始まりとなりました。「肉なるものすべてを滅ぼすことは決してない」と言われた神様は、イエス・キリストの死と復活によって、ノアと交わした永遠の契約を確かに更新されたのです。わたしたちの多くが滅びとして恐れる死は、もはや滅びではなくなりました。イエス様の前に死そのものが滅んだのです。死んで、土に帰って、存在しなくなるわたしたちのからだを神様がその御手にとって、「起きなさい。蘇りの朝だよ」と必ず引き取ってくださいます。虹の契約は「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と言われます。

2018年10月7日 一緒に福音宣教

◆使徒言行録5章27〜42節
05:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
05:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
05:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
05:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
05:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
05:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
05:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
05:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
05:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
05:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
05:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
05:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
05:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
05:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
05:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
05:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

◆詩編37編30〜40節
37:30 主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語る。
37:31 神の教えを心に抱き よろめくことなく歩む。
37:32 主に逆らう者は待ち構えて 主に従う人を殺そうとする。
37:33 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 罪に定められることをお許しにならない。
37:34 主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
37:35 主に逆らう者が横暴を極め 野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。
37:36 しかし、時がたてば彼は消えうせ 探しても、見いだすことはできないであろう。
37:37 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。
37:38 背く者はことごとく滅ぼされ 主に逆らう者の未来は断たれる。
37:39 主に従う人の救いは主のもとから来る 災いがふりかかるとき 砦となってくださる方のもとから。
37:40 主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

使徒言行録5章に出ていますペトロは、イエス様のことを3度も「知らない」と言って自分の身に危険が降りかかることを恐れた人でした。またペトロと一緒にいる使徒たちは皆、つい2ヶ月ほど前にイエス様を置き去りにして逃げていった人たちです。でも彼らは、イエス様を捕まえてピラトに引き渡したあの大祭司から「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と言われても堂々と次のように答えました。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。それに続けて「こんなこと大祭司たちに言ったらイエス様と同じように殺されるかもしれない」と思うようなことをペトロや使徒たちは堂々と言うのです。30〜32節「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。この言葉を聞いた人たちは、激しく怒ったとあります。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。しかし、そこに民衆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルが立って落ち着いた感じで言いました。38節「そこで、今申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」。

ペトロなど使徒たちは、イエス様によって始められた救いの御業は神様が始められたことなのだと確信していました。だから、堂々と大祭司を前にして「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言えたのです。彼ら使徒たちはみんな以前から強い信仰を持っていたわけではなく、皆、自分の力ではイエス様に従いきれなかった弱さや欠けをもった人たちです。でも「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く言えたのは、彼らが聖書をいっぱい勉強したからでもなく、たくさん修行したからでもなく、ただ、神様の力がそこに働いていたからですし、神様が主となってわたしたちと一緒に働いていてくださると信じていたからです。それともう一つ。彼らはイエス様を裏切ったという辛い経験をしていましたが、イエス様はそれをなんの償いもなく赦してくださった。そんなわたしたちだけれども福音宣教のために遣わしてくださった。その神様の愛を経験していたのです。イエス様に従うことができなかった弱さを持った使徒たちが、教会をスタートしていることにわたしは正直ホッと安心しますし、それと同時に神様はそんな彼らを福音宣教という御業のために用いてくださることにわたしは勇気をもらいます。福音宣教というのは、人間主導で行うことではなく、神様がわたしたち人間を用いて行う神様の御業なのだと聖書は伝えているのです。

使徒言行録は駅伝に例えるならば、聖霊の「ヨーイ、ドン」との掛け声によって、福音宣教の使命を受けた教会が走り始めたスタート地点です。山あり谷ありのコースで福音という名前のタスキを手渡して走り続ける教会を神様が先導し、神様がこのレースの総監督ですから、必ずゴールすることができます。スタート地点から走り始めたわたしたち教会は、2000年経った今も走り続けていますから、これは律法の教師ガマリエルが言っている通りです。「あの計画や行動が人間から出たものであれば、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。原町田教会もその福音という名前のタスキを手渡されて、他の教会と一緒に走り続けています。普通、駅伝は他のチームよりもより早く走ろうとしますが、神様主導の駅伝はより早く走るのではなく、一人でも多くの人に福音という名のタスキを渡すことを目的としていますから、一緒に走る他の教会とも協力して走るのが特徴です。

今日は世界聖餐日であると同時に「世界宣教の日」でもあります。宣教と聞いて、誰がそれをするのか。福音を宣べ伝えるのはもちろんわたしたち教会であり、福音を手渡されているわたしたちだからこそ、福音を伝えることができる、そのように考えます。でも今日の御言葉にも関係していますが覚えておきたいことがあります。それは「神の宣教」、ラテン語で「ミッシオ・デイ」という考えです。キリスト教会の歴史の中で長くヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考えていました。その考え方から教会は、まだキリスト教が伝わっていない国々にどんどん宣教師を派遣しました。でも、そのような教会の宣教の業が当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教を伝えていくことと同時に植民地支配に加担してしまったという負の歴史があります。そのことを反省し戦後になってからですが、WCC(世界教会協議会)は、「救いは教会から」だけでなく、「神様は教会に先立って、この世界で働いており、教会はその神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考え方を改めたのです。神様は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっています。だから教会は神様と一緒に福音宣教をしていく。これが「神の宣教」という考えです。

神様がわたしたちよりも先立って世界宣教を進めていると聞いて、ではどうして未だに世界では暴力がなくならず、また貧富の差があって、一部の人がものすごいお金持ちになり、反対にその日の食べるものにも苦労する貧しい人がまだいるのかと疑問も感じます。また、悪いことをする人が栄えていくようにも思えてしまいます。先ほど読みました詩編にもありました。37編35節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た」。神様の言うことを聞かないで自分さえ良ければいいと思う人たちが勢いを増しているように見えるのです。ただ詩編では36節「しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見いだすことはできないであろう」とありますから、悪いことをした人はみんな滅びて、良いことをした人が最終的には幸せになると思いたいわたしたちでもあります。しかし、この詩編はわたしたち人間の側からの思いを神様に祈り願う言葉ですから、そこにはおのずと限界があります。悪は滅び、主を信じる者だけが生き残るというのは神様の本当の御心ではありません。なぜなら、神様の前に立って見れば誰でもどんな人でも大なり小なり悪に心を動かされる罪人だからです。だからこそ、神様はわたしたち人間があの人は悪い人だとか、あの人は良い人だと勝手に判断するのを超えて、命与えられたすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。31節で神様はイエス様をご自分の右に上げられたというのはそのことを言っているのです。

使徒信条でも、イエス様は復活した後「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言っています。イエス様は神様の右側にある椅子に今もどしりと座っている、そうイメージする人もいるかもしれません。でもこれはイエス様のいる場所を伝えているのではありません。イエス様が神様の右に上げられたというのは、イエス様が神様と同じようにわたしたちのいるところ、どこにでも共にいる神様の力を得て、今もわたしたちに「あなたは神様に愛された神の子ですから、あなたは独りではありません。だからわたしを信じて生きなさい」と福音を伝えている。「神の右に座したまえり」というのは、イエス様が神様と同じ普遍の存在だと伝えているのです。イエス様はまさに神様と同じ力を持つ救い主キリストであり、すべての人の救い主になられて今も生きて、わたしたちに先立って働いておられるのです。

教会につながる一人一人はこの事実の証人、あかしびと、イエス・キリストについての福音のタスキを手渡す素晴らしい使命を持っています。わたしたちに何か人にうまく伝える能力があるからでもなければ、長く教会に集っていれば福音を理解して伝えるのがうまくなるとか、聖書を勉強しなければできないとか、わたしたちの側の課題は二の次三の次で、まず何よりもこの計画やこの行動は神様から出たものであり、そのために神様が教会をたてられ、毎週日曜日の礼拝で福音が告げ知らされ、それが2000年も続けられている。これが人間から出たものではなく、神様から出たものであることは確かな事実です。

神様はわたしたちに福音を宣べ伝えるという喜びの働きを託されていますが、神様はわたしたちの働きを遠い天で椅子にどしんと座って眺めているわけではないのです。わたしたちに先立って神様ご自身が宣教されているのですから、福音のタスキをなんとか手渡そうと苦労しているわたしたちの走りをすぐ近くで見ていてくださり、時に「こっちの方に行けばいいよ」とわたしたちのところまで戻ってきて導いてくれる。そう思いますとホッとすると同時に力が湧いてきます。

わたしたちにできることは小さく、多くはありませんが、「神の宣教」の考え方からすれば、神様がわたしたちに先立ってわたしたちの小さな業をも福音宣教のために用いてくださっていると信じることができます。そこで特に大切にしたいのは、ただイエス様のことを知識や情報として伝えるのではなく、コリントの信徒への手紙に「愛がなければわたしに何の益もない。愛は決して滅びない」とありますから、愛をもって伝えることです。どれほどの知識があっても、どれほどの大事業を成し遂げたとしても、そこに愛がなければそれらは必ず消えてなくなります。わたしたちが取り組む福音宣教の活動でも愛がなければ、ガマリエル曰く「それは神から出たものではないので自滅する」でしょう。でも、小さな働きであってもそこに愛があれば、その行いを神様が支えてくださるのです。たとえ寝たきりで「生産性がないと思われても」その人が口で描く絵や祈りの言葉で一人でも力づけられるなら、それは小さいけれど愛の業です。80歳、90歳となって自分は「ご迷惑ばかりかけて申し訳ない」と思う人であっても教会の掲示板に説教題を書く奉仕をして、その掲示板を見た人が礼拝に集うようになるならば、それは小さいけれど愛の業です。わたしたちにできること、わたしたちが行うことは本当に小さなことなのですが、でもそこに愛があるならば、私たちに先立って働かれる神様がその働きを必ず助けてくださいます。この後に歌う讃美歌にある通りです。「小さな花をカゴに入れ、寂しい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、暗い胸も晴れるでしょう。愛の業は小さくても神の御手が働いて悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう」。

福音宣教はわたしたち自身の生き方だと思うのです。神様がこんなわたしだけれども福音のタスキをくださっているのだから、わたしはあの人に神様の愛を手渡そう。わたしたちに先立っておられる神様がいるのだから、小さなわたしを用いてくださいと祈りながら「これを差し上げます」とタスキを渡す。後は神様の御手にお委ねすればいいのです。それは人間から出たものではなく、神から出たものですから、決して無駄になることも無くなることもありません。自分で伝えることが難しければ、「教会へどうぞお越しください」と心を込めてお招きすればいい。後は先立って働かれる神様の御手にお任せする。

わたしたちが今、手にしている福音のタスキは、使徒たちの時から2000年の間に綿綿と手渡され続けてきたものです。このタスキを手渡すわたしたち原町田教会の福音宣教の計画と行動は、人間から出たものではなく、神様から出たものですから、たとえ「イエスという名前を話してはいけない」と言われても、わたしたちは愛と勇気を持って福音を告げ知らせてまいります。

2018年9月16日 生きていることが素晴らしい ー大いなる肯定―

◆マルコによる福音書14章12〜25節
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

◆詩編96編1〜9節
96:01 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
96:02 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:03 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。
96:04 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。
96:05 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ
96:06 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。
96:07 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
96:08 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り
96:09 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

今日の御言葉で気になるのは、やはりユダという存在ではないでしょうか。イエス様はこの食事の席でこのように言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしているものが、わたしを裏切ろうとしている」と言われ、続けてこう言われました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエス様はユダについて言われているのですが、この言葉はあまりにもひどいなぁ、どうしてイエス様はこんなことを言うのかなぁと思ってしまう。この一言はそんな言葉です。この言葉は一見、イエス様がユダの命を否定しているようにも見えてきます。しかし、今日の箇所全体を読みますとイエス様はご自分のすぐ近くにいるユダを否定するわけでもなく、排除するでもなく、ユダも含めたすべての人のためにご自分の命をかけて大切なことを伝えようとしているのが見えてきます。

この食事の席にはユダがいました。イエス様がパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えた時も、杯を飲んで「これは多くの人のために流されるわたしの血である」とイエス様が言われた時もユダはそこにいてパンを食べ、杯から飲みました。ヨハネ福音書ではイエス様に裏切りを予告された後、ユダはすぐにそこから出て行ったとありますから、他の福音書でもユダは裏切りの予告の後にすぐ退席したと思うかもしれません。でも、マルコによる福音書が最も古い福音書ですし、もし退席したならそのように書いてあるはずなのですが、今日読んだところにも、マタイやルカ福音書にもユダが食事の席から立ち去ったとは書いてありません。ですから、イエス様は「これはわたしの体である」と言って手で裂いたパンも「これは多くの人のために流されるわたしの血である」と言って渡した杯もユダは受け取ったのです。もし、ユダがこの席にいなかったとしたらイエス様が命をかけて伝えたことが限定されてしまいます。しかし、イエス様はそこにいたみんなが杯から飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」と言われました。ここからイエス様が自らの命を多くの人の罪のために献げられたと解釈されるようになりました。なぜなら、彼らは過越の食事をしていたからです。本当ならば罪を犯した人がその償いのために罰を受けなければならないのですが、その罰はその人の前を過越していき、イエス様ご自身がその罪すべてを小羊のように負ってくださったのです。イエス様が言われる「多くの人のために」というのは、すべての人のためにと言い換えても良いと思います。なぜなら、聖書は、繰り返し神様はこの世にいるすべての人を救うために御子イエス様をお送りくださったと伝えているからです。例えば、招詞で読まれましたヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。すべての人の命は神様が与えられたものですから、その中でこの人はダメで、この人は救われると神様が選別することはありえません。この世界、この世を愛されたというのですから、神様はこの世にいるすべての人を愛され、すべての人の救いのためにイエス様の命を過越の小羊のように犠牲とされたのです。

「すべての人のため」ですから、そこにはイエス様を裏切ったユダも含まれていますし、「わたしなど選ばれるはずはない」と思っている人もすべて含まれています。そこが神様からの大いなる肯定です。「自分はダメだ」と思う人であっても、「こんなわたしなんかゆるされるはずはない」と言う人も、「どうしてあんな人がゆるされるのか」と思ってしまう人でも、神様は「あなたは赦されている。だからあなたは今のあなたで大丈夫」とすべてを包み込む大きな肯定をくださっています。それがこの食卓で手渡される霊なる食べ物です。

すべての人のための「大いなる肯定」を伝えたイエス様ですから、ユダに言ったあの言葉は彼を否定する意味はないと理解します。私訳で聖書を出しています本田哲郎神父はこの言葉を次のように訳しています。「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」。イエス様はユダを否定するのではなく、ユダの気持ちを思いやり、ユダ自身がそのように言っているだろうという表現で訳しています。イエス様はユダの痛みを代弁する言葉を語ったのです。旧約聖書でも自分の生まれた日を呪う言葉が出て来ます。家族のほとんどを失い、財産のほとんどを失って暗い暗い闇の中に放り込まれたヨブはこう言いました。ヨブ記3章3節。「わたしの生まれた日は消えうせよ」、周りの人のほとんどから反対され、迫害されて苦しんだ預言者エレミヤはこう言いました。エレミヤ書20章14節「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」。また、コヘレトの言葉にも虐げられた人たちへの配慮ある言葉があります。4章1〜3節「見よ虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」。ヨブもエレミヤも本人が自分に対して「自分の耐え難い苦しみ」を言い表わす一種の慣用句としての表現であり、またコヘレトの言葉はイエス様の言葉にとても似ていて、相手の苦しみを自分のことのように感じるがゆえの表現なのです。イエス様は、自分が生まれて来たことを呪ってしまうほどのユダの痛みを受け止めて、「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」と彼の苦しみを代弁しているのです。それがこのイエス様の言葉の意味です。

イエス様と一緒に囲む食卓は、否定ではなく、肯定の雰囲気で満ちています。「あなたはこれまでもそうだったし、これからもいろいろと大変なことがある。後悔することもあるし、あれはダメだったと思うこともある。でも、今のあなたは確かに生きていて、わたしと一緒に食卓を囲んでいるから大丈夫。取りなさい。これはわたしの体です」。

これはイエス様が伝える神様の赦しです。この赦しはすべての人を肯定する福音の言葉です。

先日、新聞を読んでいましたら9月は小学生や中学生など若い子どもたちが自分の命を絶つのが多い時期だとありました。学校に行きたくない、でも行かなければならないと葛藤する中で八方塞がりになって自らの命を絶つ道を選んでしまう。何年間も日本では自死する人が年間3万人を超えていましたが、数年前から3万人以下になりました。けれども若い年代の数は減るどころか増えています。その新聞ではそのことを憂いて特集が組まれて若い人たちへのメッセージが書かれてありました。その中の一人、お笑い芸人の山田ルイ53世さんは、自身が中学2年生の時の登校中に大便を漏らしてしまい、それがきっかけになって学校に行けなくなり6年間引きこもり生活をしました。その彼がこう言っていました。「引きこもりが自分の糧になったという人もいます。人生の全てに何かしらの意味があって、あの期間も無駄じゃなかったと。それはそれでいいけど、『結局、意味がないと、生きてはだめってこと?』とも思う。無駄や後悔を許さず、意味や意義を求める生き方って、けっこうしんどい」。

わたしはこの記事を読んでいて、アウシュビッツ収容所を生き延びて『夜と霧』を書いた精神科医師のフランクルの次のような言葉を思い出しました。このような言葉です。「生きる意味についての問いを180度、方向転換すること。わたしたちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何かを期待しているかが問題なのだ。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきだ」。彼は、わたしたちが何を人生に期待するのか、生きることの意味を自分で何だろうと考えるのではなく、命そのもの、人生そのものがあなたの命、生きる意味に問いかけている、そのことに気づきなさいと言うのです。つまり、命そのものがあなたの生き方を肯定していると言うのです。そう、生きていること自体において、あなたには意味がある、命あること自体、あなたには意味があると言うのです。

わたしたちは生きている限り周りから「自分らしくいるのがいい」とか「目的を持って生きなさい」とか、「あなたは何を生きがいにしていますか」とかいろいろな声を聞きます。それによって時に心が揺れて、本当にこんな自分でいいのだろうかと痛みを感じることがあります。わたしが生きている意味ってなんだろうか。いつでもわたしは自分らしくこんな目的や「こんな生きがいを持って生きています」なんて言えるだろうか。自分に無理をして背伸びして心や体に負担をかけたり、反対に必要以上に自分を小さく卑下して見せたりすることもあるかもしれません。でも、イエス様はそのように揺れ動くわたしたちに、変わることのない神様の言葉を伝えてくださいます。「取りなさい。これはあなたのためのわたしの体です。これを食べて元気を出しなさい。あなたは今日も精一杯生きていく」。

イエス様は食卓でパンを手に取って神様を讃美し、杯を取って神様に感謝しました。それは何も特別なことではなく、いつもの食事でしていたことでした。わたしたちの毎日の平凡な生活の中にも神様は「大いなる肯定」をいくつも散りばめられています。食前の感謝の祈り、日曜日の礼拝での讃美の祈り、それらの平凡な生活を通して神様はわたしたちに「あなたと今日もこうして出会えてわたしは嬉しい。あなたが生きていること、それが素晴らしい」、そう伝えておられます。

ご自分を裏切ろうとしているユダと、またご自分を置き去りにして逃げて行こうとする弟子たちと共に、イエス様はパンと杯を手にしていつもと変わらない賛美といつもと同じ感謝を唱えて食卓を囲みました。どんな状況でも、日常と変わらずに食卓で感謝と讃美の祈りを捧げること。私たちも日常と変わらないところで神様からの大いなる肯定を聞きとります。「パンを取りなさい。あなたが生きていることをわたしは喜ぶ」。

神様から肯定の言葉をいただいているわたしたちは日常生活の中でイエス様と同じように隣人に肯定の言葉を伝えていきます。「あなたに出会えて嬉しい。食事を一緒にできて嬉しいです」。

2018年8月26日 最も大いなるものは愛

◆コリントの信徒への手紙一13章1〜13節
13:01 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 
13:02 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:03 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 
13:04 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 
13:05 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 
13:06 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:07 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 
13:08 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 
13:09 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

◆マルコによる福音書12章28〜34節
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

◆詩編62編2〜13節
62:02 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:03 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
62:04 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:05 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:06 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:07 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:08わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:09民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ
62:10人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた
力は神のものであり
62:13慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
ひとりひとりに、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。

わたしはこれまでいくつかの外国に行く機会がありましたが、外国に行ったらほぼ必ずすることがありまして、それはその土地の言葉で「あなたのこと、大好きです」をその土地の人に聞いて、覚えることです。初めて行ったフィリピンでもすぐに聞いて覚えました。タガログ語で「マハールキタ」。インドに行った時にも聞きまして、旅をしていて会う人、会う人に「わたしはインドの言葉ヒンズー語を知っている。それは『マエアプセピアルカルタホ』」と言うとそこにいた人たちの多くは「ワハハ」と言って笑顔になりました。その言葉を言った相手はほぼ男の人でしたが。まだ行ったことのない国の「I love you」もいくつか知っています。ドイツ語では「イッヒリーベデッヒ」、フランス語で「ジュティーム」。「そういうのは言葉ではなく行動で」と思う人もいるかもしれませんが、わたしはどちらかと言うと主に家族に対して言う方だと思います。聖書にありますように、わたしたちが「あなたのことを大好きです」と言うことができるのは、神様がまずわたしたちを愛してくださったから。ヨハネの手紙一4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」。

「キリスト教を一言で言ったら何と言いますか?」と聞かれましたら、なんと答えますでしょうか?いろいろな言葉で言い表すことが出来ると思いますが、キリスト教を一言で言うなら、それは「愛」「キリスト教は愛の宗教」と言うことができると思います。ただ日本語で「愛」と一言で言いましても、聖書には実にその「愛」を言い表す元々の言葉はいくつもありまして、招詞で読んでいただいたホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。この中の愛と日本語に訳された元々のヘブル語は「へセド」で、他の聖書では「誠実」とか「慈しみ」と訳すことができる言葉です。また、今日の御言葉のコリントの信徒への手紙とマタイ福音書の「愛」はぜんぶ「アガペー」という言葉です。その他にも日本語で「愛」と訳される聖書の中の「愛」はたくさんあります。どうして日本語の「愛」が聖書にはたくさんの言葉で表されているのでしょうか?わたしが思うに、それはきっと神様の愛は人間の言葉では言い表すにはあまりにも大きく、広く、高く、豊かだということに行き着きます。

コリントの信徒への手紙13章を読んでいましても、神様が、どれほど罪深く汚いところを持ったわたしたち人間を愛しているのかが見えてきます。4節〜7節をお読みします。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。愛となっているところを「神様」と変えて読んでみますと愛は神様から出たものなんだとわかります。「神様は忍耐強い。神様は情け深い。ねたまない。神様は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。神様がわたしたちのことを忍耐強く耐え、忍んでいてくださる。神様はわたしたちのことをわたしたちの身になって考えてくださる情深い方です。神様はわたしたちが犯す罪や命を傷つけてしまうこと、取り返しのつかない過ちであっても、じっと耐え忍んでくださり、わたしたちを信じ、「わたしがあなたと一緒にいるから大丈夫」とわたしたちに望みをかけてくださっています。神様が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のは、どんなわたしたちであっても、神の子どもとして愛してくださっているからです。神様は愛そのものだと聖書は伝えます。

先月の終わりのことですが、わたしは以前、信徒としてつながっていました岩手県の奥中山教会に行ってきまして、りっちゃんという双子の姉妹の妹さんで62年間のこの地上での歩みを終えた友人の葬儀に出てきました。神学校に行く前に信徒として5年間、わたしの信仰を豊かにしてくれた教会の仲間として、一緒に賛美をする集まりをしたり、教会を通してつながってきた大切な人でしたので、妻に相談して日曜日の礼拝後、新幹線に飛び乗って行ってきました。葬儀に出席できて良かったなぁと思います。わたしはこの葬儀に出て、涙を流しましたが、でも悲しいというよりもなんだか心があたたかくなり、また、お姉さんのむっちゃんや親戚の人などがりっちゃんとの思い出を話してくれまして、それが面白くて何度も笑って、わたしだけでなく集った人たちの笑顔をなんども見るような2日間を過ごしてきました。葬儀に出席して心が温かくなるって、なんだか不思議ですが、いま思いますとそこには神様の愛が詰まっていて、わたしはその愛を感じてきたんだろうと思うのです。

りっちゃんの双子の姉であるむっちゃんが「むっちゃんから皆さんへ」という文章を葬儀の時に配りまして、それを読みますとりっちゃんの歩みが神様の愛の中にあり、また、その神様の愛が今もわたしたちを赦し、忍び、信じ、望んでおられると感じることが出来ると思いますので、一部分を読ませていただきます。「神様は体の弱い、でもいつも明るく親しみやすいりっちゃんをわたしたち家族に与えてくださり、その成長と苦難を通して、みんなが愛し合い結び合うことの大切さを教えてくれました。5歳で東京女子医大で最初の心臓手術。小学校中学校は毎日母の背に乗って登校、8年間寝たきりの生活、東大病院、岩手医大、聖路加病院などで大手術が繰り返されました。週3日の肝臓透析が始まり、一日500ccの水分制限、次第に体力もなくなり転倒と骨折、そして車椅子生活となりました。どんな苦しみにもめげないりっちゃんの周りにはその都度、人が集まりたくさんの人が繋がっていきました。2歳までしか生きられないと言われたりっちゃんが起こした奇跡です。そして、7月26日朝、家族全員に手を握られ感謝の言葉を聞きながら静かに心臓の鼓動が止まっていきました。安らかな最期でした。『りっちゃん、ありがとう!たくさんの愛をありがとう!たくさんの出会いをありがとう』これはわたしだけの言葉でなく出会ったみんなの声です。人生に幕引きなんかないような気がします。だって、りっちゃんが作ってくれた仲間がいて、家族がいるのですから。りっちゃんが作ってくれた奇跡はこれからも続きます。『こんなに愛し合う仲間が増えたよ!』。天国にいる妹へこんなお土産話ができる日まで歩んでまいります」。

教会につながっていますとこのような奇跡、神様の愛が引き起こす奇跡を経験すると思います。体に辛い病気を抱えても神様の愛である教会のつながりに支えられて苦しみに忍耐することができる。愛は忍耐強い。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

りっちゃんの葬儀に出て思いましたのは、神様の愛はわたしたちが価値あるものとしてこの世から教えられている知識、お金、科学、山を動かすほどの力などを通して現れるのではなくて、りっちゃん自身がそうであったように病気などの弱さや困難さ、そしてその病気や困難さをめげずに笑い飛ばすユーモアを通す事によってはっきりと現れる、そんな思いを持ちました。今日の御言葉でもこう伝えています。8節「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。知識は一部分、それはよくわかるのですが、予言も一部分と言われると少しどきっとします。それは神様から預かっている御言葉であってもわたしたちが語る限りにおいては完全ではなく、この世の中が伝える知識と同じ一部分だということです。わたしたち教会が永遠なる命を信じ、死んだ後の復活を信じるのは、それを知識や聖書の御言葉で知っているからではないのです。神様の愛によって耐え忍んでいただいているわたしたちが互いに忍び耐えることによって永遠の命、命の復活を信じることができるのです。

わたしの知り合いに「愛を一言で言えば何になりますか?」とききましたら、その人は「愛は赦しだ」と答えてくれまして、言った本人は忘れているかもしれませんが、わたしは良く覚えています。神様の愛は忍耐強い。情深い。すべてを忍び、すべてに耐える。神様がわたしたちをご自分の子どもとして忍耐強く赦してくださっているのです。それはまるで1〜2歳ぐらいの赤ちゃんを見守る親のようです。そのぐらいの子は歩き始めて階段を見るとすぐにのぼりたがります。小さい子どもが階段を1〜2段登りますと親はその子を少し登ったところで捕まえては下ろす。でもその子はまた同じことをする。親は忍耐強くその子に付き合います。小さい子どもは同じことを何度も繰り返しますが、大抵の親はある程度、その子の繰り返しに付き合いますが、だいたいキリのいいところで「今日はおしまい」と切り上げます。でも神様の堪忍袋はわたしたちよりも大きくて広くて深くて高いのですから、わたしたちが過ちを犯し、何度も何度も失敗してもぐっと耐え忍んでくださいます。

その神様の愛、すべてを忍び、すべてに耐える神様の愛の極め付けがあのイエス様の十字架と復活です。神様がどれほどわたしたちのことを忍耐されているのか。わたしたちが今尚裏切り、傷つけあっているのをどれほど耐え忍んでおられるのか。でも、その神様の忍耐に気づかずにいる多くの人間に神様は声を大にして言われました。「いい加減に気づいてくれ。怖がらなくても、恐れなくもいい。わたしはあなたたちを独り子イエスを愛するように愛している。わたしはイエスの命をささげるほどにあなたたちを愛している」。

この神様の愛は天地創造の時からずーと今に至るまで、そしてこれからも滅びることなく永遠に残ります。なぜなら、その愛はイエス・キリストの十字架と死、そして死からの復活によって示されましたから決して滅びることはないのです。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛」だからです。わたしたちはその神様の愛によって結びつけられています。だからわたしたちはこの教会と、そしてわたしたち自身の間に脈々と流れ続ける神様の愛を何よりも大切にします。神は愛です。イエス・キリストは愛です。わたしたちは愛であるキリストの体にしっかりと結びつけられていますから永遠です。死すらも恐れるものではありません。神様が「りっちゃん、永遠の朝が明けましたよ。起きなさい」と言って彼女の手をとって引き上げてくださるのと同じように、神様はわたしたち一人一人の手をとって死から引き上げてくださると信じ、希望をもってその日まで与えられた命を地上で生きていきます。いつか、死ぬ時がきます。でも、死ですらもわたしたちをイエス様によって示された神様の愛から引き離すことはできません。

神様の愛を頂いているわたしたちにイエス様は愛の生き方を教えてくださいました。愛を頂くだけでなく、愛を生きる者になりなさいと言われます。マルコによる福音書12章30節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。31節「隣人を自分のように愛しなさい」。

愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢しないで、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、真実を喜ぶ。全部でなくてもいい。この中から1つでもこの愛を実践してまいりましょう。神様が今もわたしたちのことを愛して、耐え忍んでくださっていますから。

2018年7月15日 今や、恵みの時

◆コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節
06:01 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
06:02 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
06:03 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
06:04 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
06:05 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
06:06 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
06:07 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
06:08 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
06:09 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
06:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

◆詩編18編26〜35節
18:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に
18:27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には背を向けられる。
18:28 あなたは貧しい民を救い上げ 高ぶる目を引き下ろされる。
18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし 神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。
18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。
18:31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
18:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
18:33 神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし
18:34 わたしの足を鹿のように速くし 高い所に立たせ
18:35 手に戦いの技を教え 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

この手紙を書いたパウロさんは苦労の多い人でした。わたしたちが想像するのも難しいような苦労を経験しています。4〜5節にある通りで「苦難、欠乏、行き詰まり、むち打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」。今、わたしはさらっとお読みしましたが、この中のたった一つでもわたしが経験したら耐えることができるだろうかと思うほど重みのある一つ一つです。しかし彼は大いなる忍耐をもってこのような苦しみにあっても大切なことを忘れずにいたのです。6節にある「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」。苦しみの中にあってもこれらを忘れずに示そうとしていたのです。どうやったらこんな大変なときに心広く親切に愛をもっていられるのかと思うのですが、それは人間の力ではなく7節にある通り「真理の言葉、神の力によって」そうすることができるのです。

わたしたちもこのパウロさんのように苦しいことにあっても潰れてしまうのではなく、それに耐えることができ、あわよくばそのような時であっても心広く親切で愛を忘れないでいたいと思います。これは苦しいことに直面した時になって対策を練るのでは間に合わないことだと思います。できるだけ常日頃から心と魂を健やかに保っておくこと、そして何よりも神様から毎日、恵みをいただいているんだと受け止めて感謝して、「神様、今日もありがとうございます」と祈る日々が必要です。それは、パウロさんがこう伝えているからです。2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。

現代日本社会で生きていますと「あなたにはあれが必要です。保険の見直しをしましょう。新しいこの商品がいいですよ」などなど繰り返し聞くことになります。そうしますと「自分にはまだ足りないものがある」という、感謝の思いとは違う気持ちにさせられていきます。もちろん新しくて良いものもありますが、テレビでも街を歩いていても繰り返されるこのような声は知らぬ間にわたしたちの意識の奥に入り込んできますから気をつける必要があります。わたしたちが「これは本物だ」と心を開いて聞くべきものは聖書が伝える福音の宣言です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。今、すでにわたしたちは恵みの時にいる。神様がわたしたちの願いを聞き入れてくださった恵みの時は今この時なんだと繰り返し受け止め、感謝するのです。例えば、「苦しいから助けてください」との願いはイエス様によって聞き入れられています。わたしたちが一番恐れるのは独りになること、誰からも愛されず、思いを寄せられない独りになることです。イエス様はそのことをよくわかってこう言われます。「あなたがたのまことの親である神はあなたがたに必要なものをご存知である。だから明日のことまで心配しないでもいい。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。

パウロさんは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い、神様は「救いの日にわたしはあなたを助けた」と言っておられますから、わたしたちはすでにイエス様によって助けられています。この日本では、大きな災害が起きたり、えらい人が平気で嘘をついたりと悪いことばかりが起きているようで、悲しみや怒りを感じることがあります。わたしたちの気持ちは自分の体の調子によっても変わりますし、社会で起きていることによっても影響を受けます。でも、パウロさんが苦しい状況におかれても「もう、わたしはダメだ」とくじけずにいられたのは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と日々信じて神様に感謝していたからだと思うのです。ある人がこう言っていました。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」。これは真理です。周りの状況に合わせて良い時には「あー幸せだな」と感じて感謝する。でも状況が悪くなると感謝しないではなく、どのような時でもここにはきっと神様の恵みと救いがあるんだと信じて「神様が今のこの時をくださったと信じ、感謝します。この病気になってもあなたはわたしを見捨てないと言っていると信じます」。一言、祈るのです。

2節「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神様は言っておられます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。このイエス・キリストによって与えられた恵みと救いがあるならば、どんなことがあってもくじけないで歩いていけると信じます。それは一人で困難に立ち向かうことではありません。なぜなら、これはパウロさんの日記ではなく、同じ神様を信じる仲間に送った手紙だからです。パウロさん自身がこのように自分の思いを伝えることによってそれを聞く人が励まされるはずですし、パウロさん自身もそのように仲間から励まされてきたからこそ、力強くコリントの人たちにこう伝えることができるのです。同じ手紙の1章6節で彼はこう言っています。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。

神様がこのわたしの願いをすでに聞きれてくださっているのだから、今や恵みの時。神様がわたしをすでに助けてくださっているのだから、今こそ救いの日、なのです。イエス・キリストにおいて願いは聞き入れられ、イエス・キリストの十字架と復活においてわたしたちはすでに助けられているのです。わたしたちの状況がどのようなものであるにもかかわらず、大丈夫だと言える信仰を持つわたしたちの真骨頂がここにあります。

先日、ラジオで面白いことを話していました。長生きの秘訣の9つのポイントです。世界各地の長生きをする人の多い地域を調査研究した結果、わかったこととして話していました。長生きですから、心も体も健康で生き生きとした歩みをするコツとも言えると思います。わたしはこの9つのポイントを聞いて、これはなんだか教会のことを言っているように思いました。全部が教会に当てはまるわけではありませんが、重なるところが多いと思いますのでお伝えします。このようなポイントです。1.適度な運動、2.腹八分、3.野菜中心の食事、4.適量の赤ワイン、5.家族第一、6.スローライフ、7.目的を持つ、8.人とつながる、9.信仰を持つ。どうですか。教会に来ている皆さんはこの9つの多くを実践しているんじゃないでしょうか。1の適度な運動。これは教会ではちょっと難しいかもしれませんが、週に1回教会に歩いてくることもそれなりの運動です。2の腹八分は聖書が伝えることと重なります。十戒でも貪るなとあり、新約でも「自分の持っているものに満足しなさい」と伝え、イエス様は少しのパンと魚をたくさんの人と分かち合いました。腹八分です。3の野菜中心の食事。聖書には肉は食べてはいけないとはありませんが、殺すなとありますから生きている動物を殺さないで生きるには野菜中心の食事となります。4の適量の赤ワインはどうでしょうか。原町田教会では聖餐の時ブドウジュースになっておりますが、教会は長年、パンと赤ワインを主の食卓でいただいて来ました。5の家族第一はどうですか?イエス様がもっとも大事だと言われた「隣人を自分のように愛しなさい」。これはまず第一にすぐ近くにいる家族のことだと言えます。人が心も体も健やかに「自分を信じて、自分を大切にでき、同時に隣人を大切にする人」として成長するためには、何よりも家族の中で「生まれてきてくれてありがとう。あなたが今、ここにいることが何よりもわたしの喜びです」と言われる愛の中で育つことが大切です。無条件に受け入れられることが「自分は自分でいいんだ」というその人の土台となりますから、家族が大切です。この自己肯定感と呼ばれる土台は子どもの頃だけでなく、大人になっても常に更新される必要がありますから、大人もこの教会という神の家族の中で互いに「あなたは神様に愛された大切な人」として受け入れられることが重要です。

さて、次に6のスローライフはどうでしょうか。日曜日も教会に来て忙しいと感じる人もいるかもしれません。神様は週に1日は必ず何もしないで休みなさいと安息する日を与えています。ですから、教会に来て忙しくて大変ですとなるのはできるだけ避けるべきです。ただ、教会は来てゆっくりと休むことが目的ではないのも事実です。聖書から神様のメッセージを聞いて、わたしたちに生きる意味、生きる目的を神様は教会を通して示してくれますから7の目的を持つとも関係しています。教会の活動に参加することで何かやりがいを感じているのでしたら、忙しくて辛いと思うことはあまりないかもしれません。教会は聖書を通して生きる目的をわたしたちにはっきりと教えてくれています。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。そのために自分ができることは何なのかをわたしたちは考えます。8の人とつながるは、教会以外のところでもできることですが、わたしは地域での人と人とのつながりが薄れてきた現代日本社会だからこそ、教会は胸を張って「わたしたちはつながりを大切にしています」と言うべきだと思うのです。小さい子どもからご高齢の方まで幅広くつながって毎週、このように集うつながりは教会ならではですし、このつながりがわたしたちに苦しいことにあっても忍耐するその力の源になるんだと信じることができます。苦しいことにあっても教会の仲間がいる。わたしのことを祈ってくれている人が教会にいる。わたしたちは独りではないのです。

最後に9の信仰のことですが、ラジオでは「信仰をもてば、病気になった時や何か悪いことがあってもそれを神様のせいにできるから心が軽くなるんです」と言っていました。信仰をそれだけで片付けられてしまうのはちょっと残念ですが、何か自分を超えた存在、わたしたちにとっては創造主であり、救い主イエス様を送ってくださった神様を信じる信仰があって、心も魂も体も健康でいられるとまさに信じるのです。

毎週、こうして教会に集って礼拝を捧げることが、わたしたちの体と心を健やかに保つために神様から与えられた恵みであり、今や恵みの時なんだと受け止めます。9つの長生きのポイントも実は神様からの恵みですし、わたしたちはそれらを神様に感謝します。毎日の当たり前のように思える事柄の中に神様の恵みが隠されていますから、「神様、今日も散歩という適度な運動ができ感謝です。腹八分の食事が与えられ感謝です。美味しい野菜中心の食事に感謝します」と神様から頂いている恵みに繰り返し感謝する。与えられている恵みの今を繰り返し感謝するその日々の感謝の積み重ねがわたしたちの忍耐力を強めていくのだと信じますし、そのようにして神様の力がわたしたちの中で働くようになるのです。わたしたちは「悲しんでいるようで、常に喜び」、わたしたちは「貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。今こそ、救いの日、今や恵みの時がイエス・キリストによって与えられているからです。

2018年7月8日 御言葉の上に立って見る

◆マルコによる福音書8章22〜26節
08:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
08:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
08:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
08:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
08:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ちょっと昔の話のことですが、わたしはロビン・ウィリアムズという俳優が好きで彼の映画をよく見ました。ご存知の方もいると思いますが、DJ役の『グッドモーニングベトナム』、女装する中年男性役の『ミセス・ダウト』などの映画に出ていますが、その中でもわたしの印象に残っているのが『いまを生きる』という映画です。

伝統ある全寮制の高校にロビン・ウィリアムズが演じる英語教師キーティングが新しい先生としてやって来ます。校長先生の厳しい指導の下で縛られていた学生たちに、キーティング先生は「教科書なんか破り捨てろ」と言い放って、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさを教えようとします。ある日の授業でキーティング先生が突然机の上に靴のまま登って机の上に立って、「常に物事は別の視点で見なければならない! ほら、ここからは世界がまったく違って見えるだろ」と話し、生徒たちも机の上に立たせるのです。その変わった授業に生徒たちは最初、戸惑っていましたが、次第に刺激され、新鮮な考えや、規則や親の期待に縛られない自由な生き方に目覚めていきます。そんな中、ニールという青年がいまして彼は俳優を志して舞台に立つことを決心したのですが、彼の父親はそれに反対。でも、彼は父に内緒で役者の仕事に応募し、見事役者を演じる夢を叶えました。しかし、進学以外、進路を認めない厳しい父親に反抗することができず、悩んだ末に彼は自死してしまいます。そして、この事件がキーティング先生の責任とされて、学校を去ることになります。最後の場面で、キーティング先生が教室にあった荷物を取りに行って、そこを去ろうとしたとき、先生のことが大好きだった数人が机の上に立ち始め、「辞めなさい、そこから降りなさい」と他の先生に言われても降りずにじっと立っている。わたしは感動屋でして、この場面でだいたい涙を流します。すみません、これは映画を見た人にしかわからないかもしれません。

机の上に立って見ると、物事を違った角度から見ることができる。これはイエス様と出会って目が少しずつ開かれたという聖書に登場する人に似ています。イエス様と出会った盲人は目に唾をつけてもらって目が見えるようになりましたが、すぐにはっきり見えるようになりませんでした。はじめに「人が見えます。木のようです」と伝え、2回目に手を当ててもらって何でもはっきり見えるようになりました。イエス様と出会った人はそれまで見えていなかった物事がだんだんと見えてくるようになると聖書は伝えています。わたし宮島もイエス様と出会って、それまで見えていかなったものがだんだんと見えてくるという経験をしてきました。今日は、わたしがイエス様との出会いから目が開かれ、今まで見えていなかったことが見えるようになった経験をお話しいたします。

わたしが洗礼、バプテスマを受けてクリスチャンになりましたのが大学4年生22歳の時でした。その時からクリスチャンとして20数年間生きてきましたが、まさにこの目が開かれた人と同じように物事を見る見方が少しずつ変えられてきたと感じています。今日は2つのポイントからお話しさせていただきます。

まず一つ目ですが、ヨハネによる福音書15章16節でイエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしが選んだのではなく、神様が選んだ。幼稚園の入園式で保護者の皆さんに向けて話すのですが、「みなさんは数ある幼稚園の中からこの原町田幼稚園をみなさんが選んだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。神様が皆さんを選んでこの原町田幼稚園に導いてくれたのです。これからの幼稚園生活を通して「わたしではなく、神様が選ばれた」という経験をしていってください」と話しています。これは幼稚園だけの話ではありません。わたしたちが自分で選んできたと思っていることが実は神様の選びであったということはわたしたちの人生の中にはたくさんあります。神様が選ばれたというのは、夫婦の関係でもそうですし、子どもが生まれることも、また、仕事や自分が今生活している環境も神様が選ばれてわたしたち一人一人をその場に置いてくださっている、そのように見るのです。夫と妻の関係のことで言えば、もし二人とも「わたしがこの人を選んだ」と思っていたとしたらどうでしょうか?自分がこの人を選んだと思っていますと相手が自分の意に反したこと、気に食わないことをしますと「自分はどうしてこんな人を選んだんだろう。もっといい人がいたかもしれないし、実際にもっといい人がいるかもしれない」と思ってしまうかもしれません。そのような考え方が発展しますと二人の関係がだんだんとギクシャクしたものになる恐れがあります。でも、神様がこの人を選んだという言葉の上に立ってみますと現実が違って見えてきます。相手が自分の意に反したことをしたとしても「神様がこの人を選んだのだからこのことにも何かの意味があるのだろう」と受け止めることもできますし、あるいは「神様が選んだのだから、仕方ない」とあきらめることもできます。あきらめると言っても互いに良い関係を保つためのあきらめです。生まれてきた子どものこともそうです。子どものことでいろいろとうまくいかないことがあって、「どうしてこんな子に育ってしまったんだろう」と思うかもしれませんが、そうではなく、神様がこの子をわたしたち夫婦のために選び、届けてくださったとの言葉の上に立つのです。そこに立ちますとうまくいかないことがあっても「神様、この子をくださってありがとうございます」と受け止めることができます。

「わたしが選んだのではなく、神様が選んだ」という言葉の上に立って物事をみる。教会にはそのような文化があります。わたしたちが置かれている学校、仕事、家庭、地域など様々な環境がありますが、時々自分が置かれている環境に不満を感じて、どうしてわたしはこんなことをしなければならないのかとやりきれない思いを持つかもしれません。でも、わたしではなく神様がここにわたしを置いてくださっているんだ。神様がわたしを選んでここに置かれているんだという言葉の上に立ってみますと違った景色がだんだんと見えてきます。「神様がわたしを選んでくださったのだから、きっとこれからうまくいくはずだし、今大変だと思っていたことから何かを学んで次に生かせるのかもしれない」。どのような状況に置かれたとしてもこれはわたしが選んだのではなくて、神様がわたしを必要としてわたしを選んでくださったんだと受け止める。その言葉の上に立って物事を見るように努力する。不満や不安ばかりが見えていたところに一筋の光が見えてくる。神様はわたしたちにそのような経験を与えてくださいます。

次に二つ目です。ヨハネによる福音書の11章でイエス様はこのように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。クリスチャンとなり、また特に牧師となってからわたしは人の死に何度も出会ってきました。そして親しい人を天に送って悲しむ人たちにこのように伝えてきました。「死は終わりではありません。神様のところで新しく生きる命の始まりです」。わたしは自分で死を経験したわけではありませんから、証明することはできませんが、でも聖書が伝えることを「これは本当だ」と信じて伝えることはできます。そして死が終わりではなくて新しい命の始まりだと信じることで「死ぬこと」に対する不安や恐れはだんだんとなくなってくると思うのです。「死ぬのが怖い。自分がどうなるのかわからない。独りになってしまう」。そんな恐れが心の中に出て来るのも事実ですが、聖書の言葉、揺らぐことのない言葉の上に立って親しい人の死、それといつか必ず経験する自分の死を見つめるならば、恐れや不安はなくなっていきます。

わたしは何年か前に自分の父を天に送った時も悲しくて寂しい気持ちになりましたが、聖書の詩編23編の言葉に支えられました。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」。わたしの父は神様の家、天国に帰って行った、いつかまた天国で会うこともできる、そう思いますと心の中になんとも言えない安心が広がります。

4日前の水曜日にもこの原町田教会で荒谷さんという指揮者のお連れ合いの荒谷和子さんの葬儀が行われました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、自分の葬儀の時には讃美歌を歌って送って欲しいと言っていたので急遽、和子さんの娘さんの友人である牧師から「原町田教会を貸して欲しい」と言われてお貸ししました。その葬儀の中で読まれた聖書が詩編23編で、その牧師ははっきりと言いました。「和子さんは天国に帰って行かれ、今、神様と共にいる」。(間)死は終わりではなく、天国での新しい命の始まりだという言葉を信じて、その言葉の上に立って自分の死、親しい人の死をみるならば不安や恐れは少しずつ減っていきます。

どこに立って自分や人、物事を見るのでしょうか?日頃、あまり意識しないことかもしれませんが、これは大切なことだと思います。なぜなら、多くの場合無意識のうちに不安定な言葉を受け入れてその上に立ってしまうことがあるからです。自分が立つところがグラグラと揺れ動いていましたら、そこに立っている限り不安や恐れは消えません。けれども、決して変わらない土台、揺れ動くことのない方の変わらない言葉の上に立つならば、不安や恐れはなくなって行きます。変わることのない言葉がわたしたちを支えてくださっていると聖書は繰り返し伝えます。「恐れることはない。わたしがあなたと共にいる」。「わたしがあなたもあの人の罪も過ちも赦している」。「死は終わりではなく、新しい命の始まりです」。

揺れ動かない確固とした岩のような神様が、わたしたちと共にいて支えてくださいますし、神様の言葉という確固とした土台がありますから、その上に立って物事を見ることができる。これは何も難しいことではありません。この言葉は本当だと心から信じ続けるのです。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。