牧師メッセージを掲載しています

宮島牧師によるメッセージを、テキストまたは音声で、掲載しています。
日曜日の礼拝にもどうぞおいでください!お待ちしています。

2019年9月8日 人間復興の安息日

◆ルカによる福音書14章1〜6節
14:01 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
14:02 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
14:03 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
14:04 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
14:05 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
14:06 彼らは、これに対して答えることができなかった。

◆出エジプト記23章10〜13節
23:10 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
23:11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
23:12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
23:13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

◆詩編92:13〜16
92:13 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。
92:14 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。
92:15 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし
92:16 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。

ある日本の新聞記者がイスラエルに行った時、びっくりする体験をしました。金曜日の夜7時過ぎ、この記者は安息日の取材でテルアビブ近郊にあるシナゴーグを訪れましたら、強面(こわもて)の男性に呼び止められました。「おい、あんたら外国人だろ。ちょっとこっちに来てくれないか」。キッパと呼ばれる帽子をかぶったその男性は、記者たちを近くのアパートまで連れてきますと「エレベーターで5階まで先に上がって待っていてくれ」と言って、自分は階段を上り始めました。ドキドキしながら5階の薄暗い廊下で待っていますと、その男性が汗だくで階段を上ってきて、玄関先で配電盤を指さし、こう言ったのです。「すまないけど、そこのスイッチを入れ直してくれないか。部屋の漏電ブレーカーが落ちてしまったんだ」。言われた通りにしますと、暗闇に包まれていた部屋にパッと明かりがともり、中から女性たちの歓声が上がったのです。今でも厳格なユダヤ教の人たちは、金曜の日没から土曜の日没までの間を「安息日」と定め、一切の「労働」は禁じられ、39種類の禁止事項をかたくなに守っています。例えば、「耕す」「蒔く」「壊す」「書く」……。そして、代表例が「火をつける」。時代に合わせて「電気のつけたり消したりするのも火をつける行為にあたる」と解釈されたため、安息日には照明をつけることも、エレベーターの操作もやってはいけないこととなりました。さて、この記者は翌日、まだ安息日が続く土曜日の昼、ユダヤ教のラビのところに行って単刀直入に質問しました。「どうして、安息日に休むのですか?」そのラビはこう答えました。「もし、あなたがトヨタで車を買って調子が悪くなれば、GMや町の工場ではなく、やはりトヨタの整備工場に持っていくでしょう?人間を造りたもうた神が定めたのが安息日。ならば、その日に体と精神を休めるのが最善なのです」

イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれていました。食事が終わり、くつろいでいる時、イエス様を招いたファリサイ派の人たちはイエス様の様子をうかがっていました。その日は14章1節にある通り、安息日でしたので、やっていいことと、やってはいけないことがはっきりしていました。病人を癒すことも仕事だからしてはいけない。それは神様からの掟、律法だからとファリサイ派や律法の先生たちは考え、それを実践していました。神様の掟を守ることは神様に従うことですから、正しいこと、良いことであり、その反対に掟を守らないのは、間違いであり、悪いことでした。でも、イエス様は言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。そう言われてから、イエス様は病人の手を取って、病気を癒されました。そして言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

安息日について聖書はまず初めに創世記でこう伝えます。2章2〜3節「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。聖書によれば、わたしたち人間は神様にかたどって造られました。礼拝の招きの言葉にあった通りです。創世記1章27節。「神は御自分にかたどって人を想像された。男と女に創造された」。神様に似て造られたとありますから、それゆえにわたしたちも神様と同じように7日目には安息するのだと聖書は言うのです。安息日には、体や心を休息する、休ませるという意味もありますが、それ以上に安息日には、「自分は何者なのか」と自分自身を確認する意味があるのです。神様はわたしたち人間をご自分に似せた尊い存在として造られました。神様に似て愛すること、ゆるすこと、癒すことを完全ではないけど、できる存在としてです。

月曜日から土曜日までの1週間の生活の中で、人を憎み、あんなやつはいなくなればいいと心の中で思ってしまうことがあった。苦しんでいる人や悲しんでいる人がいても声をかけられずに通り過ぎてしまった。そういうわたしたちなのですが、「あなたは神の似姿、愛し、ゆるし、癒されるわたしに似て造られている」。その神様に似て造られた自分自身に復興するために神様は安息日を守るようにと言われているのです。

先ほど読みました出エジプト記の23章12節にも安息日の意味が明確に記されていました。12節にはこうあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休んで元気になるためであるとは言わず、当時の社会で最も小さいもの、低い立場にあった女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためだというのです。軽んじられて当然、過酷な仕事を休みなしにやらされたとしても何も言えない立場にある家畜、またそういう人たちを元気にするためなのです。当時、牛やろばと並列して書かれている女奴隷はもの同然の扱いで、寄留者は人間以下という世界でしたから、休みを与えなさいという掟は当時の世界では驚くべき考え方でした。他のオリエント世界の宗教には見出されない掟です。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちを休ませ、大切に扱うことは何よりもそうしている自分自身の人間性を復興することなのです。見失いがちな隣人を愛し、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められているのです。

10の戒めである十戒にはこうあります。出エジプト記20章8〜11節をお読みします。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこなるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。神様は安息日を祝福し、聖別されました。聖別するというのは、これは神様のものであって、あなたたち人間には変えることできないものという意味があります。ここにも休む権利など考えつかない「男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」、あなたと同じように休ませなさいとあります。ここに安息日の本当の意味があります。しかしながら、時代を経るごとに安息日は祝福された日からだんだんと離れていき、次第に「なになにしてはいけない日」となっていきました。

安息日には癒してはいけない。それは仕事だから。病人を助けてはいけない。それも仕事だから。そのように安息日の形だけが継承されて、本当の意味はずいぶんと見失われていたようです。イエス様は安息日を「何々をしてはいけない」とか「しなければいけない」という義務の日から人間復興の日、救いの日へと生き返らせてくださいました。

キリスト教では、イエス様の復活を記念して週の初めの日である日曜日を霊的な安息の日、聖なる日として2000年来、礼拝をささげています。ですから、わたしたちにとっての安息日は、日曜日となります。でもイエス様がそうであったように安息日は仕事をしない、休息の日というよりも、むしろわたしたちを造られた創造主なる神様の方を向くことによって自分自身を復興する日です。人を愛することに遅く、ゆるすことも難しく、癒すことなどできないと思ってしまうわたしたちにイエス様は言われます。「そんなあなたたちでも自分の子どもが溺れていたら助けるだろう」。目を覚ましなさい、思い出しなさいと言われているのです。本当のあなたは人を愛し、人をゆるし、人を癒すことができるのです。「神様に似て造られている自分を見出しなさい。あなたたちが目を覚まして愛し、ゆるし、癒す本当の自分に気づくように、わたしは独り子イエスをあなたたちに与えた」。

日曜日は、救いの喜びの日です。イエス・キリストを信じるわたしたちは毎週日曜日に礼拝を捧げて、「神様、イエス様によってわたしたちの罪を赦し、今週1週間も支え、守ってくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げます。安息日は救いの日、すでにイエス様によって救われていることを再確認して、自信や力をなくし、衰えた自分を復興する日です。

イエス様は安息日以外の日も人を助け、癒し、愛しておられます。安息日だから反感を買うのを知りつつもその日だけ病気の人を癒したのではありません。安息日の本当の意味をわかって欲しくて、イエス様は何回も安息日にしてはいけないと言われていたことをしたのです。出エジプト記にある人間復興の安息日に立ち返って欲しいと願われていたのだと思うのです。安息日は牛やろばなどの家畜、また女奴隷の子どもや寄留者たちがゆっくり休んで回復すること、それは同時に雇っていた人たち自身の人間性を回復するためでもありました。等しく命ある女の奴隷や寄留者たちの心も体も休ませ、彼らを大切に扱うことは何よりもそうしている人の人間性を復興することになるからです。

自分よりも弱い立場にある人がいますと威張りたくなり、反対に自分よりも強い立場にある人がいますと急に腰が低くなるのがわたしたちです。でもそのような自分は神様の似姿からは随分遠くに離れてしまっています。自分よりも弱い立場にある人たちを時に軽んじてしまうことのあるわたしたちにイエス様は「あなたは神に似て造られた人です。神は小さいもの、弱いものも同じように愛し、ゆるし、癒しています」と伝えています。失いがちになる隣人愛、ゆるし、癒す神様に似た自分自身を見出すため、復興するために安息日は聖なる日として定められています。これからも、愛し、ゆるし、癒す本当の自分自身に復興するため、神様に似て造られた自分を再確認するために主の日の礼拝に集ってまいりましょう。

2019年8月11日 ささやく小さな声の中に

◆列王記上19章1〜18節
19:01 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
19:02 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:03 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
19:04 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
19:05 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
19:06 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
19:07 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
19:08 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:09 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

エリヤさんという人は、新約聖書にも何度か名前が挙げられる人物です。例えば、イエス様が山の上で真っ白な服に輝き始めた時、エリヤさんとモーセさんがそこに現れて、イエス様と語り始めたとあります。また、イエス様が十字架に架けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そこにいた人が「そら、エリヤを呼んでいる」と言いました。「エリヤ」という名前が、彼の実際に生きた時代から800年以上経ったイエス様の時にまで覚えられていたのには理由があります。それはエリヤさんの最後の時と深く関係していまして、彼は地上で死んでお墓に葬られたのではなく、生きたまま「火の戦車」に乗って天に上げられたと聖書が伝えるからです(列王記下の2章)。そのため、後の時代になって神様の審判が下される前にエリヤさんが地上に戻ってくると信じられるようになりました。

さて、このエリヤさんですが、生きたまま天に上げられるほどの人ですから、よほど素晴らしいことをした人なのかと思うかもしれません。でも、聖書を読みますとそうではなくて、とても苦労の多い人でした。今日読みました聖書の出来事では、ユダヤの王アハブさんの妻イゼベルさんから命を狙われることになったとあります。イゼベルさんが信奉していたバアルの宗教の預言者たち450人がエリヤさんとイスラエルの人たちの手によって命を落としたからです。それは今日の箇所の前、列王記上18章に記されています。そのことに怒ったイザベルさんはエリヤさんに使者を送ってこのように言わせました。19章2節「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」。この言葉にエリヤさんは恐ろしくなってすぐにそこから逃げ、エニシダという木の下に来て座って言いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。主なる神様に従ってやってきたのに状況は悪くなるばかり。もう八方塞がり、どこに行けばいいのかわからない。死んだ方がいい。エリヤさんの心はあとちょっとでポキリと折れてしまう状態でした。

エリヤさんの苦労は、人間関係での苦労です。彼のように命を狙われるほどのことはありませんが、わたしたちも人間関係で苦労することがあります。相手に理解してもらえないこと。一方的に「悪いのはあなただ」と言われることなど、人との関係がうまくいかず、落ち込んでしまうことをわたしたちも経験します。ある時には「もう、十分です。わたしの命を取ってください」と思うほどの暗闇を経験するかもしれません。エリヤさんは神様に従って良いことをしたと思っていました。数年間、干ばつのためにカラカラに乾いて、農作物がほとんど取れないひどい飢饉に見舞われていたイスラエルの地に、バアルの預言者との戦いの後、ようやく恵みの雨が降りました。神様に従って預言者と戦った結果、与えられた待望の恵みの雨でしたから、アハブ王もわかってくれるだろう、そう期待していたエリヤさんでしたが、アハブ王は見事に彼の期待を裏切りました。時間とエネルギーと思いを込めて良いことだろうと取り組んで、「きっとわかってくれる」と期待していたのに、あっさりと反対のことをされてしまったのです。

エリヤさんはとにかく神様が言われたことを良いことだと信じて実行してきましたが、その結果、自分の命が狙われることになりました。神様を信じて生きてきたのに何も良いことがない。良いどころか悪くなっている。わたしたちもそう思うことがあるかもしれません。毎週礼拝に出席して、時間も力も献金も捧げてきたのにどうしてこうなってしまうのだろう。突然、重い病気になってしまう。人間関係がうまくいかない。どこに進めばいいのかわからない、八方塞がりになってしまうことがあります。エリヤさんは「もう十分です。わたしの命を取ってください」と願いました。すると神様は御使いを遣わせてエリヤさんに触れられ言われます。「起きて食べよ」。周りの人があなたのことをわかってくれなくても、わたしはあなたを決して見捨てない。神様は御使いを遣わし、「起きて食べなさい」と励ましてくださいます。

この原町田教会で長く礼拝生活を送り、また祈祷会にも出席している一人の姉妹が7月ごろから体調を崩され、何度か礼拝と祈祷会をお休みしていました。7月の最終週の祈祷会の時、彼女が出席してくれまして、一緒に祈りを合わせました。ここ数年ですが7月最後の祈祷会では8月が1ヶ月間お休みなので、一緒にお食事をしていまして、その姉妹オススメのシュウマイ弁当で食卓を囲みました。体調を崩されて病院にいかれた彼女は、その席で「自分は病気かもしれない。でも、自分はこれまで豊かな礼拝生活と祈祷会に出席できたことを本当に嬉しく思う」と話されました。また、健康でいられたことを当たり前のように考えていたことを傲慢だったと祈られました。健康でいられること、礼拝や祈祷会に出席できることがどれほどの恵みであるのか。当たり前のことではなく、限りある命の中で与えられているかけがえのない時間なんだとわたしは彼女のお話と祈りを聞いて思いました。淡々とご自分のことを話される彼女と出会って、わたしは神様を信じて生きることの強さというのでしょうか、困難な状況に直面してもただ神様を信じることができる恵みを思いました。彼女はしばらくほとんど食べることができず、水だけ飲んでおられたとのことで体重は5キロも減ってしまったと言っていました。今は少しずつ食べられるようになってきたとシュウマイ弁当に箸をつけていましたので少し安心しました。神様は彼女に、またお一人お一人に御使いを送ってくださり、「起きて食べよ。まだ、あなたにはやるべきことがある」と言われているのです。今日、礼拝に集うことのできたわたしたちは、この御言葉を心に刻みたいのです。「起きて食べよ」。神様がまだわたしたちを必要としてくださっている。これは礼拝を覚えながらも集うことのできない人たち、特に病気のゆえに集うことが難しい人たちにも告げられている御言葉です。どんな状況になっても神様がエリヤさんを立ち上がらせたように病床に伏す一人一人に「起きて食べよ。あなたにはやるべきことがある」と言われています。

神様は洞穴に隠れていたエリヤさんに「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞かれます。エリヤさんは答えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。エリヤさんはまだイゼベルさんのことが恐ろしくて洞穴に隠れていたのですが、主なる神様は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。ここでも主なる神様は「あなたはまだ生きるのです。あなたには果たすべき使命がある」と洞窟に引きこもる彼を外に出され、姿を現されます。はじめに激しい風が起こって、山を裂き、岩を砕きました。次に地震が起きました。その次に火が起こりました。しかし、いずれの中にも神様はおられません。そのあとに静かにささやく声が聞こえました。聖書は伝えます。神様は静かにささやく声の中におられる。神様は、激しい風の中、地震の中、火の中のように、大きな音、強い力、燃やしてしまうような熱さの中にはおられない。静かにささやく声、よーく耳を澄まさないと聞こえてこないほど小さく弱いものの中に神様はおられる。19章13節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。外套、コートで顔を覆うというのは、モーセさんもそうでしたが自分が神様の前に立つことを意味しています。小さな声、今にも消えそうな弱い声の中にこそ神様がおられるとエリヤさんは理解したのです。

この神様の姿は、十字架の上で殺されていったイエス様と重なります。パウロさんも言っていますが、十字架で死んでいくことは勝利ではなく敗北です、強さではなく弱さそのものです。その弱さの中に神様はご自分を現されたと聖書は伝えますから、わたしたちは静かにささやく小さな声の中におられる神様に心の耳を向けるのです。

病気や障がい、あるいは誰しもが経験する「老いていくこと」で感じる弱さもあります。できていたことができなくなっていく。少しずつですが、確実に弱くなっていく自分。もしできるのならその弱くなっていくスピードを遅くしたい。なんとかして弱くならずに生きていきたい。そう思って祈ります。「神様、どうか守ってください。健康でいられますように」。でも、神様は聖書を通して言われるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。弱さの中に本当の強さがある。弱さを自覚して初めて気づくことがあります。病気になって、体に弱さを覚えて初めて気づくこともあります。これまでは聞こえなかった小さな声。体が弱いからこそ他者を優しく思う気持ちになれる。自分の弱さを受け入れて、初めて見えてきた他者の中にある痛みや苦しみ。わたしたちが一緒に生きていく中で助けられ、支えられて「ありがたい」と思うのは自分が弱くなった時ですし、助けられた経験を持つ人は、今度は困った人がいたら、「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけることができます。聖書は言います。「目が手に向かって、『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

ささやくような小さな声の中に神様がおられますから、原町田教会のわたしたちは、ささやくような小さな声に心の耳を傾けます。エリヤさんはささやく声の中に神様がいることに気づいたことで、自分自身も小さく弱い者だけれども神様はそんなわたしも必要としてくださっている、その恵みに気づいたのではないのでしょうか。神様はささやく声で皆さんに言われています。「起きて、食べなさい。あなたにはまだやることがある」。

2019年8月4日 ラハブの系譜

◆ヨシュア記2章1〜14節
02:01 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
02:02 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
02:03 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
02:04 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
02:05 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
02:06 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
02:07 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
02:08 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
02:09 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
02:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
02:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
02:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
02:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
02:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

◆詩編97:7〜12
97:07 すべて、偶像に仕える者むなしい 神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
97:08 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。
97:09 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。
97:10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。
97:11 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。
97:12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

今日は、平和聖日です。この平和聖日の礼拝に、どうして戦いだらけのヨシュア記が読まれるのかと、疑問を感じる人もいるかもしれません。このヨシュア記にはエジプトを脱出したイスラエルの人たちがモーセの後継者であるヨシュアに率いられ、約束の地であるカナンの土地を戦いながら、ある意味では侵略するような形で奪い取っていく出来事が記されています。それは神様がアブラハム、イサク、ヤコブそしてモーセに約束したことでした。ヨシュア記1章の初めにその約束が記されてあります。1章1〜3節を読む。約束の地に入っていくのだから、戦いがあってもやむをえないとイスラエルの側からみれば言えるかもしれません。でも、侵入され、土地や命を奪われる側からみれば、神様の約束であっても納得できません。そのような戦いだらけのヨシュア記ですが、今日の2章には平和のメッセージがはっきりと示されていました。死からの救い、滅びからの救いが一人の女性によって成し遂げられたのです。

モーセの後継者であるヨシュアがついにヨルダン川を渡って約束の地に入っていきます。40年間荒野をさまよい続けた後での「ついに」です。彼らがまず初めに攻め込むと決めた場所は、世界最古の町の一つと言われるエリコという町で、ヨシュアは攻め込む前に二人の斥候、スパイを送り出します。その二人が隠れた場所が城壁の中にあった遊女ラハブの家でした。彼女は遊女ですから、自分の体を売り物としていました。彼女がそうしなければ生きていけない状態、つまりそうせざるをえなかったのか、それともそうではないのか、聖書は何も語っていませんのでわかりません。しかし、どの社会でも自分の性を売り物にしている人は世間から嫌な目で見られる傾向にあります。決して好ましい働きではありませんから、エリコの街で母親が子どもと歩いていて、たまたまラハブを見かけたなら親はこう言うでしょう。「あんな人になってはいけないよ。汚いことをする人だから」。イエス様の時代でも律法学者などは娼婦たちのことを明らかに罪人であり、神の国に入ることができないトップランナーだと蔑んでいました。しかし、その遊女ラハブが決断して行った、命がけのアクションが数え切れないほどの多くの人の命を死から救うことになるのです。

彼女はエリコの街に攻めてくるであろう敵のスパイをかくまいました。エリコの王はラハブのところに人を遣わして「家に入り込んだ者を引き渡せ」と迫りましたが、彼女は「その人たちはもう出て行きました」と嘘をついて二人を守ります。これは命がけのことです。もし、スパイの二人が見つかって捕らえられてしまったら、二人はもちろん彼女も裏切り者として確実に命を失うことになります。でも、ラハブは機転をきかせて二人を屋上の亜麻の束の中に隠し追っ手から守りました。彼女は出エジプトの出来事を人伝えに聞いて、直感的に確信したのです。ここエリコにも神様がいる。でも、本当にすべての人を救うのは、この方だと。10〜11節を読みます。「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心はくじけ、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません」。そして彼女は言うのです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

当時、それぞれの民族は自分たちの神様を信じていました。それぞれの民族、その土地土地には神様がいて、戦争で負ければその神様が負けたことになりますから、その民族の神様もいなくなります。エリコにも当然、彼らが信じる神様がいましたから、ラハブの家族や親族のほとんどはその神様につながっていました。収穫のお祭りに参加したり、結婚式や葬儀など冠婚葬祭もその神様に捧げていました。何代にもわたってその神様の宗教に繋がってきていましたし、エリコのほとんどの人は、自分たちの神様こそが本物で絶対だと信じていました。でも、彼女はエジプトから小さな民族であるイスラエルを救った神様こそが全ての人を救う方だと気づき確信したのです。だから彼女は命がけでスパイの二人に頼みます。13節「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。当時の宗教観であれば、敵の神様に自分の家族の救いを求めることなどできることではありませんでした。でも、彼女の鋭い気づきと勇気ある決断が多くの人を死から救ったのです。

わたしたちにもこのラハブのように自分とつながる家族がいて、その中には教会に来たことのない人たちがたくさんいると思います。自分の親戚、いとこ、親の親戚、そのように家族とのつながりを広げて見ていきますと、彼らに連なるすべての者たちは実にたくさんになります。わたしたちはそのたくさんの人にとってのラハブになりたいのです。その人たちの命がすぐにエリコの人たちのように危険な状態になるわけではありません。でも、どの時代であっても気づかないうちに、わたしたちを少しずつ縛り付けていく原理主義という罠にとらわれてしまい、そこから逃れられなくなる人も出てくるからです。原理主義というのは、これさえあれば大丈夫。これを信じていれば他のことは必要ないという考え方です。お金原理主義があります。お金さえあれば幸せになれる、健康が守られる。そう伝えます。科学原理主義もそうです。科学技術によってどれほど寿命が伸び、生活は豊かになり、今では宇宙にまで人間を飛ばし、遺伝子を操作することで治らない病気もなくなる。人間にできないことはないとまでいう勢いが科学原理主義にはあります。宗教の中にも原理主義があります。キリスト教原理主義もその一つです。キリスト教でなければ救われない。他の宗教は全部うそ。あなたの家族もキリスト教にならなければ滅びますと伝えます。

ラハブはこの原理主義から自由でした。彼女はエリコの人たちが信じている神様ではなく、葦の海を干上がらせた上は天、下は地に至るまでの神様を信じて、この方こそまことの神様だと自分と家族とそれに連なるすべての者たちの命を委ねました。彼女は自分たちが信じる神様だけが絶対だという原理主義から自由だったのです。それと同時に天と地の全ての命を創造された普遍主義の神様こそ、わたしたちを死から救ってくださる方だと見抜きました。原理主義ではなく、普遍主義を嗅ぎ取るこのセンスというのでしょうか。嗅覚というのでしょうか。彼女にはそれがあります。わたしたちもそのセンスを身につけたいのです。この神様を信じなければ滅びますと原理主義者のようにではなく、この神様はすべての人を救う方だから、わたしも、わたしの家族親族、それに連なるすべての者たちを委ねる。わたしたちも彼女のように祈るのです。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。なぜなら、「神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。

神様になんか頼まなくても自分の力でなんとかやれる。実際、神様なんて信じなくてもお金さえあれば幸せになる。そのような原理主義的な声が聞こえてきます。それは命の神様からすべての人を引き離す死への誘いです。ラハブは言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。天から地に至るまですべては神様によってつくられ、神様によって保たれ、支えられているのですから、その主なる神様から離れていくことは死んでいくこと、滅んでいくこと。彼女はそのことに気づいていたのです。

神などいない。神は死んだと言われた20世紀は、ある意味では科学原理主義が力をつけて、資本主義というお金原理主義がたくさんの人を惹きつけた時代だと言えます。ただ、同時にたくさんの人の命が戦争によって奪われた時代でもあります。21世紀に入って19年が過ぎましたが、わたしたちはラハブに倣って決断し、祈り願いたいのです。科学でもなく、お金でもない。本当にすべての者を生かし、わたしたちの命を救うのは、天と地を創造され御子イエス様の十字架と復活によってすべての人を救う神様だと、原理主義的ではなく、普遍主義的に信じるのです。

ラハブはマタイによる福音書の最初に出てくる系図によりますとダビデ王のひいひいお婆さんに当たります。ダビデ王のおじいさんのおばあさん、ルツの夫となったボアズのお母さんになります。ボアズが外国人のルツと結婚することにしたのもラハブお母さんの影響もあったと想像できます。マタイによる福音書の系図から見ますとこのラハブからダビデ王、そしてそのずっと後にイエス様がお生まれになったことがわかります。アブラハムから始まってダビデ王を通り、イエス様に至るこの系図の中にラハブの名前があること。原理主義的にある特定の人たちだけを救うのではなく、普遍的にすべての人を救う主イエス・キリストは彼女を含んだ系譜から生まれてくるのです。

ラハブはわたしたちと同じ弱さや欠けをもった一人の女性です。仕事も決して社会から評価されるようなものではありませんでした。世間からは冷たい目で見られていましたし、家族からも、家族に連なるいろいろな人からも嫌なことを言われていたことでしょう。しかし、彼女はできるだけ多くの人を死から救ってもらいたいと願いました。命の源である神様は必ずそうしてくださると彼女は信じたのです。だからこそ、勇気をもってエリコの王の命令に反して二人のスパイをかくまったのです。

礼拝の初めに読まれました招きのことば、ヨハネによる福音書3章16〜17節にはこうありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の御心は続く17節にこうはっきりと伝えられています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。御子イエス様によって一人でも多くの人が救われること、それが神様の願いです。

ラハブは願いました。わたしたちも彼女のように願います。「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。主にある平和を心から願うわたしたちは、特定の人だけが救われる原理主義ではなく、すべての人が死から救われる普遍主義の道を歩んだラハブの系譜を継いでいきます。

2019年7月28日 赦す者への召し

◆ルカによる福音書7章36~50節
07:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
07:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
07:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
07:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
07:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
07:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
07:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
07:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
07:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
07:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
07:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
07:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
07:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
07:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
07:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

◆詩編38:10~23
38:10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。
38:11 心は動転し、力はわたしを見捨て 目の光もまた、去りました。
38:12 疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。
38:13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は 欺こう、破滅させよう、と決めて 一日中それを口にしています。
38:14 わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。
38:15 わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました。
38:16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。
38:17 わたしは願いました 「わたしの足がよろめくことのないように 彼らがそれを喜んで 尊大にふるまうことがないように」と。
38:18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり
38:19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。
38:20 わたしの敵は強大になり わたしを憎む者らは偽りを重ね
38:21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに 彼らは敵対するのです。
38:22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
38:23 わたしの救い、わたしの主よ すぐにわたしを助けてください。

「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。イエス様が罪ある女性に言われたことは、今日ここに集うわたしたちにも言われたことです。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。キリスト教の救いは、罪の赦しが宣言され、それを一人一人が心から信じることです。

聖書が伝える罪というものは、「的外れ」という意味で、神様という的を外して生きることですから、その意味ではわたしたち全員が罪を背負いながら生きていることになります。10日ほど前ですが、幼稚園の最後の日の礼拝で、ある先生が子どもたちに向かってこんな話をしました。「時々、みんなも意地悪してしまうことがありますよね。例えば『仲間に入れて!』という友だちがいても『やだよ』と言ってしまったり、電車のおもちゃでしばらく遊んでいた時に『それ貸して』という友だちがいても『まだ始めたばっかり』と意地悪を言ったりすること。わたしもそういう意地悪な気持ちがあるけど、みんなもあるよね」と聞きますと、何人もの子どもたちがうなずいていました。小さい子どもも自分が意地悪をしてしまうことがあるとわかる。ましてや、わたしたち大人は神様のことを忘れ、自分のことを第一とすることで、人にわざと嫌なことを言ったり、人をゆるせないと思ってしまう罪ある者です。今もなお、日々の生活の中で、悪いことを思ったり、人を支配したい、自分の思い通りにことを進めたいという罪がわたしたちの中にはあります。神様のことを第一として生きたいと思うのですが、それを継続して実行することは難しいのです。そんな罪あるわたしたちだからこそ、イエス様は無条件に「あなたの罪は赦された」となんども言ってくださいます。罪はすでに赦されています。わたしたちが何か尊いことをしたからでもなく、わたしたちが罪の償いを十分にしたからでもなく、ただイエス様の十字架と復活によって罪が赦されたのです。その神様の一方的な恵みを受けて、「わたしは赦されているんだ」と心から信じるところにわたしたちの救いがあります。

ある人は言いました。「最悪の病気と最悪の苦しみは、自分が必要とされないこと、愛されないこと、大切にされないこと」。神様からの赦しを受け止めて、そうだ、わたしは赦されているんだ。「神様、あなたはわたしを赦し、生かしてくださっています。感謝します」と祈るわたしたちは最悪の病気、最悪の苦しみに陥ることからいつも守られています。なぜなら、神様がわたしたちを赦し、それは神様がわたしたちを必要としているからであり、神様がわたしたちを愛しておられるからです。そのことをわたしたちは毎週の礼拝で確認することができるのです。

救いは一度きりの大きな出来事ではありません。大雨によって引き起こされた洪水に飲み込まれ、流されていくとき、自分の手をがっちりと握って、地面の上に引き上げられ、「あー救われた、助かった」というような思いを持つ決して忘れられない救いもあると思います。でもそのような経験だけが救いではなく、毎週礼拝に出ることで、最悪の病気と苦しみに陥ることから守られ続けることも救いなのです。

イエス様はファリサイ派のシモンさんの家で食事をしていました。この時、一人の女性がイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足にキスをして香油を塗りました。これは本当ならばイエス様がその家の主人であるシモンさんから受けるべきしきたりでした。どの家でもお客に対しては家の主人が僕に命じて、客の足と手を水ですすぎ、主人と客人とが頰と頬とを寄せて親しく挨拶をしてから、客の髪の毛に香油を塗って敬意を表すのでした。シモンさんは意図的にかもしれませんが、イエス様にその挨拶をしませんでした。でも、一人の女性が心を込めてその挨拶をしたのです。イエス様は言われました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ここにすでに赦され、神様から「あなたを必要」とされた者への召し、呼びかけがあります。罪赦され、愛されていると信じるわたしたちは、隣人の罪をゆるし、隣人を愛する者になるようにと召されているのです。

神様はご自分の国、愛と赦しに満ちた神の国を建設するために働き人を必要としています。ハローワークには出ていませんが、聖書には神の国建設のため求むと求人票が出ています。その求人票はこの世のものとは違っていまして、この世の求人票には、月給30万円でパソコンができて、朝の9時から5時まで働ける人などと条件が書いてあります。でも神様が出される求人情報欄にはこうあります。「あなたの罪は赦された。罪の赦しを心から信じ、神様があなたを必要としていること、隣人をゆるすためにあなたを必要としていることを信じてください」。求人票にはそれだけです。神様は罪赦された一人一人を神の国建設のために用いてくださいます。人をゆるすたびに神の国は着々と完成に向かいます。この罪深い女性は、「わたしに示した愛の大きさでわかる」とイエス様から言われた人ですから、神の国の土台、基礎を作るために木を切り、その根を抜いて切り開いたパイオニアの一人と言えるでしょう。

神様に赦されているわたしたちですが、人を赦すことは簡単なことではありません。特に毎日の生活を共にしている家族、近い関係の人ほど何かのことで一度「ゆるせない」と思ってしまいますとなかなかそのことをゆるすのが難しくなることがあります。その人のある行動だけがゆるせないと思っていましても、その行動だけをその人自身から分けて受け止めることが難しいのです。夫婦関係でも、親子関係でもあることがきっかけになって、ギクシャクしてしまい修復ができない状態にまでなってしまうこともあります。その人の存在そのものをゆるせないというわけではないのに、なぜかそのような雰囲気になってしまう。そこには明らかに的外れという罪があるのです。その中の一人でもいい。神様の方に向いてイエス様の声を聞いてそれを心から信じることができれば、その関係の中に救いが与えられます。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」。自分自身が赦されていると気づき、そして今度は自分だけでなく、ゆるせないと思っていたあの人にもイエス様の福音が届けられていると信じるのです。あの人も神様に赦された人、神様に愛され、必要とされる人なんだとなんども祈って信じるのです。

それが人をゆるし、人を愛することです。こんなに罪深い自分を神様が赦してくださった。必要としてくださったと信じて感謝すること。神様の愛は自分だけでなく、あの人にも、すべての人にも届けられていると信じて、毎日心の中で言葉にして祈り続けるのです。それが人を愛することの始まりです。「神様、あなたの赦しに感謝します。あなたはわたしを今日も必要としてくださり、生かしてくださっています。あなたはあの人のことも赦しています。どうかあなたの赦しがあの人にも届いていると信じることができますように」。神様の赦しは何よりも先立って進んでいます。わたしたちが何かをするよりも先に神様がわたしたちを赦して下さっているのです。

キリスト教のシンボルは十字架です。十字架はわたしたち全ての人に向かって「あなたの罪は赦された」とこれまでも、そしてこれからも罪の赦しを宣言します。十字架を見るたびにぜひ、「あなたの罪は赦された」というイエス様の御言葉を思い出してください。教会の外にも中にもある十字架を見たとき、だれかの胸にネックレスとしてかけられた小さな十字架を見たときでもいい。すべての十字架はこの自分に向かって、同時に、すべての人に向かって宣言します。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

毎週の礼拝の中で一緒に声を合わせて祈る「主の祈り」の中でわたしたちはこう祈ります。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。少し前の入門講座の時ですが、長く信仰生活を送られてきた人も参加してくれまして、その人が正直にご自分の苦しみ、疑問を話してくれました。それは主の祈りの中でこの罪の赦しの順番が今でも納得できないと言うのです。神様がわたしたちをゆるしてくださるのだから、わたしたちも他の人の罪をゆるしますという順番だったら、わかるのだがどうして先にわたしたちがゆるすと祈るのか、理解できないのです。その気持ちはよくわかります。神様ではなく、人間のゆるしの業が先行していることへの違和感であり、人を簡単にはゆるせないわたしたちの苦しみがあるからです。だから、この祈りに違和感を感じ、疑問に思うのです。でもイエス様はあえてわたしたちに挑戦されるのです。人をゆるすことが苦しい、だからそこに意味があるのだと。

イエス様は何人もの人たちに「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様の赦しにはご自分が十字架の上で引き裂かれ、苦しむ痛みが伴いました。人を赦すことには痛みが伴うのです。実はその痛みと苦しみを感じることを通してはじめて、苦しまれながら御子を十字架につけた神様の赦しが少しずつですが、わかってくるのではないでしょうか?赦された者だから赦すだけにとどまらずに、人をゆるすことで自分の心も破れていくのです。

今も罪あるわたしたちですが、神様は「人をゆるす者として生きていきなさい。それこそがもっとも尊く、また健やかでわたしが願う生き方です」と言ってくださいます。「あなたをゆるします」と言えなくてもいい。「あなたの罪は赦された」との御言葉がゆるせないと思うあの人にも届いていると信じるのです。

2019年6月16日 天に名が記されること我嬉し

◆ルカによる福音書10章17〜20節
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

◆詩編8:2〜10
08:02 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
08:03 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。
08:04 あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
08:05 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
08:06 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ
08:07 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。
08:08 羊も牛も、野の獣も
08:09 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
08:10 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。

みなさんは、買い物をしますと貯まっていくポイントカードを何枚ぐらい持っていますか?わたしは20枚ぐらい持っていると思います。買い物をしますと必ずと言っていいほどに「ポイントカードはありますか?」と聞かれますし、「いや、ありません」と答えますと「無料ですぐに作れますが・・・」と勧められます。なんだかポイントカードを持っていないと損をしているような気になりますから、以前はそう言われますと「はい、作ります」と言って作っていました。でも、財布の中がどんどんポイントカードで膨らんで、レジに並んでいる時に財布の中から何枚もあるカードから探し出すのに苦労して結局見つからない、そんなことが何度かありまして、もっぱら最近は「ポイントカードはいりません」と答えるようにしています。買い物以外にも携帯電話でもポイント、ガスや電気を使ってもポイント、世の中がポイントだらけになっていて、いつの間にかポイントを貯めることに自分の時間や労力をたくさん使って、わたしたちがポイントを使うのではなく、ポイントがわたしたちを使うようになってしまうかもしれません。実際にポイントがわたしたちを使う、そんなことが起きつつあります。その一つに「信用スコア」というものがありまして、中国やアメリカでは自分や他の人の信用度をスコア、点数で表すシステムがすでに始まっています。信用スコアというアプリがありまして、クレジットカードの支払いが滞っていないか、どのような資格を持っているか、学歴、職歴や仕事の実績、またSNSをよく利用しているかなどをAIが計算して人に点数、ポイントをつけていく、その人を評価できるようにするシステムです。その点数から「この人は信用できる人なのか、どうか」と判断するというのです。

イエス様はポイントや点数に振り回されそうになっているわたしたちに今日、福音の言葉をくださいました。それが20節後半の御言葉です。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。

イエス様のところに72人の人たちが喜んで帰って来ました。彼らはイエス様によって近くの町や村に福音を伝えるために遣わされた弟子たちでした。10章の1節にこうあります。「その後、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。72人は2人1組のチームとなって、遣わされた町や村に入って行き、病気の人がいたらその体に触れて福音を伝えて来ました。「あなたの罪は赦されています。あなたはすでに救われています。神の国はすぐ近くにあります」。72人の彼らが一旦その働きを終えてイエス様のところに報告に来たのが今日のところです。17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。彼らは自分たちがしたこと、悪霊を追い出して苦しむ人を助けることができたこと、それが嬉しくて、イエス様も喜んでくれるだろう、わたしたちのことを褒めてくれるに違いない。そう思っていましたから彼らはイエス様が「よくやった。100点満点だ。でもまだ苦しんでいる人たちがいるからこれからも頑張っていこう」、そんな返事を期待していたと思います。でも、イエス様は言われました。20節「しかし、悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。

18節でイエス様は言われました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」。これは神様がすでにサタンに勝利されてしたということです。天にある土俵から神様はサタンを寄り切り、突き落としてすでに軍配は上がっているのをわたしは見たと言うのです。19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。すでに神様はサタンに打ち勝たれているのだから、この地上でも悪に打ち勝つ力をいただいているわたしイエスがあなたがたにその力を授けたから、勇気を出して福音を伝えなさいと言うのです。福音を伝える働きは大切です。イエス様は72人に間違った思い込みをしてしまっている人たちを解放するために福音を託しました。例えば、心や体に病を負った人たちの多くは「こんな病気になったのは、神様が悪魔に負けてしまったからだ」、「自分はもう救われない」、「もう生きていてもなんの意味もない」と思い込んでいました。72人は二人ずつに別れてその人たちのところに行き、その人たちの苦しみの声をしっかり聴いて、その彼らの思いを「そんなことはないよ」と否定することなく、「辛かったですね。苦しかったですね」としっかりと受け止め、そしてその後に力強くイエス様のお名前を使って福音を宣言したのです。「イエス様は言われました。あなたはすでに赦されています。神様は悪魔に打ち勝たれましたから、あなたを縛りつけるものはもはや何もありません」。それを聞いた人たちの多くは目からウロコが落ちる経験をしたはずです。真っ暗闇にいてもう前に進めないと思っていたところに一筋の光が差し込んできて、進むべき道が見える。救いの経験です。イエス様はそのように福音によって苦しむ人たちを救う72人の働きを喜んだと思います。でも、イエス様は知っていました。もし、彼らが自分の働きだけで自分を支えていくならば、いつか必ず倒れてしまう。だから、こう言われたのです。20節「しかし、悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。素敵な御言葉です。わたしたちの名前が天に、神様のところにしっかりと書き記されている。天に書き記されているのですから、それは決して消えることはありません。

18〜20節のイエス様の言葉を宮島なりに言い換えますとこうなります。「神様はすでに悪の力に打ち勝たれていて、その勝利を伝えるあなたたちの働きはとても大切だ。でも、自分の働きがうまくいったからと言ってそれだけを喜んではいけない。あなたたちが何かできたから喜ぶ以上に、たとえあなたたちがうまくできなかったとしても、どんなあなたたちであってもいつも覚えていてくださる方がいる、むしろ、そのことを喜びなさい」。

わたしたちは、何か問題なく、つつがなく物事を進めているときは特に気をつけなければならないことがあります。自分の働き、成果、結果だけがわたしたちを価値あるものとしているのではないということです。何かうまくできるから、あなたは良い人だということでもなく、何か良い成績、ポイントをたくさん集めたからあなたは価値ある人間だということでもない。もちろん、わたしたちは働くことを大切にしますし、働くことによって得られた成果や結果はわたしたちに大きな喜びを与えてくれます。でもそれだけに依って立つと危険なのです。イエス様は言われます。「むしろ、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさい」。ここにわたしたち誰しもが依って立つべき岩があります。神様がこのわたしのことを忘れることなく、見捨てることなく、自らの手のひらにわたしの名前を刻み込むほどに覚えていてくださる。イザヤ書49章15節の終わりから16節にもこうあります。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」。

先日読んだ本にとてもわかりやすい例えが載っていましたので紹介いたします。それは2つのパーティーのことです。一つは合格祝いのパーティー。もう一つは誕生日パーティーです。合格祝いパーティーはその人の努力が結果を結んで、それを家族などが「おめでとう」と言ってお祝いします。その人の行い(to do)が評価されるパーティーで、祝ってもらったその人は成功したことを記憶して、次も頑張って行こうと力づけられます。もう一つのは誕生日パーティーです。これはその人が生まれてきたこと、その人が生きていることを家族や友だちが祝い、「あなたに会えてよかった、あなたがいてくれることが嬉しい」と喜びを分かち合います。その人が存在していること(to be)を感謝します。どちらのパーティーもわたしたちには大切です。どんなに努力して結果を出したとしても1度もお祝いをしてもらえなかったら、その人はやる気をなくしてしまうかもしれません。でも、合格パーティーのような成功体験だけしか祝ってもらえなかったとしたらどうでしょうか?つまりあなたがいてくれることが嬉しいという存在を感謝することがなく、努力することだけを求められていたら、勉強ができるから価値がある、お金を儲けるから価値がある、◯◯ができるからあなたはいい人だ。そんな風に条件付きでしか認められなかったとしたら、きっとその人は燃え尽きてしまいます。期待されている結果を出せない限り、わたしは自分のことを喜んでもらえない、失敗するたびに「もっとがんばらなければダメだ」「失敗する自分はダメだ」と思ってしまい、ついには壊れてしまうのです。ですから、わたしたちには定期的に誕生日パーティーのような存在(to be)を認めてもらう時が必要なのです。結果を出しても出せなくても節目ごとに「あなたに会えてよかった。あなたが生きていることが嬉しい」と伝える、あなたの存在を無条件で喜ぶ祝いの時が必要なのです。イエス様が「むしろ、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われているのはそのことなのです。

詩編8編にもイエス様が伝える同じ福音の言葉がありました。8編の4〜5節をお読みします。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間とは何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。天地、宇宙を造られた偉大なる神様が、ポイントや点数に右往左往してしまうわたしたちにも関わらず、しっかりと覚えていてくださっています。どこで生まれたとか、どんな家族なのか、学校はどこを出たとか、どんな仕事をしているとか、仕事の実績はどうかなどということでポイントを上げたり、下げたりしてしまうわたしたちにも関わらず、神様は今も、そしてこれからも顧みてくださるのです。

神様はできるとかできないとかに関係なく、わたしたちのことを心配し、気にしておられます。わたしたちが歩くのに遅れてしまったら立ち止まって振り返ってくださり、時には戻ってきて手を差し伸べてくださいます。「さあ、一緒に行こう。わたしが共にいるから大丈夫」と言ってくださいますから、わたしたちは毎週、礼拝でそのことを喜び、祝うのです。礼拝は、わたしたちすべての人の名前が天に書き記されていることを喜び祝う時です。「天に名が記されること我嬉し」

2019年5月26日 これほどの信仰はこの中で

◆ルカによる福音書7章1〜10節
07:01 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
07:02 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
07:03 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
07:04 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
07:05 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
07:06 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
07:07 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
07:08 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
07:09 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
07:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

◆詩編34:2〜11
34:02 どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
34:03 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
34:04 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
34:05 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
34:06 主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
34:07 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
34:08 主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
34:09 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても 主に求める人には良いものの欠けることがない。

わたしはこれまで何度かこの箇所を読んで来ましたが、どうもストンと理解することができていませんでした。それはイエス様がどうしてこの百人隊長をここまで褒めたのかがわからなかったからです。イエス様は群衆の方を見て、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と百人隊長を褒めました。でも、百人隊長の何に対して「これほどの信仰」と言ったのかがどうもしっくりこなかったのです。イエス様が「信仰」というのですから、神様を信じる心となるはずですが、この百人隊長の伝言を伝えた友達は「神様を信じます」などとは一言も言っていません。イエス様のところに使いとして来た友達は、イエス様にこう言いました。7節の途中から「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。8節「わたしも権威ある下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにします」。この友人の言葉をある本ではこのように説明しています。兵隊という組織は上にある者の命令は確実に下に伝えられてそのとおりになるから、同じようにイエス様の言葉も確実にそのとおりになる。だから、ひと言おっしゃってくだされば僕はいやされる。そのことをイエス様はこれほどの信仰と褒めたと書いてありました。皆さんはこの説明で納得されますか?わたしはどうもしっくりこないのです。この上意下達、上の者だから下のものには確実に徹底されるというニュアンスにわたしはどうも納得ができないのです。イエス様の「ひと言」が、何か軍隊の上にいる人が下の人に命令して、それに従うような感じで降りてくる、そのイメージがどうも、わたしのイメージするイエス様とは違うからです。

百歩譲って、その考え方に立ってみて、もし部下ではなく百人隊長が病気になったとします。その時に隊長の部下がイエス様のところにやってきて、「隊長が病気です。どうか癒してください。ひと言おっしゃってくださればいいです。」と言ったらどうでしょうか。イエス様はなんとお答えになるのでしょうか?わたしは、この部下に向かってもイエス様は「立派な信仰だ」と褒めたと思うのです。でも、そこには上意下達はありません。下に立つ兵隊が上にいる隊長のことを「助けたいと思っているだけです。

それでは、どうしてイエス様が「これほどの信仰を見たことがない」とわざわざ群衆の方に振り向いて百人隊長を褒めたのでしょうか?わたしはその答えをここ原町田教会に来て、原町田教会の仲間たち、皆さんですよ。この教会の神の家族の中で過ごす中でわかったのです。見えていなかったこの御言葉の意味が見えるようになったとも言えます。イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と褒めたのは、上とか下とかに関係なく、その関係の中に確かな信頼関係があったからだと気づいたのです。

この原町田教会の仲間たち、神の家族の中には確かにお互いを信頼していこうという風が吹いています。最近、わたしがそれを特に感じましたのは、今月の上旬に天に召されたSさんを囲む仲間たちとの関わりでした。Sさんが入院されてから何人もの原町田教会の神の家族が彼女を訪れて時に賛美歌を歌い、一緒に祈り、また励ましの言葉をかけてきました。もちろんそこには彼女の人柄もあったと思いますが、でも、それは二次的なことで、何よりもそこには信頼関係に裏打ちされた神の家族への思いがあった、わたしはそう受け止めます。彼女は原町田教会の神の家族となってからすでに20数年が経っていますので、そのかけがえのない時間の中で礼拝を共に捧げ、一緒に食事をして、時には一緒に宿に泊まることもあった人が与えられました。時間をかけて神様の導きの中で築き上げられた信頼関係があったからこそ、彼女のために多くの祈りが捧げられてきたのです。それは今も同じです。この神の家族の中に今現在も療養している人、病院で先日手術を受けた人、ホームに入っている人のことをわたしたちは覚えて祈っています。実際に病院に行けなくても、実際にホームを訪ねることができなくても、この祈りの積み重ねがわたしたちを信頼し合う関係へ導いてくれるのです。

どうぞ、これからも他者のため、祈りを必要としている人のために祈ってください。わたしもつい先日、手術を受けた人のために祈りました。「神様、手術が無事に終わりますように。◯◯さんをどうぞお守りください」。このように人のために祈り、その人とその後に実際に会いますと「祈っていましたよ」と伝えることができます。伝えなくてもいいと思う人もいると思いますが、そのようにさりげなく伝えますとそこに信頼関係という目には見えない、でも確実にある主にあるつながりが太くなってきます。どうして信頼関係を築かなければいけないのですかと思うかもしれません。特にあの人のことは考えたくもない、あの人のことを祈ることなんかできるものか、と思うこともあるかもしれません。でも、イエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言われているのです。互いに信頼していくことがどれほど素晴らしいことか、とイエス様が言われているのですから、わたしたちは努力してあの人のことは考えたくもないという人から「行け」と言われてもすぐに「わたし行きますね」と言えるぐらいになる、そんな原町田教会の家族を目指したいのです。

「一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、そのとおりにする」のは、行けと言われた人が行けと言った人を信頼しているからです。これまで何度も「行け」と言われたところに行ったけど、無茶なところに行かされたことは一度もない。部下であるわたしのことをあの隊長はよく考えてくれているなと感じることが何度もあったのでしょう。また、「来い」と言われた人も同じようにあの隊長は自分のことだけを考えて「来い」と呼ばれたのではない、わたしのことをよく考えてくれていると感じたことがあったのでしょう。ですから、「行け」と言われたらその人を信頼してすぐに行く、「来い」と言われればその人を信頼していますからすぐに来る。イエス様はその言葉の中に秘められている信頼関係を見てとったのです。仲間をとことん信頼する。信頼関係が太くなるように仲間のために祈り続ける。信頼関係はすぐにできあがることではありませんから時間をかけて、またお互いに努力して築いていく。百人隊長と部下たちは毎食、食事を一緒にし、寝るときも一緒にして、家族のように生活をしていたはずですから、そのような信頼し合う関係を築きやすかったのかもしれません。わたしたちは週に1日だけ、こうして教会に集っているだけですから、そんなに簡単に信頼関係を築くことは難しいですと言う人もいるかもしれません。その通りです。だからこそ、この週に一度の礼拝を何よりも大切にして集いたいと思うのです。

以前、わたしは日曜日がくるのをなんとなく憂鬱に感じていた時期がありました。日曜日に説教をすることが喜びというよりも緊張という感覚です。間違ったことを言ってしまわないだろうか、福音を心から喜びをもって伝えることができるだろうか。そう思ってしまう。でも、原町田教会に来てからは、日曜日がくるのがとても楽しみに感じています。日曜日に朝、目覚めますと「神様、今日、教会に行けますことを本当にありがとうございます」と祈ります。福音を伝えることも嬉しいことですし、何よりも教会の仲間、神の家族に会えるということがどれだけ嬉しいことか。日曜日にみなさんに会えるのがわたしにとって何よりもの喜びとなっています。この礼拝に出るためにゆっくりと歩いて時間をかけて来られる人がいます。先日、わたしは礼拝の後、その人に会って「◯◯さんに会えて嬉しいです」と伝えました。毎週、毎週、当たり前のように会っていると思ってしまいがちなわたしたちですが、実は毎週、毎週、神様がわたしたちを生かし、守ってくださっているからこそこのように出会うことができています。礼拝を捧げることができるのは、神様の御業です。そのことをよく噛み締めて「今日も、お会いできて嬉しいです」とあの人に、あの人にも伝えましょう。そして、苦手なあの人がもし祈りを必要としているならば、苦手なあの人のためにも祈りましょう。この集いはわたしたちではなくて、神様が集めてくださったのですから、できないことはありません。イエス様がここにいてくださっていたら、そのように祈り合うわたしたちを見てこう言われるはずです。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

異邦人だった百人隊長に向かってイエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言われました。当時のユダヤの人たちにとっては驚くべき発言です。ユダヤ人だけに限られた信仰対象だった神様は、イエス様によってすべての人を元気にするための神様に広げられたのです。律法とか割礼とか、神殿での祭儀といった信仰の形にこだわっていた人たちは「これほどの信仰を見たことがない」との言葉に驚き、嫉妬し、怒ったかもしれません。でも、イエス様はそんなことは気にしません。「自分が来たのは苦しんでいる人を助けるため、信仰もそのためにある」と思われていたのでしょう。

わたしはイエス様が言われた「信仰」という言葉を狭く考え過ぎていました。信仰というのは、神様にだけ向けられる心だと思っていました。しかし、原町田教会での信頼関係を経験して、信仰というのは、人間が神様を信じるだけに限られたことではないんだ。わたしたちが互いに信頼しあうこと、その信頼関係があってこそ、神様を信じる心が育まれ、そのような信頼の中でわたしたちは元気にされていくんだと気づいたのです。イエス様は言われています。一番大切なことは、神様を愛すこと。同じく、自分を愛するように隣人を愛すること、それが何よりも大切。神様はできるだけ多くの人に元気になってもらおうと今もこの教会を用いておられます。体に病気があって元気をなくしている人、心に病気があって落ち込んでしまっている人を元気にするために神様はわたしたち教会をたててくださっています。病気の人、苦しみの中にある人のために祈ってまいりましょう。自分が苦しいときには神の家族に祈ってもらいましょう。そのような祈りあい、信仰するわたしたちにイエス様は言われます。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

2019年5月19日 神様が選んだ

◆申命記7章6〜8節
07:06 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
07:07 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
07:08 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

◆ヨハネによる福音書15章12〜17節
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

◆詩編119:9〜16
119:09 どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
119:10 心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。
119:11 わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。
119:12 主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。
119:13 あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。
119:14 どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。
119:15 わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。
119:16 わたしはあなたの掟を楽しみとし 御言葉を決して忘れません。

先週は礼拝の後に、原町田教会の会堂と幼稚園舎を設計する建築設計士を選ぶ総会を行いました。二人の建築設計士から一人を投票で選ぶ方法をとったのですが、その結果をわたしたち一人一人はどのように受け止めているでしょうか?自分が投票した方が選ばれてよかったと思ったのでしょうか?それとも投票した方ではない人が選ばれて残念と思ったのでしょうか?わたしは、どのような結果であっても、自分たちが選んだと受け止めるのではなく、神様がこの建築設計士を選んだと受け止めたいと思っています。なぜなら、教会を建てるのはわたしたちではなく、神様が福音を一人でも多くの人に伝えるために行う神様の業だからです。今日の御言葉にもそのことが明確に記されてありました。ヨハネによる福音書15章16節の最初にこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。わたしたちはたびたび聖書とは違う方向に考えてしまうことがあります。数ある教会の中から、原町田教会がいいからここにしようと思ってこの教会を選んだと思ってしまうこと。本当はそうではありません。わたしたちが数ある教会から「この教会がいい」と選んだのではなく、神様がわたしたちを選んでこの原町田教会に導いてくださった。聖書はそう教えます。建築設計士のことも同じで、わたしたちが選んだのではなく、神様があの建築設計士を選んでくださった。それは神様がこの教会を通して福音を伝えるために選ばれたのです。わたしたちではなくて神様が選ばれたと受け止め、またこの会堂建築の働きはわたしたちではなく、神様がリードして行ってくださることだと一緒に信じていくことが何よりも大切だと神様は御言葉を通して伝えるのです。

神様は今も生きておられ、建築設計士を選び、またわたしたちをも選ばれます。この神様の選びには確かな目的があると聖書は伝えます。建築設計士の場合は、もちろん教会と幼稚園を設計するために選ばれたのですが、それ以上の目的があります。ヨハネによる福音書15章は2回も繰り返しその目的を伝えます。12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。会堂や幼稚園を建てる目的は、互いに愛し合う集いのため、二人または三人がイエス様の名前によって集まり、互いに祈りあい、支え合う場所を建てるのです。とても立派な建物がここ原町田の地に建てられたとしても、もしそこに互いに愛し合う人が集わなかったらそれはもはや教会ではありません。イエス様は立派に建てられたエルサレム神殿に向かって「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきだ」と言われたのも当時のエルサレム神殿が愛し合うことを大切にしていなかったからでした。

今から500年ほど前のことですが、日本に初めて聖書が宣教師によって伝えられたとき、「愛」という聖書の言葉を宣教師たちは日本語にどうやって訳したらいいのか、とても苦労したと言われています。なぜなら、当時の日本語の「愛」という言葉は男女の愛を思わせるニュアンスが強かったからです。そこで宣教師たちは、「アガペー」という聖書の言葉を「愛」とは訳さずに「ご大切」としました。ヨハネ福音書の15章12節を当時の言葉で言いますとこうなります。「わたしがあなたがた一人一人を大切に思うように、あなたがたも互いに大切だと思い合いなさい」。わたしはこの「ご大切」という言葉が好きです。わたし自身、原町田教会に集って「あー、わたしはみなさんに大切にしてもらっているな」と感じるからです。2週間前の5月5日の礼拝が終わった後、その日がわたしの誕生日でしたので皆さんがわたしのために祈ってくれました。自分のために祈ってもらえるってこんなに嬉しいことなんだと感じまして、実はわたし涙をぽろっと流しました。その後も何人もの人から「おめでとうございます」と声をかけていただいて嬉しかったです。「愛されている」「ご大切にされている」と実感しました。イエス様が言われる「わたしがあなたがたを愛したように」と言う御言葉の意味がグッと心に迫ります。わたし自身が原町田教会の皆さんから愛されていますから、わたしもますます皆さんを大切にしたいと思った次第です。原町田教会に集う皆さんのこと、ますます好きになっています。

原町田教会をこれからも互いに「大切にされているなぁ」と感じることのできる集まりにしていきましょう。誕生日の祈りもとってもいいのですが、それ以外に自分は仲間として受け入れてもらっているなぁと感じられるように工夫をしてまいりましょう。イエス様が2回も「互いに大切にし合いなさい」と言われるのは、罪赦され、神様から愛されているわたしたちなのですが、簡単にイエス様から離れてしまうかもしれないからです。自分とは違う考え方や自分とは合わない人を大切にしたくない、そんな罪にわたしたちは簡単に取り込まれてしまうからです。「互いに大切にし合いなさい」との御言葉をいただき、わたしたちは改めてどのような時に「自分は大切にしてもらっているなぁ」と感じるのかを考えてみるのです。何か辛いことがあった時に信頼する仲間から祈ってもらう時もそうでしょう。困った時に時間をとって相談にのってくれるのもそうです。また、違った考え方を持つ人であってもこのように共に礼拝に集い、神様の方に向かって賛美歌を歌い、同じ方向から御言葉とパンと杯をいただく恵みを経験すること。それも互いに大切にし合うことです。同じ考え方の人や同じ年齢の人、同じ国の人が集うのではなく、違った考え方、違う感じ方、違う経験をしてきた人、違う年齢、違う国の人を神様が選んでここに集めてくださっている、その奇跡をわたしたちは毎週、経験しているのです。自分とは違う人たちが一緒の場所に集って「見よ、兄弟姉妹が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と賛美していること。違う者同士が、地縁、血縁を超えて家族となって一緒に力を合わせ神様のご用のため働いている。これは神様の選び、神様の御業としか言いようがありませんし、神様がこの集いを互いに大切にしあう仲間としてくださっているのです。

神様がわたしたちを大切にしてくださっていますから、わたしたちも互いに大切にしあう。それはこうやって集うことによってすでに実践しています。ただ、気をつけたいと思いますのは、新しくやってくる人たち、教会での生活が短い人にも「自分は大切にしてもらっている」と感じられるような原町田教会であり続けることです。すでに大切にされ、愛されているわたしたちはそのために工夫をし、新しい人たちを受け入れていきたいと思うのです。イエス様が16節の後半に言われていることはわたしたちへの応援メッセージなのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。イエス様がわたしたちを自分たちの満足だけにとどまらずにそこから一歩進み出て、新しくこの集いにやって来る人たちにも「あなたと出会えたことがとても嬉しいです。神様が出会わせてくださった」とその人に伝えたい。

神様はあなたがたを選んで「互いに大切にしあう」という神様の御業を進めておられます。皆さんは毎週、当たり前のようにここに集っていると思っているかもしれませんが、当たり前ではありません。神様が選んで実を結ばせ、その実が残るようにと皆さんを用いてくださっています。わたしは毎週、皆さんとこうして集っていることに感動し、また、日曜日だけでなくこの集いから生まれる実りも経験していますので、それをぜひ伝えたいと思うのです。「互いに愛し合う、大切にし合う」福音の種は礼拝の中で蒔かれて、皆さんが出かけて行ってわたしたちが把握できないほどに、いろいろなところで実を結んでいますが、その中の一つに原町田幼稚園があります。先日、青年会の食事会を開いたのですが、そこにこの春に中学1年生になった人が5人も初めてきてくれました。5人ともみんな原町田幼稚園出身で、これまで子どもの教会の礼拝にも集い、夏のキャンプにも来てくれていた子どもたちです。その5人が中学生になって教会ですでにバプテスマを受けた何人かの大学生や高校生と一緒に、この間お好み焼きを食べました。ただただお好み焼きを食べてお話をして集っただけですが、わたしはここに教会があると強く思い、「神様、あなたがこの集いに青年たちを選び集めてくださって感謝します」と祈り、一人で感動していました。そうしましたら、先日、中学生になった男の子の母親が「先日は、ありがとうございました。とても楽しかったと言っていました」と話しかけてきましたので、わたしも嬉しくなって「中学1年生が大学生や高校生と一緒にご飯を食べるっていいでしょ」と言いますとその人は「そうですよね。なかなか経験できないですね」と。わたしは嬉しくなって「それが教会です」と言いました。

教会は互いに愛し合うこと、互いに大切にし合うことを経験し、それを生きるところです。ここに集う一人一人がお互いに大切にし合えるように工夫する、そのことにわたしたちは任命されています。神様がどうしてこんなわたしを任命されるのか、わたしにはそんな大した能力も力もないと思う人もいるかもしれませんが、神様は何か、特別なものを持っているから皆さんを選んだ訳ではありません。何かの基準を満たしていてふさわしいから選ばれたのでもありません。ただ、神様の愛と憐れみのゆえに神様は「あなたがたを選んだ」と言われるのです。申命記7章7〜8節「主は心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジブトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。

「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」です。神様が命を与えた全ての人、わたしたち全員を愛してくださっているからこそ、「互いに大切にし合いなさい」という一番大切な使命のために、神様がわたしたちを神の国の建設のために任命されたのです。神様は宣言されます。「わたしが命を与えたあなたがたは、見よ、それらはとても素晴らしい」。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたをいつも大切に思っている」。神様から数えきれないほどの大きな愛を頂いていますから、わたしたちも隣にいる人を、その人のことを好きでも嫌いでも大切にします。

2019年4月21日 あなたの涙はぬぐいとられる

◆ヨハネ福音書20章11〜18節
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

◆詩編30:2〜6節
30:02 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
30:03 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
30:04 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
30:05 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:06 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

皆さん、イースターおめでとうございます。イースターという素晴らしい日をこうして皆さんと一緒にお祝いできますことに感謝します。この集まりはわたしたち一人一人の意思によってできた集まりではありません。「今日は、イースターだから礼拝に行こう」と思って来たのだから、自分の意思によって集まったと思うかもしれませんが、そうではありません。この集いは神様が集めてくださったものです。復活日は神様がイエス様を死から起こされた日だからです。神様が今日、こうやって一人一人を原町田教会に集わせてくださったのですから、わたしたちはこの出会いに心から感謝したいと思うのです。隣に座っている人、前と後ろに座っている人を見てください。この人は「いつもと同じあの人」ではなくて、神様が復活日の今日、自分と出会うために集めてくださったあの人です。あの人は毎週のように会っている同じ人とは思わないで、むしろ今年も一緒にあの人と復活日をお祝いすることができるのだから、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできてとっても嬉しい」と心から感謝いたしましょう。なぜなら、イースターはどんな悲しみであっても、どんな苦しみであっても喜びへと変えられる日、流れている涙がぬぐい去られる日だからです。

マグダラのマリアさんは、墓の外に立って泣いていました。イエス様の遺体が墓からなくなっていたからです。彼女は確かにイエス様が十字架の上で死なれたことを見ていました。同じようにその遺体が墓に納められたのも彼女はその場にいて見ていました。ですから、イエス様が死んでしまったことで心の中に大きな穴がぽっかりと開いてしまったような寂しさを感じていたでしょうし、油を塗りに来たのにイエス様の遺体がなくなってしまったことで途方に暮れて泣いていたのです。遺体がない、遺体が見つからないというのは辛いことです。これは経験した人でないとわからないことかもしれませんが、東日本大震災の時に起きた津波によってたくさんの人の遺体が見つからなかったことで悲しみがより深くなったことをわたしたちは知りました。死んだ人を間近に見て、その遺体としばしの時を過ごし、そして遺体を棺に納め、葬儀をして火葬する。わたしが牧師となってこれまで何度も葬儀をしてきまして思いますのは、人が召されてからまず、遺体を前にして祈り、家族の方との日程などの打ち合わせ、納棺式、自宅からの出棺式、葬儀、火葬の前の式、骨を骨壷に入れる前の祈り、お墓に納骨する式など、一つ一つのこれらの「喪の作業」と呼ばれるプロセスが死を受け止めるにはとても大切だということです。そのような喪の作業があるからこそ「神様、あなたの御手にお委ねします」とその人の命を手渡すことができ、死の現実をなんとか受け止められるようになっていきます。でも、遺体がなくなってしまいますと油を塗ることも喪の作業もできません。

大切な人を亡くし、遺体もなくなってしまい、涙を流して途方にくれる人を神様はそのまま放っておかれません。神様は悲しむ人を決して一人にされることなく、涙を流すマリアさんにまず初めに天使が話しかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。彼女は答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。天使に続いて涙を流す彼女にイエス様が声をかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。まさかこの人がイエス様だとは思いもしませんから、マリアさんは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、引き取ります」。深く悲しんでいる時のわたしたちはなかなか人の励ましや慰めの言葉を受け入れられないことがあります。彼女もそうでした。そこでイエス様は彼女の心に届くように「マリア」と声をかけられます。この人はイエス様だと気づいてマリアさんはよほど嬉しくなったのでしょう。もうイエス様を放さない。そんな思いで彼女はイエス様にしがみつきましたが、イエス様は彼女を立ち上がらせる言葉をくださいます。「わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。

わたし宮島は、8年ほど前になりますが、自分の父親を天に送ったときの葬儀でたくさん涙を流しました。父の葬儀はわたしが牧会をしていました茨城県の牛久教会で行いまして、当然、わたしが牧師としてその葬儀を司式いたしました。説教の時はなんとか堪えられたのですが、父の好きだった讃美歌を歌う時には涙を流し、また葬儀の後半の思い出を話す時になっても、小学生の頃一緒にヨットに乗って海に行ったことや一緒に釣りをしたことなど元気でいた父を思い出し、もうあのように楽しく過ごすことができないと思い、天に召される前の10年近く、父は病気で動けなくなっていて、自分は弱っていく父に何もできなかったという思いもあり、たくさん泣きました。でも、その時、その葬儀には教会員はもちろん、特に連絡を入れていなかったのですが、幼稚園の保護者の方たちや同じ地区の牧師仲間たちも数人駆けつけてくれまして、嬉しかったことを覚えています。そして何よりも、わたし自身が父と十分に心通わせる時間が取れていなかったという悔いが残る中でも、父はまことの親である神様のところに帰って行ったと信じられること。神様が父の手をとって「起きなさい。新しい朝だよ」と立ち上がらせてくださり、新しい命を神様のもとで生きていると信じることによってわたしは深い慰めを得ました。イエス様が死から起こされ立ちあがったからこそ、わたしたちは死は終わりではなく、新しい命の始まりだと信じることができます。復活を信じることができるわたしたちは本当に幸いです。

さて、イエス様の「マリア」との言葉で立ち直ったマグダラのマリアさんに、今度は使命、ミッションが与えられました。「弟子たちのところへ行って、こう言いなさい」と進むべき道が示されたのです。彼女は弟子たちのところに行って福音を伝えました。「わたしは主を見ました」。この彼女の一言が復活を信じる教会の始まりとなりました。死は終わりではなく、新しい命の始まりだと伝えるこの福音は「わたしは主を見ました」と告げたマグダラのマリアさんから始まり、彼女のこの一言が多くの人を慰め励ます教会の礎となりました。彼女はどこにでもいる普通の人で、いくつもの病気を抱えて苦しんでいましたがイエス様と出会い、病を癒されたことがきっかけとなりイエス様に従ってエルサレムまで来ていました。そして神様は悩みを抱える普通の女性マリアさんをイエス様の復活の証人として用いられたのです。同じようにイエス様と出会って救われた原町田教会のわたしたちを神様は復活の証し人として用いてくださいます。

イエス様は「わたしの父であり、あなたがたの父である方のところに上る」と言われました。イエス様が死んだ後、死から起こされて父なる神様のところに上っていかれたように、わたしたちも同じように神様のところに上ります。イエス様が「あなた方の父である方のところ」と言われているからです。ヨハネ福音書14章2節でイエス様はこう言っていました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。死は終わりではなく、神様のところで生きる命の始まりです。この世の旅路を終えた後、その旅路が長いとか短いとか、良し悪しに関係なくイエス様は必ずわたしたちを迎えに来てくださり、父なる神様の家に連れて行ってくださるのです。

ある人が「クリスチャンにならないと天国には行けないのですよね。わたしはクリスチャンになったのですが、わたしの前に亡くなった父や母は仏教徒でしたから、地獄にいるのですか?」と聞きました。その人にわたしたちはなんと答えるのでしょうか?「そうです。クリスチャンにならないと地獄に行くのですよ」と答えるのでしょうか。でも、想像してみてください。皆さんが大好きだった家族がただ洗礼を受けなかったからという理由で地獄にいて苦しむ様子を天国から見ている皆さんは幸せですか?大切な人が苦しむのを見ているところはどう考えても天国とは言えません。イエス様は人が苦しむのを見るようなところに皆さんを迎えることはなさらないはずです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」との御言葉は分け隔てなく、すべての人に伝えられたものです。あなたがたすべての人は、この世の旅路を終えた後には親である神様のところに上るのです。

これこそ、福音、喜びの知らせです。マグダラのマリアさんが「わたしは主を見ました」と告げたのと同じように、わたしたちも「わたしは復活を信じます。死は終わりではなく、新しい命の始まりです」と近くの人に伝えていくのです。親しい人の死を経験し、涙を流す人にわたしたちはマグダラのマリアさんが弟子たちに告げたように伝えます。

この世の旅路を終える時は誰にでも必ずやってきます。だからこそ、「あなたと出会えて、今年もこうしてイースターを一緒にお祝いできて嬉しい」と心から思うことができます。あなたと一緒に主の復活を祝う今という時がどれほど尊いのか。同時にこの世でのお別れが来た時でも「死は終わりではない。復活の主イエス様がわたしを迎えに来てくれて主の家に迎え入れてくれる」と信じることができるのです。

2019年4月14日 わたしと一緒に楽園にいる

◆ルカ福音書23章32〜49節
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

◆詩編22:2〜12
22:02 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:03 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:04 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。
22:05 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。
22:06 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:07 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:08 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。
22:09 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

アートバイブルという本がありまして、2003年に1冊目が発行され、その5年後には2冊目が発行されています。聖書の御言葉とその御言葉を絵画で表現した作品がたくさん載せられていて、見るのがとても楽しい本です。わたしは毎週の週報の表紙の絵を選ぶ時によくこの本を参考にしています。アートバイブルを見ていまして面白いのは、一つの御言葉に対して絵が一つだけでなく、いくつかの違った画家の絵が載せられていまして、それを見比べていますと一つの御言葉をどう受け止めるのか、人によって違いがあることに気づかされます。この本の中で特に一つのテーマでたくさんの違った絵を紹介しているものがあるのですが、皆さん、なんのテーマだと思いますか?それはやっぱりイエス様が十字架につけられた絵です。今回、イエス様が十字架に架けられている絵をゆっくり見て気づいたのですが、この本で紹介されている絵のほとんどは、イエス様お一人が十字架に架けられているものでした。イエス様がお一人で十字架に架けられている絵の多くは両手を広げ、手に釘を打たれたイエス様が絵の全体を占めています。ただ、今日の御言葉が伝えますのは、イエス様は一人ではなく、一緒に二人の犯罪人が十字架につけられたとあります。23章32節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった」。続く33節「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」。イエス様は二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたのですが、そのことを描いた絵もいくつかありまして、今日の週報に載せたレンブラントの絵はその一つです。

聖書を読んでいる時ですが、わたしたちは「もし、この聖書の時代に自分がここにいたとしたら、自分はここに登場する誰と似ているだろう?」と思いながら読むことがあります。今日の出来事、イエス様が十字架に架けられている出来事の中で、もし、自分がここにいたとしたらどの人と自分は重なるところが多いだろうかと想像するのです。そこに立って見ていた民衆に自分を重ねるでしょうか?「他人を救ったのだ。もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがいい」と嘲笑った議員、あるいは「お前もユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言った兵士たちでしょうか。あるいは49節に登場している「遠くに立って見ていた婦人たち」でしょうか?それとも二人の犯罪人でしょうか?多くの人は35節「民衆は立って見つめていた」とある民衆の立場に自分は近いと感じるのではないでしょうか?わたし自身も長らくそう思っていました。もし、自分がここにいたら何もできずにただそこに立っていたか、あるいは周りに合わせて「十字架につけろ」と叫び、イエス様が死なれた後には感動して、48節にある通り「胸を打ちながら帰って行った」群衆の一人だろう、その場に「何もしていないで」立ち尽くす群衆の一人と思っていました。

しかし、「何もしていない」で見ていることも実は人を苦しめることになる。「何もしないで」その場に傍観者としていることも実は罪を犯しているということにわたしは先日、ある短い文書を読んで知らされました。その文章を読んでわたしは頭をガツンと殴られるような衝撃を受けて「あ、自分は民衆ではなくて、イエス様の後ろで十字架につけられた罪人の一人なんだ」と気づいたのです。

34歳になる和田さんという作家が先日、新聞にこんな投稿をしていました。和田さんは自分が中学生の時、自分はいじめの加害者だという意識をつい最近まで持っていませんでした。それは久しぶりに再会した中学のクラスメートの一言「あの時は自殺してもおかしくなかった」と言われるまでは、自分といじめは関係ないと思っていたというのです。「自殺してもおかしくなかった」と言ったクラスメートの彼女はそこまで追い詰められていたのかと和田さんはそれを聞いて驚き、同時に自分自身が当事者意識をまったく持っていなかったことにも驚いたと言うのです。なぜなら、和田さんは実際に「何もしていなかった」からです。中学の3年間、彼女へのいじめは、「されたらイヤなこと」をすべて詰め込まれたゴミ箱のようでした。叩かれ、ばい菌と呼ばれ、机を廊下に出されていましたが、和田さんはそれを「何もしないでただ見ていました。叩くことに加わらず、でも助けもせずに少し居心地悪くしながらも多くのクラスメートと同じように何もせず見ていました」。その態度が、彼女に「自殺を考えさせるほどの苦しみ」を与えていたのです。和田さんはその後にこう書いています。「仮に彼女が自殺してもわたしには罰は下らない。教育委員会や警察がわたしを調べても、本当に『何もしていない』のだから。だからのうのうと生き、彼女の苦しみを知らずに大人になった。善人とは何か。波風立てず問題を起こさず、静かに生きている善人たちが、虚構を作っている。わたしもその一人だ」。そして最後の和田さんの一文を読んで、わたしは「十字架につけられているイエス様を見ている民衆に自分を重ねていたが本当はそれだけではなかった」と思ったのです。和田さんはこう言います。「差別やいじめは悪人から始まるものだろうか。テロリストは犯罪ばかりする家族から生まれるだろうか。案外、善人のつくる静かな平和から、それらは醸成されるかもしれないということを、わたしたちは今日も黙殺し、あるいは知らないまま生きている」。イエス様の十字架を傍観者として見ているだろうと想像するわたしは今も「何もしていない」という過ちを犯している罪人なのです。「何もしていない」から、わたしには罪はないと思って、イエス様が十字架に架けられているのを正面から見ているのではない。本当は、十字架に架けられたイエス様を斜め後ろから、しかも自分も十字架につけられた状態で見ているのがこのわたしなのだと気づいたのです。

苦しむ人がいてもわたしは「何もしていない」から、加害者ではない、自分は何も悪くないと思いたい。でも、苦しむその人たちを助けようとしないことは加害者とあまり変わらないことなのです。

この後に歌います讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」では、イエス様が十字架につけられたとき、主が釘で打たれたとき、主がやりで刺されたとき、あなたもそこにいたのかと問いかけます。今日の御言葉からこの歌に付け足すならば、議員や兵士がイエス様をあざ笑ったとき、イエス様が大声で「父よ、わたしの霊をあなたの手に委ねます」と言って息を引き取られたとき、あなたもそこにいたのかとなります。そうです。わたしたちはそこにいました。群衆として、ときには兵士として、また婦人として、「本当に、この人は正しい人だった」と言う百人隊長としてそこにいました。ただ、忘れてはならないのは、わたしたちは「何もしていない」という罪によって刑罰を受けるべく犯罪人の一人としてもそこにいて、自分の十字架を背負いながらイエス様が十字架に架けられているのを後ろから見ているのです。

犯罪人の一人はイエス様に兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。イエス様はそれには何もお答えになりません。しかし、もう一人の言葉にイエス様は答えられています。もう一人はこう言いました。40節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。続けて「イエスよ、あなたの御国に御出でになるときには、わたしを思い出してください」。わたしたちもこの犯罪人のように「わたしは罪人です」と告白し、イエス様に話しかけたいのです。「わたしたちは十字架を背負っています。でも、イエス様、あなたは何も悪いことをしていないのにわたしたちの罪のゆえに十字架に架けられ、苦しまれている。イエス様、どうかあなたが神の国に行かれるときにはわたしのことも覚えていてください」。この犯罪人の一人はわたしたち自身であり、わたしたちの良き模範です。イエス様は罪人であるわたしたちに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。何も悪いことをしていない方が十字架に架けられることによって神の国がそれまでは開かれていなかった犯罪人にも開かれたのです。明らかにわたしたちの罪のため、イエス様はわたしたちのために苦しんでくださっている。そう信じて「わたしは御国に行けないと思うけど、イエス様に思い出してもらえるだけで本望です」と心から思う時、イエス様の声が聞こえてくるのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

これが福音の御言葉です。わたしたちの多くはこの犯罪人のように自分の十字架を背負いながら日々生活をしています。わたしたちが背負う十字架は、「何もしない」罪だけでなく、体や心の病気であったり、人間関係から生まれる重荷もそうですし、歳を重ねて老いていくことで、できないことが増えていくことも十字架の一つです。そのようにわたしたちは自分の十字架を背負いながら、すぐ目の前に十字架に架けられたイエス様を見て、「イエスよ、わたしを思い出してください」と言うことができます。この苦しみをイエス様が覚えていてくださると確信するだけでも心は軽くなるのですが、イエス様はそれをはるかに超えた福音を今日与えてくださいました。イエス様は、わたしたちにはっきりと言われました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。どんな重荷を背負っていても、「何もしていない」という過ちを日々犯す罪人であっても、あなたたちは今日、イエス様と一緒に楽園にいるのです。イエス様は正しい人のためではなく犯罪人のために死なれました。良い人のためではなく、悪い人のためにイエス様は命を捨てられ、血を流されたのです。あなたのために主イエス様が命を捨てられ、あなたのために主イエス様が血を流されたのです。あなたたちを罪から救うために、あなたたちに命を与えるためにイエス様は死なれたのです。

時々、心の深いところで「わたしは本当に救われるのだろうか?」「こんな罪深いわたしが天国に入れるのだろうか?」と不安を感じることがあります。でも、それは人の心の思いであって、神様の御心ではありません。イエス様は、十字架を背負いながら歩くすべての人に神様の御心をはっきりと宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

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日本基督教団 原町田教会 : 当教会では、日本聖書協会発行『新共同訳聖書』、日本基督教団出版局発行『讃美歌21』を使用しています。